楓の花

羽鳥

第一話

男の内には、暴風が渦巻いていたのであった。嘗て若かりし頃に男を突き動かしたその暴風は彼の脳を喰い破り、男の人生を破滅へと追いやって了うであろうと思われた。

男はゆっくりとにじり寄っていった。今、目の前に居る女の思考、感情は計り知れない。表情は真白で西洋の陶器の人形の様であった。故に、女の内にあるものは怒りなのか恐れなのか、それとも全く別の何かであるのか。女が男に抱いている想いを知る由もないのである。

「私は既に他人の女なのですよ」

壁に追い詰められた女が云った。一体この女は何を云っているのだろう! お前の旦那はもう既に此の世に居ないではないか! 男の内に猛るどす黒いものが男にそう叫ばせようとした。だがそれより先に男の手が伸びていた。女の着ていた着物の襟を鷲掴み、床へと引き倒す。其処で漸く女の顔が微かに動いた。





そこで、久賀野親弥(くがのちかや)は筆を走らせる手を止めた。滲んだ手汗を袴で拭い、もう一度原稿用紙に向かうが、この先がどうしても書けない。何度脳みそをひっくり返して考えてみても、納得のいく描写が思いつかなかった。女性の肌とはいかなるものなのか。白くて絹のよう。違う、そんな有体な表現をしたいわけではない。頭の中で自問自答を繰り返しながら、親弥は追い詰められていた。日に日に焦りが募ってくる。これは、締め切りなどという時間的なものではなく、何も思い通りに生み出すことのできない親弥自身に対しての焦りだった。

原稿用紙に押し付けた万年筆から染み出していくインクは、まるで親弥の奥底から出る血のようだった。立ち上がって、納得いかないとばかりに、すでに書き上がっていた原稿までもを乱暴に丸めて床に叩きつける。「くそっ、くそ!」。自分自身に我慢がならなかった。苛立ち苦悩し、何度も何度もそれを繰り返して、新品の用紙すら丸めて、ごみで埋め尽くされた書斎で一人、親弥は床の一点を見つめてしばらく立ち竦んでいた。

どうして自分には書けないのか。

 呆然と自らの手の平を見る。まだ乾ききっていないインクを触り、親弥のペンだこだらけの手は黒ずんでいた。はっとして、慌てて傍に落ちていた原稿を一つ拾い上げると、妻が嫁入りの際に持ってきたフランス製の高級絨毯にも運悪くインク染みができていた。急いで全てを回収し、屑入れに無理矢理押し込む。

書斎に篭って丸二〇時間。その内仮眠を取ったのは一時間弱。肉体的にも精神的にも支障を来しているというのに、その結果が、この屑の山なのか。

散らかった仕事机以外に生活感のない親弥の書斎は、大窓から差し込む朝日を取り込んでいるはずなのに、どこか薄暗い空気を漂わせていた。西洋製の椅子やカーテンも、華やぐどころか重厚で陰鬱な雰囲気を演出しているようだ。資料用の本が詰め込まれた本棚が壁側から空気を圧迫している。

ようやく息を整えた親弥は、力の入らない足で秋の色が見え始めた庭の井戸へと向かった。庭に出た途端納戸を揺らす風が、親弥の疲れ果てて貧相な顔に否応なくぶつかってくる。汲み取り式の井戸の水面には、落ち葉と共に、少し歪んだ丸眼鏡を掛けた、情けない男の顔が浮かんでいた。掻き毟ってぼさぼさの黒髪に隈の酷い目元、やせ細った輪郭。桶を下ろすと、虚像の顔は波紋となって消えた。

三〇も半ばになってこの様とは、情けなくて仕方がなかった。その思いを払拭するように、親弥はインクが落ちてもまだ、掬い上げた冷水でひたすら手を擦り合わせた。

親弥は「久賀野有座」の名で活動する売れない小説家だった。一九〇七年、親弥が三一歳の時、田山花袋の『蒲団』が発表され、親弥も世間と同じく大きな衝撃を受けた。書生時代世話になっていた妻の父、大谷禄太郎氏の書庫は素晴らしいもので、その時分から名作に触れていた親弥が『蒲団』に出会い、小説を書いてみたいと思ったのは必然なのかもしれない。

もちろん、親弥の目指す作品は「自然主義」文学だ。華美な装飾などいらない、親弥の心の底に眠る粘ったどす黒いものを、ありのまま作品に吐き出してみたい。その想いだけを頼りに、親弥はインクビンに筆を浸し、初めて小説を書き始めた。

