「男」が消えた日

藤間 保典

「男」が消えた日

「オディヴィルで、女の子は日々の煩わしさから自由になる」

 テレビの中で、胸の大きな若い女がはしゃいでいる。まるでそのフェロモンが画面からあふれてきそうだ。

 CMが終わり、企業ロゴが出る。アポロン製薬か。いやぁ、今日は朝から良いものが見られた。最近テレビに出始めた子だろうか。アラフォーになると、次から次へと現れる芸能人についていけない。まあ、ネットで調べれば名前くらいはわかるだろう。人生の楽しみがひとつ増えたな。これで一日やる気が出るってもんだ。

「ちょっと、智。テレビなんてぼぉーと視てないで、朝ごはん早く食べてくれない? 片付けられないんだけど」

 妻の晴美が不機嫌そうな声をあげる。せっかくの良い朝が台無しだ。朝メシくらいゆっくり食わせろよ。よくもまあ、そんなくだらないことで不機嫌になれるな。女ってヤツはよくわからない。だが、触らぬ神に祟りなしだ。

「わかったよ。食うよ」

「あと、いつも言ってるけど、トイレは便座を下げて使ってよね。ほんと、誰が掃除すると思ってんのよ」

 晴美は、わざとらしくため息をつく。人がメシ食ってる時に便所の話をするなんて、デリカシーのない女だ。大体、座ってするなんて男らしくないんだよ。男は立ってするもんなの。だが、それを言ったところで、ケンカになるだけだ。俺は朝メシをさっさとかっこむ。

「ごちそうさま。じゃあ、行ってくる」


 ホームへ滑り込んで来た特急電車には、既にこれ以上乗れないくらい人が詰まっていた。しかし、これに乗らなければ、俺も仕事へ行けない。ドアが開き、乗客が吐き出されてくる。できたすき間に、俺はなんとか入り込んだ。

 身体は動かせず、息をするのがやっと。そんな密度だが、近くに女がいる。俺は、なんとか両手を引きずり出して、つり革に伸ばす。痴漢に間違われないための、ささやかな抵抗だ。

 痴漢事件ではこちらが悪くなくても、警察は犯罪者だと決めつけてくると聞く。男はいつも加害者で、女はいつも被害者。それこそ差別ってヤツじゃないだろうか。

 俺は今朝のやり取りを思い出す。

 食事を終えて、立ち上がった俺に晴美は吐き捨てた。

「食器ぐらい自分で片付けてくれない? 言わないと何にもしないんだから。いっつも私ばっかり」

 いつも、ってなんだ。言われなくても、今からやろうと思ってたんだよ。そう口まで出かけた言葉を俺は飲み込んだ。反論すれば、仕事で疲れていて食器を片付けなかった時の話を未だに持ち出してくる。コイツは俺がやらないものだと決めつけているだけだ。イラッとするが、どう反論したら良いのか。上手く言葉にできない。諦めた俺は黙って食器を流し台に片付けた。

 俺の親父なんて、家のことは一切しなかった。俺たちは共働きだということもあるが、親父に比べれば随分と家事を手伝っている。その一方で、俺が気をきかせて役割分担以上に手伝ったら邪魔者扱いだ。手伝わなくても、手伝っても文句を言われるなら、何もできない。まったく、どうしろって言うんだ。

 あーあ。何でこうなっちまったんだろう。結婚した当初は、アイツにも可愛いところがあったんだけどな。最近はケンカばかりだ。子どもがいたら、今よりマシな関係だったんだろうか。

 耳にそろそろ降りるべきことを告げる車内アナウンスが届く。さて、朝の苦行もやっと終わりだ。俺は電車を降りる準備をはじめた。

 職場へ到着して、俺は自分の席につく。気が抜けたのか、ため息が出た。

「関口。朝からどうしたんだ?」

 後ろの席に座っていた同期の山下が話し掛けてきた。

「いや。今朝、ウチのが機嫌悪くてさ」

「ははは。そりゃあ災難だったな」

「本当。朝から可愛い子を見て、やる気が出てたのに。台無しだ」

「なんだ? どこの誰だよ」

「アポロン製薬のCMに出てる」

「ああ。お前、ああいう子、好きだよな。晴美ちゃん、やきもち妬いたんじゃないか」

「まさか、もうそんな関係じゃねぇよ」

「なんだよ、それ?」

「いやぁ、もうないだろ。もしかして、お前んとこ、まだあるの?」

「そりゃあね。昔に比べたら減ったけど」

「マジか。まだ作るの?」

「それが目的じゃないさ。コミュニケーションの一環ってヤツだな」

「ふぅん」

 普段、話を聞いている限りでは、山下のところは家族仲が良さそうだ。秘訣はその辺りにあるんだろうか。だとしたら、今晩あたりーー。いやいや。そんな素振り、少しでも見せたら何を言われるか、わかったもんじゃない。それにしても、最後にしたのはいつだったろうか。

