初恋

三宅天斗

第1話 

美空みくの初恋の人は?』

『私? 私は――』


 私の初恋は、五歳の時。友達がやっているからという理由で始めたピアノ教室で、私は運命の出会いをした。


 初めてのレッスン。緊張で胸がいっぱいで、私は先生にうながされるまま、アップライトのピアノの大きなイスにちょこんと腰を下ろした。

「じゃあ初めてだし、まずはピアノに触ってみようか」

「う、うん」

言われるがまま鍵盤けんばんの上に指をのせて、一音を鳴らすと部屋中が一つの音で埋め尽くされた。ただの単音たんおんなのに、それがすごく心地よくて、神秘的しんぴてきで、その一音で私はピアノに心を奪われたのを覚えている。

「上手ね、美空ちゃん」

「上手?」

「えぇ。すごく上手よ」

その言葉が嬉しくて、私はまた鍵盤を叩いた。曲を弾いているわけでもないのに、やけに楽しくて、おもしろくて、私は無我夢中むがむちゅうでピアノと触れ合った。

「ピアノ、楽しかった?」

「うん!」

「それは良かった」

レッスンが終わった時には、最初にあった緊張がすっかり楽しいという感情に置き換わっていた。

 名残惜しいけれど、大きなイスから降りる。先生に続いて、部屋から出ようとした時、入った時には気づかなかった彼の姿が教室にあった。

 彼は、私よりも背が高くて、私よりずっと落ち着いた雰囲気で、すました顔がすごく大人っぽく見えた。私は、そんな彼に強くかれてしまった。

「美空ちゃん? どうしたの?」

「なんでもない」

幼稚園時のくせにいっちょまえに緊張して、彼の前から逃げるように部屋を出た。

「それじゃあ、また来週」

「うん! またね!」

先生に手を振って、帰り道を歩く。

 ここに来る時と、同じ風景がやけに明るく見えた。花の黄色がより鮮明に、草木の緑がより若く輝いて見えた。あんな経験、あの時が初めてだった。


 これを漕いだと知るのは、もう少し先の話。だから、少し時間を進めて――。


 私は市立の小学校に入学した。彼と出会ったピアノ教室にはまだ通っている。理由は二つ。一つは、ピアノが大好きになったから。もう一つは、彼に会えるから。

 ピアノ教室に行く度に、彼は私をいつものすました顔で出迎えてくれる。毎回、彼はピアノ教室にいるから、てっきり近くに住んでいるのかなって思ってたけど、入学してしばらくしても彼を見つけることは出来なかった。学校に行けば、毎日彼に会えると思っていただけに、そのショックはすごく大きかった。

 学校にも慣れてきて、私は音楽の授業で初めて、ピアノ教室以外の場所でピアノを弾いた。先生も、クラスのみんなも「上手だね!」って褒めてくれているのに、どうしてかそこまで嬉しくなかった。それにピアノを弾いている時も、いつも通りのはずなのに全然楽しくなかった。

 理由はその日のうちに分かった。

 私はピアノのレッスンに来て、ピアノ教室と学校の違う所を探してみた。

 一つ目。学校のピアノ教室のものよりも大きなピアノだったこと。気になってピアノの先生に聞いてみたら、グランドピアノって言ってすごく高いんだよ、良いピアノなんだよって教えてくれた。だから、音が嫌いってゆうわけじゃないみたい。

 二つ目。部屋の雰囲気。音楽室はすごくにぎやかで、明るい感じ。ピアノ教室は静かで、落ち着いた感じ。にぎやかな方が楽しいに決まっているから、それも違うみたい。

 最後に三つ目。ここには彼がいるとゆうこと。一度も話したことがないし、笑ったところも見たことがない。ましてや、名前も知らない彼。その存在のある、なし。彼と同じ部屋にいると、なんだかすごく安心する。心が静かになる。一人じゃないなって思う。でも、学校にはみんながいた。一人じゃなかった。けど、ひとりぼっちな気がした。その感覚が、小学一年生の時の私には分からなかった。けれど、ピアノが楽しく弾ける理由だけは分かった。

 彼が見ててくれるから。そばにいてくれるから。だから私は、こんなにも楽しく弾けるんだって思った。

 だから余計に、彼のいるピアノ教室が大好きになった。


 小学四年生になって、みんなが恋バナをし始めた。この時の私には、人を好きになるっていう気持ちが分からなかった。みんなはクラスのだれだれちゃんが好きとか、だれだれくんがかっこいいとか言っているけど、私にはその感覚がさっぱり分からなかった。だから私は、休み時間になるとよく、音楽室に逃げ込んでいた。

