あの日の群青

時任しぐれ

あの日の群青

 夕日が穏やかに街並みを照らす。それはどこでも例外ではない。例えそこで何が起こっていようと、等しく温かな光を届ける。公園、だろうか。いくつかの遊具、水飲み場、子供たち。橙色に染まる景色に一つの声が響く。


「やめなさいよ!」


 そう言っているのは誰だろう。背丈の低い子供、おそらくは小学生。その周りにはたくさんの子供。子供らしい貧弱な語彙だけど、そこに含まれている悪意は純粋だった。水をかけられたり砂を投げられたり。簡単に人としての尊厳を踏みにじられる。

 そんな仕打ちを受けているのにどうしてか、彼女は立つことをやめない。その目はキッと目の前の子供たちに向けられている。つらい現実なんて目を逸らしてしまえば見えなくなるのに。

 唐突に時間が飛ぶ。夜の帳が降り始めている。公園にはもう二人以外は誰もいない。

 綺麗な瞳の少女はその目を閉じて泣きじゃくっている。ごめんなさい、ごめんなさいと嗚咽を漏らしながら涙をこぼしている。


「ごめんじゃなくて、こういうときはありがとうだよ」


 その後にはあやまられても困る、と続く。その少女が言うことは正しかった。けれど、どうしようもなくその正しさは人に受け入れられない。目の前の少女の言葉さえ拾い上げられない正しさに何の意味があるだろうか。

 手を差し伸べる。手を取る。


「……ありがとう」


 少女の瞳は、ただ青かった。

 たったそれだけの青さに。どこまでも深い群青に、手を伸ばした。

 誘蛾灯に沿って歩く二人の影は、車の光が飲み込んだ。


 〇


 人が好きじゃない。理由はあるけど、口に出すことはない。ただ私はそんな理由がなくとも嫌いだったのではないかと思うほどに、私は人が嫌いだ。

 教室でたむろしている集団が嫌いだ。無秩序の人間が集まっているだけでそこに秩序があるかのように気取っている。そんな大それたものではなく、本当は空気を読み合って押し付け合っているだけじゃないかと呆れてしまう。けれどその見えない空気は集団内でルールとして明確に駆動している。そこに変な歯車が混じればどうなるかは想像に容易い。

 部活動に打ち込む人が嫌いだ。一時の活動にまるで人生を賭けているかのような姿勢。どれだけの人が将来それを続けているだろうか。もしかしたらレクリエーションやコミュニケーションの話題くらいにはなるかもしれない。その程度だ。その程度の活動に人生の時間を割けてしまえる、その無計画さに嫌気が差す。

 独りでうつむいたまま教室の隅にいる人が嫌いだ。本を読んで人を寄せ付けないようにしている。その実、その視線は周囲の人間に向いている。その耳は周囲の音に敏感である。周りに馴染めない自分を誤魔化して他人に興味をないふりをして、それで偽りの安寧を得ている。自分の気持ちにすら嘘を吐くのなら、もうここにいなければいいのに。教室という場所にまだ自分の居所を見つけ出そうとしている、そのさもしい精神性にはある意味感心してしまう。

 二人だけの世界を築いている人が嫌いだ。自らが周りからどう思われているかも気にせずに、ただ自分たちの世界に浸っている。彼ら彼女らはある意味最も幸せに近いのかもしれない。この広大な世界から隔絶された二人だけの世界はきっと彼らだけの幸福に満ち溢れていることだろう。もっともそれは容易く瓦解してしまう、脆い世界なのだけれど。そんな世界の崩れる様を見せられる気持ちを考えたことがあるのだろうか。ないだろう。その能天気さが気に入らなかった。

 私という人が嫌いだ。

 嫌い嫌いと人を避け、どうしようもなく人を信じられなくなってしまっている。信じられないと被害者ぶっている。自分のせいなのに、他人のせいにして誰とも関わらない。人の嫌いなところばかり見てよいところを見ることが出来ない。運動が得意でもなく他者との関りが上手いわけでもなく勉学に秀でているわけでもなく、ただただ凡庸で人嫌いな自分。

 私は、世界で一番私が嫌いだ。


「結果を返すぞ。まずは有坂」


 教師から名前を呼ばれたので立ち上がり、「ありがとうございます」と形だけの感謝をして席に戻る。一学期の期末試験の結果が返された。出席番号が一番というのはイヤだ。こういうときに先陣を切ることになる。中盤くらいがちょうどいい。最初でも最後でも、何だか注目を浴びるような気がして、どうにも落ち着かない気持ちになる。

 先生が別の生徒の名前を呼ぶ。その生徒が椅子を引く音が聞こえる。全員共通のスリッパが視界の隅によぎる。高校に入学してからもう三ヶ月も経つというのに出席番号が次の人の名前すら覚えていない、そんな自分に気づいた。

 その認識から逃れるように自分の成績を開く。

 二百人中、百二十位。半分未満であることを突き付けられて余計に気が滅入ってくる。ここは進学校とはいえ、そこまで偏差値の高い学校ではない。無理して入ったことは後悔していないが、それでも精神的に堪えるものがある。

 しばらく椅子を引く音、名前を呼ぶ声、ひそひそと成績を見せ合う声が教室でごちゃごちゃと衝突し始める。ぶつかってぐちゃぐちゃに音が弾ける。弾ける音は聞きたくなかった。私はそっと耳を閉じる。物理的にふさぐわけではない。ただ周りの音を聞かないようにするだけだ。

 こういうときに窓際の席でよかったと思う。耳を閉じて窓の外を眺めて、ようやく教室という狭い空間から抜け出せる。

 夏らしく青々とした木が風に揺れている。小鳥が羽をばたつかせて木の枝に止まる。その鳥と目が合ったような気がしたが、すぐに飛び立ってしまった。結局その奥に映っているのは別の棟で、教室からは抜け出せても学校からは抜け出せない。でもそれは当たり前のことだ。学生である以上、学校には縛られる。ようはどこまで首輪の鎖を伸ばせるかという話だ。