「なんだよ。難しい顔して。お前、もしかして、もう役立たずなの?」

「ふざけんなよ。家じゃ、お役御免なだけだ。この前、出張に行った時だってーー」

「おはようございまーす」

 話を遮るように、柏木が気だるそうな声で挨拶する。まだ二十代の癖に、出勤は定時ギリギリだ。全く最近の若いヤツは。柏木は背負っていたリュックを下ろして、席に座る。

「関口さん。朝っぱらから、なんて話してるんですか」

「はぁ?」

「聞こえてましたよ。女性もいるんですから、ちょっとは控えてください」

「バカ。俺だって話したくて、してた訳じゃねぇよ。元々は、うちのかみさんが機嫌悪かったって話」

「関口さんがまた何かしたんじゃないですか」

「何にもしてねぇよ。便座が上げっぱなしだとか」

「そりゃあ、関口さんが悪いでしょ」

「何でだよ」

「女性は下げて使うんだから、当然の配慮です」

「そんなもん、自分でする時に自分で下げりゃいいだろ。お前だって、する時は上げるだろ」

「いや。オレ、座ってする派ですから」

「お前には男のプライドってもんがないの?」

「その程度のことで揺らぐようなプライドじゃないんで」

 相変わらず生意気なことを言う。柏木は俺のことなど素知らぬ顔でコンビニの袋から、箱を取り出した。どっかで見たようなデザインだ。

「あれ、お前。それ、アポロン製薬の。女性向けの薬だろ?」

「ああ。美容にいいっていうんで、女友達に勧められて、オレも飲んでるんですよ」

「お前、それ大丈夫なのか?」

「さぁ? 今のところ変なことは何にもないですけどーー」

 その時、始業を告げるチャイムが鳴った。さて、仕事だ。俺たちは話をやめて、パソコンに向かった。


 真っ暗闇の中、俺は周りを見回す。駅から離れた住宅街だけあって、人の気配はない。そのど真ん中にある何の変哲もない雑居ビルが、今日の目的地だ。

 誰も歩いていないことを確認して、俺は入口に滑り込む。見上げれば、急な階段だ。あいにくエレベーターなんて便利なものはない。四階まで続く階段を一歩一歩、極力音を立てないように登っていく。

 何でこんな世の中になっちまったんだろう。「オディヴィル」を飲んでいないだけで、こんなにも肩身が狭くなるだなんて、思ってもみなかった。

 オディヴィルに男性の性欲を無くすという副作用が見つかった時、アポロン製薬の社長は大バッシングを受けていた。

 旗色が変わったのは性犯罪者の更正プログラムにオディヴィルの使用が決まってからだ。ちょうど未成年を狙った悪質な性犯罪者の刑が確定したタイミングで、世の中には制裁を望む声が大きかった。だから、その措置に対して、反対はほとんど出なかった。今思えば、あそこで国がオディヴィルにお墨付きを与えたのが不味かった。

 そういえば、その時に法務大臣だったのが藤山克郎だ。その人気を利用して、今や総理大臣にまでのしあがっている。若い頃はおバカタレントだったのに、そんな黒歴史は今や封印されてしまった。

 そして、決定的な流れを作ったのが、その後に起きた痴漢えん罪事件だった。捕まった男性がオディヴィルの服用者で、それが無罪の証拠として採用されたのだ。それをきっかけに、自衛用としてサラリーマンへ広がっていった。

 「男性は性欲をコントロールした方がいい」っていう風潮が生まれはじめたのも、その頃だ。「人類は進歩したのに、本能に縛られるのは文化的ではない」と言ったコメンテーターは、今や時代の寵児になっている。

