アリサ。

首領・アリマジュタローネ

アリサ。


「もう終わりにしませんか」アリサは言った。


 わかってはいたが、突然の宣告だった。


 1.


 アリサと付き合い始めたのは一昨年の暮れ。告白したのは俺からだった。だから終わらせるのも俺からが良かった。


 当時、俺は[飲みサークル]ならぬものに所属していた。飲みサークルとはその名の通り、週に一度飲み会を実施するというサークルで、飲み会を通じて大学内、並びに別大学の学生たちと交流を深めようというものであった。


 ただ、そんなものは学校に対しての看板であり、実際は有り余る下心を発散する為だけの低俗なサークルに過ぎなかった。


 このサークルには所属するだけで「飲み費」なるものを請求されるというシステムがあった。月に一万円、たとえ飲み会に参加しなくても支払いの義務が発生するような形になっていた。タチが悪いことに、お金を請求されるのは男性部員だけであり、女性部員には「タダで飲めるよ」「全部奢りだよ」という言葉を用いて、はんば無理やり勧誘を行なっていた。


 騙されたことに気付いたのは、所属して約二週間後のことであった。正直、すぐに辞めてしまいたかった。ただ、せっかく知り合いから誘われたのだから、その思いを無下にすることはできなかった。途中で退部をすると、誘ってくれた知人の顔に泥を塗ってしまうような行為に思えたからだ。


 また異性との交際経験がなかった自分にとって、そこは大学生活を謳歌するための華々しい場所のようにも思えていた。だから、辞めようと思いつつも、もしかしたら「俺にもチャンスがあるのでは?」と考えてしまっていたのだろう。


 せっかくお金を払っているのだ。俺にだって、股を開いてくれる女性は一人くらいいるに違いないーーそんな極めて下劣な考えを持ちながら、毎週の飲み会に参加していた。


 しかしながら、からっきしモテなかった。


 自分にはモテる為に必要な覚悟というものが足りていなかった。口八丁にお喋りして、相手の心を揺さぶり、女性を“お持ち帰り”できる男というのは、最初から相手を同じ人間としてみなしていないということが、周囲を観察しているウチにわかるようになってきた。


 そして往々にして彼らはそこに罪悪感というものを抱いてもいなかった。「可愛いね」「君の髪、綺麗だね」などという言葉の裏には全て「あー、早くこの子をヴィーナスの誕生状態にしてぇー。白い絵の具でグチャグチャに掻き乱してぇー」という思いがあるだけだった。


 俺は当初「こんな薄っぺらい言葉に騙される女も女だな」と感じていたが、日に日に女性たちと接しているうちに彼女らもまたその言葉にわざと乗っているような気がしてきた。恐らく、彼女らも言い訳というものが欲しかったのだろう。だから「彼氏に内緒で……」なんてわざとらしい嘘を並べて、一夜限りのスリルを堪能しにきているのだ。相手を馬鹿だと思いながら騙す側と、馬鹿なフリを演じながら騙される側。両者が己の快楽の発散の為に、ある種のWIN-WINとした関係を築きながら、サークルを回しているのをみて、女性経験の少ない自分には、それがとてつもなく気持ち悪く感じていた。


 真実の愛だとか、純粋な愛だとか、そんな有り触れたJ–popの歌詞みたいなことを言うつもりはさらさらないし、恋愛と性行為はまた別なのかもしれないが、しかしながら、俺にとってそれは愛の行為を踏み躙る、性への冒涜のような気がしてならなかった。性欲の暴走というのか、ルールに則ったら上での違法行為とでもいうのか、上手く説明するのが難しいことではあるけれど、どこかそういう行いは、人というよりかは獣に近くて、人間としての誇りや尊厳を捨てているようにしか思えなかった。


 それならばいっそ開き直って「はい、俺、この子とヤリたいです!」「あたし、この人に抱かれたい!」と素直に欲望を曝け出した方がまだ行儀が良い。体裁を整えようとするから愚かに思える。ただ一つ気掛かりなのは、ゲラゲラとセクハラと下ネタで笑う猿に責任が取れるのかという話だ。溜まったモノを吐き出し、リスクも背負わずに過ちを繰り返し続ける人間は、緊急時に決まって金も払わずに逃げていくのだ。そして、そういった事態が発生したせいで、サークルを辞めていく女性部員が後を絶たなかった。学校を去る者もいた。彼女らがどうなったかは知らないし、知りたくもない。


