星、あるいはプラトニックな英雄
山崎山
星、あるいはプラトニックな英雄
大体どの学校も、往年のマンガみたいに屋上に行くことはできない。それは僕の高校も例外ではなくて。
過去に転落事故があったとか、そんな噂が一人歩きして「無念に駆られた幽霊が出るらしい」なんて滑稽な怪談があるとか、安いオカルト番組のトップバッターを張るような不思議な話のひとつもあれば興味を唆そそられそうではあるが、この学校に至ってはそういったものが一切ない。一切ないが故に、立入禁止であることに誰もが無頓着で、屋上という場所に対しても無頓着である。
僕は隠れる場所を探していた。
空ならば、僕を覆い隠してくれると思った。空を見上げていれば、教室などという檻に拘束されなくて済む。最初に空が思い浮かんで、そこから屋上が導き出された。聖域のような気がした。区画がはっきりと決まっているのに天井は無限大であるというのはとても都合が良くて、小さな頃に作った秘密基地に帰るみたいだった。
人は上を見ない生き物だ。下を見ることで、安堵と優越感を得る。どれだけ綺麗事を謳っていようと、自分の下に人がいることで胸を撫で下ろすのだ。そうした卑しい生き物であるという自覚が僕たちにはない。虚偽と正義で塗り固められた世界では、虚偽を咎めること、正義を偽善と罵ることはタブーで下卑た行為だ。そのタブーを、僕は犯してしまった。
屋上に抜ける扉の前に立つ。別にここで何をしようというわけではない。人生に諦観などしていないし、自分で自分を縊くびる勇気があるわけでもない。教室ではふわふわと乖離して浮いてしまう気持ちや思考を、誰かに見られないよう覆い隠すだけ。
ドアノブは冷たかった。きりきりと肌を突き刺す冷たさだった。でもどこか喜ばしくもあった。甲高い金属音が踊り場に反響する。少し押すと、大気が流れ込んでくる。思ったよりも重たい。ただそこに屋上があるという安心感だけが、僕を満たしていた。その安心感に押されて、ドアはいとも簡単に開いた。
何もなかった。何かがあるはずもないが、ただ空と、胸元まである鉄の柵と碁盤の目のような床が、僕の期待に応えてくれていた。
足を引き摺るように柵の前に立つ。下では運動部が耳障りな大声で体を動かしている。原色の絵の具を塗りたくったように濃く青い空が、地平の夕暮れのオレンジとグラデーションになっていて、酷く美しかった。
四階建ての屋上は思ったよりも高い。だが恐くはなかった。高いのに、地面は異様に近く感じた。一歩踏み出せば階段を一段下るように容易に、そこまで行ってしまいそうだった。
「飛び降りるの?」
聞き覚えのない声が、身を乗り出そうとした僕を引き戻した。
出てきたドアの塔屋の上から制服の少女が一人、縁に座って僕を見下ろしていた。
「この高さだと確実には死ねないんじゃないかな。やるならしっかり頭から落ちないとだね」
「飛び降りないよ。ていうか君誰」
制服はこの学校のものだが、顔は見たことがないし、無論話したこともない。出会い頭に飛び降りの指南をされるような覚えはないから、ついきつく返してしまう。
「誰とは失敬だなあ。隣のクラスだっていうのに」
言わずもがな、僕は隣のクラスの女子の顔と名前まで律儀に覚えるような軟派ではない。
「まあいいや。命を救った代わりに、ちょっと私に付き合ってよ」
元から自殺なんて考えていないというのに。
醒める興など最初から無いが、邪魔された僕は内心うんざりしていた。この学校で僕以外にも屋上に興味を持ってドアを潜る人間がいたのは少々驚きだが、どうせ浮ついた動機だろう。大体、屋上に来た人間に飛び降り指南をするような奴がまともなわけがない。
なるべく彼女を見ないように、無視して踵を返し、ドアに向かう。
「君の悩み、知ってるよ」
思わず立ち止まった。
そして、見上げてしまった。
「話せる相手はいた方がいいでしょ? 私がその一人になってあげる。だから代わりに、私に少し付き合って」
焼けた空を背に僕を見下ろす彼女は、不敵な笑みを浮かべていた。それが妙に綺麗で、見入ってしまって、なんで僕の悩みを知ってるの? なんて台詞も、どこか遠くへ消えてしまった。
「望遠鏡……?」
「そう。いつもここで天体観測してるんだ。この時期の空は澄んでてよく見えるから」
塔屋の上には、一人分がせいぜいなテントと、それに負けず劣らずの大きさのなかなか本格的な望遠鏡が鎮座していた。
「いつもって……一人で?」
「そうだよ。私友達いないからね」
「……」
「あ、ちょっと申し訳ないなって思ったでしょ。別に気にしなくていいよ、私も一人の方が気が楽だから」
彼女は屈託のない笑みを僕に向けた。望遠鏡の胴を優しく撫でる彼女はどこか幸せそうだった。
「付き合って、っていうのは、その天体観測のこと?」
「そうだよ」
「でも一人が好きなんじゃ……」
