一章(1)選択~白へと至る道~
入り組んだ廊下を迷う事なく進んでいく。もう十数年も暮らしている城で、今さら道を間違えるなんて馬鹿なことがあってはいけない。それに、もし今日ここへ来たばかりだったとしても、リュトは道に迷う訳にはいかなかった。
一刻も早く目的地へとたどり着かなければ、大切なものを失ってしまうのだ。
リュトは焦燥感に駆られながら、無駄に長く広い廊下をひたすらに走り続けた。
かつて黄金宮と呼ばれたこの場所も今や埃に塗れた廃城と化し、値の付けられない貴重な美術品たちは過去の栄光を見る影もなく汚れ、値もつかぬほどに朽ちている。
真っ黒に汚れた絨毯は、リュトの記憶が正しければ、真っ赤な生地に金糸の刺繍が施された実に豪華なものだったはずだ。
無数に張られたの蜘蛛の巣が、頭上から遥か高い位置にある天井を、荘厳な金から鈍い銀へと、いつの間にやら塗り替えてしまったようだ。
目の前の光景が現実であると実感すればするほど、遠い過去となった煌びやかな思い出が幻のように消えていく。
今この時こそが夢であったならどれほど良かったか。そう思い全てを投げ出すには、リュトは強くなりすぎた。願うだけでは誰も守れないこと。失えば二度と戻らないこと。大切なものを奪われた痛み。リュトは幼い頃に大きな苦しみを受け、心は鋼のように強く、そして冷たくなってしまったのだ。
光の降り注ぐ窓辺で毎日のように聞いていた母の歌も、最後に生きろと言った父の顔も、もう思い出せない。
それでも、リュトには全てを捨てて今ここに立つ理由がある。
リュトは感傷に流れてそうになる思考を切り替えるべく、走る速度を速めた。
目的地である武器庫まではまだ距離がある。この廊下の突き当たりを右に曲がって、最後に階段を一つ降りればすぐ目の前が武器庫なのだが、現在は中央を縦に横断する中央廊下を北上中だ。東の端にある武器庫までは、まだ城半分の距離を横断しなければならない。かつて栄光を極めた皇族の離宮の広さたるや。その辺の大富豪の屋敷とは規模が違う。
ただ一つ救いなのは、あの角を曲がった後は一直線に行けばいいだけだけと言うこと。
たどり着いた突き当たりの角を曲がった先で、リュトはピタリと足を止めた。遅れて頭の高い位置で結んだ赤い髪が、リュトの背中を軽く叩く。
「リュト様……」
廊下の先には男が立っていった。男は悲しげな表情でリュトを見つめていた。
これまで走ってきた広い廊下と違い、ここから先は大人二人がようやくすれ違えるぐらいに道が細くなっている。その真ん中に立つ男はかなり邪魔だ。
「邪魔だ。どけ」
リュトは鋭く男を睨みつけながら容赦なく言い放った。男は一度怯んだものの、その場を立ち去ろうとする様子はないようだ。剣を構え真っ向からリュトの進行を阻止する気らしい。
さて、こうなればやることは一つに限られる。
先へ行くには男を片付けるしかないのだ。
リュトは右脇に帯刀する剣を左手で引き抜き男へと構えた。
ーーどうせ最後には全員死ぬことになる。今俺が殺しても後でアイツが殺しても、あの男の未来は変わらない。
リュトは体を巡る力の流れに意識を集中させ、その身に秘められた能力ーー魔法を発現させる。リュトの赤い髪が力の源である魔力に反応し、キラキラと光を帯び始めた。
「リュト様、どうか王として我々をお導きください。我々にもう一度、光の元へ至る幸福をお与えくださいませ」
目の前で涙を流しながら懇願する男に、リュトは同情もなければ、呆れもなかった。まだ命乞いをされる方が同情の価値はあっただろうと、リュトは心の片隅で思った。
だが、きっと彼らは皆口を添えて同じ事を言うに違いない。彼らにとってリュトは、命をかけて忠誠を尽くす相手であり、復讐を果たす為の切り札なのだから。
十一年前、リュトが八歳の時に起こった民衆の暴動によって、皇帝による大陸の支配は終わった。捉えられた皇族は次々に処刑され、最後に処刑されたのは皇帝だった。
民衆は歓喜に沸き、これでやっと悪政から解放され皆が平和に暮らせると、誰もが本気でそう思っていた。
