三十七話 ごめんなさい、ごめんなさい

 私は今、レムリア学園から帰る途中だった。

 まだ陽も落ちてはおらず、多くの生徒達も放課後を有意義に過ごしていて。

 そんな時に聞こえたのは、ある人の声。

 今思えば、普通なら私の元へは届くはずのない声だったのに。

 深く考えずに、行動を起こしてしまった。

 忘れかけていたんだ。この学園にも、魔物がいる事を。


「ほら! 土下座しなさいよ!」


 そう声が聞こえてきたのは、高い植木の並ぶ庭園。

 その中には、硝子張りの温室が建てられていた。そこは使用許可さえ貰えれば、誰でも貸し切りにできる場所。

 備えられた魔法具により夏日でも涼しく、季節の花が咲く憩いの空間。

 本来なら、紳士淑女が楽しい一時を過ごす為の場所なのに……。


「ねえ、カルメンさん、こちらをご覧になって。次はこれで痛め付けて差し上げませんか?」


「まあ! それは騎馬鞭ではないですか! 調教するなら、やはりそれに限りますね!」


 辿り着いた温室の中には、やはりジェニファーさん達が集まっていた。取り巻きの二人だけではない。同じ教室の男子生徒までいる。

 更にもう一人、彼女達に囲まれている女子生徒の姿が。


「あっははは! 見てよこの女! 全然声を出さないわ! もしかして、恐すぎて声も出ないのかしら!」


 男子生徒に取り押さえられていた女生徒は、感情の無い木偶人形のように打たれ続けていた。

 泣き叫ぶ事もなく、騎馬鞭で殴られる甲高い音だけが響く。


「あら、気絶してしまいましたか。もう終わりだなんて、詰まらないですわ」


 そう。ジェニファーさんの言う通りだった。泣き叫ばない理由は、既に女生徒が意識を失っていたから。

 一体彼女は、何時からこんな仕打ちを受けていたのだろうか。私が訪れるよりも、遥かに前からなのではないだろうか。


「見てみて、エイミーさん! こいつお漏らししてるわ!」


「まあ、なんて端たない! こんな汚物なんて、さっさと学園から追放しないと!」


 そして土の上に倒れる女生徒を足蹴に、ジェニファーさん達はその場を去っていった。

 私は、その惨劇をただ見ているだけだった。声も出さず、助けも呼ばずに。


「あら、アンスリア様ではありませんか。ごきげんよう」


 すれ違い様、私に気が付いたジェニファーさんがそう言う。


「……待ちなさい。誰彼構わず傷付けるなんて間違っているわ。貴女が恨むべき相手は、私のはずよ」


 本来なら、あの場にいるのは私のはず。温室あそこで殴られるのは、私だったはずなんだ。


「いいえ、間違ってなどいませんわ。だって、私の大切なバイオリンを壊したのは、あちら・・・にいるルールカさんなのですから」


「……!」


 私はすぐに駆け出し、温室の中へと入った。


「はぁ、はぁ……ルールカ……さん?」


 本当に、そこに倒れていたのはルールカさんだった。

 綺麗に結わえられていた赤茶色の髪が乱れ、文字通り虫の息で、気を失っていた。破れたブラウスから覗かせる肌には、痣が色濃く作られていて。

 それはまるで、過去の自分を見ているようだった。


「どうして……貴女が」


 きっと今日だけではないんだ。演奏会の日も、その前の日も。恐らくルールカさんは、私に悟られないように我慢していたんだ。

 傷の痛みも、心の痛みも。


「このルールカ性悪女ときたら、ご丁寧にも自白しにいらしたんですわ。本当は私が壊しました、って。アンスリア様は私を庇っているだけだ。そう言いに来たんです。まっ、初めから私にはわかっていましたけれど」


 ルールカさんを膝に抱く私の背中から、ジェニファーさんが言う。悪びれた様子も無く。

 それどころか、自分は正しい行いをしたのだ、とさえ言っているように聞こえる。

 ジェニファーさんは本当にあのバイオリンが大切だったのだろうか。少なくとも私の目には、そんな風には見えなかった。

 そのバイオリン一つで、どうしてここまでできると言うの?


