第2話 救いの手

 ぼくの上げた声に相手がひるんだのはほんのわずかな時間だけ。

 牙の生えた口を開けると野太い声で化け物は吠えた。ぼくの断末魔の悲鳴とは大違い。

 化け物は血走った目をぎょろりとさせて腕を振り上げる。その手には斧が握られていた。

 霧はどんどん晴れていき、斧の刃の表面が日の光を反射する。

 ぼくは腰を抜かしてしまって尻もちをついた。両手が塞がっていたので、お尻からすとんと落ちる。そんなことに感心している場合じゃなかったけれど、濃い下生えがショックを吸収してくれた。

 あれれ? うちの庭にこんなに草が生えている場所ってあったっけ?

 化け物はフゴと鼻を鳴らすと斧を振り下ろす。ぼくはとっさに手に持っていた棒をかざした。

 ガキン。棒に当たった斧はわずかにぼくの体からそれる。手には強い衝撃が走った。

 霧の中でいつの間にか眠り込んで見た夢にしてはやけにリアルだ。まさかと思うけどこれって現実なの?

 化け物はぼくを仕留め損ねたことに腹を立てたのか、ムガアと叫んで再び斧を振り上げた。もう駄目だ。

 目をつぶって首をすくめる。

 いきなり化け物が悲鳴をあげた。

 恐る恐る目を開けてみると化け物の肩に黒と白の羽の矢が突き立っている。化け物の目が見開かれ口から悲鳴が漏れ続けていた。

 手からドサリと地面に斧が落ちると一目散に逃げだしていく。

 どきどきどき。ぼくの心臓が激しく鳴っている。急な出来事だったが、ついさっきまでぼくが死の一歩手前にいたことを改めて認識した。

 剣呑な光を放つ斧が死の象徴のように見えて怖い。

 ギロチンが発明されるまではヨーロッパでは処刑人が斧で首を斬っていたんだっけ。フランスならムッシュ・ド・パリって呼ばれてたはず。あああ。こんな時なのにまた余計なことを思い出しちゃった。

 ぼくのことをビビリだと思うなら思えばいいさ。

 棒と辞書を胸に抱きしめながら足だけでずりずりと後ずさりをする。少しでも持ち主を失った斧から離れたかった。

 なにか音がした気がして首だけ捻じ曲げて後ろを見る。

 ぼくの目のすぐ前で鋭い矢じりが怪しい光を放った。その先を目で追っていくと毛で覆われた手が弓を持っており、さらにその先にはやはり毛に覆われた顔を見出す。

 真っ黒な丸い目がぼくのことを見ていた。

 足に比べると長い胴には斜めにひもがかけてあって何かを背負っている。緑色のチョッキを着て、同じような色の帽子を被っていた。

 丈の短いズボンに皮のベルトを締め、その腰の部分にはナイフの柄のようなものが見える。

 サイズが大きく二足歩行をしていて服を着ているいることに目をつぶれば、動物園で見たテンによく似ていた。

「おめえ、なんだ? 見かけねえ顔してるな? 名前は? ここで何をしている?」

 テンは生意気にも言葉をしゃべる。日本語じゃない。だけど何故かぼくには分かった。不幸中の幸いってやつだね。

 やっぱり夢なのかな? でも、さっき斧を受けたときの衝撃は現実のものだった。

 しかし、動物が二本足で歩き言葉をしゃべるというのは非常識極まりないんじゃなかろうか。ぼくはあまりの驚きに口がきけない。

「オレっちの言ってることが分からねえのか? それともオレっちを馬鹿にしてしゃべらねえつもりか? それとも耳が聞こえねえとか?」

 テンはしゃべりながら鋭い矢じりをぼくの方に動かす。テンの鼻がひくひくと動いた。顔つきが険しくなったような気がする。

「やめろよ。危ないじゃないか」

 ぼくがとっさに叫ぶとテンはさっと三歩ほど下がった。なぜかぼくの口から出た言葉は知らないはずの言語だ。

「なんだ。おめえ、ちゃんとしゃべれるじゃねえか」

 そしてやれやれというように首を振る。

「はああ。まったくヒトっつうのは恩知らずな奴だな。オレっちがあいつを射なかったら今頃はおめえは頭を真っ二つに割られてるっつーの。いくら子供でも、お礼の一言でもあってもいいのによ。出てきた言葉は非難のセリフとは、礼儀知らずもいいところだよな」

 ぼくは混乱してはいたけれど、目の前にいるテンの言うことはもっともだと思った。確かに助けてもらってこのセリフは無い。さっと頬が熱くなるのを感じた。

 きちんと謝っておかなきゃ。

「ご、ごめん」

「はあ? 何か言ったか?」

「助けてくれてありがとう」

「それで、オレっちの質問に答えてないんだけども」

 ぼくは記憶を探る。ああ、何者か聞かれていたんだっけ。

 立ち上がろうとしたけれど、足が萎えてしまっていて立てなかった。そのままの格好でいるのはカッコ悪いが仕方ない。

「ぼくは秀斗。気がついたらこの場所にいたんだ」

 テンは首をかしげる。

「変な名前だな。格好も変だし。それで、おめえ、その姿勢で首痛くなんねえの?」

「びっくりしたせいで立てないんだ」

 テンは口を開けて笑い出した。

「なんだ。情けねえやっちゃな」

 引き絞った弓を元に戻して矢を外すとテンはぼくの腕に手をかけて引っぱる。意外と力強い腕でぼくをひきずり起こした。

 テンはにやっと笑う。

「オレっちはマールズ。見ての通りハンターだ。狙った的は外さないんだぜ。この帽子はその証さ。シュート。おめえはラッキーだったな。たまたまオレっちが通りがかかったことに感謝しろよ」

 マールズと名乗るテンはぐっと胸を張った。

「本当にありがとう」

 礼を言うとまた首を横に振る。

「なあ、シュート。あまり世の中のことを知らんようだけどな、普通はお礼をするときには、なんかすることあるだろ?」

 ぼくは頭を下げた。

「ちゃうちゃう。そうじゃない。ああ、もう分からんやっちゃなあ。そんなことじゃない。お金。分かるだろ?」

 ぼくが首をかしげているとマールズはチョッキのポケットから小さなものを取り出す。

「変わった服だけど、それなりに物は良さそうだし、結構金持ちなんだろ?」

「急いで家を出てきたからお金は持ってないんだ」

 マールズは落胆したがすぐに気を取り直すとぼくの横をすり抜けて、地面に刺さる斧のところに向かった。

 斧を拾い上げると刃を子細に眺める。

「まあまあだな。なんとか売りものになるだろ」

 マールズは更に小さな袋を見つけた。

 中のもの手のひらに空ける。

「なんや。がらくたと小銭ばっかか。まあ、無いよりはマシだな」

 ぼくのところに戻ってくると大きな口でにんまりと笑う。

「シュート。金が無いんはしゃーない。ただ、オレっちは命の恩人だ。その恩は返そうっつうのが礼儀ってもんだ。そうだろ?」

 毛のびっしりと生えた手でぼくの肩をポンと叩いた。

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