鈍色に萎れるリリー

higan

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 桜が散り、ゴールデンウィークを超えて、構内の花壇には紫色の可愛い花が咲いていた。隣を通りかかれば、ラベンダーの芳香が感じられた。昨日は雨だったようで土は少々濡れているようだが、今日の空には雲一つなくからりと晴れ上がっている。


 月曜日の一時間目ともなれば少し憂鬱に思うものだが、この爽やかな日差しの下ともなれば、ちょっとは気分が良くなるというものだ。


 段々と春に別れを告げ、情熱の季節が迫ってきている。実際私も、白地に若草色の模様が少し入った薄手のTシャツに七分丈のジーンズと、昨日までよりも随分涼しげな服装だった。ここ最近連日雨で、少し冷たい空気が帰ってきていたものの、天気がよくなると同時に急に初夏の表情を見せてきた。


 去年までは高校生だったから、スカート以外で学び舎に向かうというのはどこか新鮮な気分だった。元々私はスカートが苦手で、今年からは喜んでズボンを履いているのだけど、それでもちょっとだけ、女子高生時代の紺色のスカートが懐かしかった。



「よっ、霧谷」



 学部棟の入り口で一人の男子が私の名前を呼んだ。ほんの少し、私の表情が強張る。でもそれも刹那の出来事だ。彼に気取られないように何とか、私は作り笑いを顔に貼り付ける。



「おはよう、佐藤くん。今日は実莉と一緒じゃないんだ」



 目の前の好青年に笑顔で挨拶を返す。ありふれた苗字をしている男子だが、遠くからでも目立つ身長と、清潔感のある笑顔が魅力的な人間だった。高校以前の友人ともまだ仲良くしていたり、大学でも顔が広かったり、とても社交的な人だった。


 自転車の鍵をポケットに入れ、小さく彼は首肯する。土日に活動しているというフットサルサークルで疲れているのだろうか、体の疲労を追いやるために彼は、大きく伸びをしながら私の問いかけに答えた。



「うん。今日は二限目からだから、一旦自分の家に戻ってから大学行くってさ」


「あれ、実莉ってこの時間授業あるよね」


「休講らしいよ。俺らのとってる授業は休みでも何でもないけど」



 つまりは、さっきまで一緒にいたのか。どこかで罅が入るような音がした気がした。そんなことに気が付いて、勝手に塞いでしまう自分が嫌になる。でもそんな汚い感情は誰にも見せないようにして、私はいつも通りの自分の顔を作った。


 私の苦悩など当然知らないだろうこの佐藤という男は、課題の提出期限が迫っていると嘆いていた。何でも間が悪く三つの授業で同じ週に課題の締め切りを設定されたのだとか。私の個人的な執着はさておき、それには少しだけ同情した。



「じゃあ時間無いから先行くわ、じゃあな」


「うん、またね」



 友人としては彼のことは嫌いじゃない。むしろ好感の持てる人間だ。私自身の恋愛対象としては見れないのだけれど、知人を紹介することは快く引き受けられる。


 彼の背中を見送り、ある事を思い出した。そういえば、慣れないのはスカートを履かないことだけではなかったな、と。


 同じ学舎の中に男子学生もいる。入学してまだ三か月にも満たない私は、そんな事にも慣れていなかった。



 実莉と私とは、中学校からの付き合いだ。私たちは中高一貫の女子高に通っており、奇しくも六年間ずっと同じクラスにいた。小学校を出てからずっと、教室には女の子しかいない生活をしてきたものだから、男子の隣で授業を受けるという今のキャンパスライフが、新鮮に感じられる訳だ。


 席替えではよく近くの座席になったものだ。部活動は私がバスケ部で、実莉は吹奏楽部だったから全然違ったけれど。それでも、帰る時間は大体一緒だったから大体二人で帰っていた。わざわざ自転車を押している私に、電車通学の実莉は「気にせず帰っていいよ」と言ってくれたけれど、私は一度もそうしなかった。多分、隣に並んでいるのが心地よかったからだろうと思う。


 私と実莉とは、かなり正反対な人間だった。英語が得意で古文や現代文が苦手な私と、国語は得意だけれど英語ができなかった実莉。運動ができる私と、歌声の綺麗な実莉。背が高くて中性的でバレンタインには部活の後輩からよく贈り物をされるような私と、小さくて華奢で女の子らしい柔らかい表情や声音を纏う彼女と。


 私たちは間違いなく親友だった。いや、きっと、今でも親友だ。だが、何かがずれていると私の心は訴えていた。そのずれは、自分の中にあった。なぜか周りの認識と、私に潜む感情との間に齟齬があった。


 見ないふりをしていたのか、本当に気が付いていなかったのか。分からないけれど、ずっと私の中で、私にも見つからないように隠れていた想いに気が付いたのは、実莉と出会ってから随分経ってからの事だった。


 それは高校二年生の修学旅行の最終日だった。土産物屋で家族へのお土産を選んでいる私のところに、カバンに着けるようなストラップを二つ手にして、あの子はやってきた。星の砂が色のついた液体と一緒に瓶に入っている、綺麗なものだった。


