第15話 サーベルキャット

 結局、ぼくは裂け目を飛び越える勇気が出ず、かなり姉ちゃんの手を煩わせることになる。

 荷物の中からロープを取り出した姉ちゃんが一度ぼくのいる側に戻ってきた。ロープをしっかり僕の脇の下に通して縛る。ロープの反対側を持った姉ちゃんが何度目かのジャンプをして向う側へ。

「ほら、これなら万が一失敗してもアタシが引き上げてやっから」

 確かに命綱はありがたい。

 その反面、ロープのせいで助走距離はほとんど取れなくなった。

「あと十数えるうちに跳ばないとロープ引っ張るからね」

 姉ちゃんの最後通告にぼくは震えるひざを無理やり動かす。

 下を見ないようにして、ジャンプ!

 縮こまった脚でうまく跳べるわけもなかったが辛うじて足が岩棚の端に乗った。でも、へっぴり腰だったので重心は背中側に残ったまま。

 後ろにひっくり返りそうになり、ぐるぐると振り回す手を姉ちゃんがつかんで引っ張る。

 はあはあ、ぜいぜい。

 全身にびっしょりと冷や汗をかいてしまった。

 せっかく乾かしたばかりだというのに、また濡れた服が体にへばりつく。

「見ているオレっちも冷や冷やしたぜ」

 マールズがぼくの肩をぽんぽんと叩いた。

「でも無事でよかった。さあ、先に進もうぜ」

 姉ちゃんがロープをぼくの胴にぐるぐる巻きつける。

「これ何? 取らないの?」

「また、ここみたいな場所があるかもしれないでしょ。その度に結ぶんじゃ面倒だから外に出るまでそのままにしておいて」

 なんだかカッコ悪いけど仕方ない。

 再び隊列を組んで歩き出す。

 通路は明らかに登り坂になっていて、今度こそは出口につながっていてほしいと祈った。

 しばらく進むと大きく開けた場所にたどり着く。

 バスケットボールのコート半面ほどの広さで半球状の空間だった。

 ぼくらが入って来た入口と反対側に同じような穴が開いている。向かって右の壁には扉があった。そして、その扉の前には大きな猫が寝そべっている。

 最初はまるで生きているような精巧な彫像だと思った。

 ぼくらがその場所に入っていくと、猫の体が薄い光で包まれる。そして、猫はぐうっと伸びをした。金色の毛並みが美しく輝き口元に大きな牙がきらりと光る。噛みつかれたらとても痛そうだ。

「ふむ。オキャクのようだ。カンゲイしなくてはならないな」

 うわ。猫もしゃべった。少し平板な感じの声だけど一応意味は分かる。

「わるいがたおさせてもらおう」

 え?

