青い紫陽花

小柳日向

青い紫陽花

「おはようございます」

 松枝が声を掛けると、夫はカーテンを開けてくれる。松枝がベッドの横にあるボタンを押すと、ベッドは自動的にゆっくりと起き上がる。朝日はほんのり眩しく、初夏を思わせる青々とした紫陽花が庭に見える。

「おはよう」

 夫は松枝に声を掛けると、庭へと出て行った。きっと日課の水遣りをするのだろう。シャワーヘッドが着いた緑色のホースを伸ばし、紫陽花に向かって水が降り掛かるのが、松枝のベッドからも見えた。日差しは差して強くはなかったが、小さな虹が紫陽花への橋を架けている。紫陽花は煌びやかに水を乱反射させ、その瑞々しさで今日という一日が訪れたことを祝福してくれる。

 松枝は紫陽花の花言葉は「移り気」や「浮気」だったなぁ。などと思い乍ら、夫が病で臥した松枝を懸命に看病する日々を何処となく申し訳ない気持でいた。夫は庭先に車椅子を持ってきて、車輪の部分も洗い流してくれている。昨夜天気予報を観て、平素は一人で買い物に出掛ける夫が、

「買い物は明後日の訪問看護さんに頼んであるから、明日は散歩にでも行かないか」

 と、提案したのである。松枝は平素から外に出るのが億劫であった。車椅子は一人で漕ぐには体力が消耗する。夫に押して貰えば楽なのだが、そんな看病ばかりさせていることに罪悪感を感じていた。しかし、夫の好意を無碍にする訳には不可ない。松枝ははにかむように首肯した。

 松枝は庭から部屋に視線を移すと、

「今日はなんだか賑やかだねぇ」

 と、キッチンの方を指差した。夫は車椅子の水を拭き終わると、車椅子を持ったまま部屋に戻ってくる。勿論、老年夫婦の二人世帯。夫には何も見えない。

「そうだね。孫たちが遊びに来たみたいだ。でも、ちゃんとお留守番出来るから問題ないよ。約束通り散歩に行こう」

夫はベッドの柵を外し、松枝の振戦している手を握り、腕を首に回し背中を支えるようにして松枝をベッドから降ろす。脚元も覚束無く、よたよたとした脚取りで車椅子に腰掛ける。夫は一息吐いてクローゼットから松枝の着替えを取り出してきた。松枝の寝巻きは背中のボタンを外すと脱がせられ、ズボンも簡単に脱がせられる。夫は松枝が寝ている間にお襁褓の取り替えは終わらせていた。多少の尿失禁とは云え、まだ女としての矜持の残っている松枝が起きている間にお襁褓を替えるのは至難の技である。

 今日はお出掛けなのだから、松枝のお気に入りのワンピースでも着せてあげようと取り出してくると、松枝は皺くちゃの顔を幼女のような表情で頬を染めた。ワンピースを来た松枝は、夫から観ても美しかった。

「子供たちが私の私物を漁らないか心配だわ……」

松枝は玄関を出ようとする寸前になって、家の中を振り返る。やはり、夫には何も見えないが、話を合わせるのがよいのか、そんなものは居ないと云ってしまうのがよいのか、ずっと勘考していた。松枝がレビー小体型認知症と診断されてから、もう十年以上の月日が流れている。夫にはアルツハイマー型認知症とはどう違うのか最初の方こそは解らなかったが、松枝が時々云う幻視の子供や知らない大人のこと、記憶力の低下は然程見られないが物事を認知する事が困難になってきたこと、寝ていたかと思ったら急に叫び出すことが増えたことなどを照らし合わせると、そう云う疾患名になるようだった。

「大丈夫だ。俺がちゃんと触らないように云っておいたから」

松枝は「そう……」と溜息のように返事をして、振り返っていた姿勢を元に戻す。玄関から出ると燦々と降り注ぐ太陽に迎えられた。夫がそっと日傘を松枝に差し出し、松枝は日傘を拡げた。

 近くの公園まで来ると、広々とした遊戯用の空間と、散歩用の遊歩道がある。遊歩道の両脇には庭先でも見た紫陽花が丸々と群生している。松枝はまた紫陽花の花言葉の事を考えてしまう。松枝も夫も七十歳過ぎだが、夫にはまだ介護なんて苦労をせずに付き合えるようなご婦人が現れるのではないかと思案する。最近では老人同士の出逢いの場もあると病院の待合室でご一緒したご婦人が云っていたことを思い出す。「移り気」「浮気」どちらも夫らしくはない気がさす。

「私、紫陽花は綺麗だと思うわ。でも、花言葉は嫌いなの。あなた識ってる?」

 松枝は振り返って恐る恐る夫の顔を覗き込んだ、キャップを被っており庇で目元に陰が落ちている。しかし、笑っているのがわかる。松枝の不安を見透かしたかのようだった。

「ここには色んな色合いの紫陽花があるね。色合いが変わるから、移り気なんて花言葉もついたくらいだ。だが、幸いな事に俺たちの家の紫陽花は青一色なのを憶えていておいてほしい。青の紫陽花の花言葉は、辛抱強い愛情、なんだよ」

 夫は松枝の頭をゆっくりと撫で、松枝の頬を伝う泪を拭ってやる。

 昨日は雨だったからか、遊歩道も少しぬかるんでいる。車椅子の車輪が泥に埋まっても、夫は力づくで溝を抜け出す。二人の歩む道。病める時も、健やかなる時も、それは二人が決めた道なのだと、夫は車椅子に掛かる生命の重みを愛し続ける。

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青い紫陽花 小柳日向 @hinata00c5

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