第2話 隣人
「っていう事があったんですよ。本当にイラっとしちゃいましたよ~」
「それは大変だったわね」
時刻はお昼過ぎ。午前中の仕事を片付け終え、午後は時間のゆとりができた。その時間を利用して、わたしはお隣さんの家にいた。
茅原純花さん。わたしよりちょっと年上で、とても美人。初めて会った時は凛とした澄んだ顔で、あまり口数の多くない印象だった。だから、近寄りがたい雰囲気の女性だった。
でも、初めて話しかけてくれたのは純花さんからだった。せい君の事でモヤモヤして、玄関の前でため息を吐いていた。すると、心配そうに声をかけてくれたのだった。
それから、何度か世間話をするようになり、いつの間にかわたしの愚痴を聞いてもらうほどの仲になっていた。
「文句を言う時間があるなら、自分で用意すればいいのに」
もちろん、今話しているのは今朝の出来事についてだ。ため息をつきながら、用意してもらった紅茶に口をつける。
「でも、誰かと一緒にいられるってだけでも、幸せなのかもね」
純花さんは、ふふっと笑いながら棚に飾ってある写真に目を向けた。そこには、純花さんと一緒に映る男性の姿がある。純花さんの旦那さんだ。
一年半前に、旦那さんは事故に遭われ亡くなったらしい。それから純花さんは、一人でこのマンションに住んでいる。もう旦那さんの帰ってこない部屋で。
「あっ、ごめんなさい! 旦那さんを思い出させてしまいましたか?」
あまりにも配慮の無い話題だったかもしれない。純花さんからすれば、パートナーが生きているだけでも素晴らしいことだと思うんだろう。
「いいのよ。既に気持ちの整理はできている話だもの」
自分のティーカップを傾けると、わたしを安心させるように純花さんは微笑んだ。
本人がそう言うのなら、きっと大丈夫なんだろう。でも、あまり触れて良い話題ではないと思う。次の話題を探そうと思考を巡らせていると。
「いつまでも過去に囚われてはいられないわ。私は、前に進みたいから」
純花さんは立ち上がると、写真の飾ってある棚に向かった。そして、写真を伏せさせた。
わたしには、その意図が分からず、ただ純花さんの指先を見つめることしかできない。何か気に障ったのか、迷惑をかけてしまったんじゃないか。思わずそう考えずにはいられない。
若干動揺中のわたしを気にすることなく、純花さんはこちらに向かって来た。そして、わたしの横を通り過ぎると、背後に立った。
「ねぇ瑠美ちゃん。確か、旦那さんが夜の相手をしてくれないって言ってたわよね?」
突然、予想だにしない方向の質問が飛んできた。わたしの頭の中は、一瞬真っ白になる。
「あ、はい。そうですね」
「じゃあ、最後にやったのはいつ?」
なんで今そんな事を訊くんだろう。頭上にハテナマークを沢山浮かべながらも、わたしは正直に話してしまう。愚痴を聞いてもらっている身だ。今更隠す事もないだろう。
「半年以上は、してないと思います……」
最後がいつだったのかもハッキリしない。それほど、わたしはせい君としていなかった。子どもがまだ欲しくないとはいえ、全然相手をしてくれない。わたしを求めてはくれない。
それは、わたしの女としての魅力が低いという事なんだろうか。怖くて、せい君には訊けない。もし、そうだと言われればわたしの自信は崩壊する。
わたしの答えに、純花さんは「そう」と小さく呟いた。いったい何の質問なんだろうか。頭の中で膨らみ続ける疑問を余所に、純花さんは口を開いた。
「じゃあ、随分溜まってるんじゃない?」
次の瞬間、わたしは抱きしめられた。背後から、肩に腕を通し包み込むように。甘い香水の香りと共に、背中に体温を感じる。
「え? す、純花さん?」
状況に理解が追いつかず、彼女の名前を呼ぶことしかできない。純花さんは、こんな積極的なスキンシップを取る人ではない。もっとお淑やかで、大人の余裕がある人のはず。
でも、わたしの固定概念は簡単に壊された。
「やっぱり、女の体って柔らかいわね」
耳元で純花さんの声がする。吐息が耳をくすぐり、背筋にぶるっと刺激が走る。妙に色っぽくて、熱を感じる息。甘い香りが、わたしの気分を浮かれさせる。
「どうしたんですかいきなり? 純花さんってこんな冗談言う人でしたっけ?」
少しおどけるように言う。でも、わたしの言うことなどスルーして、純花さんはさらに口を耳に近づけてきた。
「可哀想な瑠美ちゃん。こんなにも可愛い子、私なら放っておけないのに」
その声は、冗談なんかじゃなさそうだった。熱い息が耳に当たったかと思ったら、耳たぶが何かに包まれた。熱く、濡れた感覚。わたしの耳たぶは、純花さんに甘噛みされた。
「あぁっ――⁉」
抵抗も反論もする暇はなく、次は耳を舐められる。吐き出される息と、凹凸に沿って這う舌が、わたしの背筋を震わせた。
味わったことのない感覚に、わたしは怖くなった。
「や、やめて……」
でも、声が聞こえなかったのか、行為は止まらない。耳の裏に移動した舌は、そのままゆっくりと首筋を辿り鎖骨へと到達する。
こそばゆい感覚が、さらにわたしの背筋を震わせる。ゾクゾクとする感覚は、わたしの呼吸を乱すには十分な刺激だった。
「心のストレスも、身体のストレスも私が解消してあげる」
わたしの体から舌を離すと、純花さんは正面に回り込んだ。少し赤く上気した頬と、潤んだ瞳。それは、紛れもなく欲情した表情だった。
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