ドクターTの証明 パンドラE
改淀川大新(旧筆名: 淀川 大 )
第1話 西田真希
一
老木が陽に照らされている。
俗に「リムジン・オスプレイ」と呼ばれるその機体CV―五五LSは、軍用の垂直離着陸機をVIP送迎用にカスタマイズした特別機である。通常のオスプレイに装備されている防衛武器の他に、外壁に耐核熱装甲が施されているなど、乗客の安全に特別の配慮がされている。配慮されているのは安全面だけではない。客室の内装も貴賓室なみに豪華だった。操縦席との間を区切る隔壁の前には、小型の冷蔵庫とグラスを固定したキャビネットが並んでいる。冷蔵庫の上には大型の最新式の立体パソコンが置かれ、キャビネットの上の壁には大型多機能モニターが取り付けられていた。床には高級絨毯が敷き詰められ、中央部には、乗客が真下を覗けるようにと、防弾仕様の強化ガラスをはめた視察用の窓が設けられている。天井は低かったが、美しい蔦模様の高級パネルが張られていて、配線の類は一切見せていない。その中央にはめられた透明アクリル板の上には、小ぶりなシャンデリアが丁寧に耐震措置を施されて設置されていた。左右の内壁に背を向けて並べられた一人掛けのシートは革製の高級ソファー仕立てであり、サイドテーブル付きの肘掛けで各席が区切られている。その背凭れの上には強化防弾ガラスの小窓が設けられていて、更にその上には緊急用の安全バーが持ち上がった状態で設置されていた。バーの横に掛けられた二〇三八年モデルの最新式ヘッドセットがカタカタと音を立てて揺れている。ヘッドセットは各席の上に掛けられているが、キャビネットの横の席の分は取り外されていた。その席の前の高級絨毯の上では、茶色のパンプスに包まれた小さな足がきちんと揃えられていた。隣には厚手の黒い鞄が置かれている。パンプスから伸びる細い足は薄手のストッキングで覆われ、膝の辺りからリンネル地の淡いベージュのタイトスカートに隠れている。美しい姿勢で座っているその女性は、幅広のフリルが装飾されたジレの上から、スカートと同じリンネル地の淡いベージュ色のジャケットをタイトに着こなしていた。ジャケットに一つだけ付いている丸い大きな釦は胸の下近くでしっかりと留められていて、そこから広がる立体感のあるデザインの大きめの襟が、首の後ろで上品に立てられている。襟の中では、彼女の細く長い首の周りにシルバーの細いチェーンが緩く回り、貝殻をデザインした小さなロケットを吊るしていた。スラリとした首の上に載る小さな顔の顎のラインで一直線に切り揃えられた髪は、明るい茶色にカラーリングされたストレートで、その上にヘッドセットを載せている。
外務省調整局国際調整課の調整官・
西田真希は膝の上の端末をシートの肘掛けの横に立て掛け、男に大きな声で尋ねた。
「大丈夫ですか。警部」
天井パネルを通じて響いてくるエンジン音と、窓から伝わってくるプロペラの音が響く中、警視庁捜査一課の刑事・
「ええ? なに?」
西田真希は自分が付けているヘッドセットを右手の人差し指で指し示すと、続いて三木尾の後頭部の上にぶら下がっている彼用のヘッドセットを指差した。
三木尾善人は上半身を反らして頭上の安全バーの中程まで視線を動かしたが、ハンカチを握ったままの左手で自分の腰を押さえると、横着するのを諦めて西田の方を向いて座り直し、改めて自分の左上を見上げた。そこにぶら下がっていたヘッドセットに気付いた彼は、面倒くさそうにそれを取り、ブツブツ言いながら自分の薄い頭髪の上に載せる。
「まったく、いちいち面倒くさい……ああ、よし。聞こえるよ。これで、よく聞こえる」
ヘッドセットを被った彼は、その位置を両手で少し調整しながら、再び体を窓の方に捻り、西田に背を向けた。彼が、聞こえなかった西田の発言を確認することも、その質問に答えることしなかったので、彼女は少し呆れ顔で苦笑いして、横に立て掛けた薄型端末を膝の上に載せた。すると、窓に顔を向けている三木尾の声が彼女のヘッドセットにはっきりと届いた。
「ああ、そういえば、さっき何か言いかけてたな。何だ?」
西田真希は膝の上に乗せた端末をもう一度横に立て掛けてから、三木尾に答えた。
「あ、いえ。随分としきりに汗を拭かれていたので、具合でも御悪いのかと思いまして」
「ああ、なんだ、そうかい。――なに、暑いのと高いのとで、ダブルパンチだからな」
三木尾善人は窓の下を覗き込んだまま、そう答えた。
西田真希はシートから少し腰を浮かせて言う。
「エアコンの温度、少し下げましょうか?」
「ああ、いや、大丈夫だ。ありがとう。それより、もうすぐなのか?」
ヘッドセットを通じて三木尾が尋ねてきたので、西田真希はシートに腰を戻すと、横に立て掛けた薄型端末を手で押さえながら、三木尾と同じように体を捻らせて、自分の座席の後ろの小窓から外を覗いた。そして、また元の通りきちんと前を向いて座り直し、彼に答えた。
「はい。あと、もう少しで、田爪健三が潜伏していた地下施設跡に着きます」
西田真希の顔は厳しさを戻していた。
二
このジャングルでは十年以上もの長きに渡り、惨劇が続いていた。地上の熱帯雨林の中では、ゲリラ軍の掃討作戦という名目で事実上の戦争が二〇二五年後半から続き、その下の地下三百メートルの世界では、天才科学者・
そのような経緯の下、西田真希は外務省から、戦後処理外交のための事前調整役として、この地に派遣されていた。彼女の任務は日本政府と他国政府との円滑な外交のための準備であったが、それは「田爪健三事件」の顛末について調査し、適切な報告をまとめるというものだった。彼女は田爪健三の死を説明するに足る情報の収集に奔走し、日本政府の外交上の立場を優位にするべく動いていたが、そこへ日本の警察庁から人員が送り込まれてきた。それが、警視庁のベテラン刑事三木尾善人だった。彼は適切な捜査と、ある「重要な任務」のために遣って来たと言う。
今、彼女はその刑事を、田爪が長年にわたり処刑を実行し続けていた地下施設の跡地まで案内している。西田真希も「重要な任務」の最中だった。
三
二人を乗せたリムジン・オスプレイは、焼け焦げた木の根や株に囲まれた巨大なクレーターの真上で、左右の羽のティルトローターを上に向けて高速で回転させながら、空中に停止していた。
座席の後ろの窓から下を覗きながら、西田真希がヘッドセット越しに三木尾に伝える。
「ここが、田爪健三が潜伏していた場所、つまり、日本からタイムマシンが転送され続けていた地下施設があった場所の真上です。田爪健三に取材した記者の腕時計から発せられた位置情報電波の発信履歴を解析して、特定できたそうです。まだ空爆後の余熱が残っていて、ここが下りられる高さギリギリだということですが、どうしましょう。もう少し頑張ってもらいましょうか」
三木尾善人は、小さな窓から食い入るように下を観察しながら、西田に答えた。
「いや、結構。無理はしなくていい。ここからで十分だ」
彼は暫く下を眺めていたが、急に西田の方を向いて座り直すと、握っていたハンカチを膝の上に置き、頭の上の安全バーを気にしながら、着ていた灰色のガンクラブチェック柄のジャケットを脱いで、隣の席に放り投げた。続いて、汗で体に張り付いた薄いブルーのワイシャツから地味な柄のネクタイを引き抜くと、先に投げたジャケットの上に放り投げ、第一釦と第二釦を立て続けに外した。右手で襟元を掴んだ彼は、それをパタパタと動かし、首元を扇ぐ。それに引かれて、左脇のガンホルダーと中のベレッタが音を立てて揺れた。西田の視線は、自然とその銀色の拳銃に向く。ここは戦場であるし、彼女としても、外交の裏舞台で動くという仕事の性質上、銃器を間近で見ることは珍しい事ではなかったが、飛行中のオスプレイの中に刑事が拳銃を持ち込んでいたことに驚き、思わず彼の顔を見た。その初老の刑事は、こちらを見て片笑んでいた。
「大丈夫。安全装置はオンにしている」
彼はそう言ったが、西田真希はそれを聞き流した。問題は、そうではなかったからだ。今、この密室の中にいるのは、自分とこの初老の刑事だけである。自分は武器を所持していない。仕事柄、稀に武装した部隊を指揮することはあるが、自分は武器の使い方を学んではいないし、戦闘の訓練も受けていない。だが、それよりも重要な問題は、彼が何をしに海を越えて南米までやってきたのか、その点であった。この男は自分を殺しにきたのかもしれない、そう思う理由が彼女にはあった。西田真希は訝しげな視線を向かいの初老の男に送った。
三木尾善人警部は依然としてワイシャツの襟を動かしながら、首を伸ばしている。彼の額には幾つもの汗が浮かんでいた。
西田真希は、今度は腰を浮かせること無く、座ったまま三木尾に言った。
「やっぱり、エアコンの温度を下げましょうか」
西田の視線を確認した三木尾善人は、黒いスラックスの上に置かれたマイクロチェック柄のハンカチを左手で取ると、それで額の汗を拭いた。
「いや、違うんだ。実は、オスプレイが苦手なんだよ。というか、そもそも高い所がね」
そう言いながら、彼は右手の人差し指で床に開いた小さな視察用の窓を指差した。床の窓からは、真下で口を開けている広大で真っ暗な穴の底面が遥か下方に小さくなって見えている。機体からのサーチライトに照らされているその穴の底や側面では、焦げ付いた黒い土の中で溶けた地中の鉱物が赫々と揺らめいていて、所々からも幾筋もの白煙を立ち昇らせていた。リムジン・オスプレイの巨体が米粒程度に感じられる程に巨大なその口穴は、大地を奥深くまで削っていて、その底面が位置する場所の深さは、低空でホバリングしているリムジン・オスプレイの搭乗者たちに、かなりの高さを飛んでいると錯覚させた。それほどまでに穴は深く巨大だった。
視線を戻した西田真希は三木尾を観察した。彼の汗は本物だった。唇も若干乾いているようだ。呼吸も少しだけ速かった。どうやら、本当に高所恐怖症らしい。
彼の事情を察した西田真希は、急いで膝の上から端末を降ろすと、シートから腰を浮かせて手を伸ばし、壁に備えられたエアコンの温度調節ボタンを押して少しだけ温度を下げた。そして、三木尾の方を向いて言う。
「シールドを閉めて、モニターに外の様子を映しましょう。その方が安心でしょうから」
三木尾善人は右の肘掛に凭れながら、左手のハンカチを振る。
「いやいや、刑事は自分の目で見ないとな。ありがとう。もう、大丈夫だ」
彼は再び体を捻り、背後の小窓の縁に左肘をついた。その先に握ったハンカチで額の汗を拭きながら、また、窓の下を覗き始める。彼の背中のワイシャツは、汗でぐっしょりと濡れていた。西田真希は視線を降ろす。三木尾警部はもう片方の手でしきりに自分の腰を押さえていた。西田真希はシートに腰を下ろし、そのまま彼を観察し続けた。その初老の刑事は、長旅に疲れた体の疲労と高所の恐怖に堪えながら、真剣に窓の下の景色を観察していた。
窓の下に広がる異様な風景は、戦闘と言うよりも、強力な兵器で一方的に猛攻撃を加えた事実をありありと物語っていた。根ごと吹き飛ばされて横たわる無数の焼け焦げた巨木の死骸の四隣に、いくつもの巨大な円形の窪みが、ある所では隣り合わせになったり、ある所では重なり合ったりして、一帯に散りばめられている。それらの窪みはどれも深大なものであったが、西田と三木尾を乗せたリムジン・オスプレイが上空に停まっている穴は、周囲に散在するどの穴よりも遥かに巨大な円周を有していて、一際に深く大地をえぐられていた。
深緑色のリムジン・オスプレイは、その巨大なクレーターの周囲を低速で旋回すると、円の中心に戻り、ティルトローターの回転速度を上げ、風を切り裂く轟音と共に平行を保ちながら、ゆっくりと上昇していった。
機体が上昇するにつれて小さくなっていく地表の風景とは反比例して、地上の全体風景が強化防弾ガラス越しに見えてくる。広大なジャングルを切り裂いて広がる戦塵の中に、無数の爆撃痕が散らばっていた。それらは、真下の巨大なクレーターを中心に、放射状に広がる形で点在し、遠方に行くにつれて徐々にその密集度を下げている。谷間の森の辺りで穴の数は疎らになったが、遠くの方に連なる低い山脈では、所々で稜線さえも削っていた。その奥の、更に向こうに見える地平線が切断された箇所まで目を遣りながら、三木尾善人が独り言のように言った。
「しかし、協働部隊さんも派手にやったものだな。クレーターだらけじゃないか……」
西田真希は、足元の鞄から名刺大の薄いカードを一枚取り出すと、膝の上の端末に横から平行に差し込んで、端末の上にホログラフィーを表示させた。戦闘経緯の情報を記した文書の立体画像が彼女の顔の前に浮かぶ。西田真希はそれに目を向けながら、三木尾に説明した。
「南米連邦政府の説明では、米軍のグリーンベレーを中心とした協働部隊三連隊で地上のゲリラ軍を掃討した後、この一ヶ月は、空からのAIミサイル攻撃で、一帯を徹底空爆したそうです。ご承知の通り、核兵器が国際紛争武器使用条約で使用禁止となっていますから、数で勝負したのでしょうね。最も激しい時期では、平均して一日、七十発。この下にあった地下施設に対しては、今から十日前、九月十八日と十九日の二日間で、エイタクムス・ブロックⅢミサイル、計百八十二発を集中的に撃ち込んでいます。予定では、その後に、攻撃人工衛星からの垂直爆撃まで実施するつもりだったようですが、周辺環境に配慮が必要とヨーロッパ諸国から……」
ぐんぐんと小さくなる地上の景色を窓から眺めながら西田の説明を聞いていた三木尾善人は、窓から顔を離して、西田の方を向いて座り直すと、説明途中の彼女に向けて右手を下から上に大きく二度振って、何かを言った。
「はい?」
ホログラフィーの文書に目を遣りながら説明に集中していた西田真希は、視界に入った三木尾の手の動きに顔を上げたが、彼の発言を聞き漏らしたので、思わず咄嗟に聞き返した。三木尾善人はハンカチを握ったままの左手の親指で背面の小窓を何度か指しながら、ヘッドセットのイヤホンから顎の前に伸びているマイクを右手で軽く掴んで、大声で言った。
「もういい。十分だ。シールドを下げてくれないか。頼む」
その時、彼女は三木尾が終始左手でハンカチを握っている事に改めて気付いた。彼は左脇にガンホルダーを提げている。つまり、銃を抜く右手は空けていた。
三木尾の顔に視線を移すと、彼は懇願するような目をしていた。上昇したオスプレイから見える下の景色に耐えかねたようだ。西田真希は彼の目を見たままヘッドセットに手を添え、切り替えボタンを押してコックピットのパイロットとの通信に切り替えた。そのまま流暢な英語で話し、指示を出す。間もなくして、各窓の外で防御壁が下りてきて、外から窓を塞ぎ、同じように床の視察窓も外側から覆われた。全ての室内灯が消えて一瞬だけ真っ暗になると、今度はシャンデリアと共に全ての室内灯が光を放った。明るく照らされた豪華な内装の狭い閉鎖空間から、それまで鳴り響いていたエンジン音や外のプロペラが作る高い摩擦音が一掃される。キャビンの中は落ち着きと静寂に包まれた。
西田真希はヘッドセットを外して頭上の安全バーの横に掛けると、頭を大きく左右に振って髪を広げ、両手を櫛にして軽く整えた。そのはずみで膝から墜ちそうになった端末を反射敵に手で支える。彼女が視線を少し上げると、三木尾善人警部の鋭い目がこちらに向けられていた。西田真希は視線を逸らし、端末に挟んだ情報シートを外して足下の鞄に仕舞いながら、三木尾に言った。
「とにかく、ご覧のとおり、現場は徹底的に破壊されています。それで……」
「ええ? 何? なんだって?」
前屈みのまま顔を上げると、ヘッドセットを被ったままの三木尾が顰めた顔を前に突き出していた。体を起こした西田真希は、呆れたような笑みを見せながら、自分の側頭部を右手の細く長い人差し指で軽く数回だけ指して見せた。一瞬だけ考えた三木尾善人警部は、ハッとした顔をして慌ててヘッドセットを外した。そして、恥ずかしそうに笑いながら、それを左の肘掛けの上に挟んで掛けた。静穏状態になったキャビン内では、ヘッドセット無しで普通に会話ができる。西田真希は三木尾に言った。
「それ、元の位置に戻しておいた方がいいですよ。いざという時のために」
「いざという時? ――ああ、そうか……」
三木尾善人警部は体を捻り、手を伸ばしてヘッドセットを安全バーの横に戻した。その様子を観察してみると、彼は反対の手で腰の痛みを庇いながら、慎重に上体を反らしていた。腰の痛みも本当のようだった。
こちらを向いた三木尾善人警部は、深く息を吐くと、普通の応接室と変わらない周囲の景色に安堵したかのように脱力して、シートの背もたれに身を投げた。
「いやあ、参った、参った」
肘掛けを越えて隣のシートの上にだらりと置かれた彼の右手と、閉じられた瞼を確認してから、西田真希は再度立ち上がり、言った。
「高所恐怖症でいらしたのなら、仰って下さればよかったのに。耐熱装甲車での陸上移動なら、すぐに手配できたと思いますが……」
横のサイドボードから美しく磨かれたグラスを取り出した彼女が三木尾に視線を戻すと、彼はシートに浅く腰を載せて、背もたれに深く凭れながら、左手で、汗で湿ったハンカチをズボンのポケットに押し込んでいた。彼は視線だけを西田に向けて、まるで上目使いで見るような顔で言った。
「いや、高所恐怖症とまでは言ってない。ただ、ちょっとだけ、高いところが苦手なんだ。それに、陸上移動と言っても、手間も時間もかかるし、そもそも、ゲリラ軍の残党が支配する地域を貫けなけりゃならん。危険が多過ぎるよ。こうして空からなら、早いし安全だ。加えて、全体が見えていい」
そして、目を瞑ると両肩を少し上げた。
「ま、見え過ぎるのも、なんだがな。こりゃ、高過ぎだ。もう少し低く飛べんものかね」
西田真希には、この老刑事が強がっておどけたふりをしているのか、それとも、本当に自分が戦場だった土地の上を飛行しているという自覚が無いのか判らなかった。南米戦争が終結したと言っても、現実には、生き残ったゲリラ軍のうちの抵抗勢力が武装解除に応じず、ジャングルの中に潜んだまま散発的な攻撃を続けている。戦時中に最も戦闘が激しかった、この第一級戦闘区域に指定されていた地域には、そういった残党たちの数が特に多い。つまり、このオスプレイは非常に危険な空を飛んでいるのである。高い高度を維持して飛行しているのも、地上からの攻撃を避けるためであるが、そう長くこの高度を維持できる訳ではない。オスプレイは基本的にプロペラ機であるから、空気の薄い高度の飛行には限界があるし、森にスコールを落とす分厚い雲が流れてくると、その下を潜らなければならないからだ。そして、ここ数日間に地対空ミサイルで撃墜されたオスプレイは全て、そのタイミングを狙われていた。
西田真希は三木尾が座っているシートの横の小型冷蔵庫の前に移動しながら言った。
「下からの攻撃を避けるためには、この高さまで上がらざるを得ません。米軍によれば、この機もプラズマ・ステルスで飛んでいるそうですから、あとは、下から見えない高さまで上がって、目視さえされなければ、敵の自動飛行弾に狙われることも……」
「じゃあ、なんでさっきの森の上では低空飛行していた」
西田真希が振り返ると、三木尾警部はシートにふんぞり返ったまま目を開けて、鷹のようなその鋭い眼をこちらに向けていた。彼は言う。
「目的地に着いた途端に、上昇か? あんたが説明してくれたとおり、下はミサイル攻撃で穴凹だらけだ。ゲリラの連中が潜む場所なんか無いと思うがな。実際、地表が岩を煮え滾らせるほどの余熱を残しているなら、隠れようったって、無理だろうしな」
確かに彼の指摘するとおりだった。このオスプレイはここに来る途中、ゲリラ軍の残党が潜んでいる可能性が高い熱帯雨林の上は低空で飛行していた。この機体が最新式のプラズマ・ステルス機であり、敵のレーダーに捕まることはないと説明を受けたのも、西田がその低空飛行に不安を感じて、パイロットに危険はないのかと確認した時だった。爆撃地域が近づくにつれて機体は上昇し、目的の施設跡の爆撃痕では高度を下げたものの、先ほど自身が三木尾に説明したとおり、地表の余熱を避けるために、穴の中に近づく事はしなかった。そして、この機体は地上の景色がはっきりと分からないほどの高さまで、すぐに上昇した。大地が熱を保っている事は真実であろうが、三木尾の指摘のとおり、そうであればゲリラ軍の残党兵が潜んでいるはずはないし、隠れていても上空から発見できるはずだ。攻撃も回避できる。言われてみれば、確かに妙だった。
考えていると、三木尾善人警部が天井を仰いで言った。
「どうやら、俺たちには、あまり現場を見せたくないみたいだな」
西田真希はコックピットへと通じる細いドアを一瞥した。もう一度三木尾に顔を向けた彼女は、黙って小さく頷くと、グラスを手渡した。三木尾善人も黙ってグラスを受け取る。彼の顔は険しかった。西田真希は何も言わずに、小型冷蔵庫の前に身を屈めた。
当初、西田真希はこの仕事を上司に言われたとおりに終えるつもりだった。日本政府が他国と戦後交渉をする上で支障がないように、用意された筋書きの通りに調査報告書をまとめ、それに不満が出ないよう諸外国に根回しする。彼女はそのつもりであった。勿論、上司から直接そう命じられた訳ではない。だが、日本政府が国際交渉の舞台で「田爪健三事件」についての早期の幕引きを望んでいる事は明らかであったし、実際、上司の言葉の端々からもそれが伝わった。彼らは西田に対し、遠まわしに「田爪健三事件」の完全終結を演出するよう求めた。それは無言の圧力に近かった。そして彼女は、なぜ育児休暇中の自分が突如として外務省に呼び戻されたのかを理解した。戦争直後の危険地帯に足を運び、戦争の原因を作った日本政府の職員として白眼視されながら、居心地の悪い状況で形式的な調査をして、他国の政府関係者たちにコネをつけて回る任務など、どの職員も引き受けたがらなかったのだろう。それに、政府の失態ともいえるこの事件の処理に関与すれば、その後は間違いなく出世のルートから外れるはずだ。外務省職員には一家そろって外交一族という者が多い。彼女の周りにも、大使や上級外交官の子や孫が多かった。親族にそういった人種を持たず、何の後ろ盾も持たない中途採用のシングルマザーである彼女は、使い捨てにするには最適の人材であったに違いない。彼女はその事を十分に理解したうえで、この任務を引き受け、この戦地へと赴任していた。出世競争が激しい巨大官庁である外務省の中での自分の位置を、彼女はよく理解していたのだ。だから今回のミッションも、上層部が求める通りに終えるつもりだった。そしてこれを、外務省職員としての最後の仕事とするつもりでいた。ところが、こちらに着いた彼女が様々な情報を収集するにつれ、ある疑念が彼女の中で膨らんでいった。それは、与えられたミッションとは間逆の内容であり、日本政府にとっても不都合なものであったが、西田真希はその事を報告書にまとめ、本国政府に送った。その数日後、警察庁から連絡が入り、捜査官として一人送ると言ってきた。更に、日を空けずして、この老刑事が遣って来たのである。左脇に拳銃を提げて。
