第26話「鋭意難航中」

 時計の秒針が規則正しい音を刻む。

 私は長椅子に寝そべり、その音に合わせて心の中で数字を順番に読み上げていく。


 百まで数えると同時に、ゆっくりと半身を起こす。

 そっと目を開き、周囲を見回し……それから嘆息した。


「またしても失敗ね」


 思わずそう口に出してしまう。

 これで何度目の「失敗」だっただろうか。

 数えるのを止めてからのほうが長い気がする。


 私は今、幽体離脱の練習をしているところだ。

 ……というと訳がわからない上に怪しげだけど、これには然るべき事情がある。


 アスヴァレンを招いてのお茶会から、既に一週間が経過した。

 陛下の帰還まではまだまだあるけれど、この間も決して漫然と過ごしていたわけではない。


 この一週間余り、私は侍女や兵士の噂話に耳を傾けたり、時には雑談を振るなりして情報を集め、絵画や書物を通して自分にできる範囲で知識を得た。

 お陰で、こちらの世界の常識や事情について随分と詳しくなった筈だ。


 こちらの世界……ブラギルフィア諸侯連合が存在する場所は、フラルヴァーリ大陸と呼ばれる。

 フラルヴァーリでは、変性術、錬金術、それに巫祈術と言った能力があり、それらが人々の生活の基盤にもなっている。


 まず、この世の全てはエーテルと呼ばれる物質から構成されているというのが、フラルヴァーリにおける一般的な考え方だ。元いた世界における元素のようなものだろう。

 錬金術師とは、このエーテルに干渉して様々な奇跡を起こす者を差す。

 それこそ、錬金術師と聞いて真っ先に思い付く、非金属を貴金属に変化させるといったことも可能なのだとか。

 非常に便利かつ強力な力だけど、それだけに行使できる者は限られている。


 フラルヴァーリ大陸において、今現在確認されている錬金術師は四人しかいない。

 驚いたことに、その内の一人こそがあのアスヴァレンなのだ。

 それだけ得難い存在ならば、あの傍若無人っぷりも頷ける……かもしれない。

 ただし、受け入れられるかどうかはまた別の話だけど。


 変性術は、フラルヴァーリでも最も一般的な能力だ。

 フラルヴァーリには、マナと呼ばれる不可視の精霊がそこかしこに存在している。

 変性術は、マナの力を借りて奇跡を起こす能力のことを言う。

 マナには実に多くの種類がいて、マナごとに得意分野も異なる。また、変性術者とマナとの相性もあり、一言で変成術師と言ってもどんなマナからも力を借りられるわけではないらしい。