 そう思ったときには猫はぱっと跳びかかってきて、太い前脚をあげた。ぶんと振り下ろす前脚を姉ちゃんが身をひねってかわす。

「この勝負受けたっ!」

 姉ちゃんは荷物を投げ出すと杖を振り下ろした。

 先ほどまで猫がいた地面を杖が強打する。先端についていた松明が折れて弾け飛んだ。姉ちゃんと猫の攻防が始まる。

 お互いの動きが速くて一体何が起きているのかよく分からない。時おり、姉ちゃんの杖を猫の牙が受け止めて力比べが始まるときにその様子が見て取れるぐらい。

 均衡が崩れると双方が手足を繰り出しているんだと思うけど、まったく目に見えなかった。

 ふと横を見るとマールズも半口を開けて突っ立っている。

「何が起きてんだ?」

 マールズの目にも見えないんだ。

 ガンと大きな音がして、姉ちゃんと猫が少し離れてにらみ合う。

 姉ちゃんは半身になり両手を上げてつかんだ杖の先を猫の方にぴたりと向けていた。

 猫は前脚を屈めて後脚を伸ばして伏せの姿勢。

「やるじゃないか。クレーブさまをあいてにこれだけやれるヒトがいるとはおどろきだ」

 姉ちゃんは小首をかしげる。

「なんか言ってる? アタシには分かんないけど」

「姉ちゃんが凄いって褒めてる」

「じゃあ、あんたも強いよって言っておいて」

 ぼくがそう伝えるとクレーブと名乗る猫は驚いたような声を出した。

「おれのコトバがわかるのか?」

「ぼくは分かるよ。姉ちゃんはこっちの言葉は分からないんだ。そんなことよりもどうして僕らを襲うのさ?」

「おれはシンニュウシャをたおすようにノロイをかけられている」

「僕らは外に出たいだけなんだ。邪魔するつもりはなかったんだよ」

「そんなことはしらん。さて、おしゃべりはおわりだ」

 クレーブはだっと姉ちゃんに跳びかかる。

 また目にもとまらぬスピードでボカスカが始まった。

 横からマールズが声をかけてくる。

「なあシュート。あのサーベルキャットと話をしてたのか?」

「そうだけど。あれ? マールズには分からなかった?」

「オレっちもさすがにサーベルキャットの言葉は知らないぜ。シュートが急に猫の鳴き声出すから驚いたよ。やっぱり魔術師は違うな」

「そうなんだ。ぼくは普通にしゃべってるつもりなんだけど……。それで、あれはサーベルキャットって言うんだ?」

「そうさ。口からサーベルみたいな牙が生えてるだろ。山の王者さ。あいつには誰もかなわない。そんなの相手に戦えるお前の姉は本当にすげーよ。そんなこと言ってられないな。加勢しないと」

 マールズはオールを担いで突進し振り下ろした。オールは宙を切り地面にガンという音を立ててぶつかる。

 猫がマールズに向かおうとすると姉ちゃんが反撃に出た。

 少し有利になったかもと思ったのはわずかな時間。

 ざざっと地面をする音がして、跳ね飛ばされたマールズが地面を転がる。

 クレーブという名のサーベルキャットと姉ちゃんがまた少し離れて相対していた。姉ちゃんは荒い息をして顔には苦し気な表情が浮かんでいる。反対にクレーブはまだまだ余裕そう。

 なんてことだ。やっぱり姉ちゃんでもきつい相手なんだ。

 ぼくはワンドを手にする。

 川でおぼれかけたし、裂け目を越えるのに神経も使った。万全の状態とは言えないけれど、ここはビシッときめなくちゃ。

<猫がろんだ>

 じわっと全身にけだるさが広がって、ずきずきと頭が痛くなった。今までで一番辛い。魔法の効果によって代償の大きさが変わるのかな? 

 ぼくの目の前でクレーブがコロンと横になる。真っ白なお腹の毛まで丸見えだ。少しモフモフしたいかも。

 いやいや、そんな場合じゃなかった。

 ぼくは姉ちゃんに駆け寄る。

「姉ちゃん大丈夫?」

「ちょっときついわね。やっぱりナッツバーだけじゃ力が出ないや。せめてもう一本食べておけば良かった」

 え? お腹が空いて力が出てないだけなの?

 姉ちゃんの表情が変わったので振り返る。ありゃ、もうクレーブが起き上がってしまっている。

<猫が寝ころんだ>

 その言葉を口にした瞬間に物凄い激痛がぼくの頭を襲った。鼻の下がぬるりとする。

 ぼくの顔をのぞきこんだ姉ちゃんが顔色を変えた。

「秀斗。あんた鼻血が出てるわよ」

 姉ちゃんがハンカチを出してふき取ると真っ赤な血で染まる。

「まほうつかいとせんしか。なかなかにおもしろい」

 立ち上がろうとしながらクレーブが余裕をみせた。まだうまく立ち上がれないけれど、先ほどの様子からするとそんなに長くはそのままではなさそうだ。

 うう。もうこれ以上魔法は使わない方が良さそうだけど、姉ちゃんもかなり厳しそう。どうしよう?

「ぼくらを見逃してくれよ。戦わなきゃいけない理由はないだろう?」

「そうもいかない。おれへのノロイはとかれていないからな。ざんねんだ」

 クレーブはゆっくりと立ち上がる。

「おれをひどくおどろかせることができれば、ノロイはとけたかもしれないが」

 姉ちゃんがぼくを押しのけようとする。いつもの力強さがなかった。

 クレーブは姿勢を整えると跳びかかってくる。

「シュート、レーセ」

 マールズの叫び声が響いた。

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