 少なくとも思考の中では私は教室にいない。この窓の景色の中であれば私はどこにいてもいい。先の鳥のように枝に止まってもいい。階下に見える渡り廊下で風を浴びるのもいい。立ち入り禁止の屋上にだって行ける。自分の中でだけは自分は自由であれる。

 これは逃避だと自分でも理解していた。理解していてもそれをやめることはできない。それに逃げられる範囲も決まっている。私は目の届く範囲までにしか逃げられない。うっすらと遠くに見える山の中までは行くことができない。私の首輪は視界の中でとどまっている。

 カチリと頭の中で音がする。パイプ椅子のように、思考は教室という日常に淡々と折り畳まれていく。それが合図。私は外に逃げている思考を元に戻し、耳を開ける。


「試験が終わったとは言っても、まだ夏休みじゃないからな。みんな気を引き締めて授業を受けるように」


 担任の教師の話だ。どうやらもうすぐ終わりというところらしい。くぁと出てしまいそうな欠伸を口の中で噛み殺した。しばらく待っていると日直の号令とともにホームルームは終わり、放課後の時間がやってくる。

 放課後は嫌いだ。

 校則という秩序に縛られた人がそこから解放される。自由に動き出す人は思い思いに言葉を発する。音が重なりあって頭の中で不協和音を奏でる。調子の外れたピアノのような耳障りな大合唱。意味のある言葉の羅列も重なればカエルの歌と変わらない。

 うるさい、とまた耳を閉じる。バッグを持って足早に教室を離れた。

 下校する生徒、部活に向かう生徒、これから遊びに行く生徒、バイトに向かう生徒。とにかく目的の違う人が一か所に集まって好きに動く。無秩序な廊下の人の隙間をするすると抜けて靴箱へと向かう。スリッパからローファーに履き替えたら駐輪場、自分の自転車に鍵を差し入れる。カチャリと解錠されるこの音が好きだ。決められた通りに動かせば決められた反応を返してくれる。鍵と鍵穴の関係というものに私は憧れを抱く。

 私の居場所は学校にはないと思う。人が嫌いな私に人の多い場所を好きになれというのは無理な話だ。とにかく一人になれる場所がいい。それでいて何もない場所。どこまでも広がる場所。自転車を漕いでそんな場所を探す。

 夏の西日は熱い。肌がチリチリと焦げるような錯覚がある。そのまま焼けて、消えてしまえたらいいのにとふと思うことがある。そんな思考は湿気のある風が後ろにさらっていく。ねばついた夏の空気が私を包み込んでいる。夏は好きだけど、湿気で髪がごわつくのが苦手だ。髪が長いからなおさらめんどうくさい。切ってしまおうかと思うこともあるけれど、中々その覚悟もできない。折角伸ばしてきたのだからという変なもったいない精神が鎌首をもたげる。

 橋の上を通ると一際に強い風が吹く。やはり切ってしまおうか。鬱陶しい髪をまとめて一つに結んだあと、再び自転車のペダルに足をかけた。カリカリ、カラカラと古びた自転車が音を立てる。隣を車がぶおんと音を立てて通り過ぎる。幼い頃から車は怖いものだという認識が強く根付いていた。車社会は人の善意によって成り立っているだけだ。誰かが少しでも悪意を持てば、車はただの特攻兵器と化す。その事実がどうしようもなく恐ろしい。大人になるまで私が生きていたとしても、免許を取ることはないだろうという確信が持てる。

 狭い道に入る。夜に来たら不審者でも出そうな道だった。街灯はなく、家も少ない。店もないから人通りも少ない。ここに来たら誰かが遠くまで連れ去ってくれないかなというあり得ない妄想をする。可能性はゼロではないにせよ、誘拐犯がこの場所に現れる確率とその場に私が言合わせる確率を考えれば、自ずとその実現性は推し量れる。もしその実現性を越えられたとして、連れ去られる先はどんなところだろうかと思いを馳せる。けれど何も思い浮かばなかった。私は知らないことを考えることが苦手だ。

 そうしてひたすら考えながら自転車を漕いでいるだけで放課後の時間は終わる。何もなく、一人でいられる場所なんておそらくこの世には存在しない。生きている限り人は完全に一人にはなれないようにできている。

 家に着く頃にはあたりはもう暗くなっていた。無為に時間を過ごしてしまったという後悔が心の中を埋め尽くす。こんなことをしている暇があったら勉学の一つにでも励めばよかったと。どんなことをしても後悔ばかりで何一つ満足に物事を成し遂げられた試しがない。


「ただいま」


 返事はない。当たり前のことを毎日繰り返している。


 〇


 かつてのことを夢に見ることがある。決まって次の日は雨が降る。低気圧でも関係しているのだろうか。軽い頭痛に悩まされながら、私は布団から這い出て眼鏡をかけた。ぼやけた視界が鮮明になる。

 ただでさえ湿気がひどい夏、そして雨。今日はあまりいい日ではないらしい。

 登校中はよく学校から比較的近めな場所でよかったと思う。こういう雨の日ならなおさら。レインコートを着ていても手や足がかなり濡れてしまっていた。

 教室に着いたので服の濡れ具合を確認する。このどしゃぶりの中自転車を漕いでいたにしては濡れていなかった。ただ制服のスカートは裾の方が濡れて黒くなっている。タオルでぽんぽんと拭いていると、次第に教室に人が増え始めた。ざわざわと大きくなって重なっていく人の声が怖い。雨の音に耳を集中させる。ざあざあと降る雨音は私の中で少しずつ大きくなっていく。

 タオルで体を拭き終わるや否や、教室を出た。廊下で誰かに声をかけられた気がしたがそれに構っている暇はなかった。

 とにかく誰もいないところでゆっくりと息を吸って吐いて。目を閉じる。始業前、休み時間、放課後。そういうすべきことが何もない時間に、私は教室にいることができなくなることがある。一人でいるときはいい。授業中も、授業に集中すれば耐えられる。

 人の声がざわざわと重なる場所は、耳を閉じていてもダメだった。誰かが何かを話しているということを想像するだけで、聞こえていないはずの声が聞こえてしまう。決まって聞こえるのは私を責めるような声だ。けれど私はこの学校では目立っていない。地区外から来た人間のことを珍しく思う人こそいたが、ほとんどの人は自分たちの交友関係に手一杯で私のような人にまで気をかける余裕などないのだ。だから、そんな責めるような声は絶対に幻聴だ。