しかし、世界は滅んでしまった。
太陽も月もない空。代わりに世界を見下ろすのは不気味な厚い雲だけ。昼も夜も空からの光が届かなくなった大陸は、赤や灰とまだらに怪しく光る雲の僅かな光だけに頼る、薄暗い世界になってしまった。大きな窓から見える外の風景は、いつ見ても変わらずに陰気だ。
何故こうなってしまったのか。理由は知っている。皇帝が死に際に悪あがきをしたせいだ。
でもどうやったのかと聞かれても、リュトには分からない。そもそもリュトはその場にいなかった。いたとしても当時八歳のリュトが、これから世界が滅びるなんてことを予測できる筈もない。もし知っていても、リュトが父親を止める術はなかっただろう。
あれから十一年たった今でも、リュトは父親に少しも近づけていなのだ。
リュトは十一数年もの長い歳月を、意味もない偶像に縋る信者達に捧げてきた。皇族最後の生き残り。皇帝の息子。英雄直系の血。魔法の力を受け継ぐ者。
いく年か先でリュトが皇帝になるのであれば、そのような期待も重荷も背負ってやるのが君主の務めといえよう。だが世界が滅びた今ーー、それも皇帝の手で滅ばされたというのに、この哀れな信者達は何に縋っているのだろうか。
ーー欲しいのは指導者か。ならば自分は向いていない。それとも拠り所か。ならば側にいるぐらいはできた。
彼らがどちらを望んでいようと、今まで共に生きてきた。期待を寄せる眼差しが鬱陶しくても、皇帝としても自覚を口煩く説かれても、決して追い出そうとはしなかった。彼らは皇族に組みする立場であり、ここを追われれば行く当てがない。リュトにとって彼らは、ハリボテの君主を信じ続けなければならばい哀れな同胞だった。
だが、それも今日までの話だ。彼らは犯してはいけない禁忌に触れてしまった。リュトにとって唯一無二の存在である大切な妹ーー、エルに刃を向けたのだ。
彼らはもう同胞などではなく、殺すべき裏切り者でしかない。ここへ来る間にも何人かと出くわしたが、邪魔をしたため全て殺した。目の前に立ち塞がる男も、今から殺すことになるだろう。
リュトが魔法による身体強化を完了させた頃、複数の足音が近づいて来るのが聞こえた。足音は男のすぐ後ろで止まった。狭い廊下で重なりって立つ彼らの正確な人数は目視できないが、足音から男の後ろにいるのは四人くらいだろうとリュトは判断する。
五人程度であれば、リュトの敵ではない。
リュトが剣を振るえば、一人、また一人と、赤い飛沫を撒き散らしながら崩れ落ちた元同胞が足元に転がる。的確に急所を狙い、一突きで息の根を止めていく。
「リュト様!どうかっ!どうか我らの皇帝でーー」
……いてください。最後尾にいた女の微かな声がリュトの耳に届いた。
リュトが彼らの皇帝であったことなど一時もなかった。彼らが勝手にそう思っていただけで、リュトは一度たりともそう名乗ったことはなく、それを認めたこともなかった。それなのに皇帝でいてくれと言われるなんて。
彼らは理想を押し付けるだけで、最後までリュトを理解しようとはしなかった。だから死んだのだ、と思えば罪悪感は塵ほども湧いてこない。
鞘に戻そうと剣を振るえば、水音が壁に張り付いた。リュトが無意識に視線をやれば、掃除もせずに曇ったままのランプが、壁に描かれた赤い艶やかな線を弱々しい光で照らしていた。
剣を鞘に収め、リュトは先を急いだ。
細く長い最北の廊下。ここを抜ければ武器庫はもうすぐそこだ。
あれ以降、誰とも遭遇せずに静かな廊下を、リュトは自分の足音と息が上がる音だけを聞きながら走り続けた。
今通り過ぎた扉は城の外へと通じる扉だ。外敵が来た時にすぐに武器を持ち運べるよう、武器庫は屋外に近い配置になっている。つまり目的の武器庫はもう目と鼻の先だ。階段を駆け下り、扉にかけた魔法陣を扉ごと蹴破って、転がり込むように武器庫へ入った。
「お兄ちゃん!」
「エル……」
計画通り、武器庫には妹の姿があった。駆け寄り安否を確認すると、ようやく一息透けた。