処女作を書き上げたのは三二歳の時だった。親弥の選んだ題材は「妻の裏切り」だった。男が力を持つ時勢柄、女性が不貞に走るのは倫理に大いに反することである。親弥の描きたい世界、人間の醜い部分を曝け出す作品としてふさわしい題材だと思った。実際、親弥の中で、これならいけるだろうという確信があった。だが出版社に原稿を持ち込むと、作家としての文章力は持ち合わせているものの、「自然主義とは言えない」の一点張りで突き返された。他の出版社でも受け入れられず、当時の親弥にはその理由も理解できず、どうすることもできなかった。

次に書いたのは同年、華族を取り扱った作品だった。禄太郎氏は華族の人間であった。内情を知っている身である故に、編集者に勧められるまま作り上げたそれが、本として出版されることが決まったのだ。だが、それこそ親弥には納得がいかなかった。親弥にとって、それは駄作でしかなかった。しかしそれからというもの、親弥の作品は出版社の望む、親弥にとって不本意なものばかりが出版されるようになった。一向に親弥自身の表現は認められなかったのである。

そもそもの「自然主義」とは、「自然の事象を観察し、美化せず描く」ことであって、「現実を赤裸々に描く」ことではないはずだ。なら、親弥にだって描く権利はあるはずであるのに。

親弥がついでに顔を洗っていると、庭に面した廊下がぎしぎしと音を立て、止んだ。親弥が顔を拭うと、萌葱の着物を着た妻の宮が、親弥の姿を眺めていた。

「どうかなさいましたか、親弥様」

宮は掃除の途中だったのか、襷上げされた袖から細くしなやかな腕が覗き、手に手ぬぐいを握り締めていた。普段はしっかりと結い上げられている髪が少し乱れている。

宮は昔から、澄み切った声でよく親弥にそう尋ねた。何を心配する必要があるのだろうか、そんなに宮の目に、親弥は情けなく映っているのだろうか。問われる度に胸に淀みが生じたが、親弥はそれを隠すように緩く首を振った。

「大丈夫だよ宮、そんな顔をしなくても」

「そんな、とはどのような顔でしょう」

「儚げで不安げで、とても美しい。なびかない男はいないだろう。でも安心してくれ、俺は君を襲ったりはしないよ」

親弥は冗談めかして笑ってみせた。本当は眼鏡を外していたので宮の顔はぼんやりとしたものだったが、親弥の頭に浮かんだ宮の表情は、どこか苦悩を滲ませたものだった。

宮は何も言わなかった。親弥にしてみれば冗談でも、宮はそう捉えてはくれなかったようだ。きっと親弥が作ったつもりでいた笑顔も、みすぼらしい出来だったに違いない。

気まずさが募って、眼鏡を掛け急いで書斎に引き返そうとした。廊下をそそくさと進む親弥の後姿に、宮が声を掛ける。

「親弥様。本日は午後、診察に向かわれる予定でしたよね」

親弥が足を止める。

「ああ」

「では、外套をご用意しますね。午後はさらに冷え込むそうですよ」

「わかった。ああ、それと。すまない、絨毯をインクで汚してしまった。染み取りをすれば落ちるはずだから」

「わかりました。大丈夫ですわ、ついでですので」

振り返ると、宮は余計な仕事ができたにも関わらず、親弥の想像したとおり嫌な様子一つ見せていなかった。もう一度すまないと謝って、親弥は逃げるように書斎へと舞い戻った。とても惨めで、こんな姿を宮に見せたくはなかった。ドアを閉め、無音の空間に一人、親弥の息遣いだけが嫌に耳に付く。

もう一度仕事机の前に座る。机上に放ったままだった万年筆を握り、原稿用紙を凝視する。執筆中は気が付かなかったが、右腕の節という節が痛みで疼いていた。親弥の万年筆の持ち方は歪で、薬指の第一関節が赤くなっていた。他にも、力を入れて頭を掻く癖や、没となった用紙を握り締めて、乾燥した指はぼろ雑巾のようだった。

情景を思い浮かべ、男に詰め寄られた女の姿を想像し、次にこの女は何と言葉を口にするのか。それに対する男の反応は如何様なものなのか。必死に脳内で再生される映像を語彙で、文で表現しようとするが、ペン先が用紙に触れるより前に、親弥の息は乱れ、結局滴るインクが点々と飛び散るだけだった。頭を掻き毟り、それでも、物を語ろうとしない相手をねめつけ続けるしかない。