 もしかしたら何かの精神病なのかもしれない。でも、もしこれが病だったとしてもこれは私が背負うべきものなのだと思っている。

 始業までの時間、雨の音が響く暗い廊下で目を瞑っていた。


 授業後、ホームルームが終わりを告げるやいなや教室を出る。多くの部活は中止になっているようだ。雨の中わざわざ遊びに行く酔狂な人もそうはいない。ぞろぞろと靴箱には人が集まり、ある人は家に連絡をし、ある人は雨具を持ってきていないと嘆く。話のネタに困らなさそうでいいなと思う。

 駐輪場まで走る。途中でびしゃりと水たまりを踏み抜いてしまい、しまったなと思う。体に着いた水滴を払いながら自分の自転車を見る。

 レインコートがなくなっていた。理由はわからない。もしかしたら盗まれたのかもしれないし、風で飛ばされてしまったのかもしれない。いくら風が強めに吹いているとはいえ、駐輪場の外まで飛ばされてしまうことがあるだろうか。あたりに見当たらないということがあるだろうか。こんなに自転車があるのに引っかからないことがあるだろうか。そこまで考えるけれどそんなことはどうでもいいと思い直す。嫌がらせではなく、私に対する悪意ではなく、ただ雨に濡れたくないという一心での行動だったのだろう。こんなに人が多い中でそれをやってのける精神には感心するが、堂々としていれば意外とバレないものだろう。普通の人に他人のレインコートを無断で使うような発想はないから、胸を張って着て見せれば勘違いを生むことは容易い。思わず手をぎゅっと強く握りしめた。爪が手のひらに食い込んで少しだけ痛い。いくら人が嫌いだからといって、こうやって真っ先に他人を疑ってかかる自分がイヤになる。

 雨の中、自転車を当てもなく漕いでいるとまるで死に場所を探しているみたいだなと思う。自殺はしたくない、と自分では思っているつもりなのだけれど、どうだろうか。ふとした瞬間に飛び降りたらどうなるだろうとか、飛び出したらどうなるだろうとか、そんな想像は歯止めなくやってくる。でもそのときに決して死にたいと思っているわけじゃない。ただの好奇心だと思いたい。実際、私が死んだら親だって迷惑するだろう。いくら嫌っていると言っても学費を払ってもらっている以上、私は彼らに迷惑をかけるべきではない。無理を言って一人暮らしまでさせてもらっている身の上で、これ以上の迷惑なんてかけられない。

 雨粒がバチバチと顔に当たって痛かった。眼鏡に水滴がついて、それに車の光が反射して、何も見えなくなる。髪もシャワーでも浴びたみたいにずぶ濡れになっていく。制服もびしょびしょで肌に張り付いて気持ち悪い。

 そうやって頭を冷やして、ようやくまともな思考が戻ってきた。


「何やってんの、私は……」


 思わず言葉が漏れ出る。胸が苦しい。頭痛も相まって、自己嫌悪で体が爆発してしまいそうだ。自棄のような行動で何かが変わるなら、とっくに私の世界は変わっているだろうに。

 自転車を漕ぐ気力はもう残っていなかった。雨の中、自転車を押して歩く。レインコート前提だから傘も持ってきていない。あったところで自転車を押しながらどうやって傘を差すのかという話だ。そんな器用な真似はできない。

 ほとんど何も考えずに漕いでいたせいか、無駄に遠いところまで来てしまっている。ここから家まで帰るのは骨が折れそうだ。

 バッグはビニールに入れてかごに突っ込んでいるとはいえ、ここまで雨がひどいと少しは濡れてしまっているかもしれない。濡れた教科書を乾かす作業はめんどうなものだから、出来れば濡れてないことを祈る。

 下着まで濡れたことなんて小学生以来だ、と思うと同時、あまりよくない頭痛が襲う。空を覆う雲を見ればその原因は一目瞭然だ。低気圧による偏頭痛だろう。体が冷えたせいか朝のときよりも悪化している。ずきずきと頭の中に破片が埋まっているような痛みは続く。動けないこともないが、家までは持ちそうにない。

 電話、と思って携帯を取り出すが、かける当てもなかった。両親は県外で、車を乗り回すような知り合いもいやしない。友人に迎えに来てもらうことも出来ただろうが、私に友人はいない。よって、一つの結論が下される。


「暦ちゃん?」


 その結論が下される直前に、名前を呼ばれた。下の名前で呼ばれるなんていつぶりだろうか。なんて場違いな感想が頭に浮かぶ。

 名前を呼ばれた方を振り向くと、傘を差した女子高生がいた。私と同じ制服を着ているということは、同じ高校の生徒なのだろう。短く色素の薄い髪をしている。高校に入ってから名前で呼ばれるような関係性の人はいなかったと思うのだけれど。

 困惑と頭痛で回らない頭を上げ、彼女の目を見た。

 青。

 髪型が変わっても背丈が変わっても、青く、空の青より青い美しい瞳だけは見間違えるはずがない。


「……彼方」


 小学生のときにいなくなった彼女が、目の前にいた。


 〇


「ちょっと、なんでこんな、傘は!?」


 彼女は駆け寄ってくる。私は身動きが取れない。体が冷えていて動きが鈍い。それだけだろうか。心なしか体が震えている気がする。寒さから来る震えとも違う。頭痛も一際強くなっている。思考が散発的で上手く考えがまとまらない。