だが安堵するにはまだ早い。扉を塞ぐ形で、数人の元同胞たちがリュトを見ている。
やっと会えた妹に抱きつきたい気持ちを抑え、リュトは妹を後方へと下がらせた。
「リュト様。その様な女などお捨てになって、我々の元へとお戻りください」
一番前の男が一歩前にでる。次の瞬間、リュトは男の心臓を一突きし、男はその場に崩れ落ちた。後ろにいた男たちがわずかに動揺する。リュトはその隙を逃さず、素早く男たちに切り込み、一人は首を落とし、もう一人は肩から斜めに切り落とした。
残りは一人。リュトはその人物を見て少し眉を潜めたが、ただそれだけで、他の男と同じように腰を刎ねた。よく知った女だったが、リュトの瞳に後悔の色はない。
まだ息をしている女が、リュトに向かって手を伸ばしてきた。しかし、その手は届かぬまま赤い池に沈んだ。女の目から流れる涙を見ても、リュトの心は全くの無だった。
出口が開けば、向こう側から冷たい風が流れてきた。リュトは一度大きく息を吐き、妹を迎えに行こうと振り返る。振り返った先で物陰に隠れる妹と、その後ろに立つ男が目に入った。
「……リュト様」
男が言葉を発すると、男の存在に気が付いていなかったエルは肩を振るわせ、恐る恐る声のした方へ首を回す。
そんなエルを素通りし、男はリュトの前で膝を付いた。
「任務を完遂いたしました」
頭を下げたまま身動き一つしない男の首に、リュトは手にしていた剣の刃を添える。
「ご苦労だったな」
男の首元からゆっくりと刃が離ていく。男は静かに息をのんだ。
「先に逝け。後から俺も向かう」
リュトは振り上げた剣を男の首に向かって迷いなく振り下ろす。狭い通路の壁に赤い線が引かれ、血には男の首が転がった。
リュトはしばらく床に転がる男の顔を見つめ、ゆっくりと瞼を閉じた。
再び目を開ければ、まだ物陰に隠れたままのエルが見えた。
「おいで、エル」
リュトに呼ばれたエルは、足元の骸を避けリュトの横に並んだ。
「お兄ちゃん……」
妹が目に涙をためて、不安そうにリュトを見上げている。
リュトは妹を心配させまいと、優しく微笑みかけた。
「エル、もう少しだ。もう少しで外に出られるから、お兄ちゃんから離れないようにしっかり手を握っているんだ」
「うん!」
妹――エルが、リュトの真似をして笑顔を作ったが、その表情はまだ少し硬い。エルが目の前で人が死ぬ姿を見たのは、今日が初めてかもしれない。リュトは多くの人や獣の死を日常にしてきたが、エルの目にはなるべく触れさせないようにと、常に気をつけていたのだ。今日で全て台無しになってしまったが、今回ばかりは、なりふり構ってはいられなかった。きっと、今後はこういったことが度々あるかもしれない。それでもリュトは、エルにはなるべく綺麗なものだけを見せていたいと願った。
「怖い思いをさせてごめんな。お兄ちゃんが必ずエルを守るから」
リュトが頭を優しくなでると、エルは心地よさそうに目を閉じた。暖かい兄の温もりを感じ、エルは心からの安堵を浮かべる。
二人は手を繋ぎ、ゆっくりと階段を上がった。上がり切った先に、外へと繋がる扉が見えた。扉は半分ほど開き、外の様子が少し見えるようになっている。
「よく頑張ったな。あそこから外に出られるんだ」
リュトが指さす方を見て、エルは首をかしげた。
「あれがお外なの?なんだか暗くて冷たいね」
エルの言うように、扉の向こうは薄暗く、肌に感じる風は冷たく感じた。
「そうだな。でも、ここよりずっと広くて素敵なところだ」
この城は建物としては広いが、世界と比べればちっぽけなものだ。やがて朽ち果てるのを待つだけの廃屋に籠るよりも、滅びかけた世界に残る安息地を渡る方が、きっと幸せなはずだ。
リュトは常々、自分の知る美しい世界をエルにも見せてあげたいと思っていた。その願いが叶う可能性が安息地にはあった。
リュトはエルの手を引いて歩き出した。
悲しい過去を捨て、妹の幸せの道へとーー。
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