親弥の中には吐き出すものどころか、ますます無力感が募るばかりだった。




運動がてら十数分の道のりを歩き、見えてきたのは「晴海診療所」の看板だった。通い慣れた診療所は、昔よりも一際寂れたように親弥の目には写っていた。晴海診療所を作った晴海進太郎氏が亡くなり、今は親弥より二つ年上の息子、藤彦が継いで経営している。決して経営が上手くいっていないわけではない。むしろ若く腕の立つ藤彦に代わり、女性を中心として客足は増えているようだった。だが人気と反比例するように、古く小さな診療所は今にも朽ちて崩れそうだった。付近一帯に建築制限令(洋館に建て替えろという政府のお達し)が出てからというもの、洋館に建て替える金がないらしく、かといって補強工事をすれば役場の人間に「建て替えろ」と文句を言われる為、どうすることもできないのだそうだ。西洋の装いに移ろい始めた煉瓦の繁華街で、木でできたその診療所が寂れて見えるのは仕方がないとも言える。

親弥は木製の軋む診察台の上に腰掛けながら、ところどころ板の剥げかけた天井を仰いだ。きっと少しの雨でも雨漏りするのだろう。外に生えている楓でも板に切って、雨くらい凌げばいいのになどと、どうでもいいことを考えながら意識を逸らす。布擦れの音がする度に下半身がぞわぞわとむず痒い。

「はい、もう大丈夫ですよ」

晴海先生が、局部から目を離してカルテに何事かを書き込んでいく。無意識に息を詰めていたのか、親弥は深呼吸をした。晴海進太郎氏が運営していた頃から毎度行っている視診だというのに一向に慣れず、得も言えぬやるせなさに襲われながら、親弥はふんどしを締め直して袴をはいた。羞恥で汗がぶあっと背中から吹き出していた。

「先生。どうですか」

「やはり、今の薬では駄目なようですね」

晴海先生がすっかり一杯になった棚の引き出しにカルテをしまいながら言った。もう何度同じ会話を繰り返しているのだろうか。期待半分での問いかけだったが、やはり親弥は肩を落とさざるを得なかった。

「心的要因もあるのかもしれません。先日、オランダから新薬が届きました。それを処方してみましょう。触診は?」

「え、いや、結構です」

「なんだ、遠慮しなくてもいいのに」

 晴海先生は手持ち無沙汰なのか、持っていた鉛筆をくるくる器用に回していた。

治療を施してくれる晴海先生には悪いが、親弥は生返事しかできなかった。あれも駄目、これも駄目、そして次々に投与される新しい薬。まるで実験台にされているようで気分が悪かった。それでも、親弥の持つ身体的欠陥が改善されたことはない。

事故のことを、親弥は今でも思い出す。親弥が十七歳の時、乗っていた馬車が橋に差し掛かった際に暴走し、川に投げ出されたのだ。当時馬車には両親も乗っていたが、年齢のわりに小柄だった親弥だけが落ちた。前日の雨で川が氾濫し、尚且つ夜だったため、視界不良で救出されるまでにかなりの時間を要した。せり出していた岩は親弥の体を受け止め救出に一役買ったと同時に、親弥の体に重症を負わせていた。黒く冷たい世界の中で、激痛に耐え、意識を失ったのを憶えている。後に病室で、近くで火を起こしていた集団がいて、その火に馬が驚いてしまったことが原因だと聞かされたが、親弥にとってそんなことはどうでもよかった。子供が作れない体になってしまったのだと知って、親弥はそれこそ、渦中に投げ出され、命あるままにずっと水底を彷徨する様な、深い絶望を味わったのだった。

親弥の左足の付け根から右足の膝辺りにまで大きく走る傷口はもう見慣れてしまったが、二十年経ってもまだその存在感は異彩を放っていた。むしろ、体が大きく成長して皮膚が伸び、傷跡が変形してより滑稽になった。

もう結構と、思わず漏れそうになった本音を、親弥は唾を飲み込んで押し殺した。宮によって綺麗に伸ばされた袴に視線を落とす。出会った頃、宮は子供が好きだと、実家近くに住む子どもたちを集めては、遊んでやっていた。親弥が長らくこうして医者に掛かっているのは、宮との子を授かるためなのだ。宮は子供がいなくても構わないと言ってくれてはいるが、親弥の体の状態を知りながらも結婚し、献身的に支えてくれる宮に何かをしてやりたいと考えるのは、夫として当然のことだと親弥は思っていた。

だが、もちろん不安はあった。

「本当に治るのでしょうか。事故にあって、もう二十年近くになります」

 本来ならとうに諦めがつかなければならない年月だ。だがそれでも、親弥は尋ねずにいられなかった。

「大丈夫です。医療は日々進歩しています。一緒に頑張りましょう」

 晴海先生の声が過去と幾度も重なる。もはや常套句となった慰めの言葉をもらい、親弥は曖昧に頷いた。晴海先生としても、こう言葉を掛けるしかないのだろう。それでも安堵の溜息が出た。親弥も、慰みのためだけに通院している節があるのはごまかしようのない事実だった。