 傘で雨が遮られる。ダメだ、そのままだと彼方が濡れてしまう。


「濡れるから傘、自分に差して。私はもう濡れているから大丈夫」


「何言ってるの……手、こんな冷たいのに」


 私の手を握っている彼方の手は温かい。温かい手に握られているのに、その手に握られていると不安になる。


「わたしの家、近いから。来て」


「……いや、それは」


「いいから、話はその後で」


 無理矢理引っ張られるようにして連れていかれる。私の意志とは無関係に足はのろのろと動き出す。無性に叫びたかった。その手を振りほどいて逃げ出してしまいたかった。

 けれど拒絶よりも彼女の優しさに縋りたいという、そんな独善的な思いの方が強かった。


 風呂場に押し込まれてシャワーを浴びる。体が温まってくると思考が正常化していく。

 遠野彼方。小学生のときに友人だった。ハーフで透き通るような青い瞳をしていて、少しおどおどした女の子だったと思う。いつも私の一歩後ろを歩いているような子だった。

 あんな大きな声を出すような子じゃなかったし、積極的でもなかった。本当にあれは遠野彼方なのだろうかと猜疑心が顔を出す。それくらいに彼女の雰囲気は変わっていた。あの印象的な青い目がなければ、もしかしたら彼女だとわからなかったかもしれない。あれから五年の歳月が経っている。誰だって変わるだろう。私だってあのときとは全く違う。でも彼女の雰囲気は、とそこまで考えて首を振った。あり得ない。こんなことはくだらない妄想だ。

 風呂場から出ると着替えが用意してあった。若干サイズが大きいが小さくて入らないよりはマシだ。用意してもらっている身で贅沢なことは言えない。ダボっとしたTシャツを着て眼鏡をかける。髪は、まあ帰ってから乾かせばいいだろう。どうせ雨の中帰ることになるのだから今乾かしても意味はない。

 脱衣所のドアを開けてリビングに足を踏み入れる。トントントンと小気味いい音が聞こえてきたので料理をしているのだと察する。声をかけようか迷って口を開きかけたが、結局何と言えばいいのかわからずにその口を噤む。それに人との会話をどのようにすればいいのか、その勝手を忘れてしまっている。長い間まともに人と話していないせいで言葉だけは胸に貯まっているけれど、吐き出し方を知らなければ意味がなかった。

 人の家というものはどうにも落ち着かない。そわそわと挙動不審になってしまう。いろいろなものが目につく。カーテンの色、家具の配置、その家特有の匂い。あらゆるものにその場所の生活が表れていて上手く見ることができない。妙な置き物が多いことが気にはかかったが、そんなことを言ってどうかなるわけでもない。

 人の家において、どこに視線を向けておけばいいのかわからなかった。キレイに敷かれた絨毯の上に座っていいのかとかソファは家族用のものなのかとか、おそらくしなくてもいいであろう心配が次から次に湧き出てくるのだ。かといって床の上に座って待っていたのでは相手に変に気を使わせてしまったという気を使わせてしまうことは想像に難くない。

 悩んでいると私が風呂から上がったことに気づいたのか、彼女はこっちにパタパタと足音を立てながらやってきた。まず彼女に最初に言うべきことがある。


「ごめんなさい、お世話になって」


 頭を下げると彼女は慌てて「いいよいいよ! そんなたいしたことじゃないし」と言う。昔の友人とはいえ今では知り合いと呼べるかさえ怪しい私を家まで連れてきてシャワーを浴びさせること、それは彼女の中ではたいしたことに入らないようだ。

 顔を上げると、見たことのない表情をした彼女が目の前にいる。泣きそうで、でも笑っている。彼女の笑顔は人好きのする表情だと改めて思う。


「それにこういうときはありがとうって言うんだよ」


 なのに、そんな明るい顔をしているのに、どうしてそんな悲しい目をして私を見るのだ。その綺麗な目には笑顔こそが映えるだろうに。


「暦ちゃんが言ってたことだよ」


 胸をちくりと針で刺されたような気がした。確かに言われてみればそれは小学生の私が言っていたことに似ている。感謝と謝罪、どちらも自分の感情に整理を付けるためにする行為であるのに、その意味合いは全く異なっている。悪かったという後悔を相手に押し付けるよりはあなたがいてよかったという明るい思いを押し付けた方がいい。ここまで理論立てて考えていたわけではないけど、漠然とそういうことを理解していた。少なくとも小学生のときの私は。


「そう、だったかな」


 覚えていない。そういうことにしておく。


「……昔のことだもんね、しょうがないよ」


「……あー、うん。五年前だし」


 服が乾くまでの間、私はここでどうやって過ごせばいいのだ。会話をする能力が著しく減退している今の私に、昔の友人との会話は荷が重すぎる。他の人ならともかく、彼方が相手だというのもそれに拍車をかけている。彼方相手には合わせる顔がないからこうやって優しく接されるともう自分がわからなくなりそうで感情に整理がつかない。


「暦ちゃんが同じ学校だって知らなかったな。知っていたらわたし、会いに行ってたのに」


「体育とか同じじゃないと接点ないから」


 私もそうだとは到底言えなかった。私がもし彼方が同じ学校にいると知っていたら、徹底的に会わないようにしていたに違いない。今さら彼女に何と言えばいい? 助けられなくてごめんだなんて、そんな傲慢なことを言えばいいのか? 勝手に私が助けた気になっていただけで本当は全然違う。火種に油を注いで迷惑をかけただけだったのに。彼女がいなくなってから気づいたのだ。でもそんな言い訳をして何になる。私が当時彼女を転校させてしまったのは事実だ。いくら思考を逸らそうとしても目の前に彼方がいるせいでそれも出来ない。逃げることだけが取柄なのに私は、彼女の視線から逃げられない。吸い込まれそうな瞳が私をここに縛り付けている。


「そうだね。体育も違うし、選択科目も違うよね。たぶんだけど」


「……今まで会ってないってことはそういうことじゃない?」


 会話が続かない。続ける能力がない私と、なんとか会話をしようとする彼方。一度のラリーで終わる話を何度か繰り返した。

「ごめんね、暦ちゃん」

 何度目かのラリーの後、彼方から謝られる。どうして彼女が謝るのか理解できなかった。けれどその理由を問うこともできない。俗に言うコミュ障という言葉は、今の私のためにあるかのような言葉だった。


 会話が生まれないまま時間が過ぎていく。乾燥器の唸るような低音だけが部屋に響いている。やがてアラームの甲高い音がこの時間の終わりを告げた。


「ごめん。傘まで貸してくれて」


 さすがにここから濡れて帰るわけにもいかない。何のために彼女の家で乾かしてもらったのだ。これ以上お世話になりたくはなかったけれど、傘を借りないわけにはいかなかった。