 俺はそんな輪の中にいた。

 いつでもそこを辞めようとは思っていたし、学校側にそんな異常なサークル活動がまかり通っていることを断罪させることもできたけど、やる覚悟がどうしても足りなかった。チンケなプライドを捨て切れずにいた。だからどっちつかずのままであった。


 こんなことはダメだと思いながら、きちんと期限を守って高い部費を払い、誰にも相手にされず、弄られることもイジることもできない空気のような状態で飲み会に参加して、ただ一人で酒を飲みながら帰路につく。


 風通しの悪い暗い部屋に帰ってきたときに、はじめて自分の行いを恥じるのだ。赤くなった顔と吊り上がった口角を鏡で見つめて、はぁとため息をつきながら、ベッドに寝転ぶ。


 モヤモヤを断ち切りたくて、よくそこで至ったものだ。頭の中に繰り返し、繰り返し、その日の出来事を投影させる。前の席にいた胸元の緩い服を着た化粧の濃い女が、隣にいた同期の男に口説かれて、トイレ前で長い口づけをしているところを見た瞬間ーーホロ酔い状態の女の子が俺と話しながら、テーブルの下で先輩と隠れて手を繋いでいるのを見た瞬間ーー気になっていた相手が「君って、ピュアなんだね〜」と半笑いしながら、先輩たちに混じって小馬鹿にしてきた瞬間。そこに良い思い出など一つもない。ただ妄想に耽るだけ。そんな日々だった。


 勉学も、将来のことも真剣になれない自分にとって、そこに入り浸ることこそが、存在意義だった。そこにしか、俺の居場所はない気がした。


 そんな折、俺はアリサに出会った。


 2.


 アリサは一個下の後輩だった。

 単位も取れずに遊び呆けていた俺と違って、親の力も借りず、バイトで生計を立て、自分一人で生活をしていたしっかり者の女の子だった。


 いかにも大学入学したばっかりという雰囲気の彼女は先輩からの恰好の的であった。



「ねぇねえ、アリサちゃんはどんな人がタイプなのー?」


「彼氏いるのー?」「お酒好きなんだー」


「胸おっきいね」「処女なの?」



 酒が入った空間ではそんな下品な質問が飛び交っている。その日も、俺はいつものように隅っこで梅酒を飲んでいた。梅酒一杯ですぐに赤くなる体質だったので、チビチビと飲みながら、先輩たちの話を静かに聞いていた。


 サークルに入って、半年が過ぎようとしても俺の立場は変わらなかった。

 単なる数合わせ、居ても居なくてもいいような存在。


 俺がやることと言ったら、先輩の無茶振りに愛想笑いを浮かべることか、酔って潰れてしまった先輩をタクシーに乗せて一緒に帰ることくらいだ。お持ち帰りに失敗した同期を励ますために、帰りにラーメン屋に寄ったこともある。


 自分はきっと相手に尽くすだけで、求めることをしなかったのだろう。興味を持たれることがあっても、上手く先輩へと誘導して、興味を持っていたことを忘れさせる。それがやり口だった。



「……えっと、彼氏はいません」



「またまたー!」


「嘘はよくないよー嘘は」


「おっ、じゃあ俺が彼氏に立候補しちゃってもいい感じっすかぁ!?」


「こらこらー、やめろって」


「アリサちゃん困っちゃってるよー」


「ごめんなさいしろよー。こういうこと言われると、アリサちゃん困るよねー? 俺が後でこいつ説教しとくんで!」


「うわー、照れてるー。アリサちゃんチョーかわええええ」



「…………」



 彼女が飲み会を好んで参加しているわけではないということは、すぐに理解できた。


 集団でいるときはいつも輪に外れて、スマホばかりを友達にしている彼女。ワーワーと騒ぎ立てる相手に困った顔をして、前には出てこない控えめな女性というようなフリをして、本当はハッキリとした自分がある。それがアリサという人間だった。



「もしさー、アリサちゃん的に! 俺らの中で彼氏にするなら誰がいいとかあるぅ!? 仮にでいいんだけど!」



 これはこのサークルでは定番の質問であった。ここで名前を挙げられた人が基本的に“持ち帰ってもいいぜリスト”に含まれる。リストに選ばれたものをフォローするのがマナーだ。だが、例外はある。先輩方が「あの子は俺が狙うから」とあらかじめ宣言しておけば、誰も手を出さなくなる。ルールはあってないようなものだ。なので、リストに宣言していた先輩の名前が出てこなかった場合は、かなり厄介なことになりやすい。だからこそ後輩たちは呼ばれたいけど、呼ばれたくない、という複雑な心境になる。