 誰もいない教室で、ただ鍵盤を叩く。世界が私の音だけに包まれているような感覚になって、すごく気持ちがいい。

 ――彼にも、聴いてほしいな

ふと、そんな風に思った。そんな風に思うと、ひとりぼっちのこの教室にも彼の柔らかい気配を感じて、前よりも少しは楽しく、笑顔でピアノを弾けるようになった。

 それでもやっぱり、直に彼に会えるピアノ教室は、私が一番楽しくピアノと触れ合える場所。そして、私の一番落ち着ける場所であり、一番落ち着かない場所でもある。

 今日は、コンクールに向けての練習。

「じゃあ、一回通して弾いてみて?」

「はい」

私は楽譜に描かれた音符通りに指を動かして、強弱も五線譜ごせんふの上に描かれている通りにつけて一曲を弾き終えた。実に清々しい気持ち。家で練習しているときも同じような気持ちになるけど、やっぱり教室でやると格別に気持ちが良い。

 私は自信満々で先生の方に視線をやると、先生は少し浮かない表情をしていた。

「先生?」

「あ、ごめんなさいね。すごく上手だったんだけど……」

先生は少し言いよどんで、私の目をまっすぐ見る。

「美空ちゃん。質問してもいいかな?」

「はい」

先生の神妙しんみょうな声に、私も緊張した声で返事をする。

「美空ちゃんは、今回のコンクール、本気で受賞する気あるのかな?」

少し強い言葉に、一瞬、表情が固まる。

 本気で受賞する。それって、楽譜通りに弾いていれば出来るんじゃないの? これじゃあダメなの? 初めてのコンクールだったから、先生の言葉の意味も分からないまま

「あります」

そう静かに返す。すると先生は、また声色こわいろを変えて

「それじゃあ、少しだけ厳しいことを今から言うね?」

いつもよりも低い声で先生がそう言う。目の前にある先生の表情はすごく真剣で、目はまっすぐ私のひとみを見つめている。

「今の美空ちゃんじゃ、受賞は難しいと思う」

「え……」

どこがダメなの? ミスもなかったし、強弱も描いてある通りにつけた。それなのに受賞できないの? なんで?

 疑問の言葉は、心に浮かんで声になる前に心に沈んで行く。

「どうして、ですか?」

そんな中、一番純粋な疑問の言葉は、声になって外にこぼれ落ちた。

「美空ちゃんは確かに、ミスもなくて強弱もつけられてる。でも、それじゃダメなの」

改めて言葉にされても全く意味が分からない。描いてあるんだから、これがベスト。これ以上に良いものは無いんじゃないの? だからこうして楽譜になって、今でも残ってる。だから、先生の言わんとしてることが全然と言っていいほど理解できない。

「美空ちゃん。この曲をどんな気持ちで弾いてるかな?」

「どんな、気持ち?」

先生の質問に対する答えが、どこを探しても見つからなかった。曲に気持ちを込めるなんて、考えたこともなかった。

 ピアノを弾いていて楽しいな、気持ちが良いなって思っても、曲にその想いを込められているかと言われると、それは出来ていない気がする。曲に気持ちを込めるってどうゆうこと?

「この曲はね、この曲を描いた人が初恋の相手へのひたむきな想いを込めた曲なんだって。だから、初恋の甘酸っぱい想いとか、少し苦しい想いとか、複雑な感情が込められてるって先生は思うんだ。美空ちゃんはどうかな?」

「初恋の人への、ひたむきな想い……」

先生の言葉を繰り返してみると、頭の中に彼の顔がはっきりと浮かび上がった。いつもすましていて、クールな顔の彼。すぐそこにある彼の顔を見ると、胸がじんわりと温かくなって、その後すぐに苦しく締め付けられた。これが、恋とゆうものなんだろうか。はっきりとはまだわからないけど、これが特別な感情なんだってことは理解できた。

「なんとなくですけど、分かった気がします」

「そっかそっか。じゃあ、今の感情を大切にして、もう一回弾いてみようか」

「はい」

私はふぅと小さく息を吐きだして、楽譜をまっすぐ見つめた。

 この楽譜にはいろんな感情がのっている。それを私なりに、私だけの感情をのせて伝える。

 鍵盤の上に指を置いて、彼の顔を一度見る。いつも通りすました顔に小さく笑いかけて、私は柔らかく鍵盤を叩いた。すると、さっきまでとは違う感覚が私を包み込む。彼を思うこの感情。彼とのこれまでの思い出。いろんなものが頭の中に流れ込んできて、心にスッと溶け込んで、想いとなって音に乗る。いつも弾いている時よりも、ずっとずっと心地が良い。弾いているだけで笑顔が零れてしまうくらいだ。