「君ね、ここに私しかいなかったのに、おもーい顔して屋上に来た人間を黙って見過ごせると思う? 私なりの気遣いだって気付きなよ」
「それは、どうも」
しょうがないな……と嘆息されるが、正直ありがた迷惑だ。
彼女は一転してにっこりと笑い、望遠鏡の覗き口の方を露骨に空け、どうぞどうぞと指し示した。僕はしぶしぶ、促されるまま望遠鏡の前に立つ。
「まだちょっと明るいけど、少しは見えると思うよ」
接眼レンズを覗き込み、ピントを調節する。ほんの少しだけ、確かに地上の明かりに煙けぶる星のいくつかがうっすらと見えた。ような気がした。
早い日暮れの、紺に近い青色の空。地平近くの焼けた色とは違う、その向こう側の色。暗さに紛れて光る星を見てようやく、僕は久しぶりに空を見たんだなあと思った。当然のようにそこにあるからなのか。こうして仰ぎ見ることをしなくなったのはいつからだろう。
「聞かせてよ、君の悩み」
レンズから顔を離すと、彼女は相変わらず朗らかな笑みで僕を見ていた。
「……いいや、人に話すようなことじゃない。それに君はもう知ってるんだろ」
「知ってるよ。でも原因までは分からない。そこが解消しないと、堂々巡りになっちゃうでしょ?」
僕は黙りこくった。もう、なんとなく分かる。これはハッタリだ。僕はいとも容易く釣り上げられたのだ。
とはいえ、人に話すようなことじゃないし、大抵悩みなんてものは話したところで根本的な解決にはならないことを知っている。しばらく返事をしないでいると、彼女はこほん、と大袈裟に咳払いをした。
「じゃあ話しやすいように、私が少しお話をしてあげよう」
そう言って彼女は、また塔屋の縁に座って、隣をぽんぽんと示した。しばらく応えないでいると、いよいよ睨んできたので、そそくさと彼女の隣に座る。
「私はね、この世界を救うヒーローなんだよ」
「ヒーロー?」
「そう。君を含めてみーんなを守ってる。完全無欠のヒーロー」
勝気に笑う彼女はやけに楽しそうだった。何を言い出すかと思えば……。
「世の中には困ったことがたくさんあるんだよ。そういうものからみんなを守るようにしてるんだ」
「僕の悩みを解決しようとするのも、そのヒーローの活動ってこと?」
「そういうこと」
彼女は立ち上がって、大きく伸びをした。
「君、明日から屋上に来なよ。私はいつでもいるからさ。少しずつ話してくれればいいよ」
穏やかなその表情からは、少し期待が垣間見えた。だから、そもそもどうして僕のことを知っているのかとか、どうして僕を天体観測に誘ったのかとか、沸々と出てくる疑問は数あれど、糾弾する気は起きなかった。
「もう少し望遠鏡覗こうか。今日はすごく綺麗に見えるだろうから」
了承する前にどんどん話が進んでしまう。とんだ変わり者に捕まってしまった。が、人のことを言える立場ではないかな、というのが頭に過ってしまって、そのまま流されてしまう。
ただ、その日の夜に見えた星空は、彼女の言う通りとても綺麗だった。
それから僕たちはほぼ毎日、放課後に屋上へ集まっては星を見た。立入禁止であることを忘れてしまうくらい、屋上に何度も通った。
特に他意があったわけではない。別れ際に自然と「また明日ね」という言葉が出てきて、それを唯々諾々と受け入れて、律儀に守ってしまうのである。──それが、建前。
塔屋の上はまさに秘密基地のそれで、防寒のための懐炉や上着を持ち込んで、空き教室から拝借した椅子に座って星を眺めた。教員たちもここの存在自体気にしていないのだろう、僕たちの活動が見つかることはなく、日々の生活から切り離された特別な時間が流れていた。冬の空は悔しいくらいに美しく、レンズ越しに見るオリオン座大星雲は暗闇に映えて、望遠鏡を覗かない時は電気が消えて暗くなった学校の闇に紛れて天を仰ぐ。一面の星空が頭上を覆い尽くす荘厳さは、この下で日々教室に閉じ込められ息も吸えない僕を救ってくれているような気がした。
そういった不思議な感覚が、僕に別れ際の口約束にもならない一言をいっそう刻みつけているのだった。本音はそうだ。僕はここに来ることを楽しみにしていた。彼女は確かにヒーローだったかもしれない。
それでも、僕は彼女に一度も、彼女の言う「僕の悩み」を話すことはなかった。彼女はもしかすると吐露してくるのを期待していたのかもしれないが、僕は意図して、彼女に心根を晒すことはしなかった。
「いつになったら話してくれるの?」
「逆に聞くけど、なんでそんなに聞きたいの?」
「悩んでることは分かるのに解決できないって、ヒーローにとっては生殺しじゃない?」
「そこは君の都合なんだ……」
そんな会話を幾度となく繰り返して、またいつものように星を見上げる。
飽きもせず僕を問いただし続ける彼女は、いつも笑顔だった。僕はむしろ彼女のその笑顔が、どこか何かを無理しているのではと少し心配なくらいで、反動からか彼女と話す時にはあまり笑えなかった。