西田真希は三木尾に背を向けて冷蔵庫の前にしゃがみ、中を覗きながら彼に尋ねた。
「このあと、すぐに帰りの飛行機に乗られるのですよね。続けての飛行機ですけど、大丈夫ですか」
彼女は冷蔵庫の上の立体パソコンの端に反射している背後の三木尾の姿に目線だけを向けて注意していた。三木尾善人警部は椅子に深く座り直している。彼は、今度は念入りに腰を押さえながら言った。
「ああ。土産を買う暇もない。まったく、二十四年も奉公して、この扱いだ。警察も退職前の老人に無理させるよ」
西田真希は、派遣されるという刑事の名前を聞いて、すぐにその経歴を調べていた。彼も西田と同じく中途採用された公務員だった。ただ、西田の場合は、職業技術の流動を図る新法の成立により、中途採用で異分野に転職する事が一般的となった世代であるが、彼の場合は違う。彼は昭和生まれであり、いわゆる「団塊ジュニア世代」である。この労働新法が成立するよりもずっと前に青年期を迎えていたはずだ。何か事情があったのだろうが、彼が四十歳の時に全国の警察が試験的に実施した中途採用者の受け入れで、彼は警察官になっていた。しかも、それ以前の経歴がはっきりとしない。警察官になった後の昇進も不自然に早く、最短期間で警部にまでなっている。所属も、刑事部だけでなく、公安部、警備部と、あらゆる捜査部門を転々としていた。確かに警視総監賞も多数受賞しており、警視庁内部でも「キレ者」として名が通っているようだが、彼の短期間での昇進が実力だけに依らないのだとしたら、誰か大物の権力者がバックにいるという事かもしれない。今回、もし彼がその大物から何らかの特別な命令を受けて、この南米まで送られたのであれば、そして、その特命が、政府にとって不都合な内容を報告した外交官を抹殺するという「汚れ仕事」だとしたら、このような経歴の退職前の男は最適であるに違いない。西田真希は、そう警戒していた。
冷蔵庫から選んで取り出したペットボトルを両手に持った西田真希は、しゃがんだまま三木尾にそれら見せて尋ねた。
「どちらにします? 水と御茶しか出せませんけど」
「じゃあ、御茶を貰おうかな」
西田真希は右手に握ったミネラルウォーターの入ったペットボトルを冷蔵庫に戻すと、扉を閉めて立ち上がり、三木尾の手に握られたグラスにペットボトルの冷えた緑茶を注いだ。ペットボトルを傾けながら、彼の視線を確認する。彼は西田にもグラスにも視線を向けず、床を見つめていた。西田がグラスからペットボトルを離すと、三木尾善人は西田に顔を向け、軽く頭を下げてから礼を言った。そして、そのまま一気にグラスの御茶を飲み干す。西田真希は再度注ごうとしたが、三木尾が制止したので、そのままペットボトルの蓋を閉めて彼のサイドテーブルの上に置き、自分の席に戻った。シートに腰を下ろしながら彼女は言う。
「でも、警部はすごい方なのですね。警察庁長官から直々のご使命だなんて」
情報では、そう聞いていた。警察庁長官の
三木尾善人は苦笑いしながら答える。
「実は、長官が大学の同期でね。それで、退職前の俺に一花もたせようと、気を回したのさ。この前の大きなヤマが片付いたばかりって時に急に呼び出されたから、てっきりそのご褒美でも貰えるのかと思ったら、これだ。『南米に飛べ』だと。まったく。しかも、退職前の最後の大仕事が、容疑者死亡の、全容が知れた事件の後始末さ。こんな所まで来て、ホシの死亡を確認するだけの遣っ付け仕事とは、泣けてくるねえ、ホントに」
三木尾善人は溜め息を吐きながら両手を頭の後ろで組むと、今度は足を組んで目を瞑り、シートに深く凭れかかった。
西田真希は彼の左腿に載せられた右脚の靴に視線を向けた。爪先が長いその靴は紐が切れかかっていて、傷だらけだった。靴底もえらく汚れている。その上のズボンの裾には、跳ねた泥が染み付いていた。
西田真希は老刑事に言った。
「遣っ付け仕事にしては、随分と熱心に聞き込みをされたのですね。スラム街に行かれたのですか?」
「ん?」
三木尾善人はシートに凭れたまま、片方の目を開けて西田を見た。西田が細い人差し指で三木尾の左腿の上に載せられた右足の汚れた裾を指したので、彼はそのままの姿勢で、一度開けた片方の目を再び閉じて、言った。
「ああ、昼飯を食うついでにな。ちょっとした散歩だ。刑事は足で稼げって言うだろ。退職前に少し稼いでおこうと思ってな」
彼の言っている事がよく分からなかった。西田が眉を寄せると、三木尾警部は一度薄目を開けてから再び目を閉じ、言った。
「この分じゃ、年金も少ないしな。業務上の負傷なら、腰痛でも何か出るだろ」
西田真希は片笑んでから返した。
「だから銃を? 拳銃を携帯していれば、確実に業務中ですものね」
「あん?」
三木尾善人は片方の眉と瞼を同時に上げた。西田の視線を確認して両目を開けた彼は、顎を引いて左脇のガンホルダーに挿してある拳銃を見ると、再び目を閉じた。
「ベレッタM九二Fだ。先輩の形見さ。四十で警官になった俺に短期間で刑事としての技能を叩き込んでくれた。その人が使っていた物だ。ま、お守りみたいなものだな。簡単には手放せない。特に、こんな危険な場所ではな」
そう言った彼は、上を見てふと目を開けると、また顎を引いて銃を見ながら言った。
「――ああ、そうか、実際に護身用か、これ」
三木尾の所為が可笑しかった西田真希は、口に手を当ててクスリと笑った。
三木尾善人は怪訝そうな顔をしている。
西田真希は顔を上げ、三木尾に言った。
「警部は、現場一筋だそうですね。尊敬します」
三木尾善人は一瞬、間を空けた。どうやら、自分の事を調べられていると察したようだ。西田真希は発言が軽率だったと少し後悔したが、三木尾善人は意外にも泰然と構えて答えた。彼はゆっくりと首を左右に振りながら言う。
「いやあ、結構大変なんだぞ」
三木尾善人は体を起こしながら、腿の上の右足を床に下ろした。彼は両足を大きく広げると、両膝の上に右手と左手をそれぞれ置いて、両肩を上げて西田を覗き込み、ニヤリと片笑みながら言った。
「あんただって、外務省の調整局なんていう特別部署で、現場の最前線に立っているじゃないか。こうやって」
相手の事を調べているのは自分だけではないようだった。西田真希は三木尾に自分が調整局所属だとは知らせていない。それは彼に警戒したからではなく、彼女が所属する部署では普通の事だった。なぜなら、調整局の任務は外交事務の調整をする事ではなく、外交事務の調整が円滑に進むよう情報を収集し、各種の工作を施すことだからである。つまり、事実上の諜報工作機関であり、それ故に局員は対面者に正確な身分を明かさないのが常なのだ。当然、所属局員の氏名は秘されている。にもかかわらず、三木尾善人警部は、目の前の外務省職員が調整局の人間であることを掴んでいた。
西田真希は一瞬だけ眉を動かす。そして、切り返しを考えた。
三木尾善人は顔を前に出したまま、こちらを覗き込んでいる。
今度は西田真希が苦笑いしながら答えた。
「いえ。私なんて実質的には接待役みたいなものですから。こうやって」
西田真希は、大きな瞳の片方の目を一回だけ軽く瞑ってみせた。
三木尾善人は少し考えていたが、急に慌てた様子で、さっき西田が注いでくれたお茶のペットボトルを手に取ると、自分で蓋を取り、シートから腰を浮かせた姿勢でその手をこちらに伸ばしてきた。意図を察しかねた西田真希は戸惑った。彼はペットボトルを差し出したまま、西田の分のグラスを探している。そして、彼女が自分のグラスを出していないことに気付き、シートに腰を下ろすと、コソコソとペットボトルに蓋をして、そのままサイドテーブルの上に戻した。
三木尾善人は気まずそうに西田から視線を逸らして話題を変えた。
「ああ、しかし、あれだ。これからの戦後処理は、いろいろと大変だろう。あんたみたいな立派な調整官さんに頑張ってもらわんと……」
西田真希は少し唖然とする。彼女にとって、三木尾の素直な反応は意外だった。演技をしているようにも見えない。自分の部下でもない人間に給仕のような事をさせて申し訳ないと言わんばかりの顔をしている。実際のところ、西田としては、そのような事は全く気にしていなかったし、目の前の刑事は自分の父親と変わらない年齢であるはずだから、むしろ、お茶を注ぐくらいは当然だと思っていた。いや、真実においては、彼女はそのような事すらも考えておらず、単に三木尾の多量の汗を見て、脱水を気にして水分を摂らせようとしただけだった。それは、彼女が外務省職員になる前の職業で身に染み付いた彼女の性質なのかもしれない。要は、ただの親切である。ところが彼は、それを当然の事とは受け取らず、申し訳無さそうにしている。それは、おそらく、今のこの対座が互いに警察と外務省を代表したものであって、任務として接しているという自覚があるからだろう。どうやら、この三木尾善人警部は筋道に拘る人間であるようだった。
西田真希は思った。そう言えば、さっき彼は「俺たちには、あまり現場を見せたくないみたいだ」と言った。彼も真実を知りたいと思っているのではなかろうか。スラム街に足を運んだのも、そのためだろう。「田爪健三事件」もASKITの高橋の一件も、何かがおかしい。その「何か」の出発点がここにあるのではないかという事に、彼も気付いているのだろうか……。
西田真希は探るように三木尾の目を見ていた。その三木尾善人は西田の視線から逃げるように横を向き、恥ずかしそうにしている。まだ、お茶の事を気にしているようだった。
西田真希は真顔で三木尾の顔を見て、ゆっくりと外交の実情を語った。
「ええ。南米連邦政府は日本に対しても、環太平洋連合各国の協力のおかげで反政府ゲリラ軍の壊滅に目処をつけることが出来たと、表面上は一定の謝意を表していますが、本音は逆のようで、難しいところです」
西田に顔を向けた三木尾善人は、眉間を狭めて頷いた。
「だろうな。戦争が十年も長引いた原因は、日本が毎月送っていた不良品のタイムマシンと、それに乗って日本から送られてきた一人の天才科学者だもんな。当初、二年で壊滅できると思っていたゲリラ軍が突如、最先端科学で武装し始めたお蔭で、戦力が均衡して戦線は膠着状態。そこに諸外国まで資源目当てに参戦してきて、気がつけば十年だろ。で、結局どうなったかと言えば、人がたくさん死んで、国土も経済も滅茶苦茶になった。挙句に、この大陸の人口の殆どは戦争難民になってスラム暮らし。ここの人たちにしてみりゃ、たまったものじゃないぜ」
彼の話の途中から、西田真希は少し遠くを見つめるような目で考えていた。彼女は昨日南米入りした三木尾とは違って、南米に赴任して一ヶ月近くが経過していた。着任当初は、まだ戦闘が継続していた時期であったから、その目で直に多数の遺体や負傷した兵士たちを見てきた。勿論、戦火を逃れて流浪する人々や行き場を失ったスラム街の住人の苦労と実情も良く知っている。だから、彼女は三木尾の言葉に、国籍や職業を忘れて、思わず考え込まざるを得なかったのである。
思い巡らせていると、三木尾善人が尋ねてきた。
「で。あんたの上の連中は、あんたにどうしろって言ってるんだい?」
西田真希は答えるべきか迷った。職業上の守秘義務は絶対である。特に相手方を有する外交の現場においては、それが重要だった。
三木尾善人は頬を掻きながら言った。
「言えねえよなあ……。外交上の秘密ってヤツだもんな」
再び前屈みになった彼は、西田の目を見て、声を低めた。
「でもよ、これだけは忘れないでくれ。俺たちは政府の上級役人たちのために働いているんじゃない。国民のために働いているんだ。それが、それぞれの仕事だ。――まあ、俺もあんたも、お互いにこういう職業だ。言えない事も多いだろう。探り合いもしょっちゅうだ。当然、あんたは俺の事を調べているだろうし、俺もあんたの事は少しだけ調べた。その上でのあんたに対する印象だが、俺はあんたの事を悪い人間だと思っていない。で、俺の仕事は何かと言うと、今、悪い奴を捕まえること。あんたの仕事はどうだ。何のために『調整』している」
「……」
西田真希は三木尾の目を見たまま、黙って考えていた。この男は自分から何か情報を引き出そうと説得にかかっている、そう警戒しながらも、彼女は彼が言っている事の意味を考えていた。
三木尾善人は話を続ける。
「未来だ。未来の国民だ。将来、人々が安心して暮らせるよう、今、その事前策を講じている、そうだろ」
三木尾善人は西田を軽く指差した。西田真希には、その指先が胸の奥まで突き刺さるように感じられた。彼女は自分の胸元のペンダントのロケットに一瞬だけ目を向ける。
三木尾善人はソファーに再び背を戻し、両肘を背もたれの上に載せて一度、コックピットへのドアに顔を向けた。彼はそのまま言い続けた。
「俺は警視庁の
西田真希は姿勢を正したまま、顔を曇らせた。
「私は官吏ですので、私的な見解は……」
「この戦争が始まった原因を思い出してみろ。二〇二五年の日本での大爆発が、自分たちはやってないと否定していた、ここのゲリラたちの仕業だろうと国際社会が決め付けた事に端を発した訳だろ。それで掃討作戦が始まって、そのまま、大規模な戦争にまでなっちまった。人々が疑ったからだろ、ゲリラたちを。じゃあ、なぜ疑ったんだ。津田たちが真相を隠そうとしたからだろう。真実を明らかにして、本来決まっている事を決まったとおりに実行しなかった。自分たちのミスを隠そうとした。それが出発点だろ。また同じ事を繰り返すつもりなのか。下手をすりゃ、今度は日本が戦場になっちまうぞ」
老刑事の目は厳しかった。久々に大人の男の目を見た気がした。
その三木尾善人は、今度は少し声を静めた。
「長官の子越は若い頃からのダチだから、よく知っている。なかなかの狸野郎だが、腹黒い奴じゃない。きっと何か狙いがあるんだ。警察官僚として、国の治安を維持するためのな。俺はそう信じている。だから俺に、あんたに会うように命じたんだよ。もし、あんたが何か重要な事実を掴んでいるのなら、教えてくれないか」
西田真希は疑問に思った。どうも、この刑事は、自分が本国に送った報告の内容を知らないらしい。それでは、何を調べにここにやってきたのか。まさか本気で、見つかるはずもない田爪健三の遺体の確認に来た訳ではあるまい。あの空爆の事実は全世界に報じられたはずだ。日本国内にいて、それを知らないはずはない。あの爆撃では、田爪の骨片一つ残っているはずはないのだ。自分がした報告が正規のルートで処理されていれば、当然、ここに来た警察関係者はそれを知っているはずである。そうであれば、田爪健三について別の質問をしてくるだろう。この空爆跡地まで視察に来たり、スラム街で聞き込みをするはずもない。ダイレクトに自分に尋ねてくるはずだ。本国に送った報告が、どこかの段階で止まっている。そして、そのイレギュラーな報告をしたという事実を掴んだ子越長官が、独自にこの男を送り込んできたということだろうか。報告内容を知るために。だとすると、誰が何のために捜査機関に情報を秘匿しているのか。いや、誰かが情報を握りつぶそうとしているのだろうか。いったい誰が……。
三木尾善人はもう一度、前のドアを一瞥してから、声を殺して言った。
「とりあえず、外務省の方針だけでも話してくれないか。こっちも、この視察の報告書をまとめる上で、留意しておく必要がある」
少し間を置いた西田真希は、深刻な表情のまま、首を縦に振った。
「分かりました。お話します」
国内での公務の範囲内で、捜査機関にまで情報を隠蔽するとなれば、その人物は本気だ。自分にも身の危険が生じるのは必至だろう。西田真希はそう考えていた。彼女が働く世界は、表向きは華やかで清廉としているようでも、実は陰湿で危険で、理不尽な世界だった。国家を代表する紳士同士の交渉を影で補佐する業務は、法の枠を超えている。司法官憲である三木尾善人がいる世界とは違う世界なのだ。西田のいる世界では「暗殺」が交渉事の事前準備の一つとして当たり前のように起こっていた。邪魔な人間は消す。それが国際外交の裏舞台での常識だった。そして今回、西田自身がその
西田真希は賭けに出た。彼女は拳銃を提げた目の前の刑事に話した。
「一応の日本政府の立場としては、田爪は犯罪者であり、タイムマシンの件は不可抗力の事故だから、政府は何も知らなかったという事で通す方針です。『田爪事件』は単なる連続殺人事件として処理。この戦争とは切り離して論じ、事件そのものは実行犯の死亡により全てが終結した。彼を施設ごと葬る事ができたのは、協働部隊による正確な爆撃の成果だとして名誉を譲る代わりに、協働部隊に参加している各国からの責任追及を止めさせる。そういう筋書きです」
言い終えた彼女は、三木尾の反応を伺った。
三木尾善人は横を向き、顔を顰める。
「ケッ。ここにきてシラを切れってか。まったく……」
「そのための証拠資料を揃えるように指示されました。どうも、交渉担当の上層部は、協働部隊参加国に花を持たせて日本への批判を鎮めた上で、ゼロベースでの外交の仕切り直しを望んでいるようです。ですから、そのための資料収集と事前調整をしろと。ですが、果たしてどこまで信じてもらえるか……。とにかく、ここの政府関係者たちはカンカンですから」
鼻から強く息を吐いた三木尾善人警部は、西田を軽く指差しながら言う。
「あんたも大変だな。同情するぜ、ホントに。無茶苦茶じゃないか。だって、そうだろ。少なくとも、司時空庁の津田や国防省の奥野が事情を知っていた可能性がある事は、もうとっくに世界中に知られちまっているんだぜ。それどころか、日本政府が自分たちの赤字財政解消のためにタイムマシン事業を持続させる必要があって、その事業に必要な資源の獲得のために、ここの戦争に首を突っ込んだってことまで、はっきりしちまったんだ。まあ、正確には津田の独断だがな。でも、そんな言い訳はできないよな。だって、あいつ、日本国の役人だった訳だし。それなのに、当の日本政府が何も知らなかったから関係無いと言い出せば、南米連邦政府も怒るわな、そりゃ」
三木尾善人は呆れ顔で両腕を左右の肘掛の上に投げ出し、赤い高級シートの背もたれに深く身を投げた。
西田真希は、表情を固くしたまま、床の一点を見つめて呟く。
「とにかく、欧米諸国と連携して、事を穏便に着地させないと……」
表情を作った訳ではなかったが、西田の顔は憂いを顕にしていた。それは、彼女の正直な心理状態だった。実際に、各国調整など上手くいくはずは無かったし、だからこそ、同僚たちはこの任務に関与することを避けたのだろう。しかも、彼女は並行してもう一つの重要な任務も命じられていた。難儀な仕事を二つも押し付けられた西田としては、頭が痛かった。
三木尾善人は西田の顔を見ていたが、眉間に皺を刻んで喉からかすれた音を鳴らすと、彼女に言った。
「これは、国内で暴力団やらチンピラ集団やらテロ組織ごっこをする連中やらを多く見てきた刑事としての俺の勘なんだがな……。ゲリラ軍の残党、特に幹部クラスだった奴らには気をつけな。奴ら、今度は、ここの政府の連中と手を組んで日本叩きを始めるかもしれないぜ」
「ゲリラ軍が政府と……ですか?」
顔を上げた西田真希は、少し目を丸くして、三木尾に尋ねた。
三木尾善人は深く頷いて見せた。
「そうさ。連中にしてみりゃ、日本への核テロ攻撃の汚名を着せられた挙句に、戦争でボコボコにされて、しまいにゃ、田爪に裏切られたときたもんだ。下の者の不満は鬱積。ところが、戦争で疲弊した幹部連中には、おそらく、これ以上戦闘を継続させられるだけの財力も戦力も残っちゃいない。一方、南米連邦政府からは命を狙われていて、いわば上と下からのサンドイッチ状態だ。しかしだ、南米連邦政府だって、数名の実力派幹部を捕まえて、まあ、投獄するつもりか処刑するつもりか知らんが、その後はどうするんだ? 残党の末端の連中、つまり現場で血を流した連中の不満をどう抑える? 都市部で無差別テロなんて起こされたら、たまったもんじゃないだろ。誰かに取り仕切ってもらって、そういうチンピラ連中を抑えてもらわないと困る。結局、奴らを束ねるための
「なるほど、そうなると、我々も接触する相手を再検討する必要がありますね……」
西田真希は左手で肘を支えた右手を顎に軽く当てながら、少し思案した。
三木尾善人は、シートに深く腰掛けた状態のまま、西田の顔を見据えて、彼女に尋ねる。
「実際、他の国々はどう言ってきているんだ? 新聞じゃ、差し障りの無い美辞麗句ばかりが書き連ねてあるが、そんなのは読み飽きた。実際のところは、どうなんだ?」
西田真希はシートの上で背筋を正し、三木尾の顔を真っ直ぐ見て答えた。
「長期戦で疲弊した環太平洋各国の日本への風当たりは、はっきり言って良くはありません。これらの国々は経済大国ですから、各国と貿易している他の国々からも、少しずつ日本バッシングが起こりつつあります。実際に日本企業の株価の急落は、我々が予想もしなかった国から始まっていますし……」
三木尾善人は西田の話の途中から目を瞑り、上を向いて疲れたように言った。
「なるほどな。だから日本政府は、主犯の田爪の死亡を確認して、一刻も早く国際社会に、特にマーケットに対して早期の幕引きをアピールしたい訳だ。株価の安定維持ねえ……それで、俺がここに送られたって事かあ……」
