芋虫は戯れを知るか

蜜柑

芋虫は戯れを知るか

「きみは一ぴきの芋虫だ。何か思っても黙ったままで、八つ当たりみたいにみかんの葉っぱをむさぼり食らう。穴だらけの葉を片付けもしないで、勝手に大きくなって勝手に閉じこもり、勝手に蝶になって飛んでいくんだ。君はみかんを育てたりしない」


 書きかけの小説、その冒頭で、マモルがサトシに言っていた。サトシは虫の居所を悪くして、マモルの言葉を拒絶した。


 サトシはまだ高校生だった。

 幼い頃から医者を志し、毎日積み重ね勉強してきた。学習塾にも行ってみたが、先生が自分を恥ずかしく感じるほどに生真面目な性格をしていたから、どこも長くは続かなかった。

 一方でサトシは年上の友人に恵まれた。叔父のマモルは父より年上だったけれど、互いにどんな話もできるすばらしい親友だった。


「もしもし、サトシくん?聞こえてますか」

「聞こえてるよ、常識的に考えて」


 勝手に隣の椅子に座り、たびたびちょっかいを出しにくるこのクラスメイトを、サトシは持て余していた。彼は自分の名前を呼ぶのに、自分は彼の名前を知らない。


「なんか暗いけど、何かあった?え、俺?俺はまあいつも通りナンパ試して失敗でしたー」

「誰もお前のこと聞いてないし」

「またまた堅いこと言っちゃって」


 昼休みの三十分の勉強を邪魔されて、サトシはいい気がしなかった。

 それにナンパなんて無意味なことをしている彼のことも気に入らなかった。


「お勉強邪魔してごめんさいよ。でもさ、あれでしょ?叔父さんとなんかあったでしょ?ほらみろ正解おれ天才!」

「ほっとけよ」


 一度叔父のことをぽろりと話してしまったら、途端に何もかも知られてしまった。こういうところも苦手だった。


「まあこんなところでやめといてやろう。あ、そういや放課後女子にカラオケ誘われてたんだったわ。俺行くけど、サトシも来る?」


 行ったこともなければ、流行りの曲もぜんぜん知らない。サトシはもはや答えなかった。相手は沈黙を拒絶とみなしたか、どこかへ行ってしまった。


 学校に行っても勉強をして、帰っても勉強をする日々。小学生までにゲームを卒業して、マンガも新聞の四コマしか読んだことがない。小説は何冊か読んだけど、今は読むなら専門書。でもそれ以上に問題集ばかり漁っている。


「数学の問題集?もちろんおすすめは何冊かあるけど、君はまだ高一じゃないか。そんなに急がなくても、もう少し遊んでいいんじゃないか?」


 他人が遊んでいる時間も勉強しなければ、どうして勝ち上がれるだろうか。思ったけれど、サトシはただただ黙っていた。


「まあいいけど。これ、一応高二の範囲も入ってるから、できるところ解いて持っておいで」

「なんでですか」

「なんでって、解説するためだよ。全部自力で解けるわけないだろう」


 自力で解ける、と言おうとしたら、その前に先生は別の生徒の対応をしに行ってしまった。結局、サトシの手には問題集が一冊残された。

 軽音部のギターが上から、陽気なトランペットが窓の外から聞こえてくる。サトシはジャージの生徒とすれ違って、ひとけの少ない図書室のドアを開けた。時折話しかけてくる司書さんは、今日は少し気分が良さげだった。


「今日は天気がいいでしょう?すぐそこの藤棚とベンチ、せっかくだからきれいにしておいたのよ。よかったら使ってちょうだい」


 サトシは特に使いたいと思わなかったが、なんとなく使わないといけない気がした。今まで気にも留めなかった扉を潜ると藤棚があり、植物がなかなか綺麗に管理されていた。並んだ植木鉢にパンジーが咲いている。

 サトシが勉強をしている間、司書さんたちは時々外に出てきて、軽いおしゃべりをして戻っていった。


「あらあそこ、蝶が戯れているわね」

「大きいアゲハチョウですね。番でしょうか?」

「さあねぇ」


 蝶は藤棚の周りも飛び交うので、ときどきノートに小さな影が落ちた。サトシは目がちかちかした。

 化学反応式を書いて、漢字の書き取りを少し挟んで、構造を取りつつ英文を読む。目が疲れるな、と思ってはじめて日が傾いていたことに気づいた。もう蝶たちもどこかに帰ったらしい。


「もう閉めるから、サトシくんも帰りな」


 いつものように否応なしに追い出された。

 横から差し込む橙の光が窓から差し込んでいる。廊下を歩いているとあのうるさいクラスメイトが角から出てきた。


「今から帰り?」

「そうだけど」

「ええ、なんか反応薄い。お前はカラオケに行ったんじゃないの、とか訊いてくれないわけ?まあ、サトシが他人に興味ないのは今更だけどさあ」


 その言葉がどうもマモルと重なって思える。この男はどうも自分の心を見透かすところがあって、やっぱり苦手だ。


「遊び、行かないの?」

「行かない」

「サトシってほんと遊ばないよね。俺だったら今のうちにもっと遊んでおくけど。ほら、受験生になったら全然遊べないじゃん」

「別に、興味ないし」


 そんなことより早くこいつと離れたかった。しかし、いくらそっけない返事をしても、こいつはなかなか離してくれなかった。


「なんで?遊びが嫌なの?あ、おしゃべりが苦手とかそういう感じ?べつに思ったこと言わなくてもさ、適当に誤魔化しておけばいいんだよ。案外俺もみんなも本音で喋ったりしてないしさ」


 そんなわけがないと思った。閉じこもっている自分と違って、きっとみんなは自分を曝け出すことができるのだ。


「嘘だと思った?ほんとなんだけどな。まあ、嫌なら嫌でいいんだけど。でも俺一個気になっててさ、サトシっていつも勉強してるし、いつも気難しい顔してるしさ」


 余計なお世話だけれど、反論する言葉は出てこなかった。なぜならこの話の流れは、すでに一度経験していたから。


「なんていうかさ、人生の中で?とかだとデカすぎるけどさ、なんというか……サトシは何がおもしろくて生きてるの?」


 ほらやっぱり、こいつはマサルと同じことを言う。

 俺はなんの意味もなく、八つ当たりのようにみかんを食い荒らす芋虫だって。


「だからほっとけよ!」


 大きな声に驚いたのか、それとも別の理由か。もはやなんでもいい。やつと別れてそのまま家に帰った。帰ってすぐに机に向かって、ノートを開いて、問題を解いて。


「くそ、こんなの難しくもないのに」


 苛立ちそのままに頭を掻きむしって、等式の変形を見直して、計算ミスはないか、方針は間違っていないかと確かめる。何度解いても解なしになる問題にも、本当は×えがあるはずなんだ。

 崩れて読めない字に足止めを食らうまで、私は前のめりになって文字を追っていた。サトシはその後他の科目の勉強をしつつも、やはりその問題が解けなかった。遅くまで起きて、問題を解いていた。

 そして十二時を過ぎた頃、彼はようやくひとつの解を見つけた。イコールの先にシャーペンを走らせた時、そこで文章は途絶えていた。

 しかし、私は知っていた。解にたどり着いたときの彼の心情を。その時彼の口元に小さな笑みが浮かんでいたことを。


 サトシは芋虫だった。本を読む私はサトシだった。でもクラスメイトもまた私であり、芋虫だった。閉じこもったままみかんの葉を食らうだけの芋虫だった。


 芋虫はまだ戯れを知らない。ただ、生きる喜びを知る。

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