「ところで」

 晴海先生がそう切り出した。

「最近、ちゃんと眠っていますか? 顔色がかなりよろしくないようですが」

 晴海先生が眉根を寄せる。痛いところを突かれてしまった、と親弥は思った。やはり医者として見逃せなかったのだろう。苦笑して誤魔化そうとしたらじっとりと睨まれる。

「いえ、あまり……。すみません」

「治療の為にも睡眠をとってもらわなければ困ります。奥様にお願いして食事に睡眠を促す薬でも入れてもらいましょうか」

「それはご勘弁願いたい」

 慌てる親弥に、晴美先生が喉をからから鳴らして笑った。

「さすがにそこまではできませんが、精神を落ち着ける薬を処方しましょう。親弥さんには父の代からお世話になっていますから、特別に無償で差し上げますよ。お試しだと思って。ですから寝つきが悪い時や、興奮状態の時に呑んでください」

 晴海先生には親弥が作家だということは告げていなかった。眠れないのではなく、自主的に寝ていないだけだ。いらぬ心配をさせてしまったと申し訳ない気になる。

薬を受け取り、親弥は手袋を嵌めて晴海診療所を後にした。冷えた風を避けるために襟を顔に寄せる。ずっと箪笥に仕舞われていた黒い外套は、湿った嫌な臭いを放っていた。

秋空というにはおこがましい、腐敗したような茶色い空だった。干からびた黄土色の葉が小さな診療所の周りや道路を囲っている。落ち葉をざくざくと踏みしめる、道行く人の革靴と馬の樋爪。くすんだ風景の中、診療所に植えられた一本の楓の木だけが、赤々として景色から浮いているようだった。

その楓の先、並木に隠れた歩道に、一人の女性の姿があった。踏み出そうとした足が留まり、自然と親弥の視線が追う。

「宮?」

宮が着ている萌葱の着物に良く似た着物を着、帯の色まで同じようだった。だが顔が確認できない。宮ならば、用があって近くに来たからと、親弥に声を掛けるはずだ。なら別人なのか。

 半ば呆然として女性を眺めていると、ふいに親弥に声が掛けられた。落ち葉を蹴散らかさんばかりの大股な足音が鳴っている。もちろん宮であるはずがない。

「よお。例の診察は終わったのか」

 例の、と含みを持たせた言い方に、親弥は頭を掻いた。久しく聞いていなかった耳馴染んだ男の声が、すぐ傍に近づいてくる。女性はすでに視界から消えていた。

「何でここにいるんだ」

 姿を見つけるや否や、親弥は呆れたように言った。

「そりゃあ、お前に会いに来たに決まってるだろう」

豪快に笑う親弥の友人――田之上兪吉(たのうえゆきち)は、「お前の嫁さんにここだって聞いてな」と、白い歯を見せた。うねった長い髪を後ろで束ね、その束がひょうと吹いた風に揺れている。日焼けした肌に、ワイシャツに茶色のチョッキを着、胸には気障ったらしい緑のハンカチが山型に顔を出していた。身長は親弥より少し高く、印象の薄い親弥の顔と違い、大きく丸い目にぼってりとした鼻が目立つ、特徴的な顔をしている。体躯も大きい。一度見たらなかなか忘れられないだろう。

「家に寄ったのならそのまま待っていればよかったのに」

 親弥が面倒とばかりに頭を掻く。

「いやいやそれじゃあつまらない。実は『カフェー・プランタン』に行きたくてな。通院ついでだ、付き合えよ」

兪吉の言う「カフェー・プランタン」とは、近年東京府京橋区日吉町(後の銀座)にできた、フランス風の飲食店のことだ。日本でカフェーと呼ばれる飲食店はカフェー・プランタンが初で、女給が接客をする。親弥の家からも近く、ここからであれば馬車で一〇分ほどである。

 兪吉はこういう男であった。新しい物好きで、他人と同じ物を良しとしない。自分とは似ても似つかないと親弥は兪吉と会う度そう思っていた。

「どうだ? お前も作家の端くれなら行ってみたい所だろう?」

「まあ、興味はあるが……」

 端くれという形容の仕方に引っかかったが、無視をした。

「何だ。乗り気じゃなさそうだな」

「俺は騒がしいところが嫌いだと、お前も知っているだろう」

「そうだったか」

 何せ久しぶりに会うからな、と兪吉はあえて悪びれて見せた。

「まったく……。折角の休日だが仕方ない。付き合ってやる」

「何だその言い様は。まあいい。とことん付き合わせてやるよ」

 兪吉に背を押され、すでに待たせてあった馬車に二人で乗り込む。二人乗りの座席は、男二人で座るにはいささか窮屈だった。だがそれも、たまの息抜きとしては悪くなかった。親弥の顔に、自然と笑みが零れる。久々に会う友人の変わらない姿に、安心したのかもしれなかった。