三木尾善人は短く溜め息を漏らした。体を起こした彼は、今度は前に屈んで項垂れると、顔をしかめて舌打ちした。
「チッ。退職前の俺なら、こっちで万一の事が起きても影響が少ないからな。使い捨てって訳か、結局。――まったく、余計な勘ぐりして損したぜ」
三木尾善人は左脇のガンホルダーからベレッタを抜いて、安全装置がオンになっていることを確認すると、グリップの横のリリースボタンを押し、底から弾倉を抜いた。中の銃弾を確認した後、それを素早く元どおりにグリップの底に押し込み、もう一度、目視で安全装置を確認してから、しっかりと脇のホルダーに戻す。
彼は言った。
「だが、こんなんで国際社会が、はい清算済みましたって認めてくれるかね。俺は疑問だね」
三木尾善人は再び鷹のような鋭い目を西田に向けた。
西田真希は三木尾の動きを見て強ばったままの表情を隠し、下を向いた。小さく息を吐き、膝の上に乗せた薄型の電子端末を操作し始める。少しだけ指が震えていた。彼女は深刻な顔をして端末に視線を落としたまま、三木尾に言った。
「その点なのですが、警部に見ていただきたいものがあります」
彼女が端末のホログラフィー・アイコンに触れると、彼女の隣の多機能モニターに画像が表示された。
三木尾善人はサイドテーブルの窪みに置かれたままのグラスを手に取ると、モニターに次々と表示される画像に視線を向けたまま、グラスに残された少しのお茶を飲み干した。空のグラスを元の窪みに戻しながら、何枚目かに表示され停止した画像に目を凝らす。そこには、焼け焦げた草木の上で炭化したまま散らばっている何本かの木製の柱と、同じく黒い煤だらけの状態で散乱した、壊れたコンクリート製の建築部材が映し出されていた。
シートから身を乗り出して画面を見ていた三木尾善人が、西田に尋ねた。
「これは? もしかして、例の永山って記者がタイムマシンを発射させた建物かい? ひでえな。全焼かあ。本当に丸焼けじゃねえか」
西田真希は頷く。
「はい。例の記者会見で司時空庁が発表したとおり、このように完全に燃えていて、ご覧のような状態です」
首を傾げた三木尾善人は、すぐに西田に顔を向けた。
「何で。発射の影響じゃないだろう?」
西田真希は眉間に皺を寄せて、もう一度頷いた。
「はい。明らかに、永山さんが立ち去った後に、第三者によって焼き払われています。永山さんは司時空庁での証言でも、発射の際にマシンは数メートル移動しただけで消えたと証言していて、それにより発火したとか、爆発したなどとは述べていません」
モニターに顔を向けた三木尾善人は、その画面を睨みながら、低く落ち着いた声で西田に言った。
「ああ。あの文屋さんは嘘をつく目はしていない。それに、もし発射が原因で燃えたとすれば、すぐ近くに居たあの文屋さんも、火傷か何かの大怪我をしているのが普通だ。だが、そんな話は聞いていない」
西田真希は更に言った。
「数日前、私も現地に行きましたが、たしかに人の手によって完全に焼き払われていました。周囲の木々も何もかも。しかも、これは素人の私が見た印象なのですが、どうも強力な火力で何度も執拗に燃やされたようでした。難燃性の建材が、芯まで炭化していましたから。それに、周囲の生木まで短時間で燃えているとなると、普通の火力では不可能ではないかと」
モニターの画像に目を凝らしながら、三木尾善人が尋ねた。
「その『短時間で』というのは? どうして分かる」
「こちらを……」
西田真希は再び端末を操作してモニターの画面を切り替えた。次に表れたのは、夜間の建物の屋上の様子だった。軽快な音楽を流してダンスパーティーに興じる若者たちの姿である。周りには月の光にうっすらと照らされた、錆びたトタンの屋根が無数に広がっている。奥の方に、夜空との境界が判然としない低い山の峰が薄く映っているようだった。
西田真希は、その動画の右上の暗闇のあたりを指差して言った。
「これは、永山さんがタイムマシンを発射させた建屋があった山の麓のスラムで、住人たちが個人的に記録していた映像です。丁度この位置の辺りが例の建屋。この動画が撮影された日付は七月二十三日。永山さんが日本に向けてマシンを発射させた日です。時間は、こちらの時間で午後九時四十分前後。つまり、永山さんがマシンを発射させて建屋を立ち去ってから、約五時間が経過した後の映像です。この動画の時刻設定がズレていないことは、確認が取れています」
モニターには、周りで奏でられるサルサやロックのリズムに合わせて楽しそうに踊る男女と、時折、こちらに向かって酒瓶を持ちながら笑顔でポーズをとる若い女や、浮かれて騒ぐ男の様子が映っていた。
三木尾善人はその誰にも気を惹かれることなく、先ほど西田が指し示した暗い背景の一箇所だけをじっと睨み付けていた。すると、その暗闇の部分に薄っすらと映っていた山の影の中腹あたりの位置から、一瞬だけ何本かの光の筋が斜めに立ち、直ぐに消えた。
三木尾善人は画面を見たまま西田に確認した。
「車のライトか? 二台だな」
「はい。少し、映像を早めます」
西田真希が端末を操作すると、動画が早送りで再生され、また、通常速度の再生に戻った。
「さっきの車のところから、約七分後です。見ていて下さい」
三木尾は、モニターの右上の同じ箇所に意識を集中させた。すると、山の中腹あたりの同じ箇所から強烈な白い光が、画面上では小さな点に過ぎなかったが、何度か輝いた。そして、その後も時折、赤く短い線が現れたり、黄色い閃光をにじませたりしていた。しかし、その音は手前の若者らの奇声やギターの音とカメラマンの声にかき消され、聞き取れなかった。
シートから立ち上がりモニターの前まで来た三木尾善人は、目を細めて画面に顔を近づけ、その動画のその箇所をじっくりと観察しながら言った。
「なんだ? 燃やしてるのか? 手榴弾か何か、爆発物だな。その後で……ああ、火炎放射器か。この赤い光の筋は、火炎放射器の炎じゃないか?」
画面の隅の閃光を指差しながら、三木尾善人は横の西田に顔を向けた。
西田真希は黙って頷く。三木尾善人は再び画面に顔を向けた。
西田真希は、また端末を操作すると、モニター上の動画をもう一度早送りにして、それから通常再生に戻した。彼女は落ち着いた声で言う。
「そして、帰って行きます。この間、約四十分」
モニター上の動画では、西田が指差した箇所に、最初と同じようなサーチライトの光の筋が一瞬だけ映り、画面の左の方に、点滅しながら少しずつ移動していた。
西田真希は膝の上の端末を操作し、モニターの表示を最初の焼け跡の画像に戻してから、言った。
「こちらでは機材が十分ではないので、精密な動画の分析が出来ていませんが、警部や私の推測が正しければ、何者かが、永山さんが建屋を立ち去った後に遣って来て、執拗に破壊し、念入りに焼き払ったことになります。しかも、四十分という短時間で」
西田真希は深刻な表情を浮かべていた。
四
三木尾善人は立ったまま、目の前のモニターにスライド表示される焼け跡の画像を、鷹のような鋭い目で睨んでいる。西田真希はその彼を観察していた。もし彼が、単に警察庁の子越長官に操られている傀儡に過ぎないとすれば、自分がこの動画を発見してすぐに報告した本国の上司たちと同じ反応をするはずだ。にやけた顔で「おまえの勘繰り過ぎだ」と否定したり、迷惑そうな顔で「任務とは関係ない民間情報に貴重な時間を浪費している場合か」などと批判してくるだろう。この刑事はどういう反応をするか。興奮気味な顔で証拠隠滅事件だと憤慨したり、犯人像について滔滔と思いつきの推理を述べるのだろうか。
西田真希は三木尾の反応を待ちながら、彼を視線で追った。
眉間に縦皺を刻みながら自分の席に戻った三木尾善人は、シートに腰掛けながら西田に言う。
「断言はできねえし、確信も持てねえが、可能性は高いな。誰かが、あそこにやってきて、徹底的な証拠隠滅を図った。しかも、しっかり準備して計画的にな。しかし、誰がこんな事を、わざわざ……」
シートに座った三木尾がこちらを向いたのを確認してから、西田真希は彼の目を見て言った。
「我々が得ている情報では、こちらの
三木尾善人は体を前に出して顔を顰めた。
「真明教? あの、日本の新興宗教の真明教か?」
西田真希は頷いた。それを見た三木尾善人は、頬を膨らませて大きく息を吐き、再びシートの背もたれに身を投げた。
真明教団は、新首都圏近郊に総本山を構え、新首都のほか全国各地と世界各都市に支部を持つ大型の新興宗教団体である。学校施設や病院までも保有しているこの教団は、急速に信者数を伸ばし、規模を拡大させていた。その信者数は、世界中で一億人以上に及ぶと推計され、その五割程度の数の信者が、この南米にいるというのが、もっぱらの噂である。彼らは、自らを全知全能の神の預言者であると主張する教祖・
自分の眉間を摘まみながら軽く頭を振った三木尾の様子を見て、西田真希は彼に尋ねた。
「彼らについて何か?」
「いや別に。ただ、あんたが生まれるちょっと前の頃だと思うが、宗教団体が起こした大事件があってな。今回も、厄介な事になるんじゃないかと……はあ。やれやれ……」
三木尾善人はシートに凭れながら、大きな溜め息と共に天井を仰ぎ見た。そして、再び身を乗り出して、こちらに顔を向ける。
「で? 外務省の方では、どんな情報を得ているんだ。奴らについて」
西田真希は膝の上の薄い端末を操作して、多機能モニターの表示画像を別の画像に切り替えた。多機能モニターに、今度は数枚の静止画が順次にスライド表示されていった。
「こちらでの真明教団の様子です。この人たちです」
彼女はモニターに次々と写る画像を指差した。それらの画像には、スラム街の一角で熱心に経典らしき物を読んでいる背中を曲げた老人や、カメラに向かって笑顔で語りかけている若者、教会のような建物の前で天に向かって両手を合わせて祈る人々が写っていた。
それらを見た三木尾善人は、顎の上の短い髭をいじりながら感想を述べた。
「ふーん。随分と普通じゃねえか。日本じゃ皆、おそろいの黄色いジャージを着ているぜ。袖に黒い太線の走っているやつ。そのうち、ヌンチャクでも振り回し出すんじゃないかと思っていたが、こっちの奴らは随分と温厚そうだな」
西田真希は再度モニターの画像を切り替えた。今度は、荷物の横で座り込み絶望に打ちひしがれたように項垂れている老女や、子供に乳をやりながら煤汚れた顔でカメラを見つめる女の画像が表示された。そして次に西田が画像を切り替えると、モニターには、スラム街の一角に集まり手を合わせて祈りを捧げる住人たちの姿や、焚き火の周りで手を繋いで輪を作る子供たちの姿が映った。最後に、漆黒の法衣に身を包んだ肥えた初老の男の大きな写真を担いでスラム街の街路を行進する群集が表示された。
西田真希はモニターを一瞥してから三木尾に顔を向け、説明した。
「こちらでは、ほとんどの信者が、真明教の施設に逃げ込んできた戦争難民です。国中に点在するスラム街に住む人間の九十パーセント以上が真明教信者だという話です。それから、ゲリラ軍の兵士の中にも真明教信者が多くいることも分かっています」
「ゲリラの兵士にも?」
聞き返した三木尾に、西田真希は大きく一回だけ頷いて答えた。
三木尾善人が更に尋ねる。
「神頼みしたい心境は分からんでもないが、どうしてまた、わざわざ真明教なんかに入る必要があるんだ?」
西田真希は再び端末を操作して、モニターの画像を切り替えた。
「これをご覧ください。この国での真明教信者数の推移です。もちろん、戦時下でのデータですので、正確なものではありませんが。概数だとしても、このとおり、この五年で急増しています」
西田が指し示したモニターには、水平を辿り途中から急な角度になって右肩上がりで上昇する折れ線グラフが映っていた。
三木尾善人は右の肘掛に凭れ掛かり、腕組みをしながら、そのグラフを眺めていた。
彼は怪訝そうな顔をして言う。
「ああ、それもそうだが、それよりもコイツら、この戦争が始まる前から、ここで布教活動をしていたのか。この戦争が始まったのは、たしか、奴らが宗教法人を立ち上げて間もない時期だろ。法人を立ち上げてすぐに海外布教とは、すげえな」
西田真希もグラフを見つめながら言った。
「ええ。彼らの教えは未来の予言と変革。この戦争も予言していたそうで、その後に実際に勃発した戦争によって何もかも失った人や、ジャングルをさまよう兵士たちにとっては、きっと心の拠り所だったのではないでしょうか。ご覧のとおり、戦局が泥沼化するにつれて、入信者数を増やしています。それから、これが一番の要因でしょうが、彼らの宗教施設は、彼らが作った非戦闘協定区域の中にありますので、そこにあるスラム街の中で広がるのも当然かもしれません」
西田の操作によって、モニター上の画像がグラフからスラムの点在地と戦闘区域を表示した簡易地図に切り替わった。
三木尾善人は腕組みをしたまま、眉をひそめて言った。
「希望の光って訳か……」
そして、軽く首を傾げると、西田に視線を移して尋ねた。
「でも、どうやって入信するんだ。高額のお布施を払わないと信者にしてもらえないって聞いているが」
西田真希は首を横に振った。
「それが、どうもこちらでは、お布施などの金銭的寄付は信者から集めていないらしいのです。もともと、難民は着の身着のままで戦火から逃げてきた人々ですから、お金なんて持っていませんけど……」
三木尾善人は組んでいた腕を解いて、西田に再度尋ねた。
「なんだ? じゃあ、ただの数合わせか?」
「さあ。でも、これも見て下さい」
次に西田が膝の上の端末を操作して画像を切り替えると、今度は、スラム街の街路で長蛇の列の住人たちに食料を配っている黄色い運動着姿の東洋人たちの姿がモニターに表示された。
三木尾善人が確認する。
「出たな。本家の連中だ。日本の真明教信者だな。ボランティア活動か」
「ええ。彼らはこうやって、実際に施設内の人だけでなく、隣接するスラム街の人たちにも、食糧や医療物資を配っているんです」
三木尾善人は、また身を乗り出して、画像の端に映っていた東洋人信者に目を凝らしながら言った。
「じゃあ、いい奴らじゃねえか」
西田真希も三木尾と同じく画面の信者たちに顔を向けながら、その大きく綺麗な目を細くした。
「それは、どうでしょう。永山さんがマシンを発射した建屋の近くのスラム、あの辺りが、真明教がこの国で最初に布教活動を始めた地域らしくて、あの辺りには狂信的な信者が多いことは確かです」
三木尾善人が画面上の信者たちを再び怪訝そうな顔で見つめながら、言った。
「筋金入りの予言マニアか」
西田真希は三木尾の顔を見て頷く。
「彼らの信条は、南正覚の予言を信じ、その悪しき結果の予言の成就を回避すること。つまり……」
西田が話し終えないうちに、三木尾善人が口を挿んだ。
「未来は変えられると。時の流れは定まっていないという訳だな。要は、高橋説だ」
西田真希は深く頷いた。
「そうです。ですから、彼らは当然のごとく、タイムトラベルによるパラレルワールドの存在を肯定します」
「そこへ、パラレルワールド否定の元祖、田爪博士がやってきた。えらいこっちゃな。特に、その熱狂的な予言マニアたちにとっては」
片頬を上げた三木尾に対し、西田真希は真剣な顔で答えた。
「ええ。実際に信者の中には、現在でも田爪健三を悪魔呼ばわりしている者も多数いるようです。この大量虐殺事件が明らかになる以前から」
三木尾善人は頭を掻きながら、顔を顰めて言う。
「んん……どうも解らんな。パラレルワールドを肯定するなら、そもそも予言すること自体に意味がないような気がするんだが……」
三木尾善人が再び腕組みをして、首を傾げながら西田の方に顔を向けた。
彼女は再び大きく頷いて答えた。
「そうですね。私もそう思います。でも、ここの信者たちは、自分たちに食料や医療物資などを提供して、現実的な支援の手を差し伸べてくれる南正覚を神として崇めて心服しています。ですから、もはや論理的な考察は思考の枠外なのかもしれません」
人々に食料を配っている日本人の信者たちの画像に目を遣りながら、三木尾善人は言う。
「まあ、そうかもな。国際社会が資源目当てに牽制し合って、ドンパチでの成果ばかりに眼を向けている一方で、難民には誰も手を差し伸べなかった訳だからな。食料やら医療物資やらを無料で配布してくれるんなら、正覚さまさまってところだろうな」
西田真希は頷いて応える。
三木尾善人は両腕を左右の肘掛に乗せると、またシートに深く凭れて言った。
「それにしても、こりゃ、いっそうに拗れるな。南米側が真明教団を支持すれば、教団の奴らは、日本国内から全世界に向けて日本政府批判を発信しかねんからな。まさに『獅子身中の虫』ってとこだな」
そして彼は、気だるそうに首を一回ししてから、西田に尋ねた。
「で、あんたらは、どうするんだ?」
西田真希は画像を見つめながら、厳しい顔で答えた。
「一応、彼らは政府とは関係のない民間団体ですので、我々もノーコメントのスタンスを貫いていますが……国際世論は厳しいですね」
「あらら、そうだろうな。タイムマシンと田爪に加えて、日本国内の民間団体が裏でゲリラ軍に食糧支援なんかをしていたと疑われる可能性が大だもんな。ま、実際には、もう疑われているんだろうが……」
三木尾の指摘したとおりだった。真明教団から支援物資を受け取っていたスラム街の住人たちの中には、戦地で戦うゲリラ軍の兵士たちの妻や子供などが多く含まれている。そして、提供された水や食料、医薬品などの物資は、スラム街を経由してゲリラ軍側に渡っていたという情報を西田は得ていた。だから、この点を国際社会から指摘されることで、日本が国際舞台で更に不利な立場に追いやられる事を彼女は危惧していた。
西田真希は深刻な顔で説明を続けた。
「真明教団が日本から送っている配給品の正確な物量については、各省庁で情報を収集して確認してもらっています。しかし、たしかに量としては、かなりの金額になる量ではありますが、ここのスラムの難民たちの生活を支えるには、とても足りる量ではないようですね。現状では、あらゆる物資が全く不足しています」
三木尾善人はモニターの画像を見つめながら漏らした。
「そうか……」
彼の沈んだ声に、西田真希は改めて彼に視線を送り、その目をよく観察した。難民たちの画像を見つめる初老の刑事の目は悲しげであった。
西田の視線に気付いたのか、三木尾善人は顔を彼女に向けた。
「それで、その熱狂的な信者たちとやらが、あの建屋を焼き払った、そういう訳かい?」
西田真希は眉を寄せて答えた。
「ええ、彼らにしてみれば、悪魔の隠れ家のようなものでしょうから。ウチの『省』としては、そう考えています」
三木尾善人は深く眉間に皺を寄せる。そして、鼻で笑ってから言った。
「じゃあ、政府は、田爪の奴を処刑したのも、その、ゲリラ兵士の中の『熱狂的な信者』とやらだと考えている訳だ」
西田真希は三木尾の顔を見据えて黙っていた。三木尾善人は目を瞑り、含み笑いながら半ば呆れたように首を振っている。
この人なら理解してくれるかもしれない。彼女はそう思った。
西田真希は下を向き、急いで端末を操作すると、新たな別の画像をモニターに表示させた。そして、彼女は慎重に口を開いた。
「その点なんですが、ちょっと、こちらの画像もご覧ください」
三木尾善人は片眉を上げて、再び多機能モニターに目を向けた。
モニターには、高い視点から撮影された、雑踏の様子が映し出されていた。それは、広いフロアの中で様々な人種の人間が行き交う様子を撮影した静止画だった。西田が更に端末を操作すると、画像の人ごみの中の一人の男を緑色の細い線が四角に囲み、次に、その部分が拡大されて表示された。その画面の男は、周りの人間よりも一際に背が高く、頭には黒のソンブレロを被り、黒いシャツの上から黒い革のロングコートを着ていた。前の人間に隠れた手には、何か重そうな荷物を持っているようである。西田が拡大率を上げると、画像は少しぼやけ気味になったが、横を向いた男の白くこけた頬と薄っすらと疎らに伸ばした髭、高く大きな鷲鼻、頭のソンブレロから出て肩まで伸ばした黒髪、その垂れた前髪の隙間から確認するようにカメラの方を見つめる不気味な青い瞳が分かった。
三木尾善人は頭を前に突き出すと、目を細めて画像を見つめながら、西田に尋ねた。
「この男は?」
西田真希は答えた。
「現在、事実関係を確認中ですが、これは、こちらの時間で六月三日の十四時三十九分に、ボコタの旧国際空港の監視カメラが捉えた映像です。つまり、そこから入国したものと思われます。そして、この男は、同月五日にカヤオ国際空港から出国していることが確認されています。名前は、ミック・
三木尾善人はモニターの男から西田に視線を移した。彼はそのまま、厳しい視線を西田に向ける。
「それで……」
そう尋ねた三木尾善人は、すぐにモニターに向き直して言った。
「待てよ。田爪瑠香が転送された日が、たしか、こっちの日付では六月四日だよな。その前後じゃねえか」
「そう」
西田真希は静かに答えた。
三木尾善人は再び西田に視線を戻して尋ねる。
「何か関係があるのか?」
「はっきりとは判りませんが、おそらく。――実は、さっき警部がご覧になった田爪の地下施設の爆撃痕から北に百キロほど行った所にある軍人町でも、六月四日に、この男の姿が目撃されています」
三木尾善人はもう一度モニターに顔を向けて、画面の男の顔を確認しながら西田に尋ねた。
「何者なんだ?」
「どうも、国際的な武器商人のようですが、まだ、それ以上の詳細は不明です。順次、情報が集まるとは思いますが……」
「武器商人? 南米連邦政府と取引でもしていたのか?」
「その点も明確ではありませんが、我々のルートで得た確かな情報によれば、この男が過去にこちらの政府との正規の取引をした実績は無いようです。それに、この時期は政府軍側もゲリラ軍側も武器の購入どころではなかったはずです。どちらも極度に疲弊していましたから」
「協働部隊の方は」
「それも無いと確認がとれています。だいたい、協働部隊に参加している先進各国がわざわざ第一級戦闘区域までモグリの武器商人を呼ぶとは思えません」
