第2章

第12話「探検」

 次に目を覚ました時、私は一瞬自分がどこにいるのかわからなかった。


 静謐な闇に満ちた部屋に、暖炉の火の爆ぜる音が心地良く響く。

 どこか遠くで、夜鳥の鳴く声が聞こえてくる。


 暖炉の火のお陰で真っ暗闇というわけではないにも関わらず、何だか視界に映る景色がおかしい。

 広い寝台から半身を起こしたところで、私はまたしても幽体離脱してしまったことに気付く。

 二日連続とは、今までこんなことはなかった。


 幽体になった状態だと、私の目に映る景色は全体的に彩度が下がるのだ。

 まるで、セピア写真でも見ているみたいに。

 暖炉で揺らめく炎も色褪せて見える。


 とは言え、「出て」しまったものは仕方がない。

 眠る身体を残したまま、私は寝台の縁に横座りになる形で暫くぼーっとすることにした。

 今、私は見慣れた自室ではなく、お姫様みたいな素敵な部屋にいる。

 こうしてじっくり眺めると、改めて瀟洒な部屋だということがわかる。


(これが、私の部屋)


 そう考えようとしても、全く実感が沸かない。

 自分がこれほどの好待遇を受ける理由についても、はぐらかされたままだ。


 数時間前に部屋に訪れた三人の女性は、マティルダと同じメイド服を纏っていた。

 温かいシチューにキッシュ、数種類のパンやケークサレという食事を用意してもらった後、彼女たちに手伝ってもらう形で入浴を済ませた。

 他人に入浴を手伝ってもらうなんて子供の時以来で、抵抗がなかったと言えば嘘になる。

 それでも、まるでお姫様にでもなったみたいで、これはこれで悪くないかも。


 入浴は、猫脚のバスタブに湯を溜めるという形式で、更には直接湯を浴びるシャワーと同等の設備まであった。

 シャワーは相当に高度な技術を要すると聞いたことがあったから、これには驚いた。

 そんな私に、侍女の一人であるマルガレータが得意げに言った。


「驚きました? ブラギルフィアの入浴設備はフラルヴァーリでも随一なんですよ。何せ、アスヴァレン様が手掛けたんですからね」


 どうやらこちらの世界での一般基準というわけではなく、この国が特別らしい。

 しかもその功労者が、あのアスヴァレンだということにも驚きを禁じ得ない。


 また、髪を乾かしてもらう時に不思議なことが起きた。

 マルガレータが、私の髪に柔らかな布を当てて水分を拭き取りながら、微かな声で歌を口遊み始めた。

 歌というよりは、私の知らない言語による祈りの言葉だったのかもしれない。


 その歌に聞き入っていると、彼女が触れた部分がふんわり温かくなった気がした。

 別の侍女、ロザリンドも一緒になって歌を口遊み始めた時、そよ風がそっと髪を撫でる気配を感じた。

 暫くすると、どういうわけか髪がすっかり乾いていた。


(あれって、やっぱり……)


 指先で髪を弄りながら、あの不思議な出来事に思いを馳せる。

 魔法、という言葉が脳裏を過って行った。


 入浴前に右の掌を改めて確認したけれど、そこには怪我をした痕跡さえ見られなかった。

 アスヴァレンが施した治療がどんなものかはわからないけど、どうやらこの世界には超自然な力が存在しているみたい。


「ブラギルフィア、か」


 改めてその地名を口にする。

 生前の母が、いつか帰る日を望んでいた場所と、間違いなく同じ名前だ。


 母の笑顔に重なるように、エレフザード陛下の顔が思い浮かぶ。

 彼に対して抱いた、「裏切られた」という思いが完全に消えたわけじゃない。

 でも、現状では陛下を頼る以外の手立てがなく、実際に彼は私に良くしてくれた。


(いくら何でも失礼な態度だったかしら)


 どんなに言い訳を重ねても、恩人に対する態度ではなかった。

 落ち着ける場所で休息を取って人心地が付いた今、その点に思い至る余裕が出てきた。


「……」


 暖炉の火が爆ぜる音を聞きながら、私は詰めていた息を吐き出す。

 寝入ってから何時間経っただろうか。

 今更ながら、生まれて初めて無断外泊をしてしまったことに気付く。

 今頃、元いた世界では伯父が怒り狂っている頃だろうか。

 伯父のことを考えると同時に、あの悍ましい出来事が脳裏に蘇る。


 ……今はそのことを考えるのは止そう。

 無理矢理に頭から追い払った。

 元の世界のことも気にかかるけど、それ以上に自分が今いるこの場所のことをもっと知りたいと思った。

 母の話していた通りなら、ここは私が生まれる筈だった場所。

 そして、ここには私の……。


「少しだけ……」


 城内を探検してみようか。不意にそんなことを思った。

 今までは、幽体になった状態で動き回ったことなど殆どない。

 いつも身体の側でじっとして、戻れるのを待つだけだった。

 というのも、もし戻れなくなったらどうしようという不安が強かったからだ。


「……」


 暫し逡巡した後、寝台で眠る自分自身を一瞥する。

 そんなに遠くまで行かなければ大丈夫の筈だ。多分。

 立ち上がった私は、廊下に続く扉のほうへと歩み……ふと、動きを止めた。


 微かにだけど、話し声にも似た音が聞こえる。

 耳を澄ませると、それはこの部屋の中で交わされている会話のようだ。

 この部屋の中に誰かが潜んでいる。

 つまりはそういうことになる。


 肉体がある状態なら、心臓が早鐘を打っていただろう。

 私は慎重に、声がする方向を探る。

 やがて、それらしき場所を突き止めたけれど、更なる困惑を覚えた。


 声が聞こえるのは、壁際に置かれた小さな衣装箪笥からだ

 衣服というよりも、小物を収納する目的にしているのか、大きさは私の鳩尾ほどで、幅もさほど広くはない。

 五段分の抽斗式になっているその箪笥には、どう考えても人が隠れるスペースなどない。


 いったいどういうことだろう?

 まさか、小人や妖精が住み着いているのだろうか。

 今度の逡巡は、先ほどよりもずっと長かった。

 何も気付かなかった振りをしようかと随分迷った挙げ句、結局は抽斗を開けることにした。


 恐る恐る覗き込み……幻聴の類かもしれない、そう考えたりもしたけれど、そこにあるものを見た瞬間にそんな考えは吹き飛んだ。

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