草陰から蛇は睨む

 亜梨花を家まで送り、少しコンビニに寄り道をして涼は家に戻ってきた。家に入って鍵を掛けてすぐ、涼は今日の夕飯の光景を思い出す。蓮と麻美、そして亜梨花が笑顔を浮かべて幸せそうにしている姿を見れたことは嬉しかった。記憶を取り戻してからというもの、その光景はずっと涼が求めていたものだからだ。


「……?」


 今日はよく眠れそうだ。そう思って帰ってきた涼だが……何かおかしいなと感じた。妙に甘ったるいというか、女の匂いがすることに涼は首を傾げた。その発生源とも言えるのはリビングのようで、涼はゆっくりと覗き込んだ。


「……………」


 そこに居たのは麻美一人だった。蓮はどうやら自室にいるらしく麻美の傍には居ない。天井を眺めるようにボーっとしている麻美の様子……まるで何が起きているのか分からなかった。抜き足差し足忍び足、そんな感じで涼は麻美の隣に立つ。


「麻美?」


 目の前で手をフリフリと振っても麻美は全く気付かない。いや、気づいては居るのだろうが全く反応しない。かろうじて涼の手をゆっくりと視線が追うだけだ。


「……本当にどうした?」


 そう問いかけて涼は気づいた。

 この甘ったるい匂い、まるで女が放つフェロモンのような何か……そしてボーっとして気が抜けている麻美の様子。まさかと、涼はとある仮説を立てた。


「お前……さっきの短時間でヤリやがったか?」


 誤字にあらず、亜梨花が家を出る直前まで抜け駆けはやめようという話をしていたのにも関わらずもしかしたら……まあただ、近くに愛する男が居て一つ屋根の下に住んでいるのだから麻美の気持ちも理解できないわけではないのだ。

 今自室に戻って明日からの日々に夢馳せているであろう亜梨花の様子が鮮明に想像できる。しかし、そんな想像をしていた涼だったがここで麻美がようやく口を開いた。


「してないわよ」

「……そっか」


 真顔でしてないと言われ涼は心の中で謝罪をした。蓮のことになると後先見えなくなるような麻美だが、亜梨花のことを考えて自分の気持ちを抑え込むことは出来るらしい。意外だなと思いつつも、変わったなと涼は笑みを浮かべ――。


「深いキスをして……本番は踏みとどまったわ。でも辛そうだったから口でね、それならノーカンでしょう?」

「……………」


 前言撤回、やはり麻美は何も変わっていなかったようだ。なるほど、確かにそれだけとはいえ言ってしまえば行為なのだから今までの姉弟の枠から進展はしたと言えるだろう。……これは明日辺り亜梨花も行動に出るなと涼は思った。


「……ねえ涼」

「何だよ」


 風呂行って寝るかと思った矢先麻美に呼び止められた。めんどくさいと思いながらも麻美の顔を見て……涼は目を丸くした。頬を赤くし、何かに照れるような麻美の姿に驚いたからだ。蓮のことで一喜一憂はするし、今回のことで亜梨花と張り合うような大人気ない顔を見せることもある。ただ、ここまでの様子は今まで見たことがなかった。

 麻美は言葉を続けた。


「蓮とキスをしてる時、そしてさっきもそうだったんだけど……感じたの。今まで感じたことのなかったそれを、物足りないともっと求めてしまいそうになる切なさを」

「それは……」

「……ふふ、亜梨花には悪いと思ってるけどもしかしたら私は……あいつの呪縛から本当の意味で解放されたのかな」


 内容はあまり大っぴらに話せるものではないが、その麻美の言葉に涼は少し安心した。その戸惑いは間違いなく大切なモノ、これから先もっと蓮と愛を育んでいく上で大事になるモノだ。今まで意味を見出せなかった行為に麻美が喜びを持てるのなら、それはきっと幸せなことだろうと思う。


「でもお前、本当にこれ以上の抜け駆けはするなよ? せめて週末まで我慢しろ」

「亜梨花が泊まりに来た時? でも……それはそれで蓮が大変そうね」


 一体何が大変なのか、クスクスと笑う麻美に涼は溜息を吐く。


「我慢しろじゃないな……はぁ、蓮も災難だなほんと」

「アンタがそれを言うの? 学生の頃からヤリまくってたアンタが」

「もう済んだことをいちいち掘り返すんじゃねえ」


 これ以上は疲れるだけだと、涼は部屋に戻ることにした。そして部屋に戻る途中、ちょうど部屋から出ようとした蓮と顔を合わせた。


「大変だったみたいだな?」

「……うん。でも、姉さんずっと俺のことを気遣ってくれてたみたい」

「そりゃそうだろ。どんなに暴走してもあいつはお前のことを何よりも大切にしてるからな」


 ただ、これからはもっと大変になるぞとは言わなかった。それは蓮自身理解しているだろうし、これから先は当事者たちの問題だ。精々自分は裏側から、いつまでも蓮たちの幸せが続くように祈り、必要になれば介入することを心に決めた。


