第37話 千鶴さんの話

 五条通に有る本社ビルがリニューアルしてからと謂うものは良く千鶴さんが来る様になった。それ以前の会長が存命中は、殺風景過ぎて会長から招かれても、本社ビルだけは辞退していた。それがちょっと用事を見付けてはお邪魔する。健司の披露宴から本社の人にも顔が知れ渡っているから、嫁ぎ先の品位を落とさないようには心がけている。千鶴さんは立花園芸店に一度立ち寄ってから、鹿能が植木のメンテナンスに五条通の本社ビルに行ったのを確かめて来るから毎回会っている。

 なぜ彼女が鹿能の勤務予定を確認して夫健司の会社を訪ねるのか。それはあの人は見果てぬ夢をとなえるドン・キホーテのように巨人が立ちはだかる荒野に挑める人だと希未子さんが奇妙な事を言い出すからだ。それを確かめようと以前から思っている千鶴さんにすれば定期的に手入れに来る鹿能とは偶然を装って会えるからだ。そこで千鶴さんは鹿能と会えば希未子さんから言われた訳の分からない話をして唖然とする彼を屋上に誘った。

 改装したのは社内だけでなく、何もない屋上にも手を加えられた。此処の屋上も以前は何もなかったのに片瀬さんの提案と鹿能さんの努力でちょっと緑化されて、お昼休みにはお弁当を広げる従業員が増えて中々の評判らしい。六階から廊下に出る踊り場の様な所に屋上に出る階段が別にあった。休日夜間は鍵が掛かっているが、営業時間内は鍵は掛かっていない。

 春めいて穏やかな陽射しを浴びて、目の前には東山が望まれる屋上で、二人は手摺りに寄りかかっていた。 

「ねえ、京都に来てあの峰の連なりを見て、東山三十六歩って言ってたけれど随分遠いのねえっていう笑い話があったけど、あれは確か詩人の草野心平さんの奥さんだったかしら三十六歩でなく東山三十六峰なんだけど草野さんはそのまま呆れて何も言えなかったようね。こんな大らかな奥さんを持ったら鹿能さんはどうするの」

 千鶴さんに急に可怪おかしな質問された。

「そうですね、たまにならいがこんな感じでいつも傍に居られると調子抜けしてしまいそうだけれど、純粋無垢だと思えば腹も立たないだろう、言ってる本人は真面目なんだから僕はそんな人は好きだなあ」

「でも希未子さんは正反対な人よ、だからそんなもんで片付けられない事も有るわよ例えばもっと気が抜けないのはお米を洗ってと頼んだらその人はどうしたと思う本当に洗剤を入れて洗い出したのよあたしはもう卒倒しかけたわよ、まさか世の中にこんな人を純粋無垢では片付けられないわよね」

「いちから教えれば良いのか、しかし三歳児ならそれで良いけれど大人ならどこまで教えればいいのかそれを見極めるのが大変だなあ」

「そんなの簡単よ大人はずる賢いでしょうだからほっとけば何が出来て何が出来無いのかが自ずと判るから間違いだけ教えれば良いんじゃ無いの」

 なるほど三歳児にはそんな才能はないんだと、千鶴さんの的確な解説に感心した。だが問題は全く解決されてない。なぜ希未子さんが正反対なのだ。

「確かに刺々しい理論武装して相手に挑みかかれば自ずと純粋無垢は霧散するが、愚直な人にはその霧の晴れ間から希未子さんには神々しいばかりに見えるはずだ」

 成る程、面白い例えだと千鶴さんは頷くと、手摺りから離れて近くのベンチに座る。鹿能も慌てて隣へ座った。それは先日来から付き合いの有る二人の男から鹿能は良からぬ忠告をされていた。それで鹿能は知られざる希未子像を千鶴さんから聞き出す必要に迫られる。

 先ずは東山三十六峰と米を洗剤で洗う女の話から何を模索すれば良いのか訊ねる。それは世間慣れしていない女性の比較で、希未子さんはどう見ても当てはまらないが似たような正反対の行動を取るらしい。

「そう云われると希未子さんにはそんな処を見受ける」

「希未子さんはどうもあなたは掴み所が無い人だと言っているらしい。花に囲まれて何かに集中しているあなたと何をするでも無く窓辺で、或いは河原で、飽きもせず仏師が作って千年も変わらない表情をたたえるあなたがどこで交差しているのか不思議で堪らないとあの人はあたしに溢しているのよ」

 どうも希未子さんは物心ものごころが付いたときから、弟や兄と取っつき合いの喧嘩をしていた。その反動かどうか判らないけれど、歳頃になると物静かな男性に興味を惹くようになったらしい。高校時代はグランドの片隅でいつまでも独り物思いに耽るように座り込んでる男の子に凄く惹かれたそうだ。そしてそれは狂おしいぐらいだったけど、卒業まではまだ日があると思って声を掛ける勇気が出なかったらその子は転校してしまった。

「その時はもの凄く後悔したそうよ。だから鹿能さんに直ぐに近付いたのもその反動らしいわよ。どうやら希未子さんは鹿能さんと出会った日をあの放課後の校庭の片隅で夕陽が沈むまで誰とも喋らずにグランドを見詰めていたあの男の子を想いだしたようなの」

 狂乱の女が小雀と戯れていても、それを傍で黙って見守ってくれる。それが鹿能さんらしいところです。あの素晴らしい幼子の様な手の掛かる大人でも黙って傍で見守れるなんて、家事をこなせず洗剤交じりのご飯しか炊けない。そんな人は危なっかしくてとても家庭など任せられない。そう思って他の人ならとうの昔に愛想尽かしてしまうのに、笑って手を携えて一緒に暮らそうとする。そこがなんて云うか、ただの人と凡人を超越して、ドン・キホーテを越える人なんだからと彼女は思っているようだ。

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