 理想としては「えー、彼氏にしたい人ー? いやー、ここにはいないかな!」と答えてほしい。こうすれば、皆に同一のチャンスがあるし、誰にもチャンスがないというフェアな状態だからだ。有利になればそれだけ敵視されやすい。



「彼氏にするなら、ですか」



 ロックグラスを転がす。先輩達が肩を組んで歯を見せている。「俺だろ?」と親指を突き立てている。


 俺はメニュー表を見つめてる。料理を注文するのは後輩の役割だ。雰囲気を悪くしないように、先輩らに気を配って、決して泥を塗らないように顔を立たなければならない。邪魔をしないように、空気に徹する。それが仕事だから。それだけが仕事だから。



「私、あなたがいいです」



 目が合う。

 ここから始まってしまった。


  3.


「もう終わりにしませんか」


 夜23時過ぎ。ファミリーレストランの角の席。彼女はそう告げた。わかってはいたが、突然の宣告だった。



「なんで?」


「だって、先輩。まだあのサークルに通っているじゃないですか。辞めてほしいって言っても辞めてくれないし……」


「サークルなら辞めてるけど?」


「ウソはやめてください……」



 見破られている。そう、嘘だった。俺はアリサと付き合い出してから、またあのサークルに通うようになっていた。


 自分が先輩の立場になったというのも理由だろう。昔の俺はモテていなくて、拗らせていたが、今はすっかりモテるようになっていた。それは単に“恐れ”というものが消え失せてしまったからだろう。


 守ろうとしていたものを捨てたとき、俺は俺自身が遥かに矮小な人間だということを理解した。快楽に溺れる獣であることをまた悪くないのだと思うようになった。かつて自分が否定してたものが、どれだけ価値があることだったのか、ずっとわからなかった。



「なんで、私と付き合っているのに、他の女性と寝たりするんですか……」


「寝てない。飲み会に参加してるだけだ」



 これも嘘だ。しかし、理由はある。相手が自分と寝たがっている。だから、要求に応えただけである。ちゃんと避妊はしているし、気持ちまでは持っていかれないように努力はしているつもりだった。



「じゃあ、聞くけど」



 テーブルの隅には領収書の筒箱が置かれている。その横にはナイフとフォークが並べられていた。俺は氷だけになったコップを横にどけて、彼女へと目を写した。



「君も、ヤス先輩と寝たんだろう? 一年の時に」



 言うとアリサは俯いた。膝に手を乗せたまま、黙り込む。ほら、当たった。全部知っているんだ。最初に裏切ったのはどっちだというのか。



「結局、君は自分の寂しさを埋めるために俺を利用していただけなんだろ? 誰でも良かったんだ。俺は股の緩い女性がずっと嫌いだった。だけど、こんな近くに俺が嫌っていた人間がいたとは驚きだよ」



 言葉という名のナイフで彼女を傷つける。もう取り返せなくなるのはわかっていた。だからこそ、最後くらいは全てグチャグチャにしておきたかった。


 俺は彼女を大切にしすぎていた。はじめて出来た彼女だからか、宝石のように守ろうとして、それがかえってダメになってしまった。人間関係なんていつかは崩壊するものなのだから、最初から壊れるくらいの覚悟を持っていればよかった。信じていたものが裏切られる瞬間がどれほど辛いものなのか、そんな感情を味わうくらいなら、持たなければよかった。



「なんで……そんな酷いことを言うんですか」


「酷い? 真実を述べたまでだ」


「ここファミレスですよ。そんな話やめてください」


「呼び出したのは君だ。じゃあ、場所を変えればいい。ホテルにでも行くか?」


「……っ……っ」



 アリサがグッと唇を噛んで、俯き始める。

 女というのはズルい。泣けばなんでも済むと思っている。そして、結局答えを有耶無耶にするんだ。


 俺は彼女のことが好きだった。愛していた。

 そして、彼女も俺のことが好きだった。

 それは極めて、幸せな事象だろう。


 だけど、俺たちが過ごした一年三ヶ月という時間は、ただただお互いを傷つけるだけで、心は擦り切れる一方だった。


 はじめてのキスも、手を繋いだデートも、抱き合った夜も、いま思い返してみればそこまで大したことでもなかった。運命だとか、そんな安っぽい言葉で表現して愛を語れるほど、俺たちは大人ではなかった。大人になんかなりきれなかった。