 そんな調子で、私は鍵盤から指を離して息を吐きだした。

「先生。今のはどうですか?」

少し不安になりながら聞くと、先生はキラキラと目を輝かせて大きな拍手を私に送ってくれた。

「すっごく良かった。今の演奏は、美空ちゃんの想いがきれいに乗ってて、美空ちゃんにしか表現できない曲になってた。すごい。すごいよ、美空ちゃん!」

先生は自分のことのように嬉しそうに褒めてくれた。それはすごく嬉しい。でもそれ以上に、弾き終わった後に見た彼の顔が、いつものすまし顔じゃなくて、柔らかい、優しい笑顔に見えた。そのことが、先生の誉め言葉よりも嬉しく思えてしまった。

 ――私、彼に恋をしてるんだ

この日、私は彼に恋心を抱いていることを初めて自覚した。この一つの想いだけで、これからずっとずっと、ピアノを続けて行けるような気がした。

 彼への想いに気づいてから二年。私は晴れて、中学生になった。同じ小学校から進級した子が多いから、初日でクラスにも馴染んで、次の日には大体の教室の場所を把握した。

 中学生になって三日目。部活動見学の期間。私は合唱部に入ることを決めていたので、今日はその見学で音楽室に来たんだけど、

「やってない……」

今日は残念ながらお休みだったみたい。肩を落として教室を後にしようとした時、見覚えのある顔がポツンと教室の中にあった。それはピアノ教室の彼。私の初恋の相手だ。

 いきなりのことに心臓がドキッと大きく跳ねて、顔を前に向けられない。それでも、無言で立ち尽くすのも変な気がしたから、とりあえず私はピアノに向かって、そっと鍵盤に触れた。

 音楽室なのに、ピアノ教室みたい。心が妙に落ち着いて、でも程よく胸が苦しくて、身体が火照ほてって、頭の中が窓の外の空みたいにスカッと晴れて。私は、鍵盤を柔らかく叩いた。

 二人きりの音楽室に、優しいピアノの音が響く。次第にいつもの優しい時間に引き込まれていって、気づいたときには教室はオレンジ色に染まっていた。

 教室の色と同じく肌を染める私と彼。なんかいい感じの雰囲気。今なら、私の気持ちも……。そんな風に思っていると、音楽を担当している岡本先生が教室に入ってきた。

「あら、珍しい。ピアノ、弾いてたの?」

「あ、はい」

怒られるかと思いきや、おだやかな声色の先生。心がホッと安心する。

「なに弾いてたの?」

「えっと、ピアノ協奏曲きょうそうきょく単調第二楽章たんちょうだいにがくしょうです」

初めてのコンクールで弾いた曲。私にとって大切で、一番弾いていて楽しくて、心が温かくなる曲。

「ショパンの曲ね?」

「あ、はい……」

作曲者の名前は知らなかったので、曖昧に返すと先生は少し笑って、

「この人よ」

そう言って、彼の顔を柔らかく指さした。

「この人がショパンさん?」

「えぇ。知らなかったの?」

「はい。すみません」

ここからの会話ははっきり覚えていない。心が空っぽになった、ってゆうのが分かりやすい言葉だと思う。彼があの曲を作った人なのがびっくりで、それよりも自分が絵の中の男性に恋心を抱いていたとゆうこと、そして、これまでそれに気づかなかったことに自分でも驚いてしまって。私はフワフワした気持ちで音楽室を後にした。

 思い返せば、おかなしなことはたくさんあった。

 第一に、彼は一言も話さないし、表情をピクリとも動かさない。

 第二に、いつもピアノ教室には彼がいる。

 そして第三に、動く動かない以前に、彼の胸元より下を見たことがない。

 こんなに不審ふしんな点があるのに、どうして私は気がつかなかったんだろう。恋は盲目もくもくとはよく言ったものだ。

 ぼんやりそんなことを思っていると、これまでの自分を客観視できてきて、笑いが込み上げてきた。

 自分の初恋の人がショパンだなんて。恥ずかしいけど、なんか面白い。そう、なんか面白い。その日はとにかく笑って、家までの道を楽しくスキップしながら帰った。


 それから四年。私は高校二年生になった。そして、今はクラスメイトの咲月さつきちゃんたちとガールズトークの最中。

「それで、美空の初恋の人は?」

「私? 私はね――」

 フレデリック・ショパン。なんて、そんなこと言えなくて。私はただ笑って、

「ひみつ」

そうやってはぐらかした。


 私の初恋は、楽しくて、明るくて、苦しくて、繊細で。まるで、彼の描いた"思い出のあの曲"みたいだった。

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