 マルガレータやロザリンドも変性術の使い手で、マルガレータは火や熱を司るマナ、ロザリンドは風や重力を司るマナによる術を得意としている。


 そして、最後となる巫祈術。

 これは、何と言うか最も地味な能力だ。

 それでいて、非常に稀少かつ重要な役割を持っている……らしい。

 どうやら私が持つ力は、この巫祈術に近い……気がする。

 断言できないのは、まだ検証段階だからである。

 巫祈術自体が、輪郭のはっきりしない能力ということも理由の一つだ。

 神使というのが、巫祈術と切っても切れない役職であると知ったのは大きな前進だ。

 機会があれば、神使ことクラヴィスと接触してみたい。


 私は今まで、他の人には見えないものが視えたり、幽体離脱してしまう体質のせいで要らぬ苦労をすることが多かった。

 でも、変性魔術と呼ばれる魔法や錬金術が存在し、それらが人々の生活に密接しているこの世界では強力な武器になり得るのではないか、そう考えている。


 母は私のこの不可解な能力のことを「神様からの贈り物」と称した。

 彼女の言葉を忘れていたわけじゃなかったけれど、これまで本当の意味では理解していなかった気がする。


 この能力を自在に行使できるようになれば、私はきっとアスヴァレンに勝るとも劣らないほど得難い存在となれるのではないか。

 その力を示すことで、私を望む声も上がるかもしれない。

 そうなったら、国王陛下と言えども、私を元の世界に帰すことについて考え直さざるを得ない筈だ。


 つまり、私は元の世界になど帰らなくて済む。

 ずっとブラギルフィアに、生まれる筈だった場所にいられるのだ。

 とは言え、鋭意難航中ということは否めない。


「……はー」


 長椅子の上に手足を投げ出し、深い溜息を付いた。


 自由自在に幽体離脱、元いた世界でもそれに憧れていた時期があった。

 幽体になって誰にもバレることなく好きな場所に行ければ、試験の答案も見放題、入試の時も有利になる。

そんな望みを抱いて練習に臨んだこともあったけれど、すぐに断念した。

 飽きた、というほうがより正確だろうか。


 でも、今はあの時よりも切実な理由がある。

 私は元の世界になんか絶対帰りたくない。

 前までは自分を宥めて賺してあの生活にずっと耐えて来たけれど、今となっては耐えられる自信がない。

 隆俊伯父の悍ましい秘密を知ったから、尚のことだ。


 でも、なかなかすぐに上手くはいかないものだ。

 目を閉じて、時計の秒針の音に耳を澄ませ、百を数えたところで起き上がれば幽体となって肉体から離れられるというのも、確かオカルト雑誌で得た知識だった。

 正直、信憑性には欠ける。


 やり方が間違っているのだろうか。

 今まで肉体から離脱した時のことを思い出しても、一度寝入って次に目を覚ました時には幽体になっていたというのが毎度のパターンで、どうやってそういう状況になったか、自分でもよくわからないのだ。

 唐突に扉が開いて、心臓が大きく跳ね上がった。


「なっ、な……っ!」


 半身を起こして抗議を込めた視線をそちらへと向けるも、入って来た人物、つまりマティルダは露ほども気に掛けない。


「ちょっと。ノックぐらい、してもらえる?」

「はて、何のことやら」

「何ですって?」


 ここ数日で、私はマティルダに対して遠慮会釈のない物言いをするようになった。

 最初こそ、内心で反感を覚えつつも丁寧な言葉遣いで接していたけれど、そんなことをしたからって彼女は態度を改めたりしない。

 そう気付いてからは、それ相応の扱いを心掛けることにした。


「私はね、もう何年もの間、誰も使わないこの部屋の掃除をさせてもらってたんですよ。その間、わざわざノックなんぞしませんでしたがね。今更になってノックしろと?」

「今は私が使っているでしょう? その時とは状況が違うのよ。そんなことも理解できないの?」

「知ぃりませんよ、んなこと。それよか、最近ずっと昼間からゴロゴロしてますね? 坊ちゃんがご不在だからって好き放題して、いいご身分ですね」

「別に、そういうわけじゃないわ」

「まっ、羽根を伸ばすのも程々にね」


 私は言葉に詰まり、唇を噛み締める。

 陛下の不在をいいことに、自堕落な毎日を送っているわけではなく、明確な目的があってのことだ。

 それを、事情も知らない侍女に扱き下ろされる謂われはない。


 でも、どう反論するべきか。

 私の頭の中の考えを説明するにしても、上手くできる気がしない。

 そもそも、マティルダが聞く耳を持つかどうかも怪しい。


 こんな「雑音」、以前の私なら諦観と共に聞き流していたけれど、今となっては難しく感じる。

 そもそも、王女殿下に対して一介の侍女がこんな口を聞くものなのか。

 私の内心などお構いなしに、マティルダは続ける。


「生憎、今日はもうぐうたら過ごしてる暇はありゃしませんよ。さぁさぁ、さっさと起きてくださいな」

「は……?」


 訝し気な顔をする私を無視し、マティルダは扉のほうを振り返る。

 いつから控えていたのか、サーシャたち三人の侍女が立っていた。


「クラヴィス様がね、あーたを昼食にお招きしてくださるそうですよ。今から準備します」


 クラヴィス……クラヴィス・クレイス。

 ブラギルフィア国の神使。私が異邦人だということを知る、数少ない人物。

 自分の付き人であるサーシャに私の世話をするよう命じたのも彼女だ。


 そして、どうやら陛下と親しいらしい女性。

 早い話が、私にとって看過できない存在である。

 彼女の名を聞いた瞬間、思わず顔を上げた。

 うたた寝していたわけではないけれど、目が覚めたような気分だ。

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