 青と橙、それぞれ私と実莉が好きな色が美しく詰められている。



「お揃いの何か買って帰ろうよ」



 星の砂も顔負けなくらい、目をキラキラさせて、彼女はそう言った。何か私たちの友情の証として、同じものを身につけたかったのだろう。正直それは、土産物としては定番のもので、私たち以外にも買っている人は沢山いたと思う。


 だとしても、私たちがお揃いにしていることに意味があった。他の人も同じように買っていようと、それに変わりはない。それまでの五年間、ずっと同じ教室で過ごして、ずっと同じ道を歩んでいた。



「来年も、大学に行っても、ずっと一緒に居ようね」



 ずっと一緒。そんな言葉に私は、自分の胸の中で何かが高鳴るのを感じた。あれは一体何だったのだろうか。心臓だなんて、そんな野暮なことを言うほど私も落ちたものではない。


 暴れそうになる拍動をこらえて。その可憐な瞳に視線が吸い寄せられてしまいそうになるのを我慢して。私は自分でさえ気づかなかった、この執着の正体に名前をつけた。ひっそりと、何かに怯えるように、自分以外の誰にも見つからないようにして。


 それは友情よりもずっと酸っぱく、どろりとしていて、そのくせうんざりするほど甘い熱情だった。


 当時からして世間からの私への評価は、落ち着いた少し男子らしいさっぱりとした気性のある女子だった。だからそのイメージが崩れないように、かっこつけながら笑った後に、彼女が手にしていた内の一つを受け取り、並んでレジに向かった。


 この時だろう、私がシロップでできた泥沼のようなものにずぶずぶと沈んでしまったのは。そして、この時の私は全然気づいていなかった。それに、今の私も、その時の勘違いを受け入れたくないと、往生際悪くあがこうとしている。


 私はこの時から、ずっと一緒の意味を、きっと履き違えていた。



 現実を突き付けられたのは、まだ過去にもなっていないような一日いちじつだった。ほんの二週間ほど前、実莉の誕生日に二人でカフェに入った時のことだった。誕生日プレゼントを渡して、そろそろ席を立とうかといった頃合いに、「あのね」と実莉が切り出した。


 緊張を紛らわすために、もじもじと掌をこすり合わせている。この六年間、よく見てきた実莉の癖だった。色の白い彼女の肌は、高まる体温に呼応するように、桜のように淡く朱に染まっていた。


 まるで愛の告白を覚悟する乙女のようだと、ふと思った。そんな事を考えると、心の中で悪魔が躍った。同じ感情を共有しているのではないか、じゃなくて、そうに違いないだなんて、あの瞬間は多分、本気で思っていたんだと思う。


 それは確かに、愛の告白だった。



「私ね……」



 相手が、私じゃなかったというだけで。



彼氏好きな人ができたの」



 心底幸せそうに笑う彼女の目は、の私が祝福してくれると信じて疑っていなかった。



 物思いに耽っていると、気づけば一時間目の授業は終わっていた。空調のせいか少し寒気を感じた私は小さく身震いする。この九十分の記憶がほとんどない。だというのに不思議な話だ。優等生としての私は勝手に板書を取っていたようで、ルーズリーフには今日の講義の中身が詰まっていた。


 賑やかそうにサークル仲間と笑いあって、講堂から出ていく佐藤くんの背中を見送る。誰も見ていないのをいいことに、恨みがましい視線を向けて。


 記憶が曖昧なのは、例の実莉の誕生日の日も同じだった。あの時、目の前が真っ白になったかと思えば、次に意識がはっきりとした時には自宅だった。Lineラインには誕生日プレゼントへの感謝の言葉が届いていたし、その後も問題なく友達付き合いが続いているため、多分祝福することはできたのだろう。


 だとすれば良かった。私が悲しいだけなら、寂しいだけなら、安いものだ。勝手に泣いて、怒って、裏切られた気になって、実莉を泣かせることだけは絶対に嫌だった。


 佐藤くんと付き合い始めて、当然のことだが二人で遊ぶ機会は減った。とはいっても無くなった訳じゃない。何せ私たちは女子同士だから、彼氏がいるからといって交遊を断たれることはない。むしろ佐藤くんさえ、折角中学以来の友達なんだから大事にした方がいいと言う始末だ。


 人の気も知らないで、と思う。非の打ちどころのない男性だった。こんなことならいっそ、どこか短所でもあったならば、恨み言の一つや二つ言えたものを。けれども、そんな事さえ許してくれない程に、佐藤くんは私から見ても理想的な男だった。



 出よう。


 一旦二限目は空きコマで、午後から再び授業の予定だった。少し駅の方まで歩いて買い物でもしよう。そう思っていた。講堂の扉から廊下へと出る。そして、学舎の外へ。朝すれ違ったラベンダーと再び邂逅し、そのまま通り過ぎようとしたところだった。



「春ちゃんだ、おはよう」



 大きくてはっきりとした、でも、ふわりとお淑やかな印象も持つソプラノが、私の名前を呼んだ。春陽という名の私を春ちゃんと呼ぶのは実莉に違いない。構内を走る車道を挟み、反対側の歩道に実莉は立っていた。