「大丈夫? 泊っていっても……」


「親さんに迷惑だから」


 小学生のときから彼女の両親に会ったことはない。今となっては絶対に会うわけにはいかない。時刻は午後七時半、普通の仕事をしている人ならそろそろ帰ってきそうな時間だ。


「それじゃ、ばいばい。彼方」


「また明日ね、暦ちゃん」


 また明日、か。確かに傘を返すためにもう一度だけ彼女と顔を合わせることになる。できればもう会いたくはないのだけれど仕方がない。次に会うのを最後にする。それで私と彼方は元の同窓生に戻る。戻らなければならない。今日、私は彼女に関わってはいけないのだと確信した。振り返ることなく彼女の住むアパートを後にする。彼方の視線がずっと私の背中を突き刺しているような気がしたが、それは本当に気のせいだろう。彼女の家の扉が閉まる音ははっきりと聞こえていたのだから。


 大きな目をした歪で顔のデカい人が目の前にいた。思わず大きな声を上げそうになるけれどその前に口を塞がれる。デカい人は三人に増えて口々に言葉を発する。「助けては言わせない」「助けてってなに?」「それよりも話はどこ」反射的に叫ぶと、私は教室でうずくまっている。四つん這いになりながら生徒の足元を歩いていると電話がかかってきた。ピリリリリとポケット中で音を出すそれを取り出して確認すると両親からだった。一緒にガラスを割らないかという誘いで私はそれを拒否して電話を切る。歩道橋の上にいるせいか風が強い。ともすれば落ちてしまいそうだった。いっそのこと落ちてしまえばいいのかもしれない。さっと飛び降りてみると運よくトラックの上に乗った。トラックの上はステージになっていてブリキの人形たちが不揃いな音楽を奏でる。カタカタと行進を始める。彼らは一斉に腕を振り下ろすとブリキの手から指がたくさん出てきた。脱出ゲームの途中だというのに彼方は何をしているのだろう。えんえんと泣きじゃくる彼方の肩に腕を置くと深い沼に引きずり込まれた。生ぬるくて心地が良い。「どこに行きたいの?」そう尋ねられても困る。私は今学校で授業を受けている際中なのだ。思わず学校を倒してしまう。デカい顔の人はたくさんのお礼を言ってくれた。ありがとうと繰り返されるそれに少しだけ大丈夫という気持ちになった。


 冷や汗が出ている。時計を見るとまだ午前三時だった。思わず片手で頭を抱える。変な時間帯に起きたせいかズキズキと目の奥が痛む。声を上げていたのだろうか、喉も少しかすれているような感覚がある。コップに冷たい水を入れてから口をつける。それだけでだいぶ落ち着いた気がした。

 再び横になって目を瞑ると、先の歪な顔が暗闇に浮かんで叫び声をあげそうになるがすんでのところでこらえた。ただでさえこのボロアパートは壁が薄い。近所迷惑で退居なんてことになったら目も当てられない。目を閉じると現れるそれは異形だ。理解できないものに対して人は恐怖を覚える。仕方なく目を開いて天井を見た。当たり前だが照明以外には何もない。眠れないのならもういっそのこと起きてしまおうかとも思うが、雨に打たれた体は自分の想像以上に疲弊しているみたいで眠るように訴えてきている。目を閉じた後に、閉じた瞼の中で目を閉じた。それだけでおかしな顔の住人は見えなくなる。

 頭の中が絞られるような錯覚に襲われながら、意識も静かに閉じていった。


 〇


 晴れた日に持ち歩かなければならない傘というのは中々に人目に付くようだ。転ばぬ先の杖という言葉もあるが、いくらなんでも天気予報で快晴の予報が出ているときに傘を持ってくるほどの石橋叩きではない。人に借りた傘を返さなければならないのだ……誰に向けてでもない言い訳を心の中で重ねているとほんの少しだけ気が紛れる。放課後に彼方に会わなければならないことを考えただけできゅっと首を絞められるような錯覚に陥る。

 結局あの後はよく眠れず、起きる時間が学校に間に合うギリギリの時間になってしまった。教室にいる時間が短くなるというのはありがたい気もする。だが人が多くいる教室に入るというのは毎度のことながら精神的に負担がかかる行動だ。早く行こうが遅く行こうが結局教室に入るという行為がつらいことに変わりはない。

 ガラリと扉を開ける。一瞬だけ、じろりと教室中の視線がこちらを向く。すぐに外れるその視線に慣れることはない。中学の頃からこれが苦手だった。自分が彼ら彼女らにとって不要な存在であると切り捨てられている気がして。これが自意識過剰であることは重々承知している。誰が来たということを意識しているわけではない。知り合いが来たかどうかを確認して、そうでないから視線を外しているだけだ。私だから無視しているというわけではない。そうと理解していても心に根付いたその認識は容易に抜けてはくれない。

 席について目と耳を閉じる。たったそれだけで私の世界は私の中だけで完結する。ここには私しかいない。私の思考の中に私以外のものは存在しえない。

 逆に言えば私はいるということだ。私は私が嫌いだ。イヤなことから逃げても結局嫌いなものとは真正面から向き合わなければならない。ひたすら時間がすぎることを待つ。時間を潰すことすら満足にできない自分に呆れる。読書なりスマホなり、いくらでも手段はあるだろうに、それを頑なに実行に移せない。それをしてしまうことで完全にその世界に逃げてしまう自分が容易に想像できてしまう。思考を現実から逸らすのとはまた違う。作られた世界に逃げ込んでしまうことはひどくみじめに思えて、娯楽を楽しむことができない。結局現実を見ていないという点では今と全く変わらないのだけれど。

 昼休み、騒々しい教室を出て一人になれる場所へと向かう。長い休み時間というのは何をしていいのかわからない。次の授業への準備なんて長くても五分あれば終わる。昼食も最近は取らないから問題ない。とにかくすることがないということが問題だった。考え事をすると自分のことばかり考えて気分が沈むのでやりたくはなかった。