西田真希は再び端末を操作し、収集した資料をモニターに表示させながら、早口で説明した。
「この時の入国IDはイワノスキーとなっています。ファーストネームも、マイク、ミッキー、マイケル、ミカエルなど様々な呼び方を使っています」
顔を上げた西田真希は、三木尾の顔を見据えて説明を続ける。
「一応、各国の情報機関にも問い合わせてみましたが、詳しい情報が上がってきません。いわゆる『ゴースト』ですね」
その言葉を聞いた三木尾の眉間に更に深い皺が寄った。
「各国の情報機関が存在を確認しているが、その正体も足取りも掴めない特殊手配対象者か……。だろうな。コイツが武器商人だという情報が本当なら、各国とも裏で取引しているだろうからな。情報など上がってくるはずがない」
三木尾善人は、モニターに次々と表示される文書データ画像を目で追っていった。西田が表示させたそれらのイヴンスキーに関する資料は、どれも空欄だらけだった。
西田真希は再度、画面を切り替え、宿泊名簿の文書画像を表示すると、その次に、いかにも高級ホテルのロビーといった豪華なフロアを映した監視カメラの静止画像を表示させた。さっきと同じように、その画像の隅に映っている大きな窓ガラスの部分を緑色の枠線が囲み、そこを拡大表示させる。そこには、ソンブレロを被った黒ずくめの大男が反射して写り込んでいた。
西田真希は三木尾が画像の男の顔を確認したのを見てから、口を開いた。
「さらに、この男は、七月二十日にブエノスアイレスのホテルに宿泊しているんです」
再び西田に顔を向けた三木尾善人は、その顔を強く顰めた。
「なんだって。あの永山っていう文屋が田爪にインタビューした日の、ちょっと前じゃねえか。たしか、七月二十二日だったよな」
「そう。そして、その後、七月二十五日の真夜中にカラカスの市街地で目撃されたのを最後に、姿を消しています」
「カラカス? 北のか。移動ルートは」
「不明です。ですが、当時、東海岸線は協働部隊の前線基地が展開していましたので、通過しようとすれば必ず身元を調べられたはずです。中央から西海岸にかけては両軍の防衛線が何重にも引かれ、その中で港や空港の争奪戦が繰り返されていた激戦地域ですから、厳重警戒態勢がとられていました。とすれば、やはり通過したら記録に残る。しかし今のところ、どちらの記録も、どこのチェックポインからも、何も出てきていません」
「じゃあ、こいつが検問をかいくぐっていないとしたら、その間のルートか。そうすると、さっきの田爪の地下施設があった戦闘区域を北に向かって縦断したってことになるな」
西田真希は頷いた。
「そうなりますね」
彼女の険しい表情を見て、三木尾善人は慌てたように顔をモニターに向けた。
「おい、おい、どうなってんだ。まさか……」
彼は食い入るように、その長髪の大男の画像を観察し続けた。
五
西田真希は、黙って足元の鞄から透明の小さなカードケースを取り出すと、そこから白色と黒色の二枚の名刺大のカードを取り出した。それはMBC(メモリー・ボール・カード)と呼ばれる大容量記憶カードで、一般的に普及しているものである。西田真希は、そのうちの白いカードを膝の上の薄い端末の側面に挿し込みながら三木尾に言った。
「もう一つ、警部に見ていただきたい画像があります」
西田真希は素早く端末の操作パネルを指先で触り、隣の多機能モニターに別の画像を表示させた。
「この画像です」
そこには、さっき三木尾が上空から視察した爆撃跡の巨大なクレーターを真上から写した画像が映っていた。ただ違ったのは、穴の側面や周囲の地表の幾箇所から赤や青の炎が立ち上っていることだった。
薄い顎鬚を触りながら画面を見つめる三木尾に西田真希が説明した。
「これは、さっき警部がご覧になった、田爪の地下施設の爆撃直後の状況を、衛星から高倍率で撮影したものです」
「ああ」
画面を見つめたまま、三木尾善人が相槌を打つ。
西田真希は、同じような何枚かの衛星画像を次々に表示させて、すべてを三木尾に見せ終えると、言った。
「ここまでが、ミサイル攻撃直後の画像です。そして、ここからが攻撃前の画像」
画像の表示が切り替わった。モニターには、生い茂る緑の中に微かに分かる円形のコンクリート面とその上に建つ何棟かの煤けた建物の四角い屋根が映し出されていた。真上から撮影されたその衛星画像では、どのコンクリート屋根も表面が黒く変色していて、ある部分は少しだけひび割れていた。しかし、どの建造物もその原形をしっかりと留めている。
怪訝な顔をしながら画像を観察している三木尾に西田が言った。
「お分かりのとおり、空爆前にもかかわらず、かなり焼け焦げています。しかし、周囲の植物が損傷している様子はありません。地表は何も破壊されていない。おそらく地下も」
「どういう事だ」
画面に映された不可解な画像を観察しながら、三木尾善人は尋ねた。
西田真希は、三木尾の表情を観察しながら答える。
「これは極秘情報なのですが、どうも南米連邦政府は、協働部隊のミサイル攻撃の前に、『マイクロ波放射爆弾』を使用したようなのです」
三木尾善人はモニターを見ながら静かに問い直した。
「レンジ爆弾か。国際条約で使用が禁止されている」
三木尾善人は、一度厳しい視線を西田に向けると、立ち上がり、モニターの前まで来て、もう一度、焦げた建物の屋根の画像の細部を観察した。
西田真希は答えた。
「ええ。これを使えば、施設そのものを破壊せずに、施設の外から中にいる人間のみを抹殺できます。おそらく南米連邦政府は、施設の中に量子銃やタイムマシンが残っていると考えたのでしょう。そして、それらを協働部隊が破壊または回収する前に、自分たちで回収したかった。だから、中にいる人間のみを短時間で抹殺できるマイクロ波放射爆弾を使用した。我々は、そう考えています」
三木尾善人は立ったまま、横で座っている西田の顔を見て言った。
「ところが、銃もマシンも無かった」
「ええ」
西田がそう答えると、三木尾善人は再び画面を観察しながら言った。
「それで、環太平洋連合軍に必要以上の数のミサイル発射を要請して、徹底的に施設とその周辺を破壊したのか。レンジ爆弾の使用の痕跡を消すために」
西田真希は頷く。そして、三木尾に確認した。
「警部は、もう昼食はお済ませになられたのですよね」
「ああ、あんたに会う前に軽く済ませた。――どうしてだ」
西田真希は、膝の上の薄型端末に挟まれていた白色のカードを引き抜くと、準備していた黒色のカードと入れ替えて、それを端末に挿し込み、操作パネルを触りながら三木尾に言った。
「いえ、ここからの画像は、マイクロ波を照射されたゲリラ軍兵士たちの遺体の画像が含まれますので、念のため」
三木尾善人は西田の顔を見て、落ち着いた声で即答した。
「大丈夫だ。俺は
西田真希は片眉を上げると、膝の上の端末を操作した。モニターの画像が切り替わり、新たな画像を表示した。
目の前に広がった画像を見て、三木尾善人は思わず声を上げた。
「くわあ。ひでえな。なんてこった……」
西田真希は説明した。
「マイクロ波放射爆弾を使用した直後に施設内部を探索した南米連邦軍の兵士が撮影したものです。軍事用の探索カメラを使用していますので、解像度は最高のもの。フラッシュもレーザー撮影を併用し、陰影を極力に除去しています」
西田の操作によりモニターに次々と表示されていく画像は、そのどれもが、地下の施設内部での惨劇を高解像度で克明に記録していた。肉体の一部だった物を散りばめ、赤く染められたような凄惨な画像が、壁に掛けられた三十二インチの多機能モニターに、機械的なリズムでテンポ良くスライド表示されていく。三木尾善人は鼻に皺を寄せて、それらの画像に眼を向け続けた。西田真希は時々三木尾の表情を確認しながら、画像をスライドさせていく。三木尾善人警部は目を細めたり、時に反射的に顔を逸らしたりした。しかし、彼の視線は逃げていなかった。三木尾善人は両目でしっかりと画面を観察し続けた。それは、刑事として数々の死体を目の当たりにしてきた彼だからこそ出来た事だと言える。通常人なら、ここまで長くは正視し得ないはずだ。前職において他人の血を見慣れた西田でさえ、最初は直視し得なかった。それ程に惨く痛ましい状態で横たわる兵士たちの遺体をカメラは冷淡に写し撮っていた。煤けた部屋に散乱する兵士たちの体の一部が彼らの惨死の様子を物語っている。西田真希はモニターに次々と表示されるグロテスクな静止画に顔を向けることなく、膝の上の端末を操作しながら、淡々と述べた。
「超高周波の電磁波で人体の内部温度を急上昇させ、肉体を内部から破裂させる。遺体の状況から分かるその残虐性と非人道性が、この兵器の使用を武器使用条約で全面的に禁止した理由です」
三木尾善人はズボンのポケットに仕舞い込んだ湿ったハンカチを取り出すと、それで額の汗を拭いながら、画像のスライド表示が終了するまでモニターを睨み続けた。やがて、モニター上では、その禁止兵器の使用結果を示す残忍な画像の表示が終了し、前の爆撃地点の空撮画像に戻った。
三木尾善人は左手に握ったハンカチで右掌の汗を拭きながら自分の席に戻ると、シートに身を投げるように腰を下ろした。彼は大きく息を吐きながらハンカチで顎の汗を拭き、言った。
「ふー。――それで、何が言いたい」
「無いんです」
「何が」
三木尾善人は、今度は首元の汗を拭きながら、再度尋ねた。
西田真希は、膝の上の薄型端末から黒色のカードを引き抜くと、鞄から専用のケースを取り出しながら説明した。
「今ご覧になった画像は、南米連邦政府関係者から、我々が特殊ルートで極秘に入手した画像です。ですから、まだこの他にも遺体を撮影した画像が在るのかもしれませんが、今表示したこれらの画像の中には、無いんです」
「だから、何が」
三木尾善人は右手で、サイドテーブルの上のペットボトルに残された御茶をグラスに注ぎながら、少し苛立ったように尋ねた。
西田真希は、その黒色のカードを丁寧に透明のケースに入れて、床の上の鞄の中に仕舞い込むと、体を起こした。そして、三木尾の目を見て言う。
「田爪健三の遺体の画像です。どこを探しても」
「――?」
キャビンの中に沈黙が流れた。
六
グラスに御茶を注ぐ三木尾の手が止まった。一瞬の間の後、彼はハンカチを握ったままの左手で慌ててペットボトルに蓋をしながら、尋ねた。
「なんだって? 画像はスキャンしたのか」
「ええ。何十回も。立体再現もしてみて、死角の再現と可能性パターン分析も行いましたが、結果は同じでした」
「例の量子銃で消されたという可能性は」
「田爪健三が使用していたオリジナルの量子銃は、エネルギーパックを外して永山さんに渡した後は使えなかったはずです」
「だけど、他のゲリラ兵が持っていた量産型の量子銃があるだろ。それで殺られたんじゃないか?」
「量産型の量子銃は、永山さんが立ち去った数日後には、全丁が使用できなくなっています。原因はおそらく電池切れ。しかも、量子銃を装備したゲリラ兵の全員が、後退する協働部隊の兵を追って南下し、そこで使用期限を迎えたことが分かっています。新日ネット新聞の記事が配信されたのは、その後。つまり、もしゲリラ兵が田爪を殺したとしても、その頃には量子銃の使用期限は過ぎていた。だとすると、彼の殺害に量子銃は使用されていません。では、通常の銃器で殺されたとすれば、その遺体はどこに消えたのか」
西田真希は背筋を正したまま、真っ直ぐに三木尾の顔を見た。
三木尾善人は彼女の視線から逃げるように顔を床に向けると、そのまま少し考えていた。
やがて顔を上げた彼は、ハンカチを握った左手で西田を指差しながら言った。
「ちょっと待ってくれ。じゃあ、あんた、奴さんは生きているって言うのか?」
「断定はできませんが、可能性は排除しきれません」
西田の答えを聞きながら、三木尾善人は、グラスに注いだお茶を飲み始めた。
西田真希は三木尾を見据えて尋ねた。
「ところで、田爪健三の周囲に居たゲリラ軍の兵士たちも、真明教の信者だったという事をご存知で?」
三木尾善人は慌ててグラスから口を離すと、こぼれた口元の御茶をハンカチで拭きながら、答えた。
「いや。それは初耳だ。――確認だが、今あんたが言った周囲に居た兵士とは、田爪を監視したり護衛したり、身の回りの世話をしていた兵士たちの事だろ。実際に田爪と行動を共にしていた」
西田真希は頷いた。三木尾善人は怪訝そうな顔を斜めに向けた。
「だが、もしそうだとすると、田爪は、奴を毛嫌いする人間たちの中で生活していたって事になるな。やっぱりレンジ爆弾の使用前に奴らに殺されたんじゃないか? あんたら外務省が考えているとおり」
三木尾善人は西田を指差した。西田真希は眉を寄せて三木尾に訴える。
「でも、おかしいと思いませんか。永山さんのインタビューでは、田爪は、奥さんの瑠香さんが転送されてきた時に、ゲリラ軍の兵士たちに誕生パーティーを開いてもらっていたと言っていました。それが本当なら、何か不自然なような気がして」
「なるほど……。言われてみれば、確かにそうだな。自分たちが信じる宗教の教祖の主張を根底から否定する学説を唱えている田爪に、誕生パーティーか……。どうも、変だな」
首を傾げた三木尾善人は、右手に握ったグラスの残りのお茶を一気に飲み干すと、空のグラスをサイドテーブルの窪みに戻した。
西田真希はモニターに映る爆撃後の施設の写真を見つめながら言った。
「まあ、兵士個々人の信仰心の強弱の問題と言われれば、そこまでなのでしょうけれど、私としては、何か引っかかるんです」
彼女は三木尾に視線を戻すと、続けた。
「それに、田爪は、ずっと地下に籠っていた訳ではなく、度々スラム街に出てきては、そこの住民たちと交流しています。永山さんのレポートにもあったとおり、スラム街で資材を集めて、密かに新型のタイムマシンを製造していたのですから」
「そうだな。だいたい、一人で製造したとはいえ、山の中腹の建屋に電気を引いたり、建物を強化コンクリートで覆ったりなんて、いかに田爪が熟練のエンジニアでもあると言っても、奴一人では全て出来るはずも無いしな。すると、協力者がいたという事か、しかも複数」
「ええ。ですが、政府としては……といいますか外務省ですけど、私の周りの人間は、誰も本気でそこまで考えてはいないようなんです。田爪健三は南米ゲリラの兵士か真明教信者に殺されたか、あるいは空爆で死んだと。ですが、私個人としては疑問があります。先程ご覧にいれた焼き払いの映像ですが、あれも、見方によっては田爪の為の事後処理とも採れますので。そうでないとすれば、矛盾するような……」
三木尾善人はハンカチを畳み直しながら、時折、西田の目を見て言った。
「そうだな。車二台で行ったって事は、最低でも二人、おそらく実際にはもうちょっと多いだろうが、そいつらが爆弾に火炎放射器まで使って憎い田爪健三の建屋を焼いたのだとするならば、どうして、そいつらは、あの建屋で、もっと前に田爪を
西田真希は静かに頷く。
「そう。だから、もしかしたら、田爪の指示で焼き払ったのかもしれません。証拠隠滅の為に。むしろその方が、永山さんが立ち去ってから時間が経たないうちに焼き払っているのも、納得が出来ます」
三木尾善人は畳んだハンカチをズボンのポケットに仕舞いながら言った。
「そうすると、あんたは、そいつらが田爪を匿っていると。そう考えているんだな?」
「ええ。でも、それなら、イヴンスキーが何故あのタイミングで現れたのかが不明です」
「……」
三木尾善人は下を向き、沈黙したままだった。
西田真希は尋ねた。
「警部はどう思います? 誰が田爪を連れ出したのか、または匿っているのか。どうお考えですか」
三木尾善人は暫く腕組みして考えていたが、急に、組んでいた腕を解くと、大きく左右に開いて言った。
「いや、まだ解らんね」
そして、投げ出すように開いた両足の膝を、その上に載せた手でゆっくりと叩きながら言った。
「だけどな、大切なのは『誰が』じゃなくて、『何故か』だと思うぜ」
「……」
今度は西田が黙っていた。西田真希は、この刑事に話して正解だったと感じていた。この三木尾善人警部は、必要な情報の所在ではなく、「真相」を探ろうとしている。そう感じていたのだ。彼女は内心、幾分か安堵した。そして、向かいの席の刑事に視線を向ける。彼は再び、鷹のような鋭い眼差しをこちらに向けていた。
三木尾善人は言う。
「大抵の事件ではな、誰が悪者かってことは直ぐに判る。まあ、悪人の相場は知れているからな。だから、通常人でも悪者を特定することは出来る」
西田真希は、また話の脈略が掴めず、少し困惑した。
三木尾善人は、そんな西田の目を見て続けた。
「でもな、周りで起こっている出来事の中から、『何が悪いことなのか』を見つけるのは難しい。どんな悪事が為されているのか、それがどうして悪いことなのかを判別するのが難儀なんだ。目の前で起こっていても、時には自分が被害に遭っていても分からないこともある。俺も含めて、大抵の人間には解らないのかもな。だから恐いんだよ。人間は。精神を鋭敏にして、何が悪事なのか、何故それが悪い事なのかさえ解れば、あとは誰が本来罰せられるべきかを探すのは簡単だ。だから、この件でもそうだが、まずは『何が』『どうして』から考えることだな」
そう言うと、三木尾善人はシートに再び身を投げてから、西田に尋ねた。
「田爪のヤツが生きているとして、それならヤツは何故、姿をくらましたんだ。拉致でもされているなら話は別だが、自分から逃亡したのなら、ヤツは何が目的で逃げた。何をしようとしてるんだ?」
西田真希は、その答えを真剣に探した。思考した。そこへ、三木尾の新たな質問が飛び込んできた。
「ところで、そのイヴンスキーとかいう輩がカラカスで目撃された時、そいつは一人だったのか?」
「それも未確認です。情報では一人だったとなっていますが」
言い終えた後、西田真希は首を少しだけ傾げた。それを見逃さなかったらしく、三木尾善人は間髪を入れず西田に尋ねた。
「何か気になる事があるのか?」
一瞬、西田真希は躊躇したが、意を決したように口を開いた。
「ええ。実は、個人的に気になって、念のために調べてみたのですが、イヴンスキーが目撃されたという日に自動車盗難の届けが七件、現地の警察に出されている事が分かったんです。そして、そのうちの一台が約二週間後にメキシコのモンテレーという都市で発見されています」
三木尾善人は眉間に皺を寄せて深く溜め息を吐くと、言った。
「米国との国境に近い街か。ただのナガシ(流し)の犯行だといいがな。盗難の被害者には悪いが……」
三木尾善人は、その自動車泥棒がイヴンスキーとは関係のない、行きずりの窃盗犯人の仕業であることを願っていた。実際、「ナガシ」とは、そういう意味の警察用語だった。
しかし、西田真希は冷静に、理論的に分析し、整理して、説明を続けた。
「最悪、イヴンスキーが田爪健三を連れて出国したのだとすれば、アメリカに入った可能性が大きいかと。だとすると……」
三木尾善人は西田を睨み付ける様に見て言った。
「向かうのは日本か」
西田真希は肯定する。
「ええ。あくまで最悪のシナリオですが、もし田爪健三が生きたまま日本国内で確保されたとなると、日本政府としては大打撃です。国外で日本の官憲に身柄を確保されてから、国内で法の裁きを受けるならまだしも、知らないうちに帰国されて、国内で見つかったとなれば、国際社会は日本政府に対して、あらぬ勘繰りをする事は必至ですから」
「ああ。日本政府が田爪を匿っていたとな。だとすると、そうなる事を恐れて、政府の誰かが、先に田爪を闇に葬るかもしれないな」
三木尾善人は小さく舌打ちした。西田真希は三木尾のその表情をじっと見ていた。彼女が本国に進言したのは、正にその事だった。今の三木尾の反応が真実だとすると、彼はそれを願っていない。西田が懼れていた点は、また一つ否定された。そして確信した。
――彼は信用できる。
少し座り直して姿勢を整えた西田真希は、真剣な顔を三木尾に向けて、言った。
「だから、できれば田爪健三が日本に帰国する前に、国外で、彼の身柄を確保しなければなりません。万一、日本国内に入ったとしても、入国後なるべく短期間で見つけ出して、正規の手続きで逮捕拘留してもらわなければ、国際社会に公言できません。警部には、その万一の場合に備えていただきたいのです」
「つまり、時間との勝負だと。そういう事かい?」
西田真希は頷いた。彼女は真っ直ぐに三木尾の顔を見据えて言う。
「もし、これに失敗すれば、日本は二度と国際社会に復帰できなくなる惧れがあります」
三木尾善人は顔の前で手を大きく一振りした。
「ああ。分かってるよ。辛島総理にも、この情報は行っているんだな。だから、
皮肉たっぷりに言い放った三木尾に対して西田真希は深く頭を下げた。
「ほんとうに、すみません。なんだか、警部に押し付けるみたいで」
「あんたが謝る事はない。どうせお偉いさんから、ここも調整しろって言われたんだろ」
笑いながら答えた三木尾善人は、大きく伸びをしながら、言った。
「ううん……チクショウ。もう少しで定年退職だっていうのに、難儀なヤマだぜ。ま、最後の仕事にしては、贅沢だがな。ようし、こうなりゃ、現場の刑事の意地と実力を見せてやろうじゃねえか」
不敵な笑みを見せながら、彼はそう言った。その三木尾に対して、西田真希は再度頭を下げた。
「よろしくお願いします」
申し訳なさそうに言う西田に、三木尾善人は笑みを見せながら、頭を大きく一度だけ縦に振って見せた。それを見て、西田真希は少しだけ笑顔を見せる。それは、彼女の正直な反応だった。何か、背筋を通っていた太い針金のようなものがスッと抜けた気がした。
すると、三木尾がこちらを指差した。
「あんたの方は、どう動くつもりなんだい?」
西田真希は両肩を上げて答えた。
「私はこれから、時間稼ぎのための国際調整をしなければなりません」
彼女は膝の上の薄型端末を操作して多機能モニターの表示を切ると、端末に指を乗せたまま、動きを止めた。
「あ、このデータ、全部必要ですよね。ウェアフォンか、小型端末はありますか。今そちらに送りますね」
