第15話 短期バイトを卒業した日

 短期バイト。それは俺にとって初めての経験――ということはなく、一週間程度のバイトならば、そこそこ経験したことがある。


 どれも肉体労働だった。労働に対する苦痛を比較すれば、きっと今回のバイトは天国のような条件だ。


 だけど、確信を持って言える。

 こんなにキツい仕事は、初めてだった。


「その棚が最後だ。手ェ抜くんじゃねぇぞ」

「分かってますよ」


 今日、俺はバイトを卒業する。店長の野太い声を聞くのも今日が最後だと考えると……まあ、なんだ。時の流れを感じる。


「うしっ、合格だ。よく逃げなかったな」

「逃げたら殺されそうでしたからね」

「おう、よく分かってんじゃねぇか」


 閉店作業を終えると店長は俺の肩を叩いて言った。俺は一週間で少しだけ馴染んだ下手な敬語で返事をして、カウンター席に腰を下ろす。


 思えば、ひたすら我慢した一週間だった。そりゃもういろんな客に出会って、握り締めた拳に爪が食い込んで血が出た日、理由の無い暴力に襲われた日……本当に、よく我慢できたと思う。。


「さて、約束通りテメェは今日で卒業だ」

「あっという間だったな」

「言葉遣いが戻ってるぞクソガキ」

「っと、あっという間でしたね」


 言い直すと店長は力強く頷いた。

 このムカつく笑顔を見るのも今日で最後か。そう考えると少しだけ寂しいような気もする。少しだけ、本当に少しだけな。


「転職活動はバッチリか?」


 ……てん、しょく、かつどう?


「何も考えてねぇって顔だな」

「…………まぁ、根性でどうにかしますよ」

「世の中そんなに甘くねぇぞ?」

「分かってますよ、痛いくらい」


 中卒無職の23歳。これまで何もしてなかったクズが少し頑張った程度で報われる。そんな甘い話、あるわけがない。あってはならない。そうでなければ――


「テメェはクソ生意気なことばかり言うガキだが、たまに妙な説得力を感じで気味が悪い。過去に何があったんだ?」

「そりゃ武勇伝のひとつやふたつはありますよ。伊達に無職やってないっすから」

「はっ、やっぱりテメェはただのクソ生意気なガキだよ」


 曖昧な言葉で濁すと、店長は短く笑っただけで、それ以上の追求はしてこなかった。


「まぁ、腐れ縁も立派な縁だ。困ったら金を持って店に来やがれ。歓迎してやる」

「全部ツケで頼みます。踏み倒すんで」

「ほんと可愛くねぇガキだなテメェは」

「ガキじゃねぇからですよ」


 俺は、


「親になろうとしてますから」


 勢いで言って、目を丸くした店長を見て失言だったと気付いた。身の丈に合わない小恥ずかしいセリフだ。大笑いされても文句は言えない。


「……いつか連れてこいよ。テメェの娘」


 店長は笑わなかった。

 一瞬でも卑屈な考えを抱いた俺自身が恥ずかしくなるような屈託のない表情を浮かべて、静かに激励の言葉を言った。


「誰がこんな危ない店に連れて来るかよ」

「おいコラ、また口が砕け散ってるぞ」


 照れ隠しに毒を吐く。

 こういうところは、我ながらガキっぽい。


「たく、俺を見習って欲しいものだぜ」


 両手を広げておどけて見せる店長につられて、俺も笑った。クソみたいな客の相手を今日まで続けられたのは、彼の人柄による部分が大きいのかもしれない。


 素直に思う。

 俺は、このオッサンを尊敬している。


 汚い店。少ない客。最底辺の民度。

 ここは、きっと俺達の居場所なのだ。


 店長は、俺みたいなクズが寛げる場所を作った。きっと経営は赤字だ。こんな店で利益が出るわけがない。


 それでも彼は、毎日店を開く。普通の人が寝ているような時間に働いている。


「あんたの武勇伝は、面白いんだろうな」

「なんだ突然。気持ち悪りぃな」

「聞き流せ。ふと思っただけだ。っすよ」


 理由を聞きたい気持ちもある。

 しかしこれは、答えを求める小学生のような感情だ。難問にぶつかって、諦めてヒントを求めるような甘えに他ならない。


 こればかりは自力で乗り越えるしかない。


「……また来るよ」

「おう、そうか」


 短い挨拶をして、俺は席を立った。


 とても狭い道。大人が一人だけ通れるような一本道を歩いて、ギーギーうるさいドアを開ける。


 ちょうど太陽が昇り始めていた。

 俺は眩しい光に目を細めた。だけど、どれだけ目を細めても、いっそ目を閉じても眩しいままだから、仕方なく太陽に背を向ける。


「……御世話になりました」


 こうして俺は、短期バイトを卒業した。

 この先のことは決まっていない。ただ、店長と出会ったことで、短時間の間に、とても成長出来たように思える。


 あの人は、なぜ俺を拾ったのだろう。

 一週間という短い時間だけ雇って、何をしたかったのだろう。


 その答えは、きっと、未来で分かる。そんな予感を胸に、俺はみさきの待つ部屋へ向かった。




 部屋に帰ると、珍しくみさきが寝ていた。

 小さなみさきは、自分の背丈と同じくらい大きな俺の枕を抱いて、天使のような寝顔で眠っている。いや、違う。むしろ天使がみさきなのだ。みさきの魅力は宇宙規模である。


 みさきの傍には漢字ドリルやノート、文庫本が並べてあった。きっと寝る直前まで勉強していたのだろう。


 ……文庫本? 買った覚えねぇぞ?


 手に取って、なんとなくひっくり返す。


 ゆい。


 可愛らしい字で、大きく書いてあった。


「…………」


 音を立てないように本を置いて、みさきの寝顔を見る。

 

 みさきを育てると決めてから、とにかく変化の連続だった。だが慢心はしていない。この程度、出来て当たり前のことなのだ。俺がこの数日で必死になってやったアレコレは、普通の人なら呼吸をするようにクリアする。


 俺は、まだ、スタートラインにすら立てていない。


「……みさきはすごいなあ」


 みさきの成長は著しい。知らないことが多くて、初見では必ず失敗する不器用な子供だけれど、教えたことは必ず覚える。一度覚えたら、もう忘れない。


 保育園では直ぐに友達を作った。保育士さんからの評価もそこそこ高い。


 みさきは只者ではない。

 みさきと似たような立場だった俺が思うのだから、間違いない。彼女はきっと、俺みたいな大人にはならない。


 いやいや、違うだろ。

 俺がみさきを育てるんだ。


 立派な親になって立派な大人に育てる。生まれてきて良かったって思わせてみせる。


 ……頑張らねぇとな。


 自嘲気味に肩を揺らして、身体を倒す。

 目を閉じると、直ぐに眠気がやってきた。

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