 最近では、男女が同席する場所で「オディヴィル」を服用していない男性を排除する動きまで出始めた。非服用者の利用を制限する政令の検討も進められているらしい。おかげで俺みたいな非服用者は、こんな風に規制のない店を探さざるを得なくなっている。

 階段を登りきると、ひとつのドアにたどり着く。看板はかかっておらず、小さな「会員制」のプレートが張られているだけだ。これが非服用者の専門店であることを示すサインになっている。

 俺はノブに手をかけた。ドアがチャイムを鳴らしながら開く。細い通路を進んでいけば、バーカウンターと十席ほどの空間が現れた。カウンターの中にいた中年の男が頭を下げる。

「いらっしゃいませ。はじめてのお客様ですか」

「はい。田端の川島さんの紹介で」

 俺はこの店を紹介してくれた男の名前を告げる。それが専門店を使う人間のルールだ。身元保証を兼ねている。

「ああ、川島様の。そうですか。では、空いている席へお座りください」

 店内には数人の男女が座っている。俺は同じ歳くらいの男の隣を選んだ。そして、アルコールと簡単につまめるものをオーダーし、席に身体を沈めた。

 消えていたモニターに電源が入る。今じゃ世間ではお目にかかれない半裸の女性の映像が、流れはじめた。最近はこういう店を告発して、潰そうとする輩もいる。その対策として「懐かしい映像を視ていただけです」と言い訳をするために、過去流されていたCMを流しているような店が多い。だが、今映っているのは新作のようだ。これは期待できる。

「この店、初めてですか」

 隣に座っていた男が俺に話し掛けてきた。眼鏡で、ジャケットをラフに着こなしている。

「はい。前によく行っていた店が閉まってしまったんで」

「もしかして、あそこですか。駅の裏手にあった」

「そうです」

「やっぱり。お話はしたことなかったですが、お顔は拝見したことありますよ」

「そうだったんですね」

「はい。私は海野と申します」

「俺は関口です。ここ、良いですね。アレとか」

 俺がモニターを指差したら、海野はニヤリとする。

「本当に。この時代にアレを作る勇気が素晴らしい」

「今や公共の場では、性を意識させるものに居場所はないですからね」

「正直、行き過ぎですよ。性欲という『あるもの』を『ないもの』にするなんて、不自然極まりない」

「ですよね。性欲があるのが自然なのに、今やそれを言ったら時代遅れの恥ずかしいオヤジ扱いだ」

「嘆かわしいことです。お陰で成人向けジャンルは軒並み潰されてしまいました」

「残っているのは今やクラブくらいですかね。まあ、あれも昔とは別物ですが」

 俺の言葉に海野はため息をつく。

「今や美味しいものを食べながら、ただ話をする場所になってしまいましたからね。色気もへったくれもない」

「昔は街中にエロがあふれてた。年頃の男なんてみんなそれにしか興味がなかったのに」

「それもこれもオディヴィルのせいですよ。今や学校でも、男子生徒が二次成長を迎えたら、摂取するように指導がありますから」

「そうみたいですね。男子生徒だけが別室に呼ばれて、教わるんでしょ」

「ええ。日本の性教育の悪いところです。隠して、遠ざけようとするばかり。本当に大切なことは、ほとんど教えない」

「まったくだ。こんな世の中に誰がしたんだか」

 海野は周りを伺うと、口に手を添えて聞こえるか聞こえないかの大きさに声を絞る。

「藤山ですよ」

「総理の?」

「そう。この流れは彼が法務大臣の時から始まってますからね」

「確かにそうですが。あいつも男でしょ。なんでそんなことをするんです?」

「実は私、フリーのライターをしていまして。この件をいろいろ調べてるんです」

「ほう」

「わかったのは、藤山が、男らしさを異常に憎んでいることです」

「どういうことですか?」

「まず、藤山は末っ子長男なんです。待望の男子だったからでしょうね。ご両親は男らしくなるようにかなり厳しくしつけたみたいです」

「へぇ」

「それに彼は若い頃、女みたいだったでしょ。周りの男によくちょっかい出されてたようです。本人の意思に反して、なんてこともあったみたいで」

 今や面影もないが、芸能人だった頃であれば、そんな話のひとつくらいはあってもおかしくない見た目だった。

「極めつけは彼の奥さんの件です」

「ああ。昔は藤山と二人で、テレビに出てましたよね。バカップルって感じで。何の関係があるんですか」

「藤山と結婚した直後の話でしょうか。秘匿されていますが、彼女は性犯罪の被害にあったみたいなんです。それ以来、精神的におかしくなっているようで」

 言われてみれば、二人が結婚する前はしつこいくらいテレビに出ていた。けれど、最近は全く見ない。政治家の妻になったからだと思っていたが、言われてみれば出なくなったのは藤山が立候補する前だ。

