ベランダの天使

佐武ろく

1

 ここ最近、残業が続いた所為か調子が悪い。どれだけ寝ても眠いし、いつも疲れが抜けない。

 それなのにも関わらず今日も夜遅くに家のドアを開けた。無人の家に帰りの挨拶をする気力も無く真っすぐソファへ向かうと、手に持っていた袋をテーブルの上に投げ捨てるように置き倒れるようにソファへ。そしてネクタイを緩める。


「はぁー」


 体に溜まった爪先分の疲れすら吐き出せない無力な溜息を零し、ただ天井を見上げる。そのままぼーっと。何もしない。する気が起きない。

 でも今の俺にとってその時間は至福とも言うべき無だ。なのにも関わらず空腹と睡眠が矛盾のように襲ってくる。


「仕方ないか。これも生物に与えられた責務だ」


 観念したと言うようにそう呟くと袋から帰り道に買った弁当を取り出し、温めもせずに食べ始めた。


「あっ。明日、休みだ」


 食べている途中、掛け替えのない大切な休日の事を思い出した。危うくいつもの流れで会社に行くところだった。貴重な休日を無駄にするところだった。その事に安堵しながらも結局、何もせずに終わる休日に対し既に溜息が零れそうだ。

 そしてとりあえずの夕食を済ませ、すべき事を終えた俺は真っ先にベッドへ潜り瞬時に眠りへと誘われた。

 次の日。俺は昼過ぎに目覚めた。なのにまだ眠い。だけど大きな欠伸をしつつベッドから出てキッチンへと向かう。そして珈琲を淹れ、嫌味のように燦々と照る太陽の差し込むベランダへ出た。特に日課という訳でもないが、強いて言えば気分だ。

 でもベランダに出た俺は思わず珈琲カップを落としそうになった。

 それもそうだ。だってそこには純白の翼を背にした女性がいたのだから――。


「ん? 何?」


 女性は所謂ヤンキー座りで片手に煙の昇るタバコを持っていた。


「――いや。えっ? あの。――すみません」


 この瞬間、俺がよく残業をしてる理由が自分でも分かった気がした。

 でもやっぱりそんな俺でもそれを訊かずにはいられなかった。それ程までに異常な状況だったという事だ。


「いや、その。……誰ですか?」

「え? アタシ?」

「えっ? はい。他に誰が……」

「アタシは……。まぁあんたらに分かり易く言うと――天使?」

「は?」


 それは咄嗟に出た言葉だった。

 聖書や神話などで出て来る言葉であることは分かるし、当然ながら俺もその言葉が指す存在は知ってる。でも、それを自分の名称として口にする人に出会うなんて人生で一度たりともあるはずはない。というかそんなのはファンタジーの世界だけだ。

 でも俺はそう言いながらもそれを真正面からは否定できないでいた。何故ならその人には、清廉純白を思わせる程に白い翼が生えていたのだから。それに六階の俺の家のベランダにいつの間にかいたのだから(玄関はしっかり戸締りしている)。


「あー。えーっと。そ、その天使さんが一体こんなところで何を?」

「まぁ、サボり。あっ、絶対内緒だよ?」


 いや、そもそも誰に報告すればいいのかも分からなければ、報告する方法すら分からない。

 でも何故かそう言って浮かべた笑顔はどこか天使だと裏付けるには十分なもののような気がした。疑う必要がない程までにその笑顔は陽光より温かくて光に満ちていたのだ。


「あの、その翼って本物ですか? ていうか本当に天使なんですか?」


 だがそれを感じても尚、疑わざるを得ないのは天使という存在が有した非現実性がそれを上回るからだろう。


「え? 何? アタシの事、疑ってんの? はぁー」


 天使は溜息をつくと携帯灰皿を取り出してタバコを消しては背中を向けた。そして翼を何度かバサバサと動かして見せた。


「ほら。本物だって。――あっ、悪いけど流石に本当に生えてるのか分からないから脱げっていう要望には答えられないから。一応アタシだって女の子な訳だし。ていうかそんな事言ったらセクハラで訴えるからな!」


 いや、そんな事は流石に言わない。ていうかこの場合どこに訴えられるんだ? 天界の裁判所か?


