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それから俺は彼女の言葉に甘え溜まっていた鬱憤を言葉として吐き出した。初めは相手が天使だからか悪事が全て神様に筒抜けになっているような抵抗というか罪悪感というか、そんな感覚があったけど話すうちに段々と饒舌になっていくのを自分でも感じた。それに溜まったものを誰かに聞いてもらうと言うのは思った以上に心が楽になる。
それは彼女が聞き上手だというのもあるんだろう。
「この間なんてその上司のミスだったのにそれを俺の所為にしたんですよ。それで結局は俺が怒られる羽目になって」
「うわー。なにそいつ。ぶっ飛ばしちゃえばよかったのに」
「いや、そんなことしたらこっちは首が飛びますよ。というか天使ですよね?」
「天使だってイラつく時はあるさ。そして手が出る事も」
「なるほど……?」
彼女は俺の話にちゃんと反応し、共感し、何よりしっかりと聞いてくれた。だからか俺の中から湧き水の如く奥底に溜まった不満が溢れ出すのは。
しかも彼女はその日だけじゃなくて次の日もそのまた次の日もそこにいて話を聞いてくれた。時間帯は当然ながら夜だったが、彼女はベランダでタバコを片手に俺の愚痴を聞いてくれる。
「こっちは嫌になる程、残業してるのにちょっと遅れたら怒鳴ってきて。しかも無理だって分かってるくせに無茶な事をどうにかしてやれって言って来たり」
「あんたも大変そうだね」
そしてそれはもやは日課のようになっていた。仕事が終わり俺は弁当を食べながら彼女はタバコを吸いながら。休日は俺が昼過ぎから気の済むまで。同時に俺の楽しみでもあった。別に愚痴る事がじゃない。そうやって話が出来るという事が、だ。
それから話しをしていてひとつ思った事がある。それは彼女が俺とは正反対の性格をしているということだ。俺には無いような勇気やメンタルを持ち合わせている。アタシだったらこうすると言って口にする行動は到底、俺には真似できないような事ばかり。
「それでその上司がすぐ俺に仕事を押し付けてくるですよ」
「アタシのとこにもいたいた。部下に仕事押し付けて自分だけ飲みに行く奴。まぁアタシはそんな奴のも全部断ってやってるけどね」
「凄いですね。そうやってちゃんと断れるって。俺にはとても……」
「いや。必要なのはこの二文字だけ」
雑な笑みを浮かべそう言うけれど――簡単に言うけれど、俺には無理だ。同じ二文字でも結局出て来るのは「はい」なんて弱っちい言葉。
「やっぱり俺にはそんな勇気ないし無理そうです」
「無理、じゃなくて、いや。コツとしてはその時の燃え上がる苛立ちを燃料に変えてこう、いや。もしくは、いやでーす」
彼女は如何にもこれ以上頼んだところで引き受けてくれなさそうな表情で声を出した。
「あとは断ったらすぐにその場を離れて攻防戦に持ち込ませないとかかな」
あのやり取りを攻防戦と呼んでいるのか。なら部下である時点で最初からやや劣勢だ。
「分かった?」
「――えっ? あ……はい。善処します」
多分、そんな状況が来ても無理だろうが、覗き込むようにこっちを見る彼女へ面と向かって無理だとは繰り返せなかった。この時点で既に断り切れてない。
「よろしい」
でも彼女は満足気な表情を浮かべていた。多分、彼女は数多く自分の要望を通してはこうして満足に浸かってきたんだろう。その表情を眺めながら俺は手を伸ばしたくなる程の羨望を感じていた。
だからかついさっきまで心の中ではどうせ無理だと思い込んでいたのに、今じゃ次は少しぐらい頑張ってみようかなと思えるのは。俺もあんな表情を浮かべ定時に帰路へ就きたい、そう一人決心するように思ったのは。
そしてその機会は早速翌日に訪れた。
「これ、やっといて」