「だからでしょうか。オディヴィル普及のために、相当強引なことをやっている形跡があるんです。これが証明されたら、藤山は一巻の終わりでしょうな」

 この話、本当なんだろうか。フリーライターだと言っているが、証拠はない。海野の顔は真っ赤だ。相当飲んでいるのだろう。だが、酔っ払いの与太話にしては面白い。

 確かに海野が言うように、藤山がオディヴィルを普及させた立役者だ。けれども、所詮当時は法務大臣。ひとりでは難しい。総理大臣でも関わってなくちゃ。

 あの当時の総理は猿渡達郎だった。そういえば、猿渡はまだ三十代の藤山を法務大臣に抜擢して「お友だち内閣」だとバッシングされていたっけ。だとしたら、海野の話は本当?

 まさか、バカバカしい。

「ちょっと話過ぎてしまいましたね。まあ、飲みましょう」

 海野はグラスを持って、俺に話し掛けてくる。俺は彼に合わせて、グラスを持ち上げて乾杯をした。


「早く起きなさい」

 知らない男が俺を揺さぶる。二日酔いだろうか。頭が痛い。目を開けると警察官が立っていた。

 どうして?

 飲み過ぎて、家へ帰る前に外で寝てしまったんだろうか。事態が把握できないまま、俺は立ち上がる。すると、警察官に強い力で引っ張られた。酔っ払って収容されたにしては、様子がおかしい。何かしたんだろうか。昨日の夜は海野と話が盛り上がって、かなり飲んでしまった。二人で電車に乗ったところまでは覚えているが、その後の記憶はない。酔っ払った勢いで何か壊してしまったんだろうか。だとしたら、まずい。会社に連絡されなければ、いいのだが。警察官は俺を小さな部屋に連れて来た。鉄格子の付いた小窓に机がひとつ。部屋に太陽の光が差し込んでいる。椅子には眼鏡を掛けた神経質そうなスーツの男が座っていた。警察官は空いている椅子へ俺を無理矢理座らせる。俺が座ったのを見て、スーツの男が口を開いた。

「おはようございます。お加減はいかがですか」

「二日酔いのようです」

「そうですか。昨日は相当、お酒を飲まれたみたいですね」

「ええ。そのせいで何かご迷惑をお掛けしたのでしたら、申し訳ありません。改めてお詫びをしますので、一度家に帰らせてもらえませんか」

「ふむ。ですがね、関口さん。そういう訳にはいかないんですよ」

「何故?」

「あなた、本当に覚えていないんですか」

「何を?」

「あなたは昨日の夜、電車で痴漢をしたんですよ。海野という男と二人で」

「えっ?」

「目撃者の話では、途中で止めに入った人がいなかったら、それ以上の重罪を重ねていたかもしれなかったそうです。判例に従えば懲役十年、といったところでしょうか」

「そんなバカな」

 身体が震える。何かしたにしても、器物破損くらいだと思っていた。まさか。まさか俺がそんなことをしでかしてしまっただなんて。何かの冗談じゃないだろうか。

「関口さん、これは事実なんですよ。それにあなた、オディヴィルを服用していないでしょう」

「確かにそうですが、それが何の関係があるんですか」

「関口さん。このご時世、あれを飲んでいなくて性犯罪で捕まったら、未必の故意を認定されてもおかしくないんです」

「未必の故意? 何ですかそれ?」

「犯罪を犯すことになっても仕方ないと思っていた。そう認定がされるということです」

「そんなつもりなんて、全然ない」

「でもねぇ。その言い訳だと、罪から逃れるのはなかなか難しいんです。しかも、一緒に捕まった海野は男権主義者として有名な男なんですよ。『男らしさを取り戻す』とか言って、犯罪行為を繰り返している」

