その日、俺は妙な夢を見た。


 普段から濁った川で泳いだりする夢だったり、乗っていたヘリコプターが落下する夢だったり、耳にパチンコ玉を詰められる夢だったりと不穏な悪夢ばかりを見てきたけれど、そんなものとはまた違って、一段と変な夢であった。


 夢の中で俺は空を飛んでいた。

 ぷかぷかと浮かんでいて、それがどこか心地良かった。

 しばらく上空を旅していて、それから森へと降りた。

 そこで俺は全身が白い毛に覆われたゴリラと喋っていた。

 何故だかはわからない。


 ゴリラの背中に乗って、ゴリラのアジトまで行って、飯を食った。

 そして二人で星を眺めた。

 次の日、別れ際になにかを貰ったけれど、それがなんなのかまでは判断できなかった。


 夢なのにやけに鮮明に覚えていて、気持ち悪さもあり、反面どこか懐かしくもあった。

 既視感というのだろうか。

 どうしてか、涙が出そうになった。


「……」


 いつものように夕方に目覚めて、すぐにスマホを開く。

 検索欄に[白いゴリラ][夢占い]と入力して、調査をする。

 適当にリンクをタッチすると、こんな記載がされてあった。


 ★ ☆ ★ ☆


【白いゴリラの夢を見たアナタ】


・白い毛のゴリラが出てくる夢は、あなたが成功したり、素敵な人との新たな出会いがあったりして幸運が到来することを暗示する吉夢です。積極的に行動しましょう。必ず良いことが起きます。長年抱えていた悩みも解決することもあるかもしれません。


