第5話 傷心

「なかなか消えないわね……」


 お風呂場の鏡で、全身をくまなくチェックする。あちこちにある、赤い跡。純花さんのキスマークは、三日目を迎えても消えなかった。

 一応、服の上からはわからない位置につけてくれた。さすが純花さん。大人の女は、しっかりとそこら辺を考えてくれている。

 それに、すぐに消えないほうが嬉しかったりもする。こうやってキスマークを確認するだけで、わたしは純花さんと繋がっているような気がするから。


「わたしを求めてくれる、愛してくれる人」


 キスマークを指でなぞる。すると、あの日の激しい行為を思い出せる。

 それだけで、何でもない日常が少し色鮮やかに見える。

 脱衣所で着替え、髪を乾かす。肌の手入れなど諸々を終えて、寝る準備に入る。


「瑠美、ちょっとこっち」


 リビングに出ると、せい君がソファーから声をかけてきた。いつもなら、眠そうに大きなあくびばかりをしているのだが、今日は少し元気そうだった。


「どうしたの?」


 近づくと、せい君はソファーの空いたスペースを叩いた。座れ、という事らしい。わたしは素直に、彼の隣に腰かける。

 いったい何事なんだろう。こんな風に接してくるのも珍しい気がする。

 せい君の顔を見ながら、彼が口を開くのを待つ。すると、突然ソファーに置いていた手を握られた。


「なぁ、ちょっと今晩時間あるか?」


 少しぎこちない口ぶりで、せい君がわたしを見つめる。その瞳は、ギラギラと嫌に光っている。何となく、察した。

 多分、せい君はわたしとしたがっている。

 こんな風に彼から誘ってくるのは、とても久しぶりだ。普通なら、喜んだりするものなのかもしれない。

 でも、わたしの心はときめかなかった。


「えぇっと、この後ってことだよね……?」


 歯切れの悪いわたしに、せい君がムスッとした顔になった気がする。前のめりになりながら続けてきた。


「ほら、お前も言ってただろ。親が孫の顔を見たがってるって」


 わたしの手を握る彼の手に、少し力が入る。

 確かに、せい君の言う通りだ。孫の顔が見たいって、何回も言われている。今まで、せい君が乗り気じゃなかったから、それを叶えられる機会は無かった。でも、今日は求めてきた。

 わたしの悩みの種が一つ減る。せい君を受け入れれば、少しでも抱えているプレッシャーを手放せる。それなのに、わたしは全くもってその気になれなかった。


「ごめんね、ちょっと今日は……」


 それに、今のわたしの体にはキスマークが付いている。今は目立たないけれど、服を脱げばすぐに見つかってしまうはず。

 そんなものを見れば、せい君は黙っていないだろう。いったい誰としたんだって。

 隣の純花さんだって言ったら、どんな反応をするんだろう。きっとせい君のことだ、女同士なんて気持ち悪いとか、俺以外の人間とそんな事するなんて汚らわしいとか。

 とにかく、絶対に面倒なことになるに決まってる。少なくとも、キスマークが消えるまで裸を見せる訳にはいかない。


「なんでだよ。子どもを欲しがってったのは瑠美だろ!」

「でも――」

「俺がしたいって言ってんじゃん。しようよ」


 相変わらず、自己中心的な考え方だ。そこには、わたしという存在を求めてくれているとは思えない。せい君は、自分がスッキリしたいだけなんだ。わたしと愛し合いたい、とかではない。

 わたしの身体を使って、自分自身を慰めたいだけなんだ。


「だから、今日は無理なんだって」

「はぁ? そんなに時間取らせないし――」

「そういう問題じゃないの!」


 わたしはソファーから立ち上がる。でも、手は握られたままだ。


「なんだよ、怒ってるのか? そんなに俺とするのが嫌なのか⁉」

「誰もそんな事言ってないでしょ!」


 胸中で渦巻く苛立ちという種火が、日頃の不満という導火線に火をつけた。


「いっつも自分勝手な事言ってさ、その自己中っぷりが嫌なんだけど!」


 手を振りほどき、ソファーから離れる。そのまま、せい君の方を見ずにまくし立てた。


「ご飯の用意は自分でしない、洗濯も皿洗いもしない! 料理だって、出来立てじゃなきゃ嫌だとかワガママ言うし。そんなのにいつも付き合わされてるんだから、わたしだって少しぐらい好きにさせてよ」