三木尾善人はワイシャツの胸ポケットに右手を入れると、身を少し乗り出して西田に尋ねた。
「どのくらいの容量だ?」
西田真希は膝の上の端末の液晶画面を見ながら答えた。
「ええと……、『ウェアホ』なら、そちらのメモリーが八ペタバイト以上あれば十分じゃないかと」
三木尾善人はシートに背中を戻すと、胸ポケットから傷だらけの黒い端末を取り出して、それを西田に見せながら言った。
「そんじゃ無理だな。俺のは八ギガバイドの『スマホ』だ」
それは骨董品ともいえるほどに古い「スマートフォン」と呼ばれた機種だった。西田の父も二十年以上前の二〇一七年モデルの「スマホ」を使っているが、三木尾が見せたその「スマホ」は、もっと古いモデルのようだ。二〇〇〇年生まれの彼女が小中学生の頃に見たものである。彼女の父は、そう頻繁に携帯電話を使用する仕事でもなかったうえ、もう退職しているからそれでもよいが、彼は現職の刑事である。よく、そんな古い携帯端末で、この多次元インターネットの時代に対応していると、彼女は驚いた。
西田真希は開いた口を右手で隠して、目をパチパチと瞬きさせながら言った。
「平成モノですか。随分と物持ちがよろしいのですね」
三木尾は苦笑いしながら、サイドテーブルの上のペットボトルの蓋を取ると、残っていた少量のお茶を、そのままラッパ飲みして飲み干した。
西田真希は、薄型の端末を床の上の鞄に仕舞いながら、言った。
「後で警部のオフィスのアドレスを教えて下さい。そちらの方に直接送信しておきます。そっちは立体パソコンですよね」
「いや、普通のパソコンだ。液晶画面の」
その「普通」が、二〇三八年の今では普通ではなかった。床の上の鞄に手を入れたまま動きを止めた西田を見て、三木尾善人は頭を掻きながら言った。
「いやあ、あんたら若者が使っている、接触式ホログラフィーとかいうのは、どうも気持ち悪くてな。ホログラフィー・キーボードとかも、慣れないから肩が凝って仕方ない」
「もしかして、ホログラフィー嫌いですか?」
「いや、そうじゃないんだが、どうも、あの、『触ったつもりで手を動かす』っていうのに慣れなくてな。プカプカと浮いている画像にも。俺には、マウスと現物キーボードを使う昔のパソコンの方が使いやすい」
「マウス……OSは大丈夫ですよね」
「ああ。問題ない。新バージョンのOSは、二〇一五年あたりから訳が分からなくなったから、以後は時流に適当に従っている。今使っているのも、支給された警察用の最新OSだ。立ち上げる時のスタート・ロゴが『西部警察』風に表示されるところをみると、ちゃんと昭和生まれにも配慮して作ってあるはずだ。問題ない」
西田真希には意味が分からなかったが、一応、伝えた。
「とにかく、後ほど警部のオフィスに送っておきます」
「ああ。頼む。助かるよ。――助かるついでに、一つ頼みがあるんだが、いいかい?」
身を起こした西田真希は、キョトンとした顔で尋ねた。
「なんでしょう」
「この後の日本行きの飛行機なんだが、明日の二十九日か明後日の便に変えてもらえないかな」
「ええ。わかりました」
西田真希は怪訝な顔で了承したが、それ以上を尋ねなかった。彼女は黙ってシートから立ち上がると、三木尾のシートのサイドテーブルに置かれた空のグラスと彼が飲み干した空のペットボトルを手に取り、客室の後方まで少し歩いて、そこに設置されたダストボックスにペットボトルを入れ、グラスを回収用の棚の中に差し込んだ。そして、その上の棚から何かを探して取り出すと、自分の席に戻りながら、三木尾に言った。
「もし、こちらでお調べ事がお有りでしたら、何なりとおっしゃって下さい。私も暫くはまだ、こっちにいますから」
三木尾善人は左手を左右に振りながら、右手で腰を押さえて言った。
「いや、違うんだ。実は腰の方が限界でね。続けての飛行機の乗り継ぎ移動は、年寄りにはこたえるわ」
西田真希は、さっき後方の棚から取り出したものを三木尾に見せて、言った。
「だろうと思いました。はい。湿布です。後ろを向いて下さい。貼って差し上げますわ。日本製だから効くと思いますよ」
「おお、気が利くな。すまん。すまん」
三木尾善人は素直にズボンからワイシャツを引き出すと、シートに半掛けの状態で横を向いて座り直した。
七
西田真希は三木尾の隣の席に置いてあったガンクラブチェックの上着を軽くたたんで奥に置くと、その手前に浅く腰掛け、持っていた袋を破り、中から湿布剤を取り出した。薬品の臭いがキャビン内に漂ったが、彼女は慣れた顔で淡々と作業を進めた。湿布を膝の上に置き、腰掛けたシートと自分の腰の隙間に袋を置くと、広めの固定テープを適当な長さに切りながら、四本、端の方を軽く自分の手の甲に貼って並べた。そして、右手で湿布剤を取り、スムーズに保護フィルムをはがして、左手では親指で三木尾の腰を押さえていく。彼に痛みを確認して、彼女は丁寧にその箇所に湿布剤を宛がった。その上から四隅に、左手の甲に貼って準備していた固定テープを手際よく綺麗に貼っていく。
湿布を貼ってもらいながら、三木尾善人が横顔を見せて彼女に尋ねた。
「ところで、あんたの方こそ少し顔色が良くないようだが、大丈夫なのか」
西田真希は、椅子の上の湿布剤の袋を手に取ると、立ち上がり、固定テープと剥がした保護フィルムを重ねて持って客室の後方に歩いていく。彼女は湿布剤の袋と固定テープを医療用具入れの棚に戻すと、その扉を閉じながら答えた。
「すみません。まだ時差ボケが完全に抜け切っていないのかもしれません。このごろ寝不足で」
三木尾善人はズボンにワイシャツの裾を仕舞いながら、また彼女に尋ねた。
「これに乗る前に聞いたんだが、あんた、NNC社の例の女社長の件でも、『調整』で走り回っているんだって?」
「ええ。ニーナ・ラングトンですね。既に国際手配されていますが、日本からの情報が捜索のための一番重要な資料となるでしょうから。いろいろと走り回っています」
そう言いながら、西田真希は三木尾に貼った湿布からはがした保護フィルムを両掌でくしゃくしゃに丸め、ダストボックスに放り込んだ。
三木尾善人は、隣のシートにたたんで置かれていた灰色のガンクラブチェック柄のジャケットを取り、湿布の冷感で少し冷えた体の上にそれを羽織ると、腰を庇いながら落ちたネクタイを拾い上げた。
そのネクタイを左手の甲にクルクルと巻きつけながら、彼は言った。
「まあ、世界中の先端技術のパテントを掌握しているのをいいことに、各国の政府に裏からちょっかいを出して金を吸い上げていた
西田真希は頷きながら、元の席に座った。
三木尾善人は、左手に巻き終えたネクタイを上着のポケットに仕舞い込むと、西田の顔を見て言った。
「いや、それにしても、大変な時に来てしまって、申し訳なかったな」
「いいえ」
三木尾の実直な言葉に恐縮した西田真希は、首を左右に大きく振りながら答えた。そして姿勢を正すと、真剣な表情で言う。
「でも、正直なところ、多少の無理をしてでも今のうちに動くしかないんです。日本の国防軍がASKITの拠点島を攻撃して組織を壊滅させたという事実は、現時点の日本政府にとって、唯一のアドバンテージですから。国際世論の熱が冷めないうちに、使えるカードは使っておかないと」
西田真希は細い足を斜めに揃えて座りなおすと、スカートと上着の裾の皺を直した。
三木尾善人は、淡いベージュの上着の隙間から見える西田の細い首と鎖骨のあたりに目を遣りながら、右手で顎の短い髭をいじっていた。
「なるほどな。しかし、まあ、辛島総理にしてみれば、薄氷の上で座禅を組んでるようなものだろうがな」
「……」
眉を寄せた西田真希は三木尾に視線を向けた。
三木尾善人はコックピットへのドアをちらりと見てから前屈みになり、声を潜めて説明した。
「こっちに来る前に科警研で話を聞いてきたんだが、そこの特鑑……ああ、この事件のために科学警察研究所に『特別鑑定室』ってのが設置されていてな、そこを仕切っている岩崎という主任研究員の話だと、軍がASKITの拠点島から回収した量子銃……クァンタムガンだったかな、それから、奴らが造っていた量子エネルギー循環プラントとやらも、全く使えないモノだったらしい。タイムマシンでの転送が及ぼす後遺症の医療データ、あれもガセだそうだ」
西田真希は、大きな瞳をさらに大きくして、また三木尾に尋ねた。
「では、旧発射場の爆心地で発見されたという例のバイオ・ドライブの中のデータは、すべて偽物だったという事ですか?」
三木尾善人は口の前に人差し指を立てて見せると、小さな声で答えた。
「まあ、そこのところは俺もよく分からんが、仮にそうだとすると、田爪のヤツに一杯食わされたって事だな。そりゃあ、NNC社の奴ら、怒るよなあ」
西田真希は更に尋ねた。
「NNCが? じゃあ、もしかして、田爪健三はNNC社に殺されたと」
体を起こしてシートの背もたれに背中を付けた三木尾善人は、首を横に振った。
「いや、消しはしないだろうね。NNC社にとっても田爪は必要なはずだ。ASKITの再興のためにな。ただ、穏便に
「じゃあ、イヴンスキーを動かしたのも彼らだと……でも、イヴンスキーが田爪を埒したとしても、あの男が現われたのは、七月ですよ。ASKITの拠点島が襲撃される一ヶ月も前ですよね。それに、仮に今、どこかに逃げている田爪をさらうとしても、今のNNC社にそんな力が残っているかしら……。ラングトンが逃亡しているくらいですから、無理なような気がしますけど」
「かもな。でも田爪がASKITに偽のデータを掴ませたのなら、何らかの狙いが有っての事に違いない。だとすると、田爪の方からNNC社に接触していても不思議じゃないよな。だから、あんたがどうせラングトンの件で動くんなら、一応、田爪の捜索も絡めといた方が効率がいいんじゃないかと思ってな。それに、実は俺も、その田爪の目的は何だったのかを解明しろって、上から言われているんだ」
三木尾善人は、低い天井を指差しながら、溜め息交じりに告白した。
西田真希は、三木尾の説明を検討した。確かに、日本政府が田爪の死を前提としている現状では、その死亡原因と実行行為者、三木尾の言う偽のデータを作成した目的、これらの三点が最大の疑問点となる。これらの疑問点に矛盾なく答えられる資料を適宜に収集するよう三木尾に命じたのだろう。事なかれ主義の上層部の官僚たちが考えそうな事だ。西田真希はそう考えた。そして、三木尾のアドバイスどおり、表向きはラングトンの追跡という形にして手配した方が、田爪追跡の極秘ミッションを速やかに遂行できるとも思われた。それで、西田真希は足元の鞄から再度、薄型の電子端末を取り出しながら、三木尾に言った。
「分かりました。一応、手は打っておきます」
三木尾善人は黙って頷いた。
西田真希は膝の上に端末を乗せ、その表面に浮かんだホログラフィーのアイコンを指先で動かしながら話を続ける。
「ただ、田爪健三が最初からあのバイオ・ドライブに偽のデータを書き込んでいたのなら、何故わざわざ永山さんに? それに、貴重なバイオ・ドライブに偽のデータを書き込まなくても、別の媒体でもよかったはずですよね。再生機能を有するバイオ・ドライブに書き込んだという事は、彼は最初から、タイムマシンの事故でバイオ・ドライブが損傷する事を想定していたのでしょうか。だとすると、そこまでして彼が日本に偽データを送りつけた理由と目的は何なのか、確かに気になりますね」
三木尾善人の低い声が返ってきた。
「そもそも、田爪が偽のデータを書き込んでいたのならな」
西田真希は顔を上げた。シートの背もたれに両肘を載せて凭れたまま、こちらに厳しい視線を向けている三木尾に、彼女は尋ねた。
「どういう事ですか?」
「現状では、警察も司時空庁も、田爪が偽のデータを書き込んで、あの文屋さんに渡したと思い込んでいる。だが、科警研の岩崎は、その点に疑問を呈しているんだ。実は俺も、彼女と全く同感でね」
西田真希は膝の上の端末から指を離して、三木尾の顔を覗き込むように見た。
三木尾善人はその理由を察したように頷いてから、答えた。
「ああ、女の先生なんだ、アンタより少しばかり年は上かな。ん? 四十七って言ってたから、だいぶ上か。あんた、たしか、あの永山っていう文屋と同世代だったよな。ええと、今年で三十九だっけ」
「三十八です。まだ、七ですけど」
即答した西田真希は、少しだけ頬を膨らませて不機嫌そうにして見せた。
三木尾善人は慌ててシートの背もたれから背を離すと、手を立てて振りながら、何度も頭を下げた。
「いや、失敬。これは、失礼した。本当に申し訳ない。しかし、女性はあれだな、しっかりしていると、大人っぽく見えるというか、貫禄が出るというか……」
平身低頭に謝罪しながら狼狽している様子の三木尾の前で、西田真希は彼を無視するように下を向いて端末を操作していた。
三木尾善人は必死に言う。
「ああ、いや。違うぞ、あんたは綺麗だ。別に体形の事を言った訳じゃない。ええと、あれだ、人間は大人っぽい方がいいんだ。常に上を目指さないと、人は成長しないからな。俺がガキの頃に見た特撮ヒーローやマンガの主人公は、みんな老けていた。オジサンか、お兄さんだ。ところが、近頃のマンガは、主人公の設定も見た目もガキばかりだろ。あれはどうかと思うね。子供が子供に憧れていたら、いつまでも成長は……。ああ、いや、違うんだ。別にあんたが老けているという訳では……」
懸命に弁明しつつも自壊していく三木尾の話を聞きながら、西田真希は必死に笑いを堪えていた。下を向いたまま肩を小刻みに震わせる。
三木尾善人は横を向き、軽く咳払いをしてから、話を続けた。
「とにかく、俺も、その先生と同じで、いくら田爪の奴がマッドサイエンティストかサイコ野郎だと言っても、研究成果だと偽ってガセネタをぶっ込んでくるような奴じゃないと思っているんだ」
顔を上げた西田真希が真顔で言った。
「すると、何者かがデータを改ざんしたと?」
こちらを向いた三木尾善人は、真剣な顔で頷いた。
「ああ。たぶんな」
そして、右の肘掛に体重を掛けながら言った。
「ただ、問題なのは、例のドライブが一時、司時空庁に保管されていたって事さ」
「改ざんの嫌疑が政府にかかるという事ですか?」
「いや、それもあるが、本筋はもっと深刻だ。軍は現行憲法下で、日本の領土に属さない島に在ったASKITの拠点を先制攻撃した。それが出来たのは、そこで日本に向けて出発する準備をしていた奴らの私設軍隊が量子銃を装備していて、それが核兵器や化学兵器以上の脅威だったからだろ。まさに、『今そこにある危機』ってヤツだ。今の日本の憲法では、その場合に限り、敵基地への先制攻撃が認められている。だから、攻撃は法治国家として正当なものだ、という事になる。ところが、その量子銃が実際には使えない武器だったとなると、話が変わってくる。奇妙な形の銃を持っていたり、戦車の砲筒を外して馬鹿デカイ玩具を乗っけてたって事だけで先制攻撃の理由になるかってことさ。ならないだろ、それだけじゃ。客観的に危険が迫っていない。ま、俺たちの世界でいう『不能犯』の議論に似た話だな。玩具の銃を他人に向けても、客観的に危険性がない以上、処罰対象とはならない。ASKITの私設軍隊も確かに立派な軍隊だったから通常兵器は装備していたし、どの武器も最新式だった。だが、そんな事は世界中のどこの国の軍隊にもあてはまる。国家が先制攻撃を仕掛けることを正当化するほどの事情じゃない。つまり……」
西田真希は深刻な顔に変わり、三木尾に確認した。
「つまり、辛島総理は、客観的には通常以上の危険性が無かった軍隊、しかも日本領海外の島に駐屯していただけの私設の軍隊を、自国の軍を使って先制攻撃してしまった事になる。そういう事ですね」
三木尾善人は首を縦に振る。
「そうだ。もしそうなら、原則的に専守防衛を謳っている現行憲法に違反する疑いがある訳だが、誤想防衛なら別だ。事実の錯誤だからな。どうも当のASKITの奴らも、あの量子銃は使えるモノだと思い込んでいたようだから、使えないモノだという事を日本政府が知らなかったとしても、不思議じゃない。ま、という理屈で、チョンボも無しに出来るはずだった」
「しかし、司時空庁でドライブが一時的に保管されていたとなると、そういった言い逃れは出来なくなりますね。使えないデータだと知っていたはずだと」
三木尾善人は、左手を横に振りながら言った。
「言い逃れどころか、さっきアンタが言ったように、政府が真正なデータを抜き取って、バッタモンをASKIT渡したんだと、つまり、危険をでっち上げて先制攻撃したと言い出す国が現れるかもしれん」
西田真希が右手で髪をかき上げながら、眉間に皺を寄せて言った。
「特にアジア周辺諸国からの批判が多く出るでしょうね。旧自衛隊から、防災隊として災害救助部門を分離させた現状では、ただでさえ国防軍はアジア諸国から危険視されていますから。彼らが非難の的になるのは必至でしょうね。更には、せっかくの憲法改正そのものが、諸外国から糾弾されるかもしれない。それが正当か不当かは別として、世界中から外交上の圧力がかかる事は確かですね」
三木尾善人は顰めた顔を横に振った。
「そんなものなら、まだいいぜ。日本政府が量子銃の設計データやら、量子エネルギーを無尽蔵に造れる循環式プラントの設計データやらを隠し持っていると、国際的に誤解されてみろ。日本が『危ない国』ランキングのトップになっちまうじゃねえか。こっそりと核ミサイルを保有している国は、当然、日本に照準を合わせるだろうし、テロの標的にもなりかねん。いやいや、下手をすりゃ、近隣国から先制攻撃されちまうかもしれんぞ。日本がASKITにやったみたいにな」
西田真希は付け加えた。
「それに、貿易や条約などの国際交渉の場では、保有してもいないデータの提出を交換条件にされてしまうかもしれません。そうなれば、国際交渉の場で日本は圧倒的に不利になります」
三木尾善人は深く頷いた。
「ま、総理が責任を問われるのは、確かだわな。――ははあ。だから、俺とアンタを会わせたんだよ。総理は、アンタや俺に田爪を探せと言っているんだ。奴に証言させたい訳だ。政府の不可抗力と真正データの不保持を証明させたいんだよ。辛島総理としては」
三木尾善人は顎を触りながら、一人で頷いていた。
西田真希は膝の上の端末を再び操作し始めた。アイコンを表示している「接触式ホログラフィー」の反応が少し鈍い。彼女は首を傾げてから手を止め、三木尾に顔を向けると、彼に言った。
「どうも、判然としない点が多いですよね、今回のこの事件」
三木尾善人は横を向いて答えた。
「ああ。でも、世の中の事件なんぞ、どれもそんなものさ。俺たち
「……」
西田真希は三木尾の横顔を見た。そこには老練の刑事の横顔があった。再びこちらを向いた彼は、西田の目を見て言う。
「とにかく気をつけな。この一件は、まだ何か裏があるぜ」
西田真希は真剣な顔で頷いた。
八
三木尾善人は片笑みながら言った。
「どうやら、お互い、上の連中が思っている以上に厄介なヤマを宛がわれたみたいだな」
「ええ。そうみたいですね。各国との調整も慎重に進めないと……」
そう言った西田真希は、右手で膝の上の端末を操作しながら、左手でペンダントの貝殻のロケットを触っていた。
「恋人かい?」
三木尾の声にハッとした西田真希は、再び三木尾の顔を見た。すると、三木尾が笑顔で、西田が触っていたネックレスのロケットを指差した。
西田真希は答えた。
「ああ……。いえ、娘です」
彼女は貝殻の形をしたロケットの蓋を開けて、そこの小さなレンズからホログラフィー画像を自分の顔の前に投影させて見せた。西田の小さな顔の前には、ピンク色の水玉模様のワンピースを着た幼児の半透明の立体画像が、愛らしい笑顔を見せながら、小さく飛び跳ねたり手を振ったりしていた。三木尾善人は席から立ち上がると、歩いてきて、西田の隣の席に移り、そこに軽く腰掛けて、その電子ロケットが投影する小さな立体画像を覗き込んだ。
彼は西田に尋ねた。
「名前は?」
「
「なるほど。あんたの真希の『希』の字と合わせて、『希望』って訳か。いい名前だ」
「さすが刑事さんですね」
「幾つなんだ?」
「来月で三歳になります」
「かわいい盛りだな。ちょうど手が掛かって大変だろうが……」
西田真希は、ロケットの蓋を閉じた。空中で笑っていた幼女の立体動画が霧のように消えた。
三木尾善人は腰を上げると、元の西田の向かい側の席に戻り、今度は腰を押さえて、ゆっくりと座りながら言った。
「今、どうしてるんだ?」
「実家の両親に預けています」
「ご主人は?」
西田真希は視線を逸らして答えた。
「米軍の空軍士官でした。離婚したんです。それで、娘と二人で帰省していて……」
「そうかい。安保条約の解消って訳か。――いや、立ち入った事を聞いて悪かった。刑事の職業病だな、こりゃ」
三木尾善人は、ピシャピシャと自分の額を叩いて、西田にまた謝罪した。西田真希も三木尾をまた宥恕した。
「いいえ。構いません。事実ですから。前の夫とは防災隊で知り合ったんです。でも、家庭では別人で……」
「防災隊? 珍しいな、若いのに。俺の世代ならともかく、西田さんは、強制的な『徴員制度』が廃止された後の世代だろ? 志願したのか?」
西田真希は首を横に振った。離婚の事をいろいろと尋ねられるのには慣れていたが、彼女にも思い出したくないことはあった。
西田真希は、あえて三木尾に問い返した。
「警部も防災隊に? 徴員されたのですか?」
三木尾善人は視線を西田から逸らして答える。
「いやいや。もう歳がいってたからな。お呼びはかからなかったよ。だから、志願隊員さ。当時は司法浪人していてな、頭下げて何とか入れてもらえたんだ。しかし、あんたの歳だと、非現業公務員の採用には一定期間の他業種での就業経験が義務付けられた頃だろ? 警察の採用ならともかく、外務省は、前職が防災隊でも認めてくれたのか?」
西田真希は顔の前で手を振りながら言った。
「あ、いえ、私は、看護師だったんです。以前は民間の病院で」
三木尾善人は目を丸くした。