 どれだけ辛くても、どれだけ悲しくても、最後にはきっとハッピーエンドが待っているだろうって、そうやって待っていた。望んでいた。価値観が違うくても、金銭感覚にズレがあっても、夜眠る時間が正反対だったとしても、それはきっと幸せな結末に至るまでの苦労に過ぎないって、そんな漫画みたいな大それた妄想を繰り返していた。本当は気付いていたというのに。


 ゆっくりゆっくりと壊れていく。

 消えていく。

 彼女への愛とか、想いとか、年月を重ねるごとに当たり前になってきて、逆にそれが鬱陶しくなる。


 好きで好きで仕方なかった昔の自分を笑い飛ばしたくなるくらいに、冷静になる。

 そして、いつか気がつく。


 なんで俺たちは付き合っているんだろう?って。


 疑問を持った瞬間から、終わっていくのだ。

 曖昧にして自然消滅するよりかは、きっとこっちの方がいいのだ。



「……っ……っ」



 ハンカチでアリサが口元を押さえている。


 俺は目を逸らした。遠くでスマホゲーをしながらはしゃいでいる学生がみえた。大学入学したてくらいの年齢だろうか。バイト帰りなのだろう。

 若い。自分もあの頃は必死で先輩たちの真似をしたものだ。いつの間にか、俺自身が嫌っていたものになってしまったけれど。



「……泣くのはやめてくれ。人に見られる」



 どうしようもないクズに成り下がってしまったのか、それとも元々クズだったのか、それは判断が難しい。親の仕送りで飲み会に参加して、家賃を滞納して、無理やりバイトをして、この子とのデートの時間をどんどんと削っていった。


 彼女は俺と違って、将来をきちんと見据えていた。

 就職活動に向けて単位を落とすことなく、学業に専念していた。


 一方の俺は単位を落とし続けて、留年一歩手前。

 卒業できるかどうかもわからない。

 親にも見放されてきた。


 もう、人生なんて終わっているようなものだった。



「……断りきれなかったんです」


「なにが?」


「ヤス先輩の誘いをです……ぐすっ」


「そうか」



 今更そんな話なんて聞きたくはなかった。

 掘り下げたのは自分の方だったから、それは仕方ないことではあったけれど。



「今でも、ちょくちょく連絡を取り合ってきているんだろ?」


「違います! それはあっちが一方的に……」


「断ることもできたじゃないか。それともなんだ? そんなに……あの人とのセックスが忘れられなかったのか? 俺じゃ満足できなかったんだよな。ごめんな。だって……いつも、君は反応が良くなかったもんな」



 言ってから情けなくなった。どれだけ頑張ろうとしても、きっとこの子には届くことはないのだろう。

 俺のこの空虚な心を埋められるのは、飲み会で出会う股の緩い彼女たちだけだ。

 罪悪感なんてものはとうに捨てた。心を殺して、技術を磨くためだけ、と自分を偽って、快楽に身を委ねた。

 マグロ気味のアリサは夜にベタベタされるのがあまり好きではないようで、いつも眠るときはお互いのベッドを離して眠っていた。



「……でも、先輩だって、サークルに行かないでってお願いしたのに……あんなに言ったのに」


「だから、行ってないって!」


「私の友達が偶然見かけたって、言ってたんです……。合コンもセッティングしているって。なんで? なんでなんですか!? なんで……私と付き合っているのに、他の人と」


「君にだけは言われたくない」



 付き合っているのに他の男と最初には寝たのは一体どこの誰だというのか。

 俺がどれだけ愛を示そうとも、君は拒否するばかりで、嫌だ嫌だと文句をいい、全然応えてはくれなかった。

 俺は好きだった。好きだからこそ、愛を深めたかった。

 でも、君はそうじゃなかった。



「会えばエッチばっかりで……ちゃんとしたデートなんて全然してくれなかったじゃないですか。ヤス先輩は……あの人はふつうに友達なだけですし、私のことをしっかりと受け入れてくれました。愛があったんです」