 なんてことだ。海野がそんな人間だったなんて。

「けど、海野とは昨日会ったばかりなんですよ」

「おっしゃる通り。しかも、関口さんは大量のアルコールを摂取されていた。これまで性犯罪の犯歴がある訳でもない」

 男は眼鏡をかけ直す。そして、言葉を続けた。

「捜査に協力してくださり、更正プログラムを受けてくださるのであれば、情状酌量の余地は充分あるんじゃないかな。と、私は思うんです」

「何でもします。だから、実刑だけはーー」

「わかりました。関口さん、その言葉が聞けて私もうれしいです」

 男はニヤリと笑った。

 それから俺は、男から聞かれたことに問われるがまま答えた。正直、覚えていないこともあった。だが、俺が答えられないでいたら、男が誘導するようなことを言い、俺はそれに従って話した。どれくらい話をしたのかわからなくなってきた頃、男は頭を下げる。

「関口さん、ご協力くださりありがとうございました。今日はお帰り頂いて大丈夫ですよ。お疲れ様でした」

 良かった。どうやらこれで解放されるらしい。男は椅子から立ち上がり、部屋の出口へ向かう。俺はそっと胸を撫で下ろした。男がドアノブに手をかける。だが、ドアを開けずに、首だけ振り返った。

「ところで、関口さん。海野は、藤山総理の話をしませんでしたか」

 えっ? どういうことだ。確かにそんな話はしたが、あれは与太話だったんじゃないのか。ダメだ。黙っていたら、怪しまれる。何か答えなくちゃいけない。

「うーん。特に記憶にはないです。何か関係あるんですか」

「いいえ。特に覚えていらっしゃらなければ、全て忘れてください」

 そう言い残して、男は部屋を出て行った。


 目の前で女性が嫌がっている姿が見える。それを複数の男が押さえつけて、代わる代わる陵辱をはじめた。彼女は叫び声を上げているのに、男たちは下卑た言葉を投げかける。そしてーー。

「やめてくれ」

 俺は悲鳴を上げる。

「はい。いいですよ」

 声がして、映像が消えた。そして、医者が部屋に入って来る。

「関口さん、ご気分はいかがですか」

「吐き気がします」

「そうですか。治療は順調に進んでいるみたいですね」

「本当ですか?」

「ええ。このままでしたら、次回で治療プログラムも終了でいいでしょう」

「良かった」

「関口さん、真面目な患者さんでしたからね」

「ええ。あんな過ち、二度と犯したくはないですから」

「なるほど。やっぱり痛い目をみた方は真剣度が違いますね。普通は倍くらい時間がかかりますよ。では、処方箋を出しておきますので」

 俺は医者に礼をして、家へ帰る。当局に協力したおかげだろうか。俺は更正プログラムを受けることを条件に不起訴となった。

 海野がどうなったかは、わからない。メディアでは海野が性的暴行で逮捕されたことがほんの数行報道されたくらいで、続報はない。ネットでは「海野本人の家と正反対に行く路線で捕まったのはおかしい」と指摘する投稿があった。しかし、その投稿もすぐにアカウントごと消えてしまった。海野に会った店も、あの後行ってみたら潰れていた。

 目の前の信号が変わったので、俺は歩き出す。その時、目の端に見慣れた顔が映りこんだ。

 またアイツか。

 ヤツと初めて会ったのは例の店が潰れていたのを確認した帰りだ。危うくぶつかりそうになったのでよく覚えている。

 それからだ。定期的に見掛けるになったのは。最初は他人のそら似かと思った。だが、何回も続けば、相手に何かの意図があることは嫌でもわかる。

 男は決してこちらに何かをしてくる訳じゃない。けれども、存在を隠そうともしない。それはまるで「いつも見ているぞ」という警告のようだ。

 余計なことをすれば、俺もあの店のように存在を潰されてしまうんだろうか。

 そんな想像が頭に浮かぶようになり、怖くなった。だから、もう何も調べていない。

 部屋に着くと夕飯の材料を冷蔵庫にしまって、俺は掃除をはじめる。不起訴処分とはいえ、大事を起こしてしまった俺は会社をクビになった。すぐに仕事を探したが、更正プログラムが終わっていない人間を雇ってくれる会社はなかった。その結果、今は専業主夫だ。

 ただ、社会復帰を支援してくれる団体のお陰でプログラム終了後に雇ってくれる会社は決まっている。小さな会社だが、社長の人柄は良い。俺に対して「一度失敗しているからこそ、その重みをわかっている」と言ってくれる。ありがたいことだ。

