第43話 SS:ゆいといつもの日曜日

 ゆいが目を覚ますと、結衣はいつも家にいない。

 それは休日だけの話で、平日はいつも結衣の声で目を覚ます。


 ゆいは半分だけ目を開いて、のそのそと起き上がった。それからてくてく洗面台の前まで歩いて、小さな台の上に乗る。そのあと蛇口を捻って顔を洗い、うがいをして歯を磨く。


 それが終わったらタオルで顔をペチペチしながらリビングへ向かって、小さな机の上に置いてあるメモを読む。


 今日の朝食はオムレツとコーンスープです。レンジの中央に置いて、500Wで140秒だけ熱してください。お昼ご飯は冷蔵庫の一番下に入っていますので、お腹が空いたら食べてください。それから、本日はピアノのレッスンがありますね。午後一時半にタクシーが迎えに来るので、五分前にはマンションの外で待っていること。帰りは迎えに行きます。


 ゆいはメモを読んだ後、隣に置いてある朝食を電子レンジに運んで、慣れた手付きで操作した。ちなみに電子レンジは、ゆいの身長でも問題ない場所に設置されている。


「……おー」


 電子レンジの中が明るく光ると、ゆいは興味深そうな目で中を見る。直前までは六歳とは思えないような行動をしていたゆいだが、この時ばかりは年相応のキラキラした目を見せる。


 漢字が読めるのは勉強したから。

 一人で出来るのは、結衣がきちんと教えてくれたから。


 やがてチーンという音を聞くと、ゆいは朝食を取り出して小さな机まで運ぶ。そのあとスプーンとフォーク、ついでに水を入れたコップも机に置く。


「いただきます」


 こうして、ゆいの朝食が始まる。

 コーンスープもオムレツも、ゆいの舌と胃袋の大きさに合わせて作られたもので、そこには母親の愛情がたっぷりこもっている。美味しいと言ってにっこり笑う姿を見たら、結衣はさぞ喜んだであろう。

 

 朝食が終わると、ゆいは食器をシンクへ運んで水に浸ける。そのあと少し駆け足でリビングへ向かい、テレビをつける。目的はもちろん、キッズアニメ。


 そこそこ感動的なストーリーが終わり、アニメはエンディングを迎えた。本編の空気に合わない愉快な曲を聴きながら、ゆいは少し震えた声で魔法の言葉を唱える。


「キュア、プラパパ! ママのおしごと、うまくいけ!」


 ところで結衣が土日に行う仕事というのは、会社から与えられた仕事ではない。彼女が会社から与えられているのは、取引先を開拓したり既存の相手に新製品を高く売る交渉をするといった内容で、土日にはプライベートという名目で食事やパーティに参加して時間外労働に勤しんでいる。


 テレビを消した後、ゆいは勉強用具を取り出した。机に置かれたのは筆記用具と算数ドリル5年生、それから国語辞書。


 目標は、一日に新しい言葉を十個覚えること、それから算数の問題を十問解くことである。


 算数ではみさきに負けてしまったが、国語では負けないと張り切って辞書をめくるゆい。昨日の続きから十個の言葉をノートに書き込んだら、次は算数ドリルだ。5年生の算数では、簡単な図形の面積や体積を求めたり、分数と睨めっこしたりする。


 数日前、結衣との勉強で分数と仲良くなったゆいは、サクサク問題を解いていった。


「むむむ……」


 章末にある応用問題で、ゆいは手を止めた。端から見れば、というか誰が見ても六歳になったばかりの女の子が小学校五年生で扱う問題を解いていることに驚くだろうが、もっと特殊な存在が身近に居る本人は納得できない。


「……みさきにできることは、ゆいにもできないと」


 そんなライバル意識を持って、ゆいはひたすら考える。考えて、考えて……閃いた!


 さっと手を動かして式を書く、計算をして答えを書く。自信満々でページ後方の答えをチラっと見る。泣きそうな表情で赤ペンを持つ。


「ちょっと、まちがえただけだから……」


 ちょっと式が違っただけだから。

 気を取り直して、ゆいはピッタリ2ページ、全部で12問を解いた。解き終わった後は、間違えた問題の横に、どうして間違えたかを赤ペンで記す。


 こんな具合に、ゆいの算数ノートは真っ赤になっている。それもそのはず、少し前までは掛け算をやっていたのに、みさきに対抗して急ピッチで勉強を進めたせいで理解が追いついていない部分が多いのだ。


 そういうところは結衣が熱心にフォローするのだが、仕事の都合で時間が足りていない。それを補う為に結衣がノートに書き込んだ緑色のメッセージを読んで、ゆいは復習する。


「ふむふむ……おー、さすがママわかりやすい!」


 復習してから新しい所を学べと指摘できる人はこの場に居らず、残念ながら結衣も把握できていない。


「むむむ?」


 なんかさっきの問題を解けるような気がする!

 そんな衝動に従って、ゆいは直前に解いた問題に再挑戦した。


 彼女の勉強は、常々こんな感じである。決して要領は良くないけれど、やる気と結衣の優れたフォローによって英才教育が成立している。自主的な学習を教育と呼ぶのは少し違うような気がするが、便宜上こうしておこう。


 その日の勉強を終えると、ゆいはチラと時計を見た。まだピアノのレッスンまで時間があることを確認して、本棚から漫画を取り出す。取り出したのは、女児向けの月刊誌だ。


 ゆいは漫画の中の人物達に負けないくらい目をキラキラと輝かせてページをめくる。めくる。チラッと時計を見る。めくる。めくる。チラ。めくる……。


 やがて時計の短い針が1に近付いた頃、ゆいは本を閉じて冷蔵庫に向かった。そこで新たなメモと共に昼食を取り出し、メモに従って食べる。食べた後は少し時間を置いてから歯磨きをして、ちょうどタクシーが迎えに来る時間になった。


 オートロックの部屋から出たゆいは、大切そうに荷物を抱えながらマンションの外へ出た。それから数分後、すっかり顔見知りになったタクシーの運転手と挨拶をする。


「よろしくおねがいします!」

「はい。今日も偉いね、ゆいちゃん」


 こうしてピアノ教室へ向かったゆいは、そこで三時間のレッスンを受ける。


「あら、ゆいちゃん前より上手くなったね」

「れんしゅうしました!」

「へー、もしかしてピアノ買ってもらったの?」

「うん! ママからのたんじょうびプレゼント!」

「おー、良かったねー」


 そしてピアノのレッスンが終わる時間になると、仕事を終えた結衣が教室に現れる。二人は講師に挨拶をした後、手を繋いで迎えのタクシーに乗る。


「今日はどうでしたか?」

「きょうもノルマはこなしました!」

「そうですか。よく頑張りましたね、素晴らしい」


 頭を撫でられたゆいは、嬉しそうに目を細める。運転手はこっそりバックミラーに目をやって、静かに頬を緩めた。


「あと、ピアノうまくなったって!」

「それは良かったです。帰ったら聞かせてくださいね」

「もちろん!」


 家に着いた後、ゆいはたっぷり結衣に甘えて、九時には眠る。そのあと、結衣は十二時まで仕事の資料を整理したり、ゆいのノートに書き込みをしたりして、ゆいの隣で眠りにつく。


 以上が、戸崎ゆいのいつもの日曜日である。

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