上司に呼ばれた俺はいつもの如く仕事を渡された。その瞬間、脳裏で過る昨日の言葉。大量投下されたあの二文字が頭の中ではビリヤード玉のように脳内を動き回っていた。言わないと。そう強く思うがすぐには喉にすら上がってこない。
「ん? どうした? ほら」
あまりにもその場で何もせず立ち尽くしている所為で上司の訝し気な双眸が俺を貫く。それがより一層、焦りを煽った。言わないといけないと思う自分とやっぱり無理だと思う自分が関ケ原さながらぶつかり合っている。
「おい。早くしろ」
「――あっ、はい。すみません」
「ったく」
結局、俺は俺だ。彼女のようになることは出来ない。
その夜、この事を話したら彼女はわざとらしくしかも厭味ったらしく大きな溜息を吐いた。
「はぁー。そこは、いやって言うところでしょ」
「やっぱり俺には……」
自分の情けなさを隠すように僕は乾いた笑いを零した。
するとタバコを灰皿で消した彼女は突然、俺の左手を握ってきた。挟み込まれ掌からも甲からも温もりが伝わってくる。
「な、なんで――」
「目ー瞑って」
「え?」
「ほら早く」
突然、手を握られ突然、目を瞑れと言われ――俺は少し狼狽えながらも言われた通りに目を瞑った。
「何ですか? 一体?」
「はい。それじゃあ深呼吸して。吸ってー、吐いてー」
何が何だか訳が分からないまま俺は言われた通り深呼吸をした。さっきまで彼女が吸っていたタバコの匂いが鼻腔を突く。割と匂いには慣れたかと思ってたがこうしてしっかり嗅ぐとまだ少しキツイ部分もある。
「次にそういう場面が来たら思い出してみて」
「思い出すって何を?」
「アタシを。アタシを思い出して、アタシみたいに言ってやるんだ。いや、ってね。いい?」
俺は瞑った瞼の裏で今日の事を見ていた。あの時、上司に仕事を渡されたあの時。俺はちゃんと言おうと思ってたのに、葛藤したのに結局言えなかった。多分、次もまた同じように言えないんだろう。そう思えて仕方ない。その時の自分が容易に想像できてしまって仕方ない。
「でもやっぱり俺には――」
「まぁ、俺にはでないかもね」
それは溜息交じりの呆れたような声だった。こんな俺の為にここまでしてくれてるのにやっぱり俺は情けなく期待に応えられないんだ。そう思った瞬間、自分に対する失望が鉛のように圧し掛かるのを感じた。
「でもさ。俺たち、ならどう? ちょっといけそうな気しない?」
正直、彼女の言っている意味が良く分からなかった。
「たちっていうのは?」
「そりゃあ決まってんじゃん。あんたとアタシ。ほら、この手の感触に集中して」
そう言うと温かさに包み込まれた手に少し力が加わった。優しくそれでいて勇気付けるように力強く。
「この感覚を次は思い出してみて。大丈夫。いつでも傍で応援してる。一緒に闘ってる。アタシが付いてるから」
それは羽根のように柔らかで澄んだ空気のように心へ沁み込む声でありながらも、――どこまでも心強いものだった。実際に俺の傍に立ち一緒になって上司へその言葉を突き付けてくれる訳ではないと分かっていながらも、何故か少しぐらいは頑張れる気がする。
「ありがと……」
お礼を口にしながら目を開けた俺は、目の前の光景に思わず言葉を途中で止め口を開きっぱなしのまま放置してしまった。そこについさっきまでいたはずの彼女の姿がすっかりなくなってしまっていたのだから。
誰もいないベランダで手に残った余韻の温もりが徐々に冷めていくのを感じながら俺は頻りに辺りを見回した。でもやっぱり彼女の姿はない。
俺はやっと閉じた口ごと顔を手へ向けた。そして少しの間、手の温もりとタバコの残り香越しに彼女を見つめていた。
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