 ☆ ★ ☆ ★



「……アホらし」



 検索した自分が馬鹿だった。

 占い如きになにがわかるというのか。


 成功、ステキな出会い、悩みの解決、そんな夢のような話は夢の中だけで十分である。

 行動しろって、それが出来ないから悩んでいるというのに。

 わからないやつだ。


 どんなに良い夢を見れても、どんなにチャンスが目の前にぶら下がっていても、それを逃してしまうのはいつものことだ。

 失敗することには慣れている。

 成功体験なんて皆無に等しい。


 人の期待を裏切り続けた人生だ。

 バイトを応募して、店長からは「君には期待しているよ」とそっと肩を叩かれた数週間後には、バックれているような人間だ。


 ネットで知り合った女に「〇〇さんと一度リアルで会ってみたい」なんて言葉をかけられた瞬間に、ブロックするような男だ。

 人間なんて信用していない。

 特に女、女は苦手だ。


 アイツらは俺を苦手としているから、こっちも苦手だ。

 美人の可愛い女と一度くらいデートに行きたかった。

 学生の内から彼女くらい作りたかった。

 一回くらい性交渉くらいしてみたかった。


 友達すらまともにできなかった俺にとっては、なにもかもハードルが高すぎたけれど。



「……」



 スマホを閉じて、目を瞑る。

 さっき起きたばかりなのに、もう寝たくなった。

 どうして目覚めてしまったのか。

 ずっと夜だったらいいのに。起きなければいいのに。

 いつの間にか死んでいたらいいのに。


 耳を澄ましても、なにも聴こえなくなって、

 目を開けても、なにも見えなくなって、瞼が重くなって、

 お腹も空かなくなって、

 爪先から指先にかけての血液の流れが遅くなって、

 灯火が徐々に消えてゆく。


 全身の力が抜けて、

 意識が消えて、


 呼吸が止まり、心臓の鼓動が終わる。


 そうして人は死ぬのだろうか。

 こうやってひとりの命は尽きるのだろうか。


 わからない。わからない。わからない。


 怖くはない。でも、いつ死ぬのか、考えれば考えるだけ、頭がボーっとしてくる。

 なんのために生きているのか。

 自分にやりたいことなんてあるのか。

 己は誰かの特別な存在になれないのだろうか。


 そんなことばかり、七年間ずっと考えてきた。


 人生は苦痛だ。

 生きていてもなにも楽しいことはない。

 無限の退屈の繰り返し。

 誰かの心を傷つけて、迷惑をかけ続けるだけの日々。


 怒りと不安と苦しみを心の中に溜め込んで、先の見えない死を待つだけ。


 ジタバタと足掻きながら生きていくことに疲れてしまった。

 いつ死ぬのだろう。

 早く死にたい。

 出来る限り、楽に、早く、死にたい。


 ナイフで刺されるのは嫌だ。痛いのは怖い。

 電車に轢かれるのも嫌だ。生き残ってしまったら、生き地獄が待っている。

 薬物などは買うお金はないし、飛び降りは死ななかったらキツい。

 動脈を切ったり、お風呂で感電死したり、首を吊ったりなども考えたけど、あまりの痛みで叫びそうだ。

 もしも誰かが助けに来たら終わりである。


 雷に打たれるのはどうだろう。

 天文学的確率になりそうだな。


 銃で殺されるのが一番いいかもしれない。

 いや、でも、ここは平和な国だ。

 銃を持った強盗に襲われることは、まずない。


 じゃあ、餓死かな。

 飯と水を一切腹の中に入れずに我慢し続ける。ほっておけば栄養失調でおじゃんだろう。

 試してみたことがないからわからないが。


 難しい。死ぬのは難易度が高い。

 どうやって死ぬのがベストなのか。

 的確な回答が導き出せない。


 生物の死とはなんなのか、そんなことばかりを考えて、夜が来るのをただ待った。


 × × ×


 その夜、クソ親父が倒れたと母ちゃんが部屋の前までやってきた。

 俺は「ざまぁみろ」と思いながら、黙ってネトゲを続けていた。


 母ちゃんは俺を部屋から出てこさせようと扉を何度もノックして、俺の名前を呼びかけていたようだったけど、ヘッドホンをして爆音を奏でたので聞こえなかったフリをした。


 しばらくして、救急車の音が聴こえたので、ヘッドホンを外した。

 部屋のドアの隙間には紙が挟まれてあった。

 母ちゃんからだった。


 内容を要約すると、クソ親父はかろうじて一命を取り留めたという。

 意識もあるし、容体も数日経てば回復するらしいが、あまり働けない身体にはなったそうだ。


 ウチの親父は厳しい人だった。もうすぐ定年退職するというのに、朝から晩までずっと働き詰めだった。


 ガキの頃からあの人のことが嫌いだった。自分の理想を俺に押し付けてくる、アイツのことが嫌いだった。だから、全てにおいて反抗してやった。


 良い大学に入って、一流企業に就職しろと言っていたので、高校を卒業してから家に引きこもった。

 数年はフリーターをしていたが、途中でそれも続かなくなってやめた。


 親父は何も言わなかった。

 昔はあれだけ俺に厳しくしていたのに、引きこもってから数年経てば、大人しくなった。しばらく見ないうちに老けて、白髪も増えたようだった。

 厳しい頑固なおっさんが、単なるヨボヨボジジイに変わっていくのを、正直みたくはなかった。


 全部知っている。

 俺のせいだってことも。


 親父は俺を心配していたのだろう。あの人は社会の荒波に飲まれて、社畜という奴隷になり、心を消費してきた。

 だから、俺にはせめてそうなって欲しくないという一心から、厳しく接していたのだろう。


 わかっていた。

 あの人を苦しめていたのは俺のせいなんだって。

 あの人が会社で肩身狭い思いをしてきたのも、俺のせいなんだって。


 一人息子を「ウチのバカは」なんて自慢げに紹介していたのは、そういう照れ臭さと期待があったからに違いない。


 でも、俺はそれを心の底から憎んだ。


 何度も、何度も、胸の中で「死ね」と呪詛を唱えていた。

 親父の期待が怖くて、親父からの信頼から逃げたくて、裏切る真似をした。


 母ちゃんはそんな俺にも優しく接してくれた。

 毎日飯を作ってくれた。


 でも、そんな母ちゃんも最近は疲れているようで、声に元気がないように思える。


 学校でぼっちで、いじめられることすらされなかった俺のために、毎日お弁当を作ってくれた。

 俺は便所メシってのは臭くて嫌だったから、人気のいない階段下でよく座り込んで食べていた。

 埃が多くて、床は汚れていたけれど、窓から見える景色がとっても綺麗で、それを背景にいつも飯を食っていた。

 時々カップルがやってきて、イチャイチャしやがるものだから、そういう日は適当に場所を探して、弁当を食べた。

 空き教室なんかがお気に入りだった。


 保健室は苦手だった。

 イケてる奴らが占領するから。


 俺が学校で一番落ち着けた場所はーーあのホコリまみれの階段下だった。


 気が狂って、喋ったことない女子に告白したこともあったっけ。

 結果は案の定だったけれど、いま覚えば良い思い出だ。


 相手に認識されているというだけで、こんなにも嬉しいことはない。

 どこにいても、俺の居場所はなかった。

 ずっと心の中では誰かを追い求めていた。


 母ちゃんに迷惑をかけて、親父に負担をかけて、何年も何年もこの部屋からほとんど外に出ることなく不満をブチまけている。


 そんな生活が嫌になって、ハロワに行ったのに、あのザマだ。

 母ちゃんにせっかく手紙で「スーツが欲しい」って頼んだのにな。

 何の意味もなかったよ。


 親のせいにするつもりはなかった。

 言い訳ばかりだけど、もう遅いよな。

 だって、七年だよ。七年。

 あのおっさんが言った通りだよ。今からやり直したって手遅れだ。みんなが頑張ってきた中で、俺は一人だけ現実逃避し続けていたんだからさ。


 俺はこの家に住まう癌だ。

 ゴキブリ以下の存在だ。

 生きてることを許されないダメ人間だ。


 ごめんな、こんなバカ息子で。

 大切に育ててくれたのに、クズに産まれてしまって、本当にごめんなさい。


 ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、ぜんぶ、俺が悪いんです。俺が悪いんです。誰も悪くないんです。俺だけが悪いんです。