「へえ。そうなのか。どおりで細やかに気が利くし、優しい訳だ。その上、美人で語学も堪能か。田舎に戻ったところに、外務省からわざわざ白羽の矢が立てられたところを見ると、おぬし相当できるの」
三木尾善人は、わざと侍口調で大げさに振舞ってみせた。西田真希が三木尾に対して少しだけ笑顔を見せると、三木尾も笑って応え、そのまま黙った。
暫らくして、彼はまた尋ねてきた。
「じゃあ、防災隊には、救命訓練か何かで?」
西田真希は頷く。
「ええ。職場から臨時隊員としての訓練に行かされた事があって、その時にいろいろと。オスプレイにも随分と乗らされました。勿論、すべて訓練ですけど」
「だから、これにも慣れているのか」
「ええ、まあ。――でも、乗っていたのは、こんなVIP仕様の豪勢な機体ではありません。緊急救命処置用の救急オスプレイでした。昔のドクターヘリの様なものです。配線やら機械などが剥き出しで、もっとゴチャゴチャしてましたし、音もすごかったですね。とにかく、後部ランプを開けたままで作業する事が多かったので、アイドリングで回す外のプロペラの音がすごくて。勿論、護衛用のロボットなんて積んでいませんでしたから、中はもっと広かったですけど」
西田真希は座っていた席から、リムジン・オスプレイの後方に眼を向けた。三木尾善人も顔を向ける。
貴賓席との隔壁に設けられた大きな窓と、その出入り口の強化ガラス製の自動ドアから二体の護衛用ロボットの背中と、その向こうの虹色の薄い光が見えていた。彼らは、隔壁の向こうの格納スペースの左右に一本ずつ立てられた金属製のシャフトに、それぞれ一体ずつ、ピンと伸ばした背中を固定していて、両腕に着けられた回転式の六本の砲筒の先を床に降ろし、両足の各関節を人間のそれとは逆の方向に曲げて、不自然な体勢で正座していた。音も気配も無く静かに待機する彼らは、両肩に大振りの弾倉を担いでいて、その間の小さな頭部には、束ねられた棒状の視覚センサーが顔の中央から前に突き出ている。彼らの『目』となるそのセンサーの一本一本は、先端をそれぞれ別々の色に点滅させながら、不規則に出たり引っ込んだりしていて、それらが顔の先端に虹色の光源を作り出していた。
彼ら護衛用の戦闘ロボットの任務は、乗員の乗り降りの際の護衛と、飛行中に敵の攻撃を受けた際の迎撃支援である。しかし、オスプレイに搭載される戦闘ロボットは一般的に、戦闘の最中に離陸するオスプレイの安全を確保するために地表で敵を迎撃し続けて防衛線を維持し、そのまま、その現場に放棄される事が多かった。つまり、彼らは身を賭して乗員と機体を護る有能な兵士であると同時に、「使い捨ての兵器」でもあった。
ロボットを見つめていた西田の耳に、三木尾警部の発した小さな独り言が届いた。
「使い捨ての刑事を使い捨てのロボットが護衛しても、結局まとめて使い捨てじゃねえかよ……」
西田真希は三木尾に視線を戻した。退職前のその刑事は静かにロボットを見つめている。
彼女は、悲哀に満ちた彼のその横顔をじっと見つめた。
深く溜め息を吐いた三木尾善人警部は、こちらを向くと、笑顔を作って言った。
「じゃあ、俺たちはVIPなんだな?」
西田真希は少し大袈裟に胸を張って見せて、三木尾に元気よく答えてあげた。
「はい。一応は警部も私も、日本政府からの特使扱いですから。当然、VIPです」
彼女はツンと澄ましてポーズをとる。
三木尾善人は、声をあげて笑った。西田真希も一緒に笑った。隔壁の外で静かに項垂れる二体の護衛ロボットが、まるで二人の笑いに呼応するかのように、プロペラエンジンの振動に、大きく角ばった肩をカタカタと揺らしていた。
九
西田真希は薄型端末の手前に浮かべたホログラフィー・キーボードの上で指を動かしていたが、やはり接触式ホログラフィーの反応が鈍いので、一旦作業を中止した。彼女は調子が悪いその端末を肘掛けの横に立てると、まだ後方のロボットの方に顔を向けている三木尾に話し掛けた。
「ところで、警部は、お子さんは?」
「あ?」
こちらを向いた三木尾善人警部は、左右の肘掛けに両腕を載せて、少し息を漏らしてから言った。
「三十過ぎたばかりの息子と二十九になる娘がいるよ。息子は民間で会社員をやっているが、これから公務員を目指すそうだ。親にしてみりゃ、もっとマシな仕事を目指してくれよって感じだな」
西田真希は顔を前に出して言った。
「数年後は、立派な刑事さんかもしれませんよ」
苦笑しながら何度も大きく首を横に振る三木尾に対して、西田真希が再度尋ねた。
「お嬢さんの方は?」
「こっちはまだ大学の四年生。就職先の化粧品会社から金を出してもらって行っているが、ちゃんと四年で卒業できるのかね。勉学は必死にやっているようだが、それ以外も必死みたいでな、困ったもんだ。国が、大学の受験資格に就業体験を必須化した趣旨をちゃんと理解しているのかね。まったく……」
ブツブツと娘への愚痴と心配事を口にする父親の姿に、西田真希は自分の父親を重ねて、クスリと笑った。それを見て憮然とする三木尾に、西田真希は笑顔で言った。
「将来が楽しみですね。お父さん」
三木尾善人は、軽く西田を指差して言った。
「あんたの娘さんだって、あっという間だぞ。すぐに言うこと聞かなくなる」
西田真希は一瞬表情を曇らせた。
三木尾善人は鋭い目つきで尋ねてくる。
「どうした。さっきから、娘さんの事になると浮かない顔して」
暫く横を向いて考えていた西田真希は、三木尾に顔を向けると、不安に満ちた母親の真剣な眼差しで答えた。
「実は、今後、日本で暮らすべきか迷っているんです」
「あん? 帰らないつもりか。望ちゃんだっけ。彼女はどうなるんだよ」
「いえ、望も一緒にです。二人で、海外で暮らそうかと……」
西田真希は、なぜかその時、三木尾に悩みを打ち明けようと思った。特に答えを求めていたわけでない。ただ、目の前の老齢の刑事に聞いて欲しかった。
「実は、来春の人事で、シンガポールのポストが一つ空くんです。そこに転属させてもらおうかと思っていて……」
「どうして。望ちゃんがハーフだからか?」
「ええ……まあ、それもあります。日本の教育界からイジメや偏見が無くなる事は期待できませんし。でも、それ以上に、不安なんです」
「何が」
「この国で……日本で、娘を育てる事が、本当にこの子のためにいい事なんだろうかと考えてしまって。私、この仕事に就いて、いろいろなモノを見てきました。国内の実情や国際社会での日本の立場を」
西田真希は、これまで自分が見てきた様々な現実を記憶として巡らせながら、事実を述べた。
「財政赤字は一向に解消されず増加するばかり、福祉政策は失敗で破綻していますし、教育改革はようやく試行錯誤を始めたけれど、ほとんど期待できない」
三木尾が腕組みをしたまま黙って聞いていてくれたので、西田真希は堰を切ったように、彼女の中に溜まった不満と迷いを吐き出した。
「実は、望を生んですぐ、育児休暇を取って田舎の実家に帰省していたんですけれど、そこで地方の田舎町の住み難さを痛感しました。インフラだけを整えても、人の意識を変えていかないと……。自分が子供の頃に育った時より、もっと住み難くなっている気がして。だから、こんな国で望を育てる事が、本当に親の責任なのかと考えてしまって。私の場合、比較的容易に海外で生活できる訳ですから、娘のために出来る事は、母親として実行するべきなんじゃないか、その方が、望のためには幸せなんじゃないか、そう思えてならないんです。それに、日本の治安も、良いのは数字だけで、実際には決して良くなっているとは言えませんし……」
視線を床に落として話していたが、三木尾が相槌一つ打たないので、彼女は顔を上げた。
三木尾善人は鷹のような厳しい眼で西田を見ていた。
「そうかい……。それは、悪かったな」
彼は腕組みをしたまま下を向いて、そう一言だけ、溢すように言った。
西田真希は慌てて手を振った。
「あ、いえ、そんなつもりで言ったんじゃありません」
自らの発言内容を瞬時に反芻した彼女は、自分が警察を批判するかのような発言をしていたことに気付き、陳謝した。
「すみません。でも、誰かに相談したくて……ごめんなさい」
西田真希は頭を下げた。
三木尾善人は下を向いて考えていたが、やがて静かに口を開く。
「若者にそんな思いをさせる社会をつくった俺たちの世代の責任だな。謝るよ」
「そんな。頭を上げてください。警部。私こそ私的な事で誤解のある発言をつい……。申し訳ありませんでした」
三木尾善人は、組んでいた手を解き、また軽く両膝を一度叩いて深く溜め息を吐くと、ゆっくりと話し始めた。
「しかし、確かに考えてみりゃ、あんたの言うとおりだ。この四十年で根本から変わった事と言えば、労働システムくらいのものだからな。本来なら、俺たちの世代がもっとしっかりしてりゃ、世の中を変えられたはずだ。そのツケをあんたらの世代に回しちまった訳だ。俺たちの親の世代と同じ事をしていると言われても、否定のしようがないな」
リムジン・オスプレイの客室内に暫く沈黙が流れた。西田真希は、その鉛のような空気を押し退けるように、三木尾に問いかけた。
「あの……失礼ですが、警部は、六十三歳でいらっしゃいますよね」
「じきに六十四だ。あと少しで定年。お払い箱さ」
「私の両親と同世代ですね。話には聞いています。『団塊ジュニア世代』ですよね。あるいは第二次……」
「第二次ベビーブーム。今じゃ、『失われた二十年世代』とも言われるな。好景気と経済復興の谷間で集団漂流した世代さ。団塊世代の哀れな子供たちって奴よ」
三木尾善人は、皺を寄せた自分の鼻の先を左手の親指で指した。
西田真希は続けた。
「大変な時代に人生の礎を作る大切な時期が重なったと、父がよく言っています」
「ああ。だがな、俺たちの世代が、人工統計上は多数を占めている事も事実なんだ。だから、俺たちが本気で世の中を変えようと思えば、変えられたはずさ。社会事情は言い訳にはならんよ」
三木尾善人は、上着の毛玉を取りながら語り続けた。
「一定の就業期間と経験がなければ大学には行けません。学費は企業奨学金と連携します。俺たちの世代で変えた事と言えば、これくらいだ。まあ、それも本音を言えば、自分たちの子供が大学に行く時に金が掛からないようにしたかったからなんだが、学生は、自分で働いて貯めた金で大学行くか、企業から学費を払ってもらって企業の必要に応じた知識を得るかのどちらかだから、まじめに勉強はするようになったけどな」
「でも、その制度が確立したおかげで、結果として、公務員の民間からの登用の途が開けました。私がこの職に就けたのも、そのお蔭です。それに、失業者も激減して民間経済も好転しましたし……私たちの世代がスムーズに社会に出て行けて、その後も生活していけたのは、警部たちの世代が社会基盤を整えていてくれたからです。それには本当に感謝しています」
「だが、その他のことは全部が頓挫だろ。福祉改正、全医師の公務員化、防災隊の徴員制による災害時即応能力の国民的修得、教職員の総入れ替え、新司法制度の創設……どれも途中でパーだ」
三木尾善人は折っていた左手の指を全て広げた。そのまま項垂れるように視線を床に落とした三木尾に対して、西田真希が言った。
「ええ。でも、それは仕方がない事かもしれません。政治には影で大きな力が働く時があります。民主主義なんて、政府が我々国民を穏便に統治するための空世辞ですから」
「ああ。分かってるさ。でも、それはいい事じゃねえな」
三木尾善人は上着の表面を手で払うと、再びシートに凭れて足を組んだ。腕組みもした彼は、天井のシャンデリアを見ながら言った。
「俺はこう思うんだ。まず、この国は……ああ、ここじゃあ、『あの国』だな……まあ、とにかく日本は、自由の国だろ?」
西田真希は頷いた。
三木尾善人は続ける。
「だから、国民にはいろいろな考え方や価値観があっていい」
「ええ」
再び頷いた西田に、三木尾善人は語り続けた。
「という事はだ、国民の間にはさまざまな主張の違いがある事が前提だ。社会観やら利害関係やら、置かれている立場やら、いろいろな事に起因した主張の違いがある」
「そうですね」
「それが集約されているのが政党や各種圧力団体だ。そんで、その違いを調整するのが議会。そうだろ?」
「ええ、まあ……」
「それをだよ、多数決でズドンじゃ、少数派はいつも我慢しなきゃならん。これって、自由の国か?」
西田真希は彼の発言の意図を汲みかねて、困惑した。
「そこでだ、少数派の意見も少しは実現できるよう取り計らう必要がある。じゃあ、議会は何のためにあるのか」
「……」
三木尾善人は組んでいた足を解いて、地に両足を着いてから、主張を続けた。
「結論から言えば、他者の意見を聞く場だな。自分たちと違う立場の意見を聞く場。そして、その違いを上手く乗り越えていくための知恵を出し合って、互いに譲歩して、皆が納得できる妥協策を
「多数決は無意味だという事ですか?」
「そうは言ってない。そりゃ、どうしても決まらない時は、ガチで多数決によって決めるしかねえさ。まあ、最終手段だな。でもよ、最初から数の論理ってのは、どうかね。まずは話し合って、譲歩しあって、選挙民を説得して、真の妥協のためにできるだけ満場一致を目指す。一番いい解決方法を探る。それをしないで数だけで強行していけば、少しでも少数の者たちはいつも我慢だ。そんな事をずっとやっていると、やがて不満を溜めた人間が集って、ここの連中みたいに反政府組織ができちまう」
「議員の仕事は、支援者に妥協の説得をする事だと」
三木尾善人は腕組みしたまま一度項垂れるように下を向くと、再び顔を上げて答えた。
「うん。まあ、それもあるな。少なくとも、自分に票を入れてくれて有り難うではダメだわな。指導者とは言えない。俺たちは選挙で自分たちの指導者を選んでいるんだろ。統治する人間を選んでいる訳だ。お任せする人たちを。だって、清き一票が政治を決めるって言っても、俺たちみたいな国政の素人に何が決められて、何が判断できるんだ。この事件でもそうだが、こうして公に出来ない様々な情報を吟味して、今と未来を深謀遠慮して決断せにゃならん。そんな事、現場にいる俺たちにも分からないじゃねえか」
三木尾善人は背もたれから体を離すと、大きく開いた両膝を再度軽く叩いてから、言った。
「だからよ、託すしかないんだよ。誰かに。問題は、誰に託し、誰についていくか、そうだろ? そう言えばいいんだよ。最初っから。つまり、選挙で社会を変えるって事は、社会を変える立場の人間たちを、ちゃんと正しい方向に変えてくれるよう託すことができる人間たちに変えるって事なんだな」
そして、今度は短い顎鬚を触りながら、機体の後方を見て言った。
「まあ、俺はいつも、そういう認識で投票している訳だが、こういう微妙な関係の中にだ、そんな事はお構いなしで、金と権力と武力で物事を自分たちの思う方向に推し進める奴らがいるとすれば、俺は、そんな奴らは許せねえ」
西田真希は、三木尾の視線の先にある護衛ロボットの背中を、隔壁のガラス越しに見つめながら、三木尾に尋ねた。
「ASKITの事ですか。それとも、その他の人たち」
三木尾善人は西田に顔を向けて、ニヤリとしながら答えた。
「複数形とは限らねえな」
西田真希は再び眉間に皺を寄せて、怪訝な顔をしてしまったが、暫くして三木尾に確認した。
「いずれにせよ。警部は外交問題とは関係なく、この件を動かれると。そういう事なのですか?」
三木尾善人は、また隔壁の後ろのロボットに目を遣りながら、答えた。
「俺は俺の正義で動く。まあ、最後くらいは貫かねえとなあ」
「警部の正義とは、何なのですか」
そう西田に切り返された三木尾善人は、暫く考えていたが、右の膝を一度強く叩くと、西田の目を見て答えた。
「法さ。例えば法律……まあ、これは当たり前だが、あとは、社会のルール、この世の掟だな。つまり、『法』さ。法を守ること。いや、守らせること。――俺は警察官だ。政治屋じゃない」
「……」
西田真希は、考えた。
この老巧な刑事は何を言わんとしているのか。何を隠しているのか。田爪健三の事か。自分の事か。信頼できるのか。自分の周りの役人たちのように単に危険を避ける事ばかりに執着して本質を見失う人間ではないはずだ。それに、法を重んじる鉄石の心も持ち合わせている。篤実でもある。望の事を相談したが、その事で、今ここに居る目的を忘れる事はない。だから信頼はできる。何かを諄諄と説いてくれているのだろうか。何を……。
三木尾善人は再び話し始めた。
「だけどよ。政治屋にしちゃあ、あの辛島って総理大臣はよくやっていると思うぜ。今回のASKITへの攻撃にしても、タイムトラベル事業の無期限停止にしても、その後の政界の廓清にしても、普通の政治家には出来ないんじゃないかね。英断だよ。英断。今度の学校改革も応援してるぜ。俺は」
三木尾善人は片方の眉をくんと上げた。
西田真希は咄嗟に答えた。
「例の、新しい学校を全国の既存の学校に重複して設置して、旧制度の学校と新制度の学校のいずれかを国民に選択させるというやつですか。上手く行くのでしょうか」
「上手く行かせるんだよ。俺たち国民が。前回の全国教職員総入替の政策は、教員新労組が猛反対して、結局おじゃんになった。だが、今度の場合は、そうはいかない。だって、別個の雇用主体だからな。それに、新しい学校では、新システムの下で一般社会人の経験を積んでから大学に行った人間しか教師として採用しない。しかも、教員免許に一般公務員資格を付加する一方で、教員採用を一定年限の短期任用としたから、先生たちは、生活は経済的に安定したまま、教壇に立つ期間と事務職や営業、農業、建築業、医療、研究機関、その他いろいろな職場との間を、それぞれ、行ったり来たりする事になる。別に実学を教えるわけじゃない。ただ、本来、教師ってのは、これから社会に出ようって子供たちを育成する職業だろ。だったら、世間を肌で経験した人間じゃないと務まらんよ」
「今の学校にも、いい先生は居ると思いますが」
「もちろん居る。間違いなく、居るさ。でも、悪い教師も居る。たくさん居る。これまで、いい先生にばかり眼を向けて、気を使って、緩やかに制度を変えようとしてきたおかげで、いったい何世代の人間が不幸な目にあったと思う。将来、社会に出る子供たちに、社会に出たら必要になるはずの物事を教えてあげられない。それどころか、社会ではやっちゃいかん事を時には教える。教師がやってみせる。そんな時代が続いたお蔭で、今の住みにくい世の中があるとも言えるんじゃないか。学校ってのはよ、ガキのためにあるんだよ。未来の世間のためにあるんだよ。今の教師のためじゃない。それに、ガキたちの成長は待ってくれない。だから、教育改革ってのは、教師に気を使ってのんびりやってちゃダメなんだよ。このまま放っといたら、学校はただの犯罪者養成所になっちまうぜ」
「それはちょっと言い過ぎでは……。私の両親も教師でしたので……」
目を大きくして西田の顔を見た三木尾善人は一瞬だけ固まったが、ばつが悪そうに自らの額を叩きながら、言った。
「おっとコリャ……また失礼した。いや、老い先短い刑事の戯言だと思ってくれ」
西田真希は、少しむきになって加えた。
「それに、辛島総理のやり方は、何か強引過ぎると思います。もし、教師を交代させるのなら、高校の先生たちだけでいいのではないでしょうか」
「あんたのご両親は、どこの先生だったんだ?」
「父が高校教師で、母は小学校の教師でした。その父が現役の頃、『高校の教師は、子供たちが社会に出る前に最後に接する大人だから、模範と指針を示さないといかん』って、よく言っていました。ここに、皺を寄せて」
西田真希は、自分の眉間の辺りを指差した。
「立派な先生じゃないか。他の先生たちが皆、あんたの親父さんのようなら、改革なんて必要ないのだろうがな」
「確かに、現場ではいろいろと大変な事もあったようです。職員間でも」
西田真希は目を伏せて、少し小声でそう言った。
三木尾善人は立てた人差し指を振りながら言う。
「だろ? 結局、現場の人間の質の問題なんだよ。人としての質の。教育も福祉も、問題の根っこは同じさ。俺は、そう思うね」
熱弁する三木尾に、西田真希は何かを言いかけた。
「福祉と言えば……」
「ん? どうした」
「どうして、辛島総理は、福祉施設の国営化に拘るのでしょう」
「んん。たぶん、介護サービスの質を底上げしようとしてるんじゃないか」
三木尾善人は、また腕組みしながら言った。
西田真希は訊き返す。
「質の底上げですか」
「ああ。あんたらは、何もかもが民営化されている時代に生まれたから知らんかもしれないが、俺たちがガキの頃は、電話も郵便も鉄道も、みんな国営企業だった。水だって自治体が管理していた。民営化されたどれも、品質は世界一だろ。電話の技術にしても、郵便到達の確実性にしても、鉄道の正確さ、水の清潔さにしても、どれも世界一を誇るレベルだ。大方の国民は、これに満足している。これら、元はすべて国営さ。鉄鋼も、自動車も、飛行機も、世界でトップを走る分野の大抵は、最初は国営企業だ。国が模範となる事業をして、最低ラインを作り上げてから民間に開放すれば、サービスや安全性、効率などが、民営化後に悪くなる事はない。利用する側の国民も、これで当たり前っていうラインが意識の中に既にできているし、新規参入した民間企業がそれ以下の事をしても、誰も利用しないからな。まあ、明治初期や太平洋戦争後の復興期に始まった事業は、違った意味での意地とプライドみたいなものが役人の側にもあったから、素晴らしいものになったのだろうが、どっちにせよ、税金を投じて国がやる以上は、適当って訳にはいかねえ。選挙民から文句が出るからよ。だから、とりあえずは最上のものを目指す。この目指すってのが大事なんだと思うぜ」
三木尾の暴論に振り回される事なく、西田真希は冷静に確認した。
「民間は最上の品質を目指さないとおっしゃるのですか」