「それじゃあおやすみ」

「おやすみなさい」


 さて、これでようやく眠ることが出来る。

 その日の夢、最近顔を合わせていない朝倉が出てきたのを涼は不思議に思うのだった。







 翌日、家を出た俺は亜梨花との待ち合わせ場所に向かう。こうしてここに集まろう、そう決めたわけではないがこうして待ち合わせをして一緒に学校に行くことはこれ以降ずっとになるんだろうな。昨日は結構早い時間帯で亜梨花が待っていたし、もし今日もそうなるなら待たせるのは悪いと思って早く家を出た。


「……朝だけでどれだけキスをされることになるんだ俺は」


 起きてから家を出るまで、何度姉さんにキスをされただろう。それでも物足りないと言わんばかりに切なそうな表情をするものだからこっちが反応に困る。何とか抱きしめることで姉さんも満足してたけど、その内我慢できなくなるのは俺かもしれない……昨日みたいに。


「あ、居た」


 視線の先で昨日と同じように亜梨花が待っていた。昨日より早いはずなのにまた亜梨花が待っていたことに驚いていると、こちらに気づいた亜梨花がすぐに駆け寄ってきた。


「おはよう蓮君!!」


 そしてそのまま胸元に飛び込んで来た。近所を歩く人に生暖かい目で見つめられることに恥ずかしさを覚えながら、俺は抱き着いたままの彼女の頭を撫でながら口を開く。


「おはよう亜梨花。会いたかった」

「私もだよ。あれから数時間なのに、本当に待ち遠しかった」


 そのままお互いに見つめ合った俺たちだが、亜梨花がビクッと瞼を動かして何かに気づく。更に俺に密着するように体を引っ付け、クンクンとまるで匂いを嗅ぐように顔も寄せて来た。


「蓮君、麻美さんとしたね? 本番はしてなさそうだけど」


 ……ちょっとね、俺は亜梨花のことが怖いと思ってしまった。俺の様子から亜梨花は肩を揺らすように笑う。どうやら怒っているわけではないらしい、まあ仕方ないよねと言葉を続けた。


「私が麻美さんの立場ならきっと同じことしてるよ。だから今回だけは麻美さんを許してあげよう……すっごく悔しいけどね」


 本当に悔しそうだ。

 何をしたのか、どんな風にしたのか、根掘り葉掘り聞かれながら学校に着いた。俺と亜梨花がこうして一緒に登校するのは昨日と同じだが、昨日に比べて俺たちの雰囲気が全然違うことに驚く人たちがそこそこに居た。


「亜梨花もしかして?」

「うん! 蓮君と付き合うことになりました!」

「おぉ!! それはめでたいね! おめでとう亜梨花!」

「ありがと!!」


 そのカミングアウトを聞いて祝福してくれたのは亜梨花の友人だ。彼女のように亜梨花の友人たちは代わる代わる祝福してくれるが、やはり他のクラスメイトには少なからず動揺を与えたらしい。しかし変に何かを言ってくる人は居ないことに少し俺は安心した。有坂と目が合ったものの、彼は少し驚いた後に俺を見て小さく口を動かした。おめでとうと、そう動いたように見えたが果たして……。


「蓮く~~~ん!! 一体どういうことなんだよおおおおおお!!」

「おわっ!? 耳元で叫ぶんじゃねえ!!」


 いつの間にか後ろに居た健一の叫びに心臓が跳ねそうになった。ベシッと一発チョップを入れて黙らせると、健一は呪詛のように言葉を囁き続けていたが最後には祝福してくれた。俺と亜梨花はそんな健一の様子に苦笑しつつありがとうと言葉を返した。

 さて、こうして俺と亜梨花が付き合うことになった事実はクラス内に広がった。昨日俺が思った通り、やはり今日という日は色んな意味で俺たちに変化を齎すことになりそうだ。


「俺も彼女が欲しいなぁ」

「私の友達も似たようなこと言ってるけど、渡辺君一緒に出掛けたりしたらどう?」

「……いやいざそう言われるとちょっと」

「その子も漫画とかアニメとか大好きだし、声掛けてあげるよ」

「マジで!?」


 おや、これはもしかしたら健一にも春が来るのかもしれない。亜梨花からその友人のことを詳しく聞く健一の様子を見守っていると、俺はふと視線を感じてそちらに視線を向ける。


「……っ」


 俺と視線が合ったそいつはさっと目を逸らした。それ以降そいつは俺を見てくることはなかったが、どうもさっきの視線が少し気になってしまう。それにあいつは……。


『夢野さんを名前で呼んでんじゃねえよ!!』


 あの夢の中で、線路に俺を突き飛ばしたクラスメイトだ。

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