 先ほど佐藤君を恨みがましく見ていたことを思い出し、つい後ろめたくなる。誰にも見られていないし、咎められてもいない。実莉に至っては知る由も無いというのに、いたずらがばれた子供のような心地だった。


 でも、それなのに。


 もっと自分のことが嫌になる。冷房の効いた部屋で冷えていたこの体が、実莉と会えたというだけで、日差しを浴びた以上の熱を取り戻していた。後ろめたくても、羨ましくても、手が届かなくても、会えただけで嬉しいと感じるこんなに女々しい自分が、心底嫌いだった。



「ねえねえ、春ちゃん。今度の日曜日って暇かな?」



 車の通る隙間を縫うようにして彼女はこちら側へ渡ってきた。カバンにつけた星の砂のストラップが揺れていた。それに目を奪われている私の予定を実莉が尋ねた。おそらくその日はバイトの予定もなかったはずだ。はずなのだが、実際それを予定表で確認するよりも先に私は首肯していた。



「うん、暇だよ」


「よかった。春ちゃんと一緒に行きたいカフェがあるんだ」



 つい最近初めて行ったところで、ずいぶん雰囲気が気に入ったらしい。フードも味が良かったらしく、リピーターになっているようだ。



「抹茶味のスイーツとかも多いから春ちゃんも気に入ると思うよ」


「そうなんだ。じゃあ楽しみにしておくね」



 二人きりの予定が出来、胸が弾んでいた。だから少し、浮かれていた。わざわざ聞かなくてもいいことに、自ら身を投じてしまった。


 そんなの自分の首を絞めただけだっていうのに。



「そう言えばどこで知ったの?」



 そう尋ねて、後悔した。掌を合わせて、擦るようにするその仕草から察した。それと同時に、さっと体の芯が冷えてしまったような気がした。



「佐藤くんにね、連れて行ってもらったんだ」



 私の胸の奥深く、また一つ大きな罅が入った。胸の痛み、とは言わない。ただ、名状しがたい喪失感がある。胸に穴が開いたような、という表現は本当に大したものだ。本当に、体の中心が空っぽになったようなそら寒さがある。


 いつしか私を捕まえていた泥沼のような感情は、いつしか暗くよどんだ底なしの流砂に姿を変えていた。抜け出そうと藻掻くほど、より深みに落ちていく。力ずくで這い上がるだけの気力も、きっと今の私にはない。



「すっごくいいところだったから、今度春ちゃんとも行きたいと思ってたんだ」



 彼女にとっての「ずっと一緒」、その形は言うまでもなく明らかだ。実莉と私は親友だ。六年間寄り添って、思い出を共有したかけがえのない友人だ。だから、この先も、誰かと結婚しても、子供や孫が出来てからも仲良くしたい、そんな関係だ。


 四六時中、じゃなくて、この先どんな大人になっても一緒に歳をとって、友達でいよう。それが、実莉にとっての一緒。にも関わらず、私は私なりの解釈で受け取っていた。



「ごめん、授業が始まっちゃうから行かなきゃ。また後で連絡するね」



 そう言って、私が歩いてきた道の方へ彼女は走っていった。携帯電話で時刻を確認したところ、講義の始まる五分前を示していた。


 何だかどっと疲れたような気持ちだ。罅だらけで崩れてしまいそうな弱い心を、抱きしめるようにして何とか保つ。ちょっとでも気を抜くと、たちまち灰になってしまいそうだった。


 その口で、彼の名前を呼ばないでほしい。嬉しそうに頬を上気させて、特別な温度をのせて、他の人の名前を呼ぶ姿を見るたび、引き裂かれそうになる。いつも傍にいたから、その存在に依存していたのが私だった。


 中性的で、女子校の中で男の子のように持てはやされていた。クールとかかっこいいとか、そんな声を浴びていた。さっぱりした性格をしているとか、そんな評価。自分ではそんなの、一度も思ったことないのに。


 本当の私は、心の中でうじうじしていて、みっともない奴だ。そして未練がましくて女々しい人間だった。弱い自分を認めたくなくて、平気なふりをして、かっこつけた虚像を作り続けただけだ。


 澄ました顔の裏側で、手のひらから零れ落ちていく大切な何かを失うのをひどく怖がっている。本当は、自分の手の中には、ほしいものなんてなかったのに。


 雨露が花弁の隙間に残っていたのだろうか。花壇に咲く沈黙の花から、一筋の雫が地面に落ちた。その昔、内気な少女は人を待つあまり一輪の花に姿を変えてしまったらしい。私にはわかる、彼女は待つことを選んだのではなくて、決心も諦めもできなかっただけだ。


 一体どれだけ待ち続ければ、花咲かすことができるのだろう。


 開くとも知れぬ蕾をそっと胸に抱いて、彼女から逃げるように私は、足早にその場を後にした。


 カバンの肩ひもでゆらゆらとしている星の砂のストラップ。その青がやけに目に痛かった。

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