「アンスリア様、その節は大変なご無礼を致しました。謹んでお詫び致しますわ。せめてものお詫びの証として、貴女様の御前にて、ルールカこいつを痛め付けてやりませんと……」


 それを合図に、男子生徒達が私からルールカさんを奪う。

 そして、再びルールカさんを殴り付ける取り巻きの二人。腕を組みながら、勝ち誇ったように笑い声を上げるジェニファーさん。


 あぁ、醜い。気持ち悪い。どうして私の周りには、醜い化け物ばかりが集まるのだろうか。

 でも、最も醜いのはこの私だ。何もせず、ただ見ているだけなのだから。

 あの時のように……。


 ━遠い過去・現世の学校━


「おい! 大企業の娘だからって良い気になってんじゃねえよ!」


「この学校は貴女みたいな人間の屑が来て良い場所ではありませんわ! さっさと帰りなさい!」


 現世にいた頃の私は、一人の女の子が虐められている姿をいつも見ていた。毎日、毎日、毎日。

 その記憶は、私が現代の日本にいた頃の記憶悪夢桜瀬卯月さくらせうづきという、身勝手で最低な人間の話。


「かーえーれ! かーえーれ!」


 私とその女の子は同じ学校で、同じ教室だった。毎朝教室に来る度、その子は鞄を取り上げられ、髪を引かれながら教室の隅へと追いやられる。

 罵倒と共に投げ付けられるのは、鞄から取り出された彼女の私物。教科書。

 決して逆らう事はなく、ただただ、人間の悪意をその身に受けていた。


「あ、あの、卯月ちゃん。英語の先生から、この印刷物プリントを渡して、って、頼まれたの。はい、どうぞ」


 その女の子の名前は、十六夜瑠璃いざよいるり。大手製薬会社の一人娘で、とても明るい性格で、優しい子だった。

 ……以前までは。


「そう。悪いわね、十六夜・・・さん」


「ううん、久しぶりに話せて、良かった」


「そう。用事は済んだのでしょう? だったらもう行って」


「うん、ごめんね」


 放課後の帰り際、十六夜さんは私の元へやって来た。

 本当に大した用事ではなくて、私はすぐに突き放したのを覚えている。それでもその子は、私の隣に立っていた。

 何故なら……。


「あっははは! 何それ、超ウケるーっ!」


「そうでしょう? これならお掃除好きな十六夜さんでも、簡単には消せませんわぁ」


 十六夜さんの席の周りには、日頃から彼女を虐めている主犯達が集っていた。それは毎日の日課で、必ず彼女の机に悪戯書きをする為だ。

 普段なら、それ・・が終わるまで身を隠しているはずなのに。私に紙切れを渡す為だけに、わざわざ死地へ飛び込んで来てしまったんだ。


「あっれー? なになに? 桜瀬さんって、十六夜と仲良いのー?」


 そう言って私に声をかけてくるのは、主犯格の一人、月見里星羅やまなしせいら

 関東有数の名門校と言われている私達の学校には、全く似使わない容姿の女子だ。

 派手な金髪に桃色のつけ毛ヘアウィッグ。派手な化粧メイクに、耳には幾つものピアスを付けて。気品なんてものは皆無の子。


「……なあ、聞いてんのかよ」


「ええ、聞いているわ。私はただ、先生からの届け物を受け取っていただけよ。誤解しないで」


 私がそう言い返すと、それに反応するように十六夜さんは机へと戻っていった。


「ごめんね、卯月ちゃん」


 微かに聞こえたその言葉。でも、十六夜さんは確かにそう言った。俯いたまま、顔を上げずに。

 そんなに恐いのなら、逃げれば良いものを。今思えば、きっと私を巻き込まないように、身を捧げたのだと思う。


「あら、自分からこちらへ来るなんて。十六夜さんってば、そんなにお掃除がしたかったのかしら!」


「でも落ちるかなー。だってこの落書き、油性ペンキだぜー!」


「あははは!」


 まるで馬鹿にしたように頭を叩かれても、じっとしている十六夜さん。その背中を、私はいつも見ていた。


「おい、お前の為に水を汲んできてやったんだぞ。礼くらい言えよ」


「あ、ありがとう、ございます」


「まっ、裏庭の池の水だけどな! ……ちゃんと使えよ」


「はい、ありがとう、ございます」


「あははは!」


 堪えられなくなった私は、必死に目を背けてしまった。急いで帰りの支度を済ませ、教室から逃げるように立ち去って。

 恐かったんだ。もし庇ったり余計な口を挟んでしまえば、次は私が被害を受ける。

 そう思うと、勇気が出なかったんだ。

 私だけじゃない。他の生徒達だって見て見ぬ振りをしているのだから、私だけが悪い訳ではない。それに十六夜さんにだって、虐めを受ける理由があるのだから。私に見捨てられる原因が、あるのだから。

 そう自分に言い聞かせて、私は逃げ出した。


 例え虐めを受けていたのが、私の大好きだった瑠璃・・さんでも。

 小さい頃からずっと一緒に過ごしてきた、大切な親友だったとしても。


 ━レムリア学園・温室━


 まただ。また私は、同じ事を繰り返している。

 元の世界でも、この異世界でも。


「ルールカさん、ごめんなさい。ごめんなさい……」


 ぼろぼろに朽ちたルールカさんの隣で、私はそう言った。

 リヒトとメアが私を見つけるまでの間、ずっとその場に打ちひしがれていた。

 どれだけの時間が経っていたのかは、わからない。

 私は変わらない。変われないんだ。

 何度やり直しても……。


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