 誰かのせいにして逃げてきたけどーーもうやめる。

 俺が、悪い。

 俺だけが、悪い。


 才能もないのに自惚れて、自分の力を過信して、なにもできないのに口先だけは一丁前。変なプライドがあるせいで、やりたくない仕事はやらないと決めて、ケチをつける。


 汗水流して、必死こいて働いているサラリーマンが偉いのは当たり前なのにな。

 そいつらが優遇されるのが【普通】で【常識】なのにな。

 なんで俺みたいなヤツが上から目線で文句を言ってるのか、ホントに謎だわ。


 結局のところ、俺はニートであることにどこか“誇り”みたいなモノを持っていたのかもしれない。


 負けたくないから。でも、正攻法でやり合うと勝てないことを知っているから。だから、わざと負けて最底辺になることで、特別な存在なんだと強くアピールしていたのかもしれない。


 落ちれば落ちるだけ、復活したときのドラマが大きくなる。

 ここはゲームや漫画ではないのに、そんな成り上がり物語みたいなものを脳内で描いていて「自分は実はすごかったんだ!」「本気を出せばこんなにできるんだ!」と酔いたかっただけなのかもしれない。

 なんにもしていないのにな。


 漫画家になりたいわけでも、YouTuberになりたいわけでも、芸能人になりたいわけでも、音楽家を目指してるわけでも、小説家になりたいわけでも、株をやってるわけでも、ブロガーになりたいわけでも、起業するわけでも、夢があるわけでも、無いというのに。


 なんの才能もないというのに。


 人はよく「才能なんてものは挑戦してようやくわかるんだ。君には秘められた力があって、まだそれに気づけていないだけ」だなんて、自己啓発本に描かれているような安っぽい言葉を並べるけれど、何年も自分という殻の中で過ごしてきていると、不思議と限界というものが見えてくる。

 なにもない人間はいる。

 全てが空っぽな人間はいる。


 それが俺だ。



「……」



 目を開けても、閉じても闇の中にいる。


 何度同じ天井を見上げたことだろう。

 同じ壁、同じベッド、同じ窓、同じ勉強机、同じタンス。大きな変化はない。


 カーテンはずっと閉じたまま。

 部屋の扉は深夜にしか開かれない。


 時計の針がカチカチと動いている。

 スマホの青い画面には3月19日と表示されている。


 また、だ。

 また四月が来てしまう。


 春は大嫌いだ。あんなの全然いいと思わない。

 桜が綺麗だとか、頭が空っぽな奴は言うけれど、何年も生きていれば見飽きてくる。

 桜なんて全然綺麗じゃない。

 春は花粉が酷い最低な季節だ。


 テレビをつければどこかの大学が入学式を開いているし、バラエティ番組は大きく改変されて[新社会人の方々、頑張ってください!]と言っておけばいいだろ感に満ち溢れたお決まりのフレーズを唱えている。


【春は出会いの季節】なんて謳えるのは、未来に夢や希望を持っている若者達だけだ。


 家に引きこもったまま、社会から孤立して生きているような人間に、新しい出会いなんてない。

 同じだ。ずっと同じ。

 春も、夏も、秋も、冬も、部屋の中から見る景色はほとんど同じ。

 薄着にするか、着込むかの違いだ。

 夏になればエアコンをつけて、冬になれば暖房をつける。その違いくらいだ。


 もう嫌だ。なにもかもうんざりだ。


 終わってしまいたい。

 消えてなくなりたい。

 この世から跡形もなく消失したい。


 俺がいま存在を消したところで悲しむのは、両親と親戚くらいだ。

 彼らにとって俺はお荷物当然なのだから、逆に喜んでくれるのかもな。


 どこにいたって変わらない。

 行動するのが怖い。

 失敗が目に見えている。


 だから、なにもしない。

 無駄だから。

 俺の人生はーー無価値なのだから。



「……よし。明日、死のう」



 諦めて、諦めて、諦め続けて、出た答えがそこだった。


 もうそこにしか、救いの道はない気がした。

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