「だってそうだろうが。口先では社会貢献だの、より良い品質を目指しているだのと言ってるが、あいつら株式会社だぜ、大抵。社会福祉法人が運営している所もあるが、現実には本質的に同じだよ。利益上げて何ぼの世界じゃねえか。本気で社会貢献したり品質向上に全力を投じているとしたら、株主への背信だろ。株主は配当を待ってんだからよ。だから、あいつらにはいつも『利益率』ていう蓋があるんだよ。上限が。でもよ、物事には利益を度外視して、最低ここまでの事は必要ってラインがあるだろうよ。何でも。それを見つけて、守れるかってのが、ここの問題なんだよ」
三木尾善人は、強く自分の胸部を拳で叩いてみせた。そしてまた、語り続けた。
「いいか。別に俺は差別する訳じゃねえがな。昔々の江戸時代に、日本に身分制度が在った頃だ、『士農工商』って具合に、商売人は末端に置かれたんだよ。身分制度ってのは、その時代の統治システムだろ。上の身分の者が下の身分の者に威張り散らして支配する。この四種の中で最下位に置かれたって事は、それだけ信用されていなかったって事だろ。利益を目指すっていう至上の命題があって、どうして社会貢献が優先されるんだよ。つまりな、流されちまうんだよ、『商』ってやつは。利益を優先する事に。その証拠に、市場の競争原理に任せた福祉の現状を見てみろよ。ネット上で理想を並べ立てている所なんて、まだいい方で、酷いところになると、福祉はビジネスだと豪語してるじゃねえか。ビジネスじゃねえよ、福祉は」
三木尾善人は少し興奮気味に口を尖らして、語り続けた。
「で、実際のところはどうかといえば、介護サービスは最悪、事業所は乱立、働いてる現場の従業員の給料は低い、従業員の質も悪い、制度は複雑、公金は馬鹿食い、挙句の果てには犯罪組織の資金源になっている所もある」
「確かに、それは言えているかもしれませんね。まじめに介護と向かい合っている所もあるのでしょうけれど、結局、そういうところに全ての負担が集中してしまって、経営破綻に追い込まれてしまう」
「そう。誠実な経営者が、介護方法について少しでも従業員に注意すれば、その従業員は、はい、さようなら。別の職場へ乗り換えさ。そんな奴らが集まるところは、要介護者のことより従業員の機嫌をとってばかりだから、待遇はいい。それでまた、同類が集まってくる。そうやって、規模が大きくなって、限られた市場で幅を利かす。誠実な経営をしている所は、どんどん隅に追いやられて、最終的には潰れていく。これが二〇三八年現在の現実だろ。当の要介護者は、どうなっているんだよ。涙を流して有り難うなんて言っているのは、テレビカメラの前のほんの一部の人間だけじゃねえか。医療にしても同じさ。医療も介護も、市場原理に任せますっていうのは虚言で、実際は全くと言っていいほど市場原理なんぞ働かねえ。だって、具合の悪い人間には選べねえもんな。ほとんどの人間が、文句も不満も言えないまま、死んじまったり、事理弁識能力を喪失しちまう。人生の最後で、もしくは最も苦しい時に、国が保障したはずの最大の権利を奪われちまっている。いったい、誰のための福祉制度か判ったもんじゃない」
三木尾善人は、軽く深呼吸して自らを落ち着かせると、また西田の方を見た。
西田真希は少し考えていたが、反論は無かったので、三木尾に確認をした。
「だから、辛島総理は、全ての福祉事業を国営のみにして、一度、サービスの質を統一的に上げようとしているのですね。つまり、最低ラインを底上げしようとしている」
三木尾善人は、また人差し指で軽く西田を指して、言った。
「そうよ。ま、退職後にお袋と嫁さんの実家の両親の介護が待っている俺としては、ありがたい話だな。それに、だいたい、初めから民間の自由に任せて、すばらしいモノができるくらいなら、例えば交通規則はいらねえし、俺たち警察だって、もっと暇になるだろうが。今の人間は、誰も見てなけりゃ、悪事を働く。しかも、おっかねえ事に、大抵の場合は自分でも悪事を働いた事に気付いてない。もし外部から指摘されても、それが何故悪い事なのか心底は解からない。それが現状だ。困ったもんだな」
三木尾善人は下を向いて、また腕組みをした。
西田真希は透かさず質問する。
「でも、民業圧迫を根拠にした強い反対意見があるみたいですけれど、それでも実行できるのでしょうか」
三木尾善人は険しい顔を上げた。
「そんなのは、現場の職員じゃなくて、経営者たちが言っているんだろ? 現場の職員は新しくできる国立の事業所で吸収して、再教育すればいい。国が最初に良質なモデルを示して、ハイレベルなスタンダードラインを引けば、後から民間に開放しても、サービスがそれ以下に堕ちる事は無いんだよ。例えば、日本の鉄道を考えてみろ。世界最高水準のレベルじゃないか。来日した外国人が皆、驚くほどの正確さだ。でも俺たち日本人は、あれが当たり前だと思っている。国営だった頃に高水準のスタンダードラインが引かれたからさ。民営化されても、そのラインを下げる訳にはいかない。だから正確さは保たれた。一方で福祉は、人の生死に関わる問題なんだぞ。きちんとした水準の最低ラインを引かないといけない。それは、公の責任だろうが。公の」
一人で憤る三木尾に、西田真希は困惑しつつ、さらに疑問を投げ掛けた。
「でも、野党も指摘していますが、財源はどうするつもりなのかしら。この赤字財政の中で、辛島総理はタイムトラベル事業の無期限の停止を宣言されましたし、量子エネルギープラントも実用可能性の無いものだとすると、活路を見出すことができないのではないでしょうか。政策的に、随分と稚拙というか、浅はかな気が……」
「西田さん。あんたも外務省の役人だろうが。発言には注意した方がいいぜ。外務省も警察庁も
三木尾善人は目を細めて小声でそう言うと、固まった西田に手を振って、大声で言い足した。
「冗談だよ。だが、辛島総理には、ちゃんと心算があるみたいだぜ」
「と、言いますと……」
「実はな、ちょいと小耳に挟んだ裏情報なんだが、どうも今の辛島政権は、あのスーパーコンピューターの
「生体型アンドロイド?」
「そう。なんでも、自己修復機能を備えた生きた人型ロボットだそうだ。いわゆるヒューマノイドロボットってやつだ。人間ソックリらしいぜ」
「ヒューマノイドロボット……今時、ロボットですか?」
西田真希は、自動ドアのガラスの向こうに見えている護衛ロボットに再び目を遣った。
三木尾善人は、後方で静かに背中を見せているロボットを指差して、言った。
「そうだ。もともとロボット技術は日本のお家芸だからな。現実的な二足歩行ロボットを世に初めて出したのも、日本だし」
「え? そうなんですか?」
二〇〇〇年生まれの西田真希は、目を丸くした。
三木尾善人は片笑みながら頷く。
「そうだよ。俺たちが学生だった頃は、向こう五十年はロボットの二足歩行なんて不可能だなんて言われてたんだぞ。それが、俺が大学を卒業する頃だったかな、民間の自動車会社が作ってみせたんだよ。その後は一時、ロボット業界は日本の独壇場よ」
「へえ。知りませんでした。そう言われれば、確かに子供の頃はそうだったような。テレビCMで何度も目にしていたような気がします。膝を曲げて歩く人型ロボット。あれ、日本製だったんですか。でも、今、町で見かけるロボットは、ほとんどが外国製ですよね。どうして、追い抜かれてしまったのです?」
西田真希は目を丸くしたまま、三木尾にそう尋ねた。
三木尾善人は首を振りながら答えた。
「その後がいけなかったんだよ。各企業や大学が、各分野ごとに別々に研究を進めたうえに、技術向上のためや成果披露のために開催されるコンテストや大会では、相変わらず、ロボット同士のサッカーだの、相撲だの、ダンスだのと、どうでもいい種目で競わせていた。今でも、深夜放送で、たまにやってるだろ」
西田真希は少し顔を綻ばせながら、言った。
「ああ、あれですね。『ロボダン』。ロボット・ダンス・コンテスト。娘が好きで、録画して、よく一緒に見ていますけど。二人で踊りながら」
西田真希は肩を上げて、少し振って見せた。
三木尾善人は微笑んでから、話を続けた。
「それで出来上がったのが、高性能のお茶酌みロボットさ。これは知ってるだろ。そして、その後に、あの東北の大震災が起きた。あの時、日本のロボットが、飢えと寒さの中で助けを待つ人々を救助する事も、原発のメルトダウンを防ぐための作業をする事もなかった。勿論、被災者にお茶を届ける事もな」
西田真希は、また後方のロボットに顔を向けて言った。
「防災隊は、まだ探索ロボットや支援アンドロイドは備えてなかったのですか? プロトタイプとか」
「なに言ってんだよ。備えるも何も、世界中にそんなロボットなんて、まだ無かった時代じゃないか。だけどな、日本と今のロボット製造国とでは、その後が全く違ったんだ。あの震災の後も、日本では相変わらず、積み木競争やレスリング大会をやっていたんだが、震災の様子を画面越しに見た諸外国は違った。政府が中心になって、自国内に分散したロボット技術を集約し、具体的な災害現場での人間の救出や、危険で複雑なミッションの達成を競わせる大会を繰り返していた。どの国も、水面下で秘密裏にね。そして、自律型、他律型の、大中小の様々な高性能ロボットを開発していったんだ。政府の主導で。勿論、軍事用もな」
三木尾は、向こうの二体の護衛ロボットを顎で示した。
「で、気がついたら、日本は大きく溝をあけられていたって訳よ。しかも、ほとんどのロボット関連技術の特許はASKITの傘下企業に握られてしまったから、新機種を開発しようにも出来なくなっちまってた。まあ、頑張ったのはストンスロプ社くらいのものだな。ところが、そのASKITは壊滅したし、SAI五KTシステムっていうスパコンまで手に入った。作るんなら、今でしょって感じだろ」
三木尾善人は両肩を上げて、両掌を胸の前に突き出して見せた。
西田真希は子供の頃に流行った仕草を思い出して少し笑った。そして、また三木尾に質問した。
「でも、これから日本がロボット市場に参入するとなると、かなりリスクが高いのではないでしょうか。市場のほとんどは、欧米と東南アジアの企業に支配されていますから」
「いやいや。わかんねえぞ。完全な自己修復型なら、それこそ、これまでマシンを投入できなかった危険地帯にも、それを投入できるようになる。だから、市場はまだ残っている。そこにターゲットを絞って、大量生産して売りまくるんだろ。噂だが、現に試作のアンドロイドは完成しているらしいし、大量生産用の工場の建設も始まっているみたいだ。これも噂だが、その工場で残りの失業者を吸収して、輸出収益で経済を好転させて財政赤字の短期償却を狙ってるんだと。SAI五KTシステムの利用事業を拡大させたのも、どうもそういう狙いがあるみたいだぜ」
西田真希は三木尾の説明を聞きながら考えて、再び尋ねた。
「しかし、完全な自己修復型だとすると、ほとんど生物と変わらないですよね。危険性はないのでしょうか」
「ああ。俺も少しばかり気味が悪いとは思うが、全ロボットを、あのSAI五KTシステムで一括制御するらしい。なんせ、アレの出来の良さは、新高速の定速自動車流制御システムで実証済みだからな。ロボット一体一体を個別に同時に管理するくらい、きっと朝飯前だろ」
その答えを聞いて、西田真希は、深刻な表情で胸元のペンダントを触りながら、言った。
「そのSAI五KTシステムなのですが、実は私の方も、ちょっと小耳に挟んだ話があるんです」
西田が沈んだ声でそう言うと、三木尾善人は少し前屈みになって彼女に顔を向けた。
「ん? なんだ」
西田真希は眉をひそめて言う。
「あの生体量子コンピュータ・システムは、どうも怪しいらしいんです」
「怪しい? どこが」
三木尾善人は眉間に皺を寄せて尋ねた。
西田真希も少し前に体を倒して小声で言った。
「量子コンピュータの
「ああ。
「その後、GIESCOから軍がIMUTAを調達して、それをサイバー空間の防衛ラインに実戦配備。続いてNNC社によって売り込まれたバイオ・コンピュータ・
三木尾善人は頷いた後、左手で宙の二箇所を指しながら、西田に尋ねた。
「ああ。知ってるが、同体型と言っても、あの二つは別々の施設内に設置されているじゃないか? 管理も別々なんだろ」
「ええ。二機を『神経ケーブル』という専用回線で接続して、物理的な一体化を実現しています。IMUTAは軍の防衛管理施設に。AB〇一八は現在、政府が管理する旧NNJ社の管理施設に、それぞれ建造されています。大交差点の近くの」
「警視庁ビルからは近いからな。知ってるよ。管理は今、どこがやってるんだ」
「NNC社の日本法人であるNNJ社が倒産処理中ですので、裁判所の管理下で破産管財人が管理者となっていますが、実質的には、管財人から委託を受けた国防軍が管理をしているようです」
三木尾善人は首を傾げた。
「管理って、軍はIMUTAの保守管理をGIESCOにお任せしているんだろ。AB〇一八の管理も、そうなのか」
「現在、調整中だそうです。ストンスロプ社サイドからは、管理の申し出を受けているようですが」
「さっさと渡せと要求されている訳か……。それを国が渋っていると。どうしてなんだ」
「おそらく、この頃何度か起こった停電事故、あれが影響しているのかもしれません」
「ああ。何回か起こったもんな。通信システムトラブルも。それでGIESCOは信用を失っている訳か」
「と言いますか、IMUTAが信頼されていないのかもしれません。軍の内部情報によれば、IMUTAは、ほとんど制御できていないらしいのです」
三木尾善人は顔を顰めた。
「はあん? AB〇一八は何やってるんだよ」
「そのAB〇一八もIMUTAを必死でカバーしているらしいのですけれど、IMUTAの抵抗は相当なものらしいのです。現在も抵抗と調和を交互に繰り返しているそうで、それが、この頃は特に激しいらしく……」
西田の説明を遮るように、三木尾善人が口を挿んだ。
「あらら。なんだ、反抗期のやんちゃ娘って事かい? 年頃なんじゃねえの。そろそろ十歳だし。――ん、十歳?」
三木尾善人は眉間に皺を寄せて、口を止めた。
西田真希が頷いて言う。
「そう。私も気になったんです。もともと、この二機を接続したのも田爪健三と高橋諒一ですし、田爪のここでの処刑が始まったのも、約十年前。そして、彼が行方を晦ましたと同時期に、IMUTAの拒絶反応が強まり出した。これは、ただの偶然ではないような気がして。軍内部でも、田爪のブービートラップなんじゃないかという噂もあるようです」
三木尾善人は、また顎鬚を触りながら言った。
「じゃあ、なおさら急いで田爪の奴をとっ捕まえて、早く修理させねえとな。グズグズしていると、日本のサイバー空間を防衛している六階建てのやんちゃ娘がサイバー空間から家出しちまうぞ。そうなったら、世界中の金融取引が日本市場から一斉に撤退することになっちまうからな。下手すりゃ世界恐慌だ。いや、このタイミングなら、サイバーテロの集中攻撃を受けたり、最悪の場合、第三次世界大戦にだってなりかねない」
西田真希は深刻な顔で頷いて答えると、話を続けた。
「それだけではありません。万一IMUTAが完全にダウンでもしたら、サイバー空間だけでなく、現実空間でも、生活インフラや軍の防衛システムが機能停止するでしょう。警部のおっしゃるとおり、このタイミングでは非常に危険です。もし田爪健三が生きているのなら、IMUTAがAB〇一八にカバーされているうちに彼を見つけないと。現時点で、あの二機の結合メカニズムを理解しているのは、彼しかいませんから」
三木尾善人は項垂れて、溜め息交じりに言った。
「ああーあ。田爪の奴、望ちゃんのためにも早く出てきてくれよ」
「望のために?」
西田真希が怪訝な顔で尋ねると、三木尾善人は西田を軽く指差しながら答えた。
「だってそうだろ。これまでの話をまとめると、要は田爪が生きて見つかれば、日本の経済も、防衛も、国際的立場もいろいろと上手くいくって話だろ? そうなったら、辛島総理の残りの任期も安心だし、そしたら、教育も福祉も、今よりグッと良くなるかもしれないじゃねえか」
そこまで言うと、三木尾善人は座り直して、話を続けた。
「それによ、例のタイムマシン。もしも田爪が生きたまま確保されれば、あのマシンの構造の謎も解けるかもしれないぜ。なんてったって、天才の田爪にしか解らなかった訳だからな。今まで。いや、今でも。もしそれが解明できれば、最低でも瞬間移動マシンとして利用できるかもしれないな。まあ、安全性の問題さえクリアできればの話だが。ただ、そうなれば、世界の移動手段と物流に革命が起きる。宇宙にだって楽に行けるようになるかもしれない。その時に、日本が完全にイニシアティブをとることになるじゃねえか。もしかしたら、辛島総理は、そこまで見越したうえで、俺たちに田爪の確保を期待しているのかもしれないぜ。世の中を良くするために」
三木尾の少々強引な話の展開に、西田真希は少し呆気に取られながらも、どこかで彼の言う事の一理を認めていた。認めたいと思っていた。彼女は、また指先でペンダントのロケットを触りながら、期待と疑念が入り混じった顔で、呟いた。
「だけど、田爪が無事に捕まったとしても、本当に、良くなるのかしら……」
三木尾善人は西田の顔を見据えて言った。
「そうするのが、俺やあんたらのような『公』の人間の仕事じゃねえか。大丈夫。きっと良くなるさ」
「……」
三木尾からの頂門の
三木尾善人は笑顔を作って、今度は優しく語りかけるように、西田に言った。
「戻ってきなよ。日本に。子供はな、親が育った環境と同じような環境で育てるのがいい場合もあるって。あんたが御両親に望ちゃんを預けたって事は、御両親の育て方を、その御両親に育てられたあんた自身が否定していないからだろ? だったら、あんたも御両親があんたにしてくれたのと同じように、望ちゃんを育てたらいい。それは、日本じゃないと十分には出来ないだろ」
「……」
沈黙したまま、ただ床を見つめている西田に、三木尾善人は更に語り続けた。
「俺がガキの頃はよ、競争、競争で息が詰まりそうだった。親の世代がそうだったからな。その代理戦争だ。その上、学校の先生は出てきた点数で子供たちを上の学校に振り分けるだけ。今と同じで、いや、今より酷かったか……。とにかく、一人一人の子供たちが何処でどのように、どの道を歩んでいくべきか明示してくれる先生なんていなかった。まあ、その実力も度胸も無かったんだろうがね」
三木尾善人は再び、自らの失言を気にして、西田に弁解した。
「ああ、いや、俺たちや、あんたの御両親が教わった頃の先生たちの話だよ」
西田の顔を横目で気にしながら、三木尾善人は暴論を振り回し続けた。
「まあ、ともかく……結果はどうなったか。どうしていいか分からない若者あるいは方針の間違いに気付かないままの若者は皆、とりあえずチャンスを求めて都会に行く。人材は都市部に集中して、地方の小都市は意識レベルの退化が進んだ。悪い言い方をすれば、民度の低下だな。そうなると経済的にも発展しないし、田舎の良さも維持できない。緊急時の対応もよくない。死ななくてよかったはずの人が死ぬ。苦しまずに済んだはずの人が苦しむ。悪い奴は捕まらない。そんな町では若者が次の世代をそこで育てる気にならないから、また都会へと出て行く。だから過疎化が急速に進行した。すると、馬鹿な自治体は合併を繰り返し、『地方自治の本旨』を骨抜きにしちまった。それで、割合に応じて住民の意思が行政に反映する事がなくなった。結果、一部の有力者がのさばり、理不尽がまかり通るようになる。少ない住人の間では、陳腐な噂話と稚拙な策応が横行して、まっとうな事を主張する常識人は皆が隅へ追いやられた。だからまた、本当は必要なはずの人材が更に都市部に出て行かざるを得なくなった。そんで、また過疎化が進行。
三木尾善人は、シートに深く腰掛け直した。
「でもな、この国の……日本って国の本質的要素が、地方の田舎町に埋もれているっていうのも真実だ。まあ、刑事として長年悪人を、いや、人間を見てきた俺の確信的な意見だね。だから、都会にいても本質的には同じ。だって田舎から出てきた人間が集っているところだからな。まあ、確かに都会で生まれた奴らもいるが、そいつらも田舎から出てきた親に育てられている。その親も同じ。だから同じ」
三木尾善人は一度手を叩いて、言い放った。
「だから、田舎だろうが都会だろうが、みんなが変わらなきゃダメだ」
「――難しいでしょうね」
西田真希はペンダントを触りながら、ポツリと言った。
三木尾善人がもう一度、右膝を強く右手で叩いて、言った。
「ところがよ、退職したあんたの御両親の世代や、これから退職する俺たちの世代が、社会に戻ってくるんだ。変な言い方だが、これから社会に戻って来るんだよ。しかも大量に。ドバァっとな」
西田真希は、三木尾の顔を見てキョトンとしていた。そんな彼女に構わずに、三木尾善人は話を続けた。
「変わるぜえ。世の中がいろいろと。なんせ、これまでの不満が溜まっている世代だからなあ。後は、どう変わるかだ。俺たち老人が自分たちの歩んできた時代を、これまでにどう見つめてきたか、どれだけ見つめてきたかに懸かっている。これから振り返るんじゃダメだ。今までに、何回振り返ってきたかだ。過去を語らない奴に未来を語る資格はない。俺たちは散々に辛酸を舐めさせられてきたからな。これから次の世代に俺たちと同じ思いをさせる訳にはいかねえだろ。直すべきものは直して、正すところは正して、反省すべき事は反省して、ちゃんと紡いでいかねえとな」
「つむぐ?……」
聞きなれない動詞に、西田真希は首を傾げた。
「そう。社会にはな……世間って言い方をした方が、しっくりくるかな……世間にはな、世代から世代に脈々と受け継がれてきたものがあるんだよ。人間ってのは、それをしっかり受け継いで、切れた部分は縒り直して、汚れた部分は洗濯して、ちゃんと次の世代に引き渡さなきゃいかんのさ。俺たちから、あんたらの世代にな。それは今なんだ。これからの残されたほんの少しの時間でしかできねえんだよ。だが、やらなきゃならん。いくらデジタル記憶で大容量の記録ができるからと言っても、タイムマシンで過去に飛べるようになったと言っても、この『紡ぐ』って作業を人間が止めちまったら、人間の社会は終わりだと思うね。俺は。だから教育改革は大事なんだよ。だから福祉はちゃんとしなきゃいけねえんだ。だから戦争はしちゃいけないし、だから避けられる自然災害は出来るだけ回避する必要があるんだよ。人が死んじまったら、紡いでいけないからな」