「愛ねぇ……」



 馬鹿馬鹿しい。なにが愛だ。

 真実の愛だとか、純愛だとか、そんなものは一過性の麻薬のようなデタラメに過ぎない。



「ご飯だって奢ってくれますし、悩みだって聞いてくれます。でも、先輩はそんなことしてくれないじゃないですか! いつも自分のことばーっかりで……」


「そんなの俺だってしているだろ!」


「付き合う前じゃないですか……。今してくれないと意味がないんです!」


「なんだそりゃ……」



 アリサが赤い目をしたまま、ジッとこちらを睨んできた。

 視界の隅に店員さんが見える。

 そういや、まだ注文がまだだったっけ。



「なら、アレか? 俺はこの先ずっーと君の悩みとやらを聞いて、一生ご飯を奢り続けなければいけないのか? 君のご機嫌を伺い、マンネリ化した日々に彩りを与えながら、飲み会にも参加できずに縛られ続けなければいけないのか? そんなのご免だ!」



 つい感情的になってしまって、膝を叩いてしまう。

 アリサがビクッと肩を揺らす。


 俺はもうダメだった。完全なクズだった。

 死んだ方がマシのゴミだった。


 結局、これが本来の自分で、いくら装うとしても腐った部分は出てきてしまうのだろう。

 もう終わりだった。せめてもの願いは、彼女がヤス先輩だなんてクズと縁を切って、もっと他の良い人間と幸せな家庭を築いてほしい、ただそれだけだった。



「君とのセックスは退屈なんだよ! そんな嫌がるような反応をされたら、不安で仕方ないんだ! それなら、君以外の人と寝る方が楽しいのは当たり前だろ!? 君だって、ヤス先輩の方がいいんだろ? だったら、ヤス先輩と付き合えばいい! 二人で仲睦まじく、毎晩を過ごせばいい! 避妊なんかせずに、お互いの愛の結晶を生み出せば、一生添い遂げることだって可能だろ!?」



 そんなにその人のことが好きならば、俺なんてとっとと切り捨てればいい。

 いいのだ。自分はそうやって過ごしてきたから。

 誰からも相手にされないのは目に見えている。


 大丈夫だ。この子とお別れすれば、きっと同情した女の子がまた寄ってきてくれる。

 別に付き合う必要はない。

 肉体的快楽さえ満たすことができれば、それでいい。



「……どうして、先輩はそんな人になってしまったんですか」



 憐れむような表情でアリサが俺を見た。

 彼女の瞼は腫れて、化粧もすっかり禿げていた。



 4.



「お前、チョーシに乗んなよ? アリサちゃんは俺が狙ってんだよ。てめえみたいなヤツが手ぇ出すな」



 ヤス先輩は二個上のサークルの部長だった。

 彼の狙いは最初からアリサだった。

 だから、彼女に注目なんかされたくなかった。


 飲み会が終わると全員で連絡先を交換する。

 ヤス先輩はアリサの連絡先を手に入れることができて、ウキウキだった。


 人知れず電車で帰ろうとしたとき、電信柱の近くでアリサがいるのが見えた。



「……ごめんなさい。とっさにあなたのことを言ってしまって。あの人、しつこくて」


「え? あぁ、いいですよ。全然気にしてませんから! それより大丈夫でした? すいません、先輩たちちょっと過激な発言とかが多くて……」


「大丈夫です! ご心配なく。……ええっと、ありがとうございます」



 酔いが回っていることもあって、俺はそのときいつもより饒舌だった。辺りに誰もいないというのもあったのだろう。

 見られるとあまり本来の自分が出せない。



「先輩は楽しかったですか?」


「はい?」


「なんだかあまり楽しくなさそうに見えて……」


「ああ……! いえいえ、基本自分はみんなのサポートをするのが仕事でして。というか、そういうのが好きなんですよね。話す側というよりかは聞いている方がいいっていうか」