 放課後まで随分と長い時間を過ごしていた気がする。いつもは授業に集中しているおかげもあり体感時間は短いのだが、今日は放課後に用事がある。ただそれだけで気もそぞろになってしまうのだから普段どれだけ私が自分のことしか考えていないかがわかって、気分が悪い。

 教室の外を見る。空はまだ放課後の色をしていなかった。しばらく机の整理をするふりをしながら教室に人がいなくなるのを待ち、そこからさらに時間が経って、ようやく彼方に会いに行こうと腹をくくる。そこまで考えたところで気づく。

 学校のどこに行けば彼方に会えるのか、私は知らない。

 クラスも知らなければ部活をやっているか、委員会活動をやっているか、放課後の彼女の過ごし方を一切考慮に入れていなかった。もういっそのこと帰ってしまおうかという邪な考えが頭に入ってくる。風呂を貸してもらい、傘を貸してもらい、そこまでしてもらった相手のことを裏切ることなど到底できそうもなかった。今のことだけでもそうなのに、昔のことまで含めれば猶更、そうだ。それに冷静な私が気づいている。どうすれば場所もやっていることもわからない状況で会えるのかということに。


「暦ちゃん」


 壁に背を預けてスマホを触っているふりをしている私。そんな女に話しかける人は生憎と一人くらいしかいないのだ。


「彼方、これ、返しに来た」


 靴箱ということもありすぐに傘を渡すことができた。とっくに放課後の色に染まった空はその色を校舎にも映していて、空の色が変わってしまうまで学校に残っていたのは随分久しいことだったなと思う。人との関りがなければ学校に長く残る理由はない。だからこんな時間まで残るのはおそらく今日で最後だ。

 彼方は「ありがとう」と言って傘を受け取る。お礼を言うべきはこちらだ。


「傘、貸してくれてありがとう。助かった。それだけ。……じゃあ」


 言いたいことだけ言って帰る。印象は悪い。でもその方が彼方にとっても私にとってもいいことなのだと思う。


「待って」


 要件は終わった。これ以上私は彼方に関わってはいけない。彼方から関わるようなこともあってはならない。だからそうやって呼び止められたとき、肩に手を置かれたとき、思わずその手を振り払ってしまった。

 戸惑いの表情を浮かべる彼女に私は言う。


「あのさ、昔と同じじゃないんだよ。昨日は助かった。けど、だからといって前みたいにはい仲良しにはなれない。親友だったけど今は違う。善意の押し付けなんて、押し付ける側の自己満足だよ。あなたの自己満足に私を巻き込まないで。私にとって昔のことは、もう終わったことなの。だからそれを思い出すあなたとは一緒にいられない」


 立ち尽くす彼女を置いて私は足早に自転車へと向かう。すんなりと鍵が入ってガチャンと大きな音を立てる。


「じゃあ、さようなら」


 もうおそらく見ることがないであろう彼女の最後の表情を、私は視界に入れることができなかった。私の顔を見られたくなかったから。


 昔と同じじゃない。

 前みたいに仲良しにはなれない。

 善意の押し付けなんて自己満足。

 昔のことは終わったこと。


 全部全部、私に向けた言葉だったのに。


 〇


 夏になるまでお互いに気づかないくらいなのだから、元々私と彼方の行動範囲は重ならないのだろう。あれ以来彼女に会うことはなく、教室でいつも通りの日々を過ごしている。曇天の空を窓越しに見上げると今にも雨が降りそうで、なるほどこの頭痛は低気圧が原因かと納得する。

 それだけだろうか。どうもあの日から体調が悪化しているような気がしてならない。頭痛薬を飲んでもあまり効かないし、朝に吐き気がすることも以前より増えた。

 夏休みが近いことも関係しているだろう。中学生になって以降、夏休みには碌な思い出がない。友達もおらず周囲に適合できなかった私は、とにかく自室に引きこもっていた。親もそれに対して特に何か言うことはなかったから、それでいいのだと思っていた。中学三年生になってようやくもう少し動いた方がいいということに気づいたが、その頃にはもう受験勉強が始まっていて後の祭りだと思ったことを覚えている。


「有坂さん」


 高校生になった今、できることはあるだろうか。アルバイトという単語が頭に浮かんだが、人に対して苦手意識、嫌悪感を持っている私ができる仕事なんてそうそうあるはずもなく、課題を終わらせて、それで終わりという何も生み出さない休みを過ごす未来が見える。そんな未来が予想できているのに気分が上がるはずもない。むしろ下がり続けるのが正常というものだ。


「有坂さん? 顔色悪いけど、大丈夫?」


 大丈夫か? 大丈夫と答えなければならないということは理解できている。例えどんなに苦しくても私は大丈夫だと、一人でもやっていけるのだと証明しなくてはならないのだ。つい最近関わらないと言いながら彼方に助けられておいてどの口が言っている? その気になれば彼女の助けがなくとも家に帰りつけたはずだ。どれほどきつくてもどれほど体調を崩そうとも、可能という観点で言えば可能だった。だというのにどうだ? 人の優しさに甘えて、そんな甘えが許せなくて相手に自分の思っていることを突き付けて勝手なことばかり言う。そんなことをやっていいと思っているのか。ああ、だから私は私が嫌いなんだ。自分で言ったことすら満足に守れないのなら、いっそのこと消えてしまえばいい。


「有坂さん『どうしてここにいるの?』」


 そう聞こえた瞬間、私の意識は途切れた。


 〇


 被害者ぶることはとても簡単だ。事実私の心には大きな傷がある。けれどその傷を見せびらかして、被害者ぶって正義を気取るなんて、そんな卑怯な真似はできない。嫌いな自分をこれ以上嫌いになりたくはない。どう弁明をしたところで私が彼女のことを意図的に傷つけたことは変えようのない事実だ。だから、言い訳なんて意味がない。そうと理解していても次から次に溢れ出してくるのは後悔の念だった。