 そういう意味で一番感謝しなくちゃいけないのは晴美だ。本来だったら事件を起こした時点で離婚されてもおかしくなかった。今や両親も兄弟もいない俺に同情してくれただけなのかもしれないが、一緒にいてくれたことは俺にとって大きな支えになった。

 思い返せば、事件を起こす前に俺が晴美にしていたことには、反省の言葉しか出てこない。自分では家事をしているつもりだったが、実際に自分で全部やってみてわかった。たいしたことはやっていなかったのだ。

 それに、彼女の気持ちに寄り添えていなかった。晴美はよく俺に小言を言っていたが、本当はそこに問題があった訳じゃなくて、俺の無関心さに腹を立てていたのだろう。だが、俺は男を言い訳にして面倒なことから目を背けていた。今ならそれがわかる。

 掃除が終わって、夕食を作っていたらインターホンが鳴る。

「ただいま」

 やっぱり晴美だ。

「おかえり。もうそろそろできるから、座ってろよ」

 俺は応える。

「えぇ? 手伝わなくて大丈夫?」

「ああ。お前も仕事で疲れてるだろ」

「じゃあ、せめて飲み物くらいは用意しておくわ」

「サンキュ。頼んだ」

 話をしているうちに準備ができたので、俺は料理をキッチンに運ぶ。自家製のジンジャエールで乾杯すると彼女は俺に尋ねた。

「今日の病院、どうだった?」

「ん。次で問題なければ、終わりだってさ」

「うそ。良かったじゃん」

「そうだな。やっと俺も社会復帰できるよ」

「そうだね。でも、無理し過ぎないでよ。まだ体調が良くない時もあるんでしょ」

 治療をはじめてから、性欲がわき上がるような状況になると体調が悪くなる。慣れてくれば症状は出てこなくなるらしいが、まだそこまではいっていない。

「そうだな。まあ、俺も年だからさ。そのうち落ち着くんじゃないか」

「そう。姉さんのところの克哉くんが『中学校に入ってから辛そうだ』っていってたから」

「男子中学生は、もともと毎日そんなことばっかり考えてる時期だからな」

「そうみたいね」

「ああ。けど、きっと悪いことばかりじゃないさ。オディヴィルのお陰で、これからの若い奴らは俺たちの世代よりもっと上手く付き合っていけるようになるんじゃないかな」

「うん。でも、本当にこれでいいのかしら。薬の力でコントロールするなんて、自然の摂理に反してるわ」

「どうかな。俺個人としては、治療を受けて良かったって思ってるけど。人生、変わったよ」

「ふぅん。確かにあなた、変わったわ」

「どんな風に?」

「昔は私のことを女っていう記号としてしか見ていなかった気がするの。けど、今は一人の人間として向き合ってくれているって感じる。自分ではどうなの?」

「うーん。前よりも自分の感情を感じられるようになったんじゃないかな。昔は男だからって抑えてたけれど、楽になった。今の方が幸せだよ」

「そっか。じゃあ、これでいいのかもしれないわね」

 晴美は笑顔でうなずいた。


 その後、藤山克郎は汚職で逮捕された。そして、捜査の中で藤山がオディヴィルの普及をかなり強引に進めていたことがわかった。中には反対派をでっち上げの罪で逮捕させたようなこともあったらしい。俺を取り調べた男は、海野を活動家だと言っていた。だとしたら、俺たちの事件もその類だったんだろうか。

 だが、もう真相はわからない。公判へ進む前に、藤山は不慮の死を遂げてしまったからだ。

 藤山の疑惑が表沙汰になったことで、オディヴィルの排斥を主張する男たちがにわかに活気づいた。が、それも賛同者をそれほど得られず、すぐ尻すぼみになってしまった。今、メディアはマナー違反で炎上した有名人の話題でもちきりだ。それに最早、大多数の男たちにとってオディヴィルは日常になっている。

 クールビズが導入された当初、強い抵抗を受けたと聞く。だが、今は一年の半分もネクタイをしていない。本当はみんな嫌だったんだろう。

 オディヴィルも同じだ。

 「男らしさ」にも、本当はみんな疲れていたのかもしれない。

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「男」が消えた日 藤間 保典 @george-fujima

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