 馬車がゆっくりと親弥の体を運び始める。扉に嵌められた小窓に、東京の町並みが左から右へと流れていく。大通りに近づくにつれ、絵画のようなその一角は賑やかさを増していった。結婚を期に東京に移り住んだ親弥にとって、煉瓦造りの街並みの間を幅一五間の道路が走り、今親弥達が乗っている馬車が中央を堂々と闊歩する日吉町の光景は、とても騒がしく華美に写った。昔と比べ歩く人々も洋装が増えた。向かいの道を、和装の男が反対方向へと向かっていく。人の流れが、時代の流れを現しているようだ。

 柳並木とガス灯の合間から、東京駅が覗いていた。まだ親弥は駅の中に足を踏み入れたことはなかったが、兪吉いわく「文明開化の匂いがする」そうだ。外観だけでも、それは威圧感があった。半円型の屋根を持つ塔が建物を突き破っている。無数の窓が街を監視するかのごとく目を向けている。美しい建造物であるはずなのに、どこか恐怖すら感じるのは、親弥が時代に乗り切れていないからであろうか。だが親弥がどう感じたところで、近年完成した新しい街の象徴は、日本の交通の要になっていくのだろう。

「変わらないのは俺だけなのかもしれないな」

 唐突に呟いた親弥に、兪吉は目を丸くしていた。




カフェー・プランタンは、文学者や芸術家が多く集まり、一般客は入りづらい店だと聞いていた。そこに易々と入り込んでいけるのは、兪吉もまた、親弥と同じく小説家を生業としているからだろう。親弥一人であれば、鹿鳴館のような社交場を思い起こさせる洋館を前に、すぐさま踵を返していた。親弥は人の集まる華やかな場所があまり好きではなかった。自分の身の欠陥が他人にそう知れるものではないとわかっていても、人の目に晒されるのが落ち着かないからだ。

 中は昼間から酒を飲む男たちで賑わっていた。壁に綺麗に楕円の穴を空けたような格子窓。白いクロスの掛かった四角いテーブルに、洗練された椅子がきちっと収められている。すみれを象った証明が天井からぶら下がる店内の合間を、袴に白エプロンを着けた女給がせわしなく動き回っている。

 大股で二階へと上り席を確保した兪吉は、腰を下ろすなり感歎の声を上げた。

「相変わらずこの店はいい。本場のカフェーというのもこんな感じなのかね」

「さあな」

「だがお前さんの家も負けちゃいねえ」

 親弥の書斎が羨ましくて仕方がないと、兪吉はよく口にしていた。親弥の家は義父の禄太郎氏が建てたものだ。純和室を好む親弥だったが、政府と西洋かぶれの禄太郎氏の意向に背けなかった。庭に面した壁一面の大窓に臙脂のカーテン、背と面の部分にベロアの張られた椅子、こげ茶色に塗られたモダンな机。どれも部屋に似合うようにと多少の無理をして購入したはずなのに、どうにも据わりが悪かった。

「あの家、やはり維持は大変なのか」

「まあな。だがなんとかもっているよ」

「小説だけじゃ無理だろう。まだ町役場の仕事は続けているのか」

「ああ。そっちこそ、小説だけで暮らせているのか」

「俺は問題ない」

 兪吉は胸を一つどんと叩いて答えた。独り身だからなと、親弥は肩をすくめた。何度家に呼べといっても拒否するので、兪吉が普段どんな生活を送っているのかは知れないが、身形だけは相当いいのでよほど儲かっているのだろう。兪吉の小説は人気があるという事実は、頭の隅に追いやった。

 女給が注文していた酒とサンドイッチを運んできた。ボトルとグラス二つを渡されたが、親弥は酒を飲む気にはなれなかった。チップ目当てに席に居座ろうとする女給を退けて、かなり遅めの昼食を取る。

「もう三時だぞ。こんなところでサンドイッチたあいただけねえ。まさかお八つとは言うめえな」

 大きめのたまごサンドにかぶりついた親弥に、兪吉は驚いたようだった。

「診察の時間が微妙でね。宮に作らせるのが申し訳なくて」

 兪吉がふんと鼻で笑う。

「ひよってるなあお前さんは。宮さんの何を恐れてるんだ」

「恐れてなどない」

「じゃあ何をそんなに気を使う」

 サンドイッチを置き、手持ち無沙汰に空のグラスを触る。僅かばかり動揺している自分を無理矢理無視した。

「いいじゃないか、それだけ妻を大事にしているということだ」

「まあ宮さんならわからなくもない」

 兪吉のいやらしい笑みに、親弥の眉間に皺が寄る。宮は色白の肌に、通った鼻筋が印象深い、男を惹きつける美人だった。艶めいた黒髪に、西洋人のような切れ長で大きな瞳。身長は女性にしては高いほうで、そこが凛とした雰囲気を持たせている。親弥が書生として大谷邸に世話になっていた際、親弥以外にも書生が二人いたが、全員が宮に好意を寄せていた。しかも宮は華族の令嬢である。並みの人間が手を出せる相手ではない。