再び三木尾善人は笑顔を見せて言った。
「大丈夫。変わってくさ。社会の人間の意識も質も良くなっていく。少しずつな。『影なす雲の上には光る星あり』って、言うだろ?」
「ユゴーですね。でも私は、そんなに楽天的には成れなくて……」
「何言ってんだ。俺たちがこれから遣り残す事や出来ない事を、あんたらにはしっかり引き継いでもらって、俺らの年の頃には、ちゃんと実現してもらわなきゃならないんだぞ。そして、望ちゃんの世代に引き渡してもらわなきゃならん。これは大人の責任だぞ。しかも、あんたは役人じゃないか。何十世代にも渡って紡がれてきた、社会を守るっていう国家の責任の一翼を担ってるんだろ?」
「――はい……」
西田真希は戸惑いながら返した。
三木尾善人は
「よーし。まして、あんたは母親じゃないか。子供は何処ででも、ただ大きくすればいいってもんじゃない。自分が引き継いだ善い事を、同じようにして子供に引き継がせなきゃ。これ、親の責任だぜ。自分の責任を放棄しちゃいかん」
「田爪みたいなこと言いますね」
意識的に口角を上げてそう言った西田に対して、三木尾善人は真顔で答えた。
「あいつは殺人犯だ。俺は刑事。奴とは違うよ」
西田真希は三木尾に対して、一度深く頭を下げて、彼の気を害したことを謝った。
十
西田真希は将来について、少し考え方を変えていた。それまでは帰国を迷っていた彼女であったが、三木尾の話を聞いて、何かほんの少しだけ希望が見えた気がしたからだ。そして、それは同時に、彼女が今回のミッションのために精根尽きるまで動く原動力ともなるような気がしていた。ここへ赴任した当初の彼女は、今回のミッションについて、上層部の期待に適当に応えようとしていた。調査を形式どおりに了し、日本から来た老刑事に引き継いで、帰国後に単純なストーリーの報告書を作り、上司に提出する。そうしようと考えていた。だが、調査の過程でいくつかの矛盾点を発見し、疑問をもった。それは、彼女の習性であった。そして、彼女の前に日本からやってきた退職前の中途採用の刑事は、彼女の予想とはまったく逆に、彼女の習性に正面から応えたのであった。優れた観察力と思考力、行動力で、既に真相に足先を向けていた。それは、彼女が向いている方向と同じであった。だから、西田真希は三木尾に次々と情報を提供してみたのだ。そして今度は、三木尾から情報が欲しいと思った。彼女は、その老刑事の人生に興味を持った。
西田真希は少し声を高くして、三木尾に尋ねた。
「そういえば、警部は、どうして警察に入られたのです? さっき、防災隊にいた時は、たしか……」
「ああ、司法試験の浪人してた。不況の時期と重なってね、大学を卒業した頃に実家の親父が倒れて、営んでた小さな電気工事店が倒産しちまったんだ。それで、ちょうど法学部を出たばかりの俺が頼られてね、就職活動もできないまま暫く奔走してた。まあ、どっちにしても就職氷河期で求人なんて無かったからな。それで、まあ、いろいろあって、弁護士になろうと思った。旧司法試験は、三十歳までのつもりでやっていたんだが、ちょうどその頃に法科大学院ってのが始まってな。知ってるだろ?」
「ええ。今の『ローヤー・プログラム』の前身ですよね」
「いいや、似て非なるものだな。まず何が違うって、全国に無いんだ。ある都道府県には集中してるが、ある県には一校も無い。今のローヤー・プログラムでは、教育部門が全国の国立大学に均等に配置されているだろ。しかも、ネット配信で全国統一教育だ。各大学の学者の追加的解説は別として、基本的に法曹は全国統一の『法律』ってものを扱う職業だから、基本教育が全国統一的に実施されるのは同然のことなんだが、あの当時は驚くべきことに、大学院ごとに教育内容がバラバラだったんだ。信じられないだろ」
西田真希は驚きを隠せなかった。
「そうなんですか。法科大学院は実務教育をするところだったと思ってましたが……」
「そう。実務教育なら、なおさら統一で教育しないとなあ。しかもな、卒業しないと司法試験が受験できないんだぜ。大学院に入ったって、その先に司法試験があるんだ。院生は司法試験対策で大変なのに、身を入れて実務の勉強なんかするかっての」
「その当時でも、国家公務員や地方公務員の法律教育は、全国統一で実施されていたはずですけど、法科大学院ってところは違ったのですか。それじゃ、権力から市民を守れる法曹が育ちませんよね……」
西田真希は、また少し考えてみた。だが、また答えは同じだったので、また彼女は、不可解そうな顔で首を傾けた。
三木尾善人は、しきりに首を傾げる西田を見て、言った。
「司法試験に合格した後で、司法研修所で統一教育って話だったんだが、それも形骸化していたしな。それに、学費も高かった。奨学金の制度はあったんだが、結局は借金だろ。弁護士になった後に、多額の奨学金債務の返済に焦って、悪事をなす弁護士が急増した。国が法科大学院制度を廃止して、ローヤー・プログラムに移行した最大の理由は、実はこれさ。だいたいさ、他県に引っ越してまでロースクールに行く暇な奴や、家族や職場の責任を放り出して自分の夢だか目標だかを追う奴ばかり集めて法曹にしようってのが間違いだったんだよ。あの時代に田爪が行ってたら、みんな消されちまってるぜ。ホントに」
今度は西田真希が真顔で言った。
「それは、笑えませんけど……。でも、何校もある県に住んでる人たちは、違ったんですよね」
「いいや。都市部だけの話さ。その点は、今も同じだが、今と違うのは、大学院ごとに教育内容が違うってことは、結局、大学院のブランドっていうか、ランク付けがされちまったんだよ。あの大学院は司法試験に多数の合格者を輩出しているとか、あっちの大学院は合格後に法律事務所に就職し易いだとか。その後の法曹としての人生にも係わる。どこどこ大学の法科大学院を卒業した先生だってね。だから、大学院のある県に住んでいても、大抵の奴はそこから離れて、他県の自分の行きたい大学院に行ったんだ。有名大学の法科大学院に」
「警部のご実家の地域には、無かったのですか」
「ああ。無かったね。隣の県にはあったが、それで簡単に転居って訳にはいかんだろ。親父の事もあったし、倒産後の処理もあったからな。まあ、俺たちの世代は、みんなそうさ。何かしら背負っていた。親の世代がとっ散らかしたバブル景気の後始末をさせられたって訳さ。多いぜ、そういうの。俺たちの世代には。ある同級生は、大手の銀行を辞めて帰省して、障害のある親の看病をしていたし、ある奴は、大学卒業すらも諦めて、家業の立て直しに奔走していた。そんなんで二十代があっという間に過ぎて、どうしようかって頃に法科大学院が始まったのさ。ところが、その頃は皆三十前後の歳のいい大人だ。抱えているものの重さが違う。それを簡単に放棄して、大学院に行きますって訳にはいかんだろ。まあ、俺は独り身だったからまだ良い方だったが、それでも色々とな。それに、ちゃんと司法試験の勉強しているってレベルの人間は、この制度のおかしな点を見透かしていた。だから、法科大学院制度なんて、どうせ直ぐに廃止になると思っていたんだ。数字の上でも最初から破綻していたしな。中央の役人や政府の連中が、それに気付いていないはずは無いってな。そう思っていた」
「警部もですか」
三木尾善人は笑いながら答えた。
「ああ。あるテレビ番組で見た授業風景ではよ、『ソクラテス・メソッド』なんて言いながら、講師が学生に頻繁に質問して答えさせていたからな。こりゃダメだと思ったよ。それは逆だろ? 『ソクラテス・メソッド』って言うなら、質問する技術を学生に身に着けさせなけりゃならん訳だろ。そもそも法曹という職種に一番必要な技能じゃないか。相手の話を聞いて、理解して、質問して、答えさせて、その中で相手自身に矛盾や間違いを自覚させる。これが上手く出来る人間が法曹になっていれば、法律に不満を持つ奴は、グッと減ると思うぞ。こういう技術を、教育しないといけないんじゃないか」
「――そう……ですよね。普通……」
西田真希は天井を見ながら、検討した。
弁護士や検事、裁判官の仕事のうち、ほとんどの時間は他人の主張を聞くことであるはずだ。依頼人の話、被疑者の話、訴訟当事者や証人の話。これらを聞いて、事実関係を明らかにしなければ、法律を適用しようが無い。だが、時に人は嘘をつく。隠し事をしたり、間違ったりする。だから、証拠による立証が必要となる。通常は物証と人証による。他人の作ったものを観察したり、他人の話を聞いたりして、その矛盾点を見つけ出し、証人や当事者に質問して齟齬を指摘し、相手の自覚の下に嘘や間違いを明らかにして、確定された事実関係に法を適用する。そうであるはずだ。そうであってもらわなければ困る。相手に自ら回答させ、矛盾や不整合を指摘して論駁し、相手の自覚の下に相手の間違いを正す。ソクラテスがしたように。そうすることで、相手は説得される。だから不満も持たない。これが出来ていれば、二〇〇〇年代初頭の司法改革論などは、世論から噴出しなかったはずだ。それまで、それが出来ていなかったということか。いや、国の主導で実施された改革後の法曹教育の現場でさえも、その技術を訓練することはなかったのだろうか……。
西田真希は、そう考えていた。
三木尾善人は、身の上話を続けた。
「それで、そんなヘンテコな学校には行かないことにして、三十過ぎてからも暫くは、実家で一人で勉強を続けることにしたんだ。アルバイトしながら、ちまちまと田舎の町で、一人で。まあ、倒産処理も一段落して落ち着いていたしな。でも、正直なところ、辛かった。いろんな意味でな」
西田にも彼の含みのある言葉の真意が理解できた。西田真希は、もう少しだけ踏み込んだ質問をしてみた。
「ご結婚はされていらしたのですよね」
三木尾善人は首を横に振った。
「いいや。あの頃は、まだ一人だったな。三十代半ばのいいオッサンがアルバイトじゃ、結婚なんて出来ねえよ」
腑に落ちない顔をしている西田を見て、三木尾善人は付言した。
「ああ、子供たちは今の嫁さんの連れ子でね。俺と家内が結婚したのは、俺が四十過ぎてからなんだ」
西田真希は口を少し開けて、大きく二度頷いた。そして、話題を彼の若い頃の話に戻した。
「それじゃあ、お一人でお父様の介護をしながら、司法試験の勉強を?」
「ああ。勉強の方はな。親父の方は、まあ、お袋と交替での介護だったから、そう大変でもなかった。でも、そのお袋も疾うに六十を過ぎていたしなあ……」
三木尾善人は一瞬だけ悲しい目になったが、すぐに気を取り直して言った。
「ま、当時は予備試験ってのがあってな、法科大学院に行かなくても卒業資格が得られる制度があるにはあったんだよ」
「予備試験って、今もありますよね。たしか、バイパス・コースになっているんじゃ……。相当に難しい内容の試験だと聞いてます」
三木尾善人は頷いてから言った。
「そしたらよ、例の大地震だ」
「東北沿岸の?」
「ああ。実家も何もかも無くなっちまった。思い出も、風土も、歴史も、何もかもが断ち切られちまった……」
「お気の毒に……」
西田真希は、子供の頃にテレビの生放送番組で震災を見た際の、あの衝撃と感覚を克明に覚えていた。二〇一一年三月十一日午後二時四十六分。その時、まだ小学五年生だった彼女は、六年生の卒業式の準備を終え、早めに終わった学校から帰宅したばかりだった。昼食を終えた後、母に呼ばれた彼女は、一緒に見たテレビのニュース映像に我が目を疑った。海から押し寄せる白い津波が陸地へと広がり、ビニールハウスや民家、自動車を次々と飲み込んで破壊していた。人が乗っている漁船が大きな渦に飲み込まれていた。高台へと必死に逃げる人々を大水が追いかけ、覆い尽した。あの時、リアルタイムで見た惨劇は、今でも脳裏に焼きついている。今でも彼女は、あの時の映像を思いだす度に、胸が痛くなるのだった。だから、それ以上は何も言えなかった。
三木尾善人は淡々と話を続けた。
「家族はなんとか無事だったが、その後すぐに親父も死んじまって、お袋と仮設住宅で二人暮らし。暫くして、お袋が他県にいた俺の弟の家に住むことになって、バタバタしていた時に、九州北部豪雨で急遽、防災隊の増員募集がかかった。それに申し込んで、見事ご入隊って訳よ」
「司法試験は、お続けにはならなかったのですか」
三木尾善人は首を横に振った。
「震災後も、少しずつ勉強を続けてはいたんだが、まあ、自分も震災で苦労したろ。九州の人たちを見て、放っとけなかったんだな、これが」
「……」
西田真希は、じっと三木尾善人の顔を見つめた。
三木尾善人は、西田の視線に構わず、淡々と話を続けた。
「俺の受験仲間の中には、そのまま勉強を続けた奴らもいたが、苦しんでる人たちを横目に勉強するってことは、俺には出来なかったんだよ。だからと言って、ボランティアに参加する経済的余裕は無かったし、防災隊員なら給料もちゃんと出るだろ。それで」
頭を掻きながら恥ずかしそうに語る三木尾に西田が一言だけ送った。
「警部のような方こそ、法曹になるべきでしたのに」
送られた一言に三木尾は照れくさそうに笑って、ポツリと吐いた。
「まあ、なんだかんだ言って、結局は合格する実力が無かったってことなんだがな」
そして、すぐに次の話を始めた。
「それで、無事に五体満足な状態で任期を迎えた頃に、例の民間就業経験者の公務員採用制度が始まった。その試験的運用ってやつで、最初に警察が中途採用を大量に募集したんだ。入ってから知ったんだけどよ、当時の警察は、民間職経験や一般市民感覚のフィードバックとかなんとか言っていたが、実際の理由は、警察にも定年退職者が大量に発生していて、捜査体制の崩壊が危惧されていたから、ということらしい。運よく、そこに上手く滑り込んだって訳さ。まあ、俺としても、本論から外れている訳ではないし、いいかなってね。四十歳の時だ。それから、あっという間に二十四年。こうして何とか、今までぶら下がってこられたよ」
三木尾善人は、遠くを見つめながら苦笑した。
西田真希は、三木尾善人に敬意を表して言った。
「警視庁きっての『切れ者』だって報告を受けていますよ」
「首なら何度も切られそうになったがな」
三木尾善人は首を窄めて見せた。
ようやく彼の不自然な経歴の事情を理解した西田真希は、もう少し続けた。
「入庁後、最短期間で警部に昇進されたとか。その後も、警視総監賞を十一回。優秀でいらっしゃるのですね」
それを聞いて、三木尾善人はまた前屈みになって顔を西田の方に近づけるように出すと、手を口の横に立てて小声で言った。
「警察庁長官が大学の同級生だって言ったろ」
西田真希は大げさに深刻な表情を作って、返した。
「それは問題ですわね。不正な便宜供与の疑いで公安委員会に告発させていただきます」
三木尾善人は左手を振りながら、笑って言った。
「おいおい、年寄りには、もっと優しくしてくれよ」
「すみません」
西田真希も笑いながら言った。
十一
三木尾善人は再度シートに深く座り直して、話を本来の話題に戻した。
「しかし、あの田爪って奴、五十前の歳にしては、随分と達観した奴だな。奴の人生に何があったのかね。あの文屋さんのインタビューだけじゃ分からんね」
そして、西田を軽く指差して尋ねた。
「ところで、例のインタビューは、当然、全て聞いたんだろ? どう思ったよ」
西田真希はコックピットへのドアをチラリと見てから、少し小声で答えた。
「ええ。こんなことを言ってはなんですが、個人的には、彼の犯行動機の一部は理解できないでもないと……」
「そうかい」
三木尾善人もそのドアの方に顔を向けて、西田を再度指差しながら言った。
「まあ、そんなことを言うのは、俺の前だけにしときな。俺たちは
西田真希は三木尾に一礼して答えた。
「はい。よく分かっています」
すると、前屈みになったままの三木尾も、小し声を小さくして言った。
「だが、ここだけの話だが、俺もあんたと同じだ。だから、奴が生きているなら、この手で捕まえて、いろいろ聞いてみたい。そうも思っている」
「……」
三木尾の意外な吐露に驚いたように、西田真希は何度も瞬きする。
体を起こした三木尾善人は、膝をポンと叩いてから続けた。
「ま、とにかく全力で探してみるさ。奴が日本に入国していれば、こっちのフィールドだ。絶対に捕まえてやるぜ」
「警部は、田爪が既に日本に入っているとお考えで?」
「ああ。
三木尾の発言から疑問点を瞬時に掴み出した西田真希は、すぐに質問して指摘した。
「そうすると、警部は既に、海外の情報収集はお済ませになられているのですね」
「ああ。あんたらほどじゃねえが、俺なりに大まかにな。それで何も出てこなかったから、奴はここで死んだんだと思っていたが……」
三木尾善人は床を見ながら、軽く舌打ちした。顔を上げた彼は、西田に言う。
「あんたの推測どおり、奴が米国に入ったんだとしたら、日本向ったのは、ほぼ間違いないと思う」
西田真希は冷静に三木尾の思考を追った。
「まだ米国に潜伏している可能性は? あるいは、ヨーロッパに渡っているかも」
「いや、これだけ世界中に事件と共に顔写真が配信されたんだ。面の割れた東洋人が身を潜めるのは難しいだろう。それに、欧米では真明教はマイナーなんだろ?」
「ええ。現に南米ゲリラ軍と交戦していた国々ですから、彼らとの繋がりが噂される真明教が普及するにはハードルが高過ぎるみたいですね。でも、配信された田爪の顔写真は十年以上前のものですし、それに、もし連れ去ったのがイヴンスキーなら、どうです?」
「そっちの大男は、帰ってからじっくり調べてみるが、その大男が自分から進んで田爪に接触したとは、どうも思えねえ。田爪が生きていることを知っていて、しかも武器商人なら、量子銃の危険性についての情報は得ていたはずだからな。リスクが高過ぎる。そのリスクを犯してまで田爪に会いに行ったってことは、それに見合う見返りがあったか、何か特別な事情があったかだ。いずれにしても、俺は大男を裏で操っている奴がいると睨んでいる。もし奴が主犯なら、わざわざ防犯カメラに映るようなことはしないはずだ。ゴーストレベルの奴が堂々と表で動いているってことは、裏で奴を操っている人間がいるってことさ」
西田真希は、より深刻な顔になった。
「他国がイヴンスキーを雇っているとしたら、厄介ですね。きっと誰も田爪も見つけられない」
「ああ。だが、その場合は、仮に奴らを見つけられたところで、それが国内だろうと国外だろうと、俺たちには手も足も出せない。外交特権だの国際逮捕礼状だの、何かしらの手は打っているはずだからな。まあ、一応その線も視野に入れておくべきではあるが、とりあえず俺の方は、田爪が既に日本に潜伏しているって線で動いてみるわ」
「分かりました。お願いします」
西田真希は、そう言って三木尾に頭を下げると、腰の横に立てた薄い端末を仕舞っていなかったことに気付いて、それを取った。
三木尾善人が西田に尋ねた。
「あんたらは、どうする」
西田真希は端末を持ったまま、それを一度膝の上に乗せて、三木尾に答えた。
「時間を稼ぐための調整をするのは当然ですが、さっき警部がおっしゃったとおり、念のために、まずはNNC社から。世界中に分布するNNC社の各拠点を、各国の捜査当局に依頼して押さえてもらいます。あと、ラングトン。彼女の足取りは押さえてありますから、逮捕は時間の問題だと思います。それから、イヴンスキーについても、駄目もとで再度、国際的な情報手配をかけてみます。運がよければ、一網打尽に出来る情報が入ってくるかもしれません」
「一網打尽ねえ。そんな満塁ホームランみたいな情報が出てくるかね」
「分かりませんよ。例えば、どこかで長身のお化けが出たとか」
西田真希は膝の上の端末を握ったまま、軽く両肩を上げた。
片笑んだ三木尾善人は、真顔に戻って言った。
「運は弱者の鞭にして強者の杖なり。ローウェルだったかな。あんたの杖が鳴ることを祈るよ。だが、田爪の生存の可能性は表沙汰に出来ないんだろ? 手配するとしても、難儀だなあ」
西田真希は深く溜め息を吐いて、首を振った。
「仕方ありません。ラングトンもイヴンスキーも、何か理由を作って手配します」
「まあ、叩けばロジン・バッグ並みに埃の出る奴らだからな。実際に手配する理由は山ほどあるって訳か……。ああ、ロジン・バッグから出るのは埃じゃねえか」
彼の比喩には、それなりの意図があった。西田真希は頷いて返すと、話を続ける。
「あとは、米国から日本へのルートを
彼女は三木尾の顔を真っ直ぐに見据えて、そう言った。
三木尾善人が軽く人差し指を立てて言う。
「それから、さっきのデータの転送も忘れないでくれよ」
「了解です」
西田真希は肩笑んで頷いた。
三木尾善人は天井に顔を向ける。
「あ、そうだ。データって言えば、例のバイオ・ドライブの偽情報。あれを書き換えた奴も突き止めねえとな」
西田真希は、眉間に少しだけ皺を寄せた。
「それは、田爪を確保した後でもいいのではないでしょうか。物証から探るしかないのでしょうから」
「いや、その物証たるバイオ・ドライブ自体がな、無いんだよ」
西田が寄せた眉の下の大きな目を細めると、三木尾善人は事情を伝えた。
「例のASKITの拠点島への攻撃、あの時に消えちまった。別に軍が壊した訳じゃないんだが、ちょっと極秘情報過ぎて言えんのだ。申し訳ない」
西田真希は、その拠点島への攻撃があった日の前日の夜に、今回の件の辞令を受けた。だから、その後は慌しく渡米の準備をしていて、事件の詳細を知らなかった。各種の報道では様々な情報が報じられていたが、公式の資料では、バイオ・ドライブは六年前に司時空庁からASKITに奪われたという記載で終わっていた。彼女としては、あの拠点島への攻撃の際に軍がバイオ・ドライブを回収したものと思い込んでいた。
西田真希は真剣な顔で尋ねる。
「どうやら、公にできない特別な顛末があったようですね。新日系列の報道では、タイムマシンで過去へと逃避した西郷京斗が持ち去ったとなっていましたが……」
三木尾善人は両肩を上げる。