「あ、それわかります!」



 ちっぽけな自分がついたウソに、最初アリサは騙されていた。

 調子に乗るな、と忠告されていたのにもかかわらず、その後も俺は嘘をつき続けた。



「アリサさんでしたっけ……? アリサさんはどうしてこの飲み会に参加したんですか?」


「お友達に誘われまして。でも、その人、今日の朝にドタキャンしちゃったんでよね……」


「あー……騙されちゃったやつだ」


「はい。騙されちゃいました」



 ほろ酔いの彼女は髪をかきあげながら、静かに笑う。

 スカートがゆらゆらと揺れている。


 街灯の光の中を俺たちは歩いている。

 彼女も電車で来たらしい。



「先輩は優しいですよね。なんかあの人たちと全然違う」


「……そうかな」


「ずっと誰かに気を遣っていたじゃないですか。私、見てたんです。だから、あなたがいいって言ったんです」


「そういうことを言うと男は勘違いするから言わない方がいいと思うよ」



 歩きながら、手と手がぶつかる。

 アリサが立ち止まった。



「いいですよ? 勘違いしてくれても」


「君は積極的だな」


「一目惚れしちゃいました。……抱いてほしいです」


「やめておいた方がいい」



 ふらりと足元が揺れる。月の光が落ちている。

 彼女が俺の腕に寄り添ってくる。

 心臓が強い鼓動を刻んでいる。


 これも後から知ったことだが、アリサはこのときかなり精神を病んでいたそうだ。父親が病気で倒れて、弟は部屋に引きこもり、縋るものがなかったのだろう。彼女は愛に飢えていた。


 そして、また俺も愛に飢えていた。


 でも、そのときはちゃんと自制することができた。



「寂しさを快楽で埋めても後悔するだけだ。俺は君の求めている素晴らしい人間じゃない。素晴らしい人間はそもそもあんな場に現れない。俺は君に優しいフリをしているだけだ。本当は醜くて、汚い。優しい言葉をいうことで、君の心を手に入れて、アイツらと同じことをするだけだ。見返りが欲しいだけ」



 臆病な自分の言葉が、どれほどまで君に届くのだろうか。



「君の寂しさはとても重たくて、一人じゃ背負いきれないのかもしれないけど、ここにいてもその寂しさは埋められないよ。帰った方がいい。君のような純粋な子がいていい場所じゃない」


「先輩も誤解してます。私は純粋なんかじゃない」


「純粋だよ。一目惚れしちゃいました、だなんてひたむきに自分の想いを告げられる女の子がどこにいる? 自分ではそう思えなくても、俺からしてみれば君は純粋でとても素敵な人だ。だから帰りなさい。あの人たちとは関わらない方がいい。君が穢れるだけだ」


「……じゃあ、せめて、一つだけ。純粋な女の子のお願いごとを聞いてくれませんか?」



 彼女が瞳を閉じる。



「おでこにちゅーしてほしいです」



 5.


「アリサと付き合うことにしました」


 ヤス先輩にそう報告して、俺はサークルを一年間干された。帰って来れたのは、あの人が大学を中退したからだった。


 告白したのは俺からだった。付き合ってください、だなんてこっぱずかしい言葉を並べて、相手を縛りたくはなかったけど、アリサはすぐにオッケーしてくれた。


 色んなところでデートをした。彼女は水族館が好きだったから、二人でよくイルカショーを観たりした。俺が水族館の後に「寿司を食べに行こうよ」と冗談をこぼすと、アリサはよく呆れたように笑ってくれていた。


 過去のことを美化するつもりはない。

 だからきっと誰にでも経験があることを、ただやってきただけだ。特別なことなんて何一つない。


 些細な日常を彼女と過ごしてきた。


 眠れない夜に電話をして、夏休みの朝のバイトのときは彼女にモーニングコールをしたこともあった。アリサは寂しがり屋だったから、連絡をしないと拗ねてしまうことが多かった。