「まったく、あんなに麗しい女性が処女だなんてそんなことが世の中にあってたまるか」

 兪吉が憎たらしげな表情を隠さず言う。

「仕方ない。俺も宮も初めて付き合った相手がお互いだからな。むしろ宮が処女じゃないなんてことがあってたまるか」

「この純朴アベックが」

「あ、あべ? 近所の安部さんがどうかしたのか」

「違うフランス語だ」

 ここがカフェーだけにな、と誇らしげな兪吉だが、あいにく親弥にはまったく伝わっていなかった。

 兪吉と出会ったのは、親弥が東京に越してきてからだった。出版社に原稿を持ち込んでいた頃、すでに作家として活動し、たまたま出版社に来ていた兪吉が無断で対応に出た。今思えば、兪吉は親弥を冷やかすつもりだったのだろう。出版社の人間だと勘違いした親弥は、兪吉に熱く作品について述べ立てた。どうしても、自分の作品について知ってもらいたくて必死だった。それを面白がって聞いていた兪吉に、近くの飲み屋に誘われ、そこでようやく兪吉の素性を知ったのだった。当時のことを思い出すと、何故あの時殴っておかなかったのかと後悔の念に駆られる。こんなに腹立たしいこともないだろう。だが、あそこで怒りと羞恥に任せて手を挙げていれば、現在の兪吉と親弥の友人関係は成立していなかっただろうとも思う。兪吉も兪吉で、歳の割りに童顔な親弥を年下だと思ったらしく、同い年だと知った時は笑いながらも頭を下げていた。それも加えて腹立たしいことなのだが。

「その様子じゃ、宮さんとは上手くいっているようだな」

 兪吉が、どこか不貞腐れたように言った。何と返していいかわからず、曖昧に頷く。

「宮さんに苦労ばかりかけるんじゃねえぞ親弥。宮さん泣かしたら承知しねえからな」

「ああ、お前に心配されずとも承知している。だがな……」

「おい、なんだよ。一体どうしたってんだ」

「宮が、俺の顔を見てよく心配そうに声をかけてくるんだ。心配してくれるのはありがたいんだが、理由がわからなくてな」

「馬鹿だなお前は」

 兪吉が眉尻を下げる。

「そんなもの、ただの惚気じゃねえか」

「どうしてそうなる」

「だってそうだろう。確かに顔色はよくねえが、そんなのいつものことだろう。なのに心配してくれるたあ、惚気以外の何もんでもねえよ」

 兪吉に頬を数回、あしらう様に叩かれる。肉のないその部分は、皮を僅かに揺らすだけだった。

 顔色が優れない原因はわかっていた。寝不足ももちろんだが、筆が進まず、己自身の未熟さ、非力さを悲観しているからだ。いや、悲観といえば聞こえはいいが、要は現状に耐えられないだけだ。親弥の精神は、現実を突き放し文芸に邁進することも、現実を受け入れることもできない。その影響が、身体に現れているに過ぎない。

 親弥のかじったサンドウィッチから、スクランブルエッグがぱらぱらと手に零れ落ちた。舐め取って、手拭を頼む為に女給を呼ぶ。

 親弥の食事中、いくつか言葉を交わしながら、兪吉は蒸留酒を口にするだけだった。普段は、食にこだわりの強い兪吉は何かしら食していることが多い。気になって、ついでに注文しないのか親弥が尋ねると、兪吉は首を振った。

「腹が一杯だ」

 兪吉の意外な発言に、親弥は視線をサンドウィッチから兪吉へと移した。

「なんだ珍しいな。大食らいなくせして」

「いやあ、お前さんを迎えに行く前、出版社の奴に捕まって昼食をたらふく食わされたんだ。お祝いだのなんだの言ってな」

「お祝い?」

 女給が手拭を持ってきた。親弥がそれで手を拭う。女給が席を離れたのを見計らって、兪吉は口を開いた。

「実はな、出版社の本の売上げ記録を、俺の小説が抜いたらしいんだ。小さい出版社だから大したもんでもねえんだがな」

 兪吉が困り顔で腹の辺りを擦ってみせる。なんだ、腹も一杯なら懐も一杯なのか。そう茶化そうとしたが、親弥は手拭を握り締めたまま何も言うことができなかった。兪吉が手の動きを引っ込めたが、それに気づかない振りをして笑顔を作る。本心を顔に出すわけにはいかなかった。

