一章(18)神聖樹
帰りは五日歩き、ようやく村が見えてきた。リュトはエルのことが気がかりで、一人で先に村へと駆ける。
村の入り口に辿り着くと、安堵からがグッと疲れを感じた。
相変わらず村人たちからは、否定的な視線を感じたが、そのことも含めて村の様子は出と時とあまり変わりなく思えた。リュトは、エルがいるであろうアジトへと一直線に駆けて行く。アジトの扉を開き、エントランスを見回す。
しかし、ここにエルの姿は見当たらない。
次に、二階の部屋を見にこうと階段へと足を向けたところで、若い男がリュトに立ちはだかった。
「仲間はどうした」
この男はリュトがスファラと共に、ヴォルガンたちの捜索に行った事を知っているらしい。そして、リュトが一人で帰って来たことを、不信に思っているようだ。
男の意見はここにいる人たちの総意であるようで、部屋の空気が一気に重苦しくなった。疑い、畏怖、怒り、様々な負の感情がリュトを取り囲んでいる。
エルを心配するあまり、ヴォルガンたちを置いてきたことが間違いだったらしい。共に帰ってくれば、こうはならなかったはずだ。
彼らが村に到着するには、もう少し時間がかかるだろう。だが、それまで足止めをくらっていては、先に来た意味が無くなってしまう。
「さあな」
リュトは適当に答え男を振り切ろうとした。それに対し、男はリュトを逃がさまいと、リュトが避けた先でまた行く手を塞いだ。
「お前が殺したのか」
「は?」
「お前が皆を殺したんだろう!この悪魔め!!」
なぜそうなった分からないが、勝手話もいいところだ。助けに行った人を、何が面白くて殺すのか。放って置けば死ぬものを、わざわざ危険を犯してまで殺しに行くなど、よっぽどの馬鹿か、狂人だ。きっとリュトは後者なのだろう。村人たちが自分のことをどう思っているのか、リュトは改めて思い知らされた。
「だったらどうする?お前に何ができるんだ。自分で助けに行くことすら出来ないお前らに」
リュトに核心を突かれた男が、羞恥で顔を赤く染める。
「な、なんだと!」
男は惨めさを隠すために大声で怒鳴った。
それを皮切りに、他の者も同じように騒ぎ立てる。
「やっぱりお前が殺したんだな」
「赤毛の忌み子よ。あいつは人間じゃない」
「まさか、食ったのか!?化け物めっ」
堰を切ったようにあふれ出る罵倒の数々に、リュトは遠い昔を思い出した。
地下の隠し通路まで響く国民の怒号。皇族に当てられた、謂れの無い言葉の暴力。
当時は耳で聞いていただけだたが、空気さえも震わせる轟音に恐怖し身を震わせていた。
もしも、自分が生きていることが知れたら、捕まって処刑されてしまう。死にたくない。
当時はそう思い、小さく縮こまるだけの子供だった。
あの頃が遠くに感じられるほど、リュトの心は変わった。ガラスのような繊細な心は、鋼のように固く。陽だまりのような温和な性格は、悪魔の如き冷徹さに染まった。
明確な殺意を投げつけてくる群衆を前にしれも、少しも恐怖心を抱かない。
それどころかリュトの心は凪いでいた。自分に向けられた言葉や視線が、まるで他人事のように思え、平然とその風景を眺めていられる。
「殺してやる!」
男に胸元を掴まれ、リュトの意識は思い出から引き戻された。
大した勇気も持てない男が、武器も持たずに拳を振り上げている。人を傷つけることにさえ迷っているのか、男の拳は震えていた。
その無様さを、リュトは鼻で笑った。男と目が合う。
迷いに怒りが勝ち、いよいよ男は拳を振り下ろした。
拳が肉を打つ乾いた音は観衆の声にかき消されたが、目の前の光景に誰もが声をなくす。
男の拳は、迷っていた割に勢いが良かった。普通の喧嘩ならば相手に怪我をさせていただろう。
しかし、リュトに対しては力が弱すぎた。リュトは男の拳を簡単に捉え、このまま捻り上げてやろうかと思ったが、面倒ごとになるのは目に見えている。押し返すだけに留めた。
だが、それだけで男はよろけ、リュトに掴まれた拳を痛そうに抱える。
囲まれたままのリュトは、静かになったものの、まだ警戒している彼らを蹴散らすわけにもいかず、どうしたものかと頭を抱えた。
「リュトさん、お帰りなさい」
輪の外から場にそぐわない穏やかな声が聞こえ、皆一様に声の方を向く。そこには、にこやかな表情を浮かべたルーシャが立っていた。
「ルーシャさん……?」
ルーシャがは男の隣に並んぶ。
「私たちの問題なのに、手伝って頂き感謝しています」
丁寧なお辞儀をし、リュトに感謝の意を示した。
その横で、男がは顔を歪め抗議する。
「まってくれよ、ルーシャさん。あいつは仲間を、ヴォルガンさんを殺したんですよ?なんで感謝なんて――」
「夫は生きています」
ルーシャは毅然とした態度で男を制止させた。
「……え?」
いつも穏やかなルーシャの突然の変わりように、驚いた男が口ごもる。
「遠征に行ったみんなは無事ですよ」
「そんな、だって……」
「疑うのなら門の方へいてみてください。凱旋をしていますから」
男はばつが悪くなり、逃げるようにアジトを出ていった。他の残った人たちも同様に、部屋から離れていく。
広いロータリーに数人とルーシャが残った。
「帰ってくるなり騒がしくなってしまって、ごめんなさいね。恩人に感謝の言葉も伝えられないなんて、あとでお説教しなくちゃいけないわ」
ルーシャは困ったように笑った。