 過去のことばかりが頭を埋め尽くす。

 いじめられていた少女、やめろと言う私。次第に打ち解けていく二人。目を瞑るとすぐに思い返すことができる幸せの記憶。けれどその記憶は一瞬で悪意に塗り替えられていく。

 いじめられていた彼女に手を差し伸べたのが間違いだったのか? そんなわけがないと、そう言い切れたならよかったのに、私はそうではないと理解してしまっている。あそこで私が彼女の味方に付いたことで、いじめはさらに激しくなった。二人で帰る時間をズラそうと言って一緒に帰った。結果、その時間帯に帰っていたせいで、暴走した車に彼方は轢かれた。しかも私をかばって。

 そのことによりいじめは明るみに出たが、それが原因で彼方は転校した。

 でも、ならばどうすればよかったのだろう。事なかれ主義の担任、両親。学校の体勢を相手に、小学生の私に、他に何ができたと言うのだろう。

 結局のところ、何もしないことが正解だったのかもしれない。だってそうだろう。いじめを構成する人の内、およそ八割は傍観者だ。見ているのに何も行動を起こさない、起こせない。彼ら彼女らが裁かれることは滅多にない。何かをしようとして失敗するくらいなら最初から何もしなければいい。誰とも関わらなければ、嫌いになってもらえば。そして私も嫌えばいい。手を差し伸べようという気を起こさないようにすればいい。

 私は不幸でいなければならない。誰かのためにも、私自身のためにも。


 〇


 薄っすらと声が聞こえる。ついさっきまで授業を受けていたはずなのに、どうも意識がはっきりとしない。頭を押さえながら起き上がると白いシーツと白いベッドが目に入る。起き上がる? というところで疑問を抱き、自分の置かれている状況をなんとなく理解する。


「彼女、起きたわよ」


 保健室の先生が明後日の方に向かって言う。その顔の方向へと顔を向けると、かつて見慣れていた瞳が目に入る。


「よかった、暦ちゃん」


 頭が混乱する。理解できていたはずの状況がよくわからなくなる。どうしてここに彼方がいるのだ? おそらく教室で倒れて、保健室まで運ばれたであろうことは想像に難くない。しかし、別のクラスの生徒がここにいるのはどう考えてもおかしい。

 私の困惑をよそに保健医は話を進める。


「あなたは授業中に貧血で倒れたのよ。ちゃんとご飯食べている?」


「いえ、最近は小食気味で」


 そういえば今日は朝食を摂っていなかったなと思い出す。昨日の夕食から何も食べていなければ、確かに倒れてもおかしくはない。そこまで体が弱い方ではないのだけれど、最近の無理が祟ったのだろう。雨の中自転車で走ったりもしていたわけだし。

 何か言いたげな視線を感じて保健医の顔を見る。目線が合って、何だか気まずくて逸らしてしまう。逸らした先には彼方がいて、俯くしか選択肢はなくなる。


「それだけじゃないようにも見えるけれど……まあいいわ。体調がよくないのなら早退する?」


「……そうですね、これ以上教室にいても迷惑でしょうし、帰らせてもらいます」


「そう。なら担任の先生にも話はしておくわ。荷物は……遠野さんが持ってきているみたいね」


 彼方の足元を見ると既に二人分の荷物が置いてあった。私の分と、もう一つはおそらく彼方の分だろう。なんとなく彼女がやろうとしていることを察して、やっぱり授業に出ようかと迷う。しかし倒れるほどの体調不良が残っている状態で授業に出たとしても、満足な結果は得られないと私の冷静な部分が判断を下していた。


 自転車に乗ろうと思ったけれど、保健医から止められたので押して帰る。隣を見れば彼方がいる。一緒にはいられないなんて、そんなことを言った手前こちらから話しかけるのも罰が悪い。また助けられてしまった。助けてもらったというのに、お礼の一つもまともに言えない自分が腹立たしくて、せめてそれだけはちゃんと伝えようと意を決する。


「あの、彼方。また助けられた。ごめん」


「え? ううん、気にしなくていいよ。わたしが勝手にやったことだし」


 あんなことを言ってしまったにも関わらず、彼方は以前と変わらぬ様子で接してくる。いっそのことお前なんて嫌いだとなじってもらえれば楽なのに、そうはしてくれない。体調がすぐれない中こうして付き添って帰ってくれるのは正直ありがたいのだけれど、感謝というよりは困惑の割合が大きかった。


「……どうして私と帰っているの? 彼方も授業があるのに」


 その困惑は思わず口をついて出る。俯いているから彼女の表情はわからないが、吐息混じりの声色が若干の呆れを物語る。


「そんなの、言わなくてもわかることだと思うけどなぁ」


「……ごめんなさい。私、あまり察しがよくなくて」


「すぐ謝らないの。こうやって帰ってるのは、わたしも暦ちゃんに言いたいことがあったっていうだけだよ」


 言いたいこと、と反芻する。それはそうだろう。勝手に言いたいことだけ言ってきたのは私だ。ならばそれをやり返す権利が彼方にはある。

 彼女の口撃に備えていると、頭に軽い衝撃が走った。ついで痛み。


「えっ、と?」


 彼方の手がチョップの形で私の頭に乗っている。小突かれたのだと気付くまでに数秒の時を要した。


「勝手なことばかり言いすぎ、自分の中でばかり考えすぎ、もう少し周りを見なさい」


 言われた言葉を振り返る前に、畳みかけるようにして彼方は言葉を紡ぐ。


「暦ちゃんは昔からそうだよ。自分の中でばかり考えて、すぐに自分のせいにしちゃう。今日なんて倒れるところまで追い詰められちゃってるし。それに一緒にいられない~とか言ってたけどさ、わたしだってもう高校生なんだから、関わる相手くらい自分で決めるよ」


「でも、だって! 彼方が転校したのは私のせいで」


「そんなわけないじゃん」


 言われて面食らう。そんなわけがないと言ったのか、今。それこそ、そんなわけがないだろう!