「よかったじゃないか。じゃあ俺もお祝いに近くの店でショートケーキ奢ってやるよ。お前甘い物好きだろう。いくつ食う。五つか、六つか」

「そんな食えねえよ。それにふざけるなら一〇とか言えよ。本気に聞こえて恐ろしい」

 口元を歪める兪吉が面白くて、苦笑交じりにくつくつ喉を鳴らす。兪吉は罰が悪そうに、二杯目の酒を注いでいた。

「冗談だ。お祝いはまた改めてさせてもらうよ」

「構わねえさ。本当、大したことじゃあない。ところで、お前さんはどうなんだ。今も書いているんだろう」

 兪吉が話題を自身から他へ移そうとする意図は明白であったが、親弥はその質問に狼狽した。

「どうなんだと言われてもな」

 親弥は今朝のことを思い出した。くず入れの肥やしとなった己の小説。すこぶる不調だなどと、とても漏らすわけにはいかない。親弥が惨めになる一方である。親弥は手首の辺りに落としきれないインクがあるような気がして、ごまかすように手拭でそこを擦った。

 だが兪吉には通用しなかったようだ。

「なあお前。もうやめたらどうだ」

 兪吉は世間話をする調子で言った。兪吉の声が耳に入ってはいたが、親弥は何の反応も返さず、ひたすら手を擦り続けた。

「わかってんだろう。さっきの、宮さんに気を使ってるって話だけどな。子供も作れないお前が好きなことやらせてもらえてるってえのが、気に掛かっているんだろう。なら小説を書くのをやめたらいい」

「役場の仕事はちゃんとしている。生活もできている。文句言われる筋合いはないよ」

 親弥は平静を装って言った。

「何も書くことが悪いと言ってるんじゃねえ。お前は文才もある。頭も良い。だが書いてるものがよくねえんだ」

 書いてるものがよくない。兪吉の言葉に、親弥は手を止めた。微かに苛立ちが募る。それではまるで親弥の小説が面白くないと面と向かって貶されているように聞こえるではないか。

だが、兪吉が親弥に伝えたいことはそういう意味ではないということを、親弥はわかっていた。

 話の流れが嫌な方に流れているのを感じながら、親弥は手拭を置いて、蒸留酒を少しだけ注いで飲んだ。喉が焼け食道や胃さえも燃え尽きてしまいそうだった。

「何故そこまで『自然主義』にこだわる必要がある」

「俺は、人間の欲望だとか、内にある負の感情だとか、道徳と非道徳だとか、そういった人間の業をありのまま書きたいんだよ」

「そんなこと言って、お前の自然主義とやらは不倫だとか、乱れた男女の情愛だとか、そんなんばっかりじゃねえか」

「それが人間の一番の業であり、罰するべき罪だと俺は思っている」

「そんなこと思うのはお前だけだ」

「どういう意味だよ」

「お前にそれができないからだ。不倫なんてよくあることだろう。だがお前にはできないから、それが特別なことに感じるってえだけだ。お前の小説、作家仲間になんて言われてるか知ってるか? 『妄想の産物』だ。自然主義に一番あっちゃいけねえ褒め言葉だ」

 お互い、口調が荒くなっているのがわかる。親弥はグラスの残りを胃へと流し込み、テーブルに乱暴に置いた。その音にぎょっとした兪吉が、顔をしかめる。

「何を怒る必要があるってんだ。俺は本当のことを言ったまでだぞ」

「まさかお前、そんなことを言う為にわざわざここまで連れてきたわけじゃないだろうな。違うだろう」

「ああ、違うさ。俺はただ久しぶりにお前と話したかった、それだけだ。だがな、俺はわからずやなお前さんに説教する権利はあるってもんだろ」

「ちょっと売れているからって偉そうに」

「なんだと」

「お前には関係のないことだろう。それに、俺の作品を妄想の産物とのたまっているのは、同業者ばかりじゃないか、お前のような、な。読者は俺が欠陥人間だなんて知る由もないからな」

 親弥が憎憎しげに言い放つと、兪吉はそれきり押し黙ってしまった。親弥の体のことを知っているのは、遠方の田舎に住んでいる両親を除き兪吉と宮だけである。小説家を生業としている人間は、親弥の自然主義文学における筆致が気に入らず「妄想の産物」などと揶揄しているが、読者にそんなことは関係のない話だ。