「改めて。夫と仲間たちを助けて頂いたこと、本当に感謝しております。私達のできる限りでお礼をさせてください」
深々と頭を下げるルーシャは、よく教育された貴族の令嬢のようだった。
「エルはどこだ」
「エルちゃんは広場にいます」
リュトがルーシャの目を見る。それだけでリュトが何を欲しているか、ルーシャは察した。
「元気に過ごしていましたよ。初めは寂しそうにしていたけど、段々と村に慣れてきたのかしら。毎日広場でお友達と遊んでいました」
今日も、と付け加えてからルーシャの報告が終わる。
「そうか」
リュトはそれだけ言い残し、広場へ向かった。
この村では魔法があまり使えない。初めて来た時からなんとなく感じていたことだが、今日は以前が比較にならないほど明確に感じとれる。
村に入ってからの倦怠感は疲れによるものかと思っていたが、どうやら違ったらしい。
広場の巨木を目にして、リュトは確信した。神聖樹はお伽噺ではなく、実在するのもだったのだ。
砂化を逃れている時点で関心はあったが、所詮は枯れかけた木に過ぎなかった。この村に異形が近づかないのはこの木のおかげだと言う、スファラとの言葉を素直に信じてはいなかった。それでも実際にこの村が成り立っていることから、地形的に何らかの特徴があるのだと考えていた。
しかし白く輝く巨木を前にして、自分の憶測がいかに適当だったかを、まざまざと見せつけられているような気分になる。
数日の間に一体何があったのだろうか。もしや村人の信仰心が神に届いたのではないか。
実際、神聖樹に祈りを捧げる村人の姿を何度か目にしていた。それが最近始まったのではなく過去何十年と続いてきたものならば、そろそろ祈りが届く頃合いかもしれない。
樹の下には大きな影ができている。見上げれば、幾重にも分かれた枝に空を覆い隠す無数の緑が生い茂っていた。砂地に見合わない瑞々しい葉は、朝露に濡れたようにキラキラと輝いている。
見事なものだ。久方ぶりに目にする自然は、言葉にならないほど美しかった。
世界を無に変えた膨大な魔力の渦。それを浄化する神聖樹。
人々が神を妄信し魔を嫌うことも、この光景を前にすれば理解せざるを得なくなる。
「お兄ちゃん!」
嬉しそうに駆けよるエルを、両手を広げ向かい入れた。思い焦がれた妹の温もりを肌で感じ、ギュっと抱きつくエルと同じ分だけ強く抱きしめ返した。
「エル、いい子にしてたか?」
エルに会いに行った時、必ず始めに口にする言葉だった。
「うん。いい子で待ってたよ」
腕を解き後ろに組んだエルは、誇らしげに胸を張りリュトに褒めてもらえるのを、今か今かと待っている。リュトはその期待に応え、優しくエルの頭を撫でてやる。
「えらかったな。ずっと一緒って約束したのに、寂しい思いをさせてごめんな」
「ううん、大丈夫。皆がいたから寂しくなかったよ」
「そうか」
「それにね。新しい家族ができたの」
「……新しい家族?」
聞きづてならない言葉に、リュトは眉間に皺を寄せた。新しい家族なんて、そう簡単にできるものではない。
もしや、ペットのことを言っているのだろうか。野良猫でも拾ってきたのなら納得できないでもないが、この世界にそんなものは殆どいない。
訝しむリュトを置き去りに、エルの話は続く。
「うん!お兄ちゃんより大きいから、お兄ちゃんのお兄ちゃんかな?お兄ちゃんみたいに長い髪でね、色はエルと同じ白なの」
相手は自分より年上の男?しかも、エルと同じ白い髪ときた。まさか、エルの父親ではないかと、リュトは胸をざわつかせる。
「あれ?お兄ちゃん、髪が短くなってる」
「ああ、そろそろ短くしようと思っていたから切ったんだ」
「それより、その人はどこにいるんだ?」
「ここだよ」
エルは何もない隣を指さし微笑む。
「***。この人が私のお兄ちゃんだよ」
何やら会話をしているようだが、リュトにはエルが一人で話しているようにしか見えなかった。
寂しい思いをさせ過ぎて、幻覚を見るようになってしまったのか。それに、名前が***なんて。神話に出てくる神と同じ……。
そこまで考え、村に起きたすべての変化が腑に落ちた。自分だけが息苦しい村、急に元気を取り戻した大樹、エルの独り言。
ーーやはりエルは神子なんだ。***は神子であるエルにしか見えないのだろう。姿はないが、確かにそこにいてエルを見守っている。
まさか神が直々に面倒を見てくれるとは、リュトにとっては嬉しい誤算だ。これからのことに悩んでいたが、ようやく決心がつく。
「お兄ちゃんにも見えないんだね……」
寂しそうに笑うエルの頭を、リュトはもう一度優しくなでた。
「見えなくても、そこにいるんだよな」
リュトは腰を上げてからエルの横に視線を移すと、見えない相手へと話しかける。
「俺が留守の間、エルを見てくれて助かった。これからもエルと一緒に居て、守ってくれると助かるのだが」
チラリとエルを見れば、察しのいい妹は***の言葉を伝えてくれる。
「まかせて、だって」
「ありがとう」
リュトは心からの感謝を伝えた。相手がこの村の誰であっても、安心してエルを任せられる相手はいなかった。
だが相手が神ともなれば話は変わってくる。彼以上にエルの傍に見合った者など、どこにもいやしないだろう。例えリュトであっても例外ではない。
この壊れた世界で、神こそが唯一無二なのだから。
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