「今日も綺麗だね」
僕が見入って答えずにいると、急に視界が真っ暗になった。
「この空を見たければ対価として話を聞かせなさい」
「君が期待してるのは普通対価とは呼ばないから」
「今話さないと、君はきっと後悔するよ」
「なんでそんなこと」
彼女の緊張が瞼に当たる掌越しに伝わってきた。それ以上、僕は何も言わなかった。
言えなかった、の方が正しいかもしれない。僕みたいな人間は、彼女にかけてやる都合のいい言葉など持ち合わせていないのだ。だからといって彼女の期待通り、僕の話をするなんてこともしたくはないが。
とりあえず、今日も空は綺麗だ。それだけで少しは彼女の気も紛れるといいのだけど。
ある日を境に、彼女は突然屋上に来なくなった。
いつも通り望遠鏡の前で待機していた僕は、何の音沙汰もないままいつまでも来ない彼女をただ待った。しかし結局日付が変わっても彼女は現れなくて、星明かりに照らされながら一人、道具を片付けて帰った。
明くる日、隣のクラスの担任に彼女の所在を聞きに行くと、返ってきたのは一番聞きたくない言葉だった。
「そんな生徒はいない」
僕はそれを聞いてすぐ、校長室に向かった。
「登録番号904番……何の用だ」
乗り込んだ校長室には、校長の他に恰幅のいい体躯を迷彩に包んだ男がいた。物々しく僕を睨めつける男は何かを察した様子で、懐から取り出した銃を僕に向けた。
僕は彼女の所在を尋ねた。男は銃口を少し震わせて、しかし表情を変えずに、
「星の使徒1305番は召された。勇敢な戦いぶりだった。お前が──」
その視線は痛いくらいで。
「恥ずかしげもなく逃げたお前が気にするのも、彼女にとっては気の毒というものだがな」
人類は絶滅しかけている。
というより、この星自体が存亡の危機に立たされている、と言った方が適当だ。
確認された地球外生命体は敵対的であった。空に見える数多の星々から飛来した怪異たちの攻勢に、為す術なく滅亡の未来に舵を切らざるを得なかった星。残った人類はこの小さな町に集められ、辛うじて種を存続させると同時に、星とある盟約を交わした。
若者の魂を供物にする。捧げられた魂は星と結びつけられ、上位存在として星を守るためにその身を粉にして戦う。人ではなくなった彼らは神の威を借りたように大きな力を手にいれるが、人としての生と名を棄てることを余儀なくされる。しかしそうした種のための献身は、やがて信仰の対象となり、永遠に人々の心に刻まれる。
──などという綺麗事が、この世界を狂わせていた。
確かに怪異は飛来していて、滅びゆく未来も見えている。そこで絶滅を前にした人類は、縋るものを探した。都合よく見えないものを想像して、星との盟約などという作り話をでっち上げて、僕たちをこの学校──そう呼ばれる育成施設で戦えるよう育て上げる。
僕たちは名も無き兵士だ。
頭の中を調整され、身体能力を強化され、人を棄てた上位存在という設定で戦地へ赴く。神の威と言って渡されるのはちっぽけな銃。その本義をほとんどの生徒は知らぬまま、供物・・にされて始めて気づく。
人は上を見ない生き物だ。下を見ることで、安堵と優越感を得る。どれだけ綺麗事を謳っていようと、自分の下に人がいることで胸を撫で下ろすのだ。
いつものように空を見上げる。いつになく星が綺麗で、人々が寝静まり帳とばりの降りた町は星明かりでうっすらと輪郭を浮かべていた。
彼女が遺した望遠鏡は相変わらず空を仰いでいた。それを覗き込んで、また大星雲の揺らぎ模様を目に焼きつける。
僕はかつて供物にされ、生き残った。そして現実を、今この世界がどのような構造で保たれ、諦めに満ちているか知った。それを声高に叫んでみても、僕たちの境遇を嘆いてみても、檻に囚われ縋るものを見つけた者たちにとってそれはタブーでしかなく、誰一人として耳を傾けることはなかった。彼らにとっては生き残ることよりも戦い潰されて召されることの方が栄誉で英雄的なのだ。
この世界は狂気に満ちている。
だが、それでも彼女は、誰もが憎むべき空と星々を美しいとして見上げ続けた。彼女だけが一人、上を向いて生きていた。こんな世界で、ただ誰かのためにと、純粋に為すべきことを為そうとした。
だから、僕も。
彼女が僕にそうしてくれたように、僕もまた上を向いて、僕なりのやり方で、為すべきことを為そうと思った。生き残った理由を見つけた気がした。いつか彼女が彼女らしくいられるはずだった世界が再構築されるように。
ポケットから銃を取り出して、空に翳す。
まったく。ヒーローというのは、いつでもその背中を追いかけたくなるものらしい。
星、あるいはプラトニックな英雄 山崎山 @yamazaki_yama
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