 俺に甘えたかったのだろう。

 でも、俺はそれに応えられなかった。


 日に日に溜まりゆくストレスの中で、徐々に好意がなくなっていく。それは彼女も同じだった。



『もう終わりにしようよ』



 そして、アリサは答えを出した。この関係を解消しようと提案してきた。わかってはいたが、突然の宣告だったので、納得はできなかった。


 告白したのは俺からだったので、俺からお別れを言いたかった。


 そう思うことは自己中心的だろうか。



「俺は元からこんな人間だよ。君が勝手に勘違いしただけ」


「……じゃあ、私もこんな人間です。誰とでも寝る軽い女です。勘違いしないでください」


「君は最低だ」


「あなたは酷い人です」



 泣き止んだのか、アリサの態度が一変する。覚悟を決めたらしい。女性というのは強い。すぐに気持ちを切り替えられる。



「こんなことなら、額にキスなんてしなければよかったよ」


「そうですね。こんなことなら、付き合ってくださいの返事なんて有耶無耶にしておけばよかったです」


「寂しがり屋のかまってちゃんの相手をするのは骨が折れるよ」


「寂しがり屋のかまってちゃんの相手をしてくれてどうもありがとうございました。先輩は心が綺麗な優しい人ですね」



 店員さんが警戒するように俺たちをみた。

 わざとらしくボタンを押さず、手を上げた。



「ああ、すいません。店員さん。なにも注文していませんでした。ええっと、君……名前は忘れたけど、なに食べたい? 奢ってほしいなら奢るよ?」


「結構です。嫌いな人との食事なんて、苦痛なだけなので」



 店員さんが苦笑してカウンターへと引っ込んでいった。

 俺は窓ガラスに映った自分の顔を見ながら、嘲笑を浮かべる。



「君、可愛いね。おっぱい大きいね。これからホテル行こっか? 彼氏とかいるの?」


「えっと、彼氏はいませんねー。今は欲しくもありません。あとごめんなさい。キスが下手な人とは付き合うなって親に言われているんですよー。よだれまみれで気持ち悪いし、口は酒臭いし、だいたい自己管理のできない人間と家庭を持つくらいなら死にまーす」


「君って処女? もしかしてビッチ?」


「ビッチでも処女でもないですよ? というか、女性にそんな質問するなんてサイテーですね。あーあー、イケメンと付き合いたいなー。背が高くて、面倒くさいという感情を持ってなくて、私を永遠に甘やかしてくれる大金持ちの人いないかなぁ。愛されたいなー」


「いないと思うな。いたとしても君のような床下手なんて相手にしないと思うけどね。ザリガニ臭のくせに、誰にでも股を開くし」


「どこぞの誰かも知らない人になにを言われても、痛くも痒くもないですねー。ていうか、あなた断っているのにしつこいですね。ナンパなら他でしてくれませんか。私、忙しいので」


「いや、本当に胸おっきいね。乳首は黒かな?」


「ウザいなぁ。警察に通報したいなぁ。ヤスさんに連絡しよっかなー。あの人見た目によらず優しいし、自分本位のえっちしないし、理想の彼氏だよー。はやく告白してくれないかなー」


「……」


「あの人との子供を孕みたいなぁ。こんな人もうイヤだよー。解放されたーい!」


「…………」



 これが、俺たちなりのハッピーエンドなのかもしれない。



「別れるか」


「はい」



 6.


 笑顔でお別れしようと思ったが、そこまでの心の余裕はなかった。

 彼女が立ち上がって、俺を見ようともせずに告げた。


「それでは、ありがとうございました」


「こちらこそ」


「では、お元気で」


「……おう!」



 格好つけて、明るく二つ返事をしたが、アリサは既に鞄を肩にかけてお店を出て行った。

 透けたガラスの向こう側で、彼女がスマホを取り出し、誰かに電話しているのが見えた。

 相手はヤス先輩だろうか。


 こちらに振り向いてくれるかな、という淡い願望を消し去るように、早足で去っていく。


 これでいいのだ。

 これでいいはずだった。


 それなのに、もう既に後悔が押し寄せていた。



「……」



 彼女がこれから誰を好きになって、誰と愛を育んでいくのかはわからない。だって、他人なのだから。あの態度だとひどく嫌われたことだろう。やり直そうなんてダサいことを言うつもりはないし、そうなったとしても全て遅いのだ。


 俺が悪い。彼女も悪い。お互いに悪い。

 だから、仕方ないことなのだ。


 サークルに行かなければ、アリサに出会うこともなかった。

 サークルに熱中していれば、アリサと別れることもなかった。


 自分を愛してくれた唯一の人を、俺はいま失った。



「…………っ」



 どうしてか、俺は涙を流していた。


 おかしい、おかしい。

 なにを泣く必要がある。


 不幸だったんだろ? この一年数ヶ月の日々は、俺にとって地獄だったはずだった。

 振られるように持っていったじゃないか。

 嫌われる言動をわざとして、ヤス先輩に嫉妬して、幼稚な復讐で、相手を信じられずに、約束を破って、大切な彼女のことを傷つけたじゃないか。


 お互い様だろ? 別れるのは必然だったんだ。

 泣く必要なんてない。堂々と胸を張ればいい。





「…………ぅぅっ……」




 街灯の光に照らされた彼女が脳裏をよぎる。



 アリサ。君は、君は……。



 肘をついて、両手で顔を覆い隠す。

 テーブルにはポタポタと雫が溜まっている。


 店内には有線が流れている。

 「君は綺麗だ」そんなフレーズの曲が、いつまでもその場に漂っている。

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