 そうだ、関係のない話であるのに、何故こうも不満を抱えなくてはならないのだろう。ただでさえ自分は落ちぶれているというのに、これではあんまりではないか。

 しばらくの沈黙の後、不意に兪吉が大声で女給を呼んだ。驚いて肩を震わせたが、そんな親弥に構わず、慌ててやってきた女給に、兪吉は酒瓶を一つ追加するように言った。

「親弥、お前さんもまだ飲むだろう?」

「は?」

「もうこんな辛気臭えのは止めだ止めだ! 酒かっくらって帳消しだ、わかったな」

 兪吉が先ほどと打って変わり明るい声音で言い、親弥は二の句が告げなくなった。飲んだ酒が逆流しそうに親弥の体内で暴れ始める。兪吉にとってはそれで帳消しにできることかもしれないが、親弥にとっては日々親弥の脳を食いつぶす寄生虫のごとき、重く厄介な問題なのである。

 親弥には今や兪吉と過ごす時間が無駄なものに思えていた。親弥には結局、親弥の生み出す世界をわかろうとしない人間にわからせる為に、小説を書くしか残されていないのだ。こんなところで友人と揉めていても埒が明かない。なんならここで、怒りに任せて兪吉に原稿を突き出してやりたい気分ですらあった。

そこで、親弥ははっとした。

そうだ自分は、こんなところで油を売っている場合ではないではないか。

 親弥は席を立ち、兪吉を残して急いで店を出た。急に沸き起こった衝動が抑えきれなかったのだ。後ろから兪吉の声が追ってきたが、乱暴に閉めた店の扉ががらんがらんと鈴を鳴らし、その声を打ち消した。

我ながら幼稚な行動であるとわかっていたが、親弥の内にあるのは兪吉に対する怒りではなかった。自身の作品についての執着のようなものが沸き起こっていた。今朝筆を進めていた原稿が気にかかったのだ。親弥は分け目も振らず、馬車を呼び止めて乗り込んだ。心臓が音を立てて親弥を掻き立てる。

たった二〇分程度の道のりが、どこまでも遠い気がしてならなかった。




 自宅に着くと、親弥は玄関からそのまま書斎へと向かった。宮は台所で夕飯の用意をしていて、親弥が帰宅したことに気づいていないようだった。

 書斎の扉を開き、すぐさま仕事机の左脇に置かれたくず入れを覗き込む。だが、朝親弥が押し込んだ原稿は綺麗さっぱりなくなっていた。屈みこんで絨毯の表面を撫でてみるが、染みも見当たらない。宮のことだ、きっと親弥が出かけている間に掃除を済ませてしまうだろうと思っていた。息せき切って駆けつけた体が途端に脱力し、丸めた原稿どころか埃一つないような床に大の字に崩れる。後悔の念と自身の無力さに打ちひしがれる。

「俺の作品はごみなんかじゃない」

自然と口から言葉が漏れた。何度も「俺の作品はごみなんかじゃない」と繰り返す。

頭を掻き乱し、眼鏡を乱暴に外して、視点の定まらなくなった目で木板の天井を見つめる。色も朽ち具合も全然違うのに、まるで時が戻ったように、明瞭に診療所の天井が思い起こされて、急激な恥ずかしさに見舞われた。顔を腕で覆い、堪えきれない呻き声を漏らす。今は考えたくないのに、浮かんでくるのは今後のことばかりだ。兪吉を、いや世間を見返したいという思いが消えることはない。だが、きっとこのまま小説を書き続けても、親弥や宮の生活を良くすることもなければ、自身の欠陥が浮き彫りになり、作品が受け入れられないことへの不満が募るばかりなのだ。

 痩躯から溢れてくる闇が、眼球を覆い鼻を塞ぎ喉をからからにする。苦渋に耐え切れなくなりふと寝返りを打つと、仕事机と椅子の足の間に隠れるように、黒くインクの滲んだ、くしゃくしゃの原稿が落ちているのが目に入った。途端、親弥は飛び起きて、床に這いつくばって必死に腕を伸ばした。掴んだそれを開くと、今朝親弥が進めていた場面の原稿だった。

《男の内には、暴風が渦巻いていたのであった。嘗て若かりし頃に男を突き動かしたその暴風は彼の脳を喰い破り、男の人生を破滅へと追いやって了うであろうと思われた。――》

そこで、だらりと腕が投げ出され、手の平から原稿がこぼれた。もう一度拾い上げてみるが結果は同じだった。何度読み返しても、執筆していた当初には感じなかった違和感があった。自分で生み出したはずの文が、どこかで目にした表現としか思えないのだ。いや、実際に思い当たることがあった。

田山花袋の文章に、瓜二つなのである。

 親弥は膝を付いて、その場からしばらく動くことができなかった。

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