 わたしは、そのまま寝室に向かった。せい君は何も言わず、追いかけても来ない。苛立ちを抱えたまま、わたしはベッドに潜り込んだ。頭から布団を被り、外界と断絶させる。

 せい君に、こんなに怒ったのは初めてかもしれない。言いたい事が言えて、ちょっとだけスッキリしている。でも、それ以上に今後の事が面倒くさいと思ってしまう。喧嘩という面倒事を避けてきたわたしには、この不安を取り除く方法がわからない。

 明日、純花さんに相談しよう。そうすれば、色々なしがらみから解放されるかもしれない。本当の意味でわたしを愛してくれるのは、純花さんだけなんだ。

 リビングから、缶ビールを開ける音が聞こえる。でも、そんな事はどうでもいい。わたしはそのまま、まどろみの中へ落ちて行った。



 翌朝。いつも通り、せい君の朝食を用意する。彼もいつも通りの時間に起きてくる。でも、ろくな会話は無かった。

 お互い、黙々と普段通りの行動を行うだけ。だから、会話なんてなくても問題はなかった。

 行ってきます、の一言もなく、せい君は出勤した。テレビの音だけが聞こえる空間から、一人の気配は消えた。


「謝るどころか、昨日よりイライラしてるとか。どれだけ自己中なのよ」


 きっと、自分に非なんて一切ないとか思っているんだろう。そうじゃなければ、今頃仲睦まじい夫婦をやっているはず。

 深いため息をつきながら、わたしはスマホを開く。もちろん、純花さんに会うためだ。

 いつも通り『今日会えますか?』と送る。すると、すぐに返事が来た。こちらもいつも通りの文面で『大丈夫』と返ってくる。

 まだイライラは消えないけれど、少し心は軽くなった。

 はやる心は抑えきれず、お昼前に純花さんに会いに行った。チャイムを押し、玄関の戸を開ける。すると、段ボール箱がいくつか目に付いた。


「いらっしゃい、瑠美ちゃん」


 奥のリビングから、純花さんの声だけがする。何やら作業中らしく、物を置くような音が聞こえる。


「何してるんですか?」


 リビングに向かうと、さらに段ボール箱が置いてあった。その中の一つに、純花さんは食器類を詰め込んでいた。


「ごめんね、瑠美ちゃん。言うのが遅くなったけど、引っ越すことになったの」


 手を止めて、純花さんは立ち上がった。


「引っ越す……って、なんでですか?」


 あまりにも突然の言葉に、わたしの理解が追いつかない。開いた口が塞がらない。指先は震え、傍から見ても動揺しているとわかるだろう。


「パート先の男性と同棲することになったの」

「えっ? 男の人と……」


 頭を鈍器で殴られたような衝撃が走る。つまりそれって、男ができたから出て行くって事なんだよね?

 あれ、わたしって純花さんにとって何だったの?


「私、男も女もどっちもいけるのよ。好きになった人がタイプって言うのかしら」

「でも、純花さん……わたし、は。わたしとは、遊びだったんですか?」


 奥歯がガタガタと鳴る。薄っすらと浮かんできた涙で、視界もぼやけてきた。

 怖い。純花さんの言葉を聞くのが怖い。でも、知りたい。わたしは、純花さんに求められていなかったのか。愛されていなかったのか。


「もちろん、瑠美ちゃんの事は好きだったの。初めて見た時から。でも――」


 純花さんは笑った。まるで、仮面でも貼り付けたかのような、綺麗で無感情な笑みで。


「先の事を考えると、やっぱり男と一緒の方が便利でしょう? ほら、世間体とか、法律的にもね」


 そこからの事は、ハッキリと覚えていない。気が付けば、自分の家で天井を見つめていた。わたしは、捨てられたらしい。純花さんにとって、わたしはその程度の女だった。向けられた愛情なんて、小さなものだったんだ。

 日が沈むまで、わたしは泣き続けた。信じていた愛は、とっても薄っぺらいものだった事がショックだった。あれだけ、言葉と行為で伝えてくれた愛なのに。

 今だけは、身体に残ったキスマークがズキズキと痛かった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る