「いや、大丈夫です。分かりました」

「そう。ならよかった」


 俺の方を向き直した天使は笑みを浮かべてそう言った。


「でも、天使って一体何やってるんですか?」


 我ながら適応が早いとは思うが、二本目のタバコを吸う天使に俺はそんな質問をしていた。


「んー。何だろう。人間を天界――まぁ天国に連れてったりとか天界での雑務こなしたりだとかあとは……歌ったり」

「歌? 讃美歌的なものですか?」

「まぁそんな感じ。つまり今あんたはこの神聖な口から発せられた神聖な言葉を聞いてるって事。感謝しなよ」


 といいながら一緒に煙を吐き出す天使。


「神聖な口でタバコなんて吸っていいんですか?」

「別にいいだろ。その時、ちゃんとしてれば。ほら、アイドルだってちゃんと客前でそのキャラを演じて守ってれば別に裏でタバコ吸おーが暴言吐こうが関係ないっしょ? それとおんなじ」

「同じなんですかね? それって」

「まーそんな事は気にしなさんなって。それよりあんたこんな昼間になにしてんの? もしかしてクビになった?」

「違っ! そんな訳ないじゃないですか」


 こんなに働いているのにクビにされたらたまったもんじゃない。


「ふーん。じゃあ、なんか顔も時化ってるしなんか悪い事でもあった?」

「失礼な。別に何にもないですよ。ただ――」

「ただ?」

「最近、仕事で残業ばっかしてて疲れてるだけです」


 言葉として口にするだけで一緒に溜息が零れてしまう。


「げぇ。残業……。アタシが健康って言葉の次に嫌いな言葉じゃん」


 彼女は露骨に嫌悪的な表情を浮かべた。


「そもそも健康って言葉があなたの中でどの位置にあるのか分からないですけど。というか健康の何が嫌なんですか?」

「健康自体はいいよ。でも健康の為とか健康に悪いからっつって好きなもんを食べられなかったり出来なくさせられるのがヤなの」


 何となく想像がつくのは目の前でガバガバとタバコを吸ってるからなんだろうか。


「でもさ。そんな嫌なら断ればいいじゃん。アタシみたいに断りまくってたらそのうち、頼む労力を惜しんで頼まれなくなるから。あとはアタシはサボるぞっていうのをちゃんと見せつけてあんまり任せられないなっていうのを知らしめる」

「よくクビにならないですね。でも俺はそんなに気の強い人間じゃないんで。上司に言われたら抵抗出来ないんですよね」


 そんな自分へ溜息が零れる。情けない。

 するとそんな俺へ彼女が何かを差し出した。その視界の端に見えていた彼女の行動を俺はちゃんと中心に据える。彼女の手には、まるでダンスに誘うようにタバコが一本飛び出した箱が握られていた。その気持ちはありがたいのだが――。


「いや、俺。吸わないので。でもありがとうございます」


 すると天使はタバコを仕舞い手招きをした。僕は小首を傾げながらもしゃがみ彼女に近づく。


「じゃあアタシが愚痴きーてやるからさ。遠慮なく不満をぶちまけなって」

「でもそんな――」


 俺の言葉を遮るように天使は肩へ(少し強めで)手を乗せた。


「そしたらアタシも報告書に人間を導いてたって書けるし、思う存分サボれるから」


 それは陽光を反射する水面のように煌々とし、活力に満ち溢れた笑顔だった。


「あ、ありがとうございます」


 そんな笑顔に圧されるように俺は乾いた笑みを浮かべた。


「あっ、ちゃんと守秘義務は守るから。安心して愚痴っていーよ」

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