「だから、自分のせいにしすぎなんだって。いじめからわたしを助けてくれたのが暦ちゃんで、悪いのはいじめをしていた人たちでしょう? 助けてくれた暦ちゃんが悪いわけないじゃない」


「でも、事故は」


「でもも何ももないよ。暦ちゃんがどう思っているのかはわからない。けど、わたしはそう思っているってだけだよ」


 勝手にそう思っているだけだと、そう言う彼方。


「……なら、私がどう思っていようが私の勝手でしょう。放っておいて欲しい」


「放っておけないよ」


「イヤだって言ってる。わかって」


 どうしてこうも彼方は私に関わってくるのだ。私は弱い。だから人と関わりたくないと、そうやって誤魔化しているのに。あなたから関わられると困る。よくわからない感情が胸を駆け巡る。胸にツンとくる痛みを感じる。その痛みはじくじくと心を苛んでくる。


「……私は、彼方を傷つけたくない」


 思わず零れたのはそんな言葉だった。どの口が言っているのかって自分でも思う。でも一度堰を切ったら、あとは次から次へと言葉が溢れ出してくる。


「どれだけ彼方が私は悪くないって言ってくれても、ダメなんだよ。自分のせいにしなくていいって言ってくれてもダメなの。どうしたって私は私がダメだったって思う。だってそれが本当のことだと思うから。だってそうでしょう? 任せられないなんて自分で判断してないで大人を頼るべきだった。どれだけ頼りにならないってわかっていても頼るべきだった。私が、私のあのときの判断で、彼方はもっと苦しくなったでしょう? 事故だってそう。今みたいに歩けるようになるまでどれくらいリハビリしたの? そんな風に彼方の時間を奪ったのは、私が遅く帰ろうって言ったせいなんだ。失敗したってずっと思ってる。だから、彼方とは一緒にいられない。彼方が許してくれると、私は私を許してしまう。それだけはダメだと思うから、だから私はッ」


 軽い衝撃、次いで力が込められる。ぎゅっという擬音が聞こえてきそうな、それは抱擁だった。


「聞いて、暦ちゃん」


 顔は見えない。少し声が震えている。抱く力が強くなる。その声のまま彼方は言う。


「暦ちゃんがつらいと、わたしもつらいんだよ」


 ごめんねと言いながら鼻をすする音が聞こえる。


「……なんで彼方が謝るの」


「だって、わたしは暦ちゃんを助けられなかったのに、こんなこと言う資格ないのに」


 彼方はごめん、ごめんなさいとうわ言のように繰り返す。


「こんな言い方しかできないんだ。わたし、卑怯だからさ」


 暦ちゃんには、幸せに生きて欲しいよ。


 今までどれだけ言葉を積み重ねられても通らなかったのに、その言葉だけはすっと針の穴を通すように私の心に沁み込んだ。


「……ありがとう、彼方」


五文字の感謝は、思ったよりも簡単に口から滑り出た。


 〇


 私が不幸でいることは、誰かに対しての償いにはならない。そんなこと、子供のときはわかっていたことなのに、年を重ねる毎に変に冴えた言葉ばかり胸に重なって、見えなくなっていた。自分が不幸だと思っているわけではないが、かといって幸せと思えるかというとそれも違う。そうやって考え事をしているうちに、また言葉ばかりが心に貯まっていく。

 以前に作っておいたおにぎりを食べながら浮かぶのは、そんなことばかりだった。

 外に出る支度は済ませてある。あとは服に袖を通すだけというところでピルルルと電話が鳴る。相手の候補は一人しかいない。画面をスライドして通話をスピーカーにする。


『おはよう、暦ちゃん。今日で夏休みは終わりだけど、大丈夫?』


「おはよう彼方。ちょっと過保護すぎない?」


『だって暦ちゃん、すぐに無茶するでしょ?』


 それは確かに、と言って笑う。心配をかけている自覚はあるのだ。あれ以来私の考え方や行動が変わったかと聞かれれば、首を捻らざるを得ない。五年近くかけて凝り固まった思考は容易には変わってくれない。いつだって自分のことが悪いと考えてしまう癖は抜けていないし、人嫌いも治っているわけじゃない。

 ただ彼方のことを遠ざけるのをやめただけだ。最初はやはりというべきか、一緒にいるだけで全く落ち着かなかった。本当にお前がいていいのかとずっと問いかけてくる自分を無視するのがつらかったのを覚えている。ここ最近、ようやくそんな自分の声が小さくなっているのを感じている。

 しばらく他愛のない話をした後に通話を切った。改めて服を着直して、鏡で身だしなみを整える。オシャレなわけではないが、別に変でもないなというのが自己評価だった。

 玄関を開けて空を見る。雲はなく、日差しは強い。眩しさに目を細めながら、古びた自転車にまたがる。

 時折自転車で徘徊する習慣も止められていない。無為な時間を過ごすことに対する嫌悪感はある。ただこの行動が果たして本当に無意味なのか? と改めて考えたときに、答えがわからないことに気づいた。自転車を漕いでいるうちに新しいことに気づくかもしれないし、そうでないかもしれない。キレイな景色を見つけるかもしれないし、見つけられないかもしれない。可能性を考えれば無駄な時間というものはない。いつどこで、何が繋がるのかはわからないものだ。だから無為な時間だと、何もしていない癖に人を見下していたことが恥ずかしい。

 湿気と熱さを含んだ風が、一つに結んだ髪の毛を後ろにさらっていく。汗が首筋を伝っていったのがわかる。八月も終わりだが、夏の熱気はまだまだ健在だ。水筒に入れているスポーツドリンクはとうに冷たさを失い、ぬるくなっている。


 ふと、前と今で何が変わっただろうと思う。

 考え方はそこまで変わっていない。ものの見方も変わっていない。生活習慣もそのままで、外見も特に変わった要素はない。

 彼方との距離は変わっただろう。けれどそれぐらいのものだ。


 ああ、あと一つだけ変わったことがある。


 小説を書き始めたことだ。

 言葉だけはたくさんある。飲み込んで、胸に貯め込んできた言葉の嵐。ずっと一人で考えてきたからか、自分の言葉を外に出力するという行為は難しい。当然上手く書けるわけがない。私の言葉で他人に伝わるのかどうかはかなり怪しいところだ。独りよがりでわかりにくいと言われることだってあるだろう。私の感覚が余人とズレているというのは百も承知だ。


 けれど、そこに紡がれていく言葉は、確かに私の言葉だった。


 タイトルは『あの日の群青』。


 あの日見た、彼女の瞳の色だった。

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あの日の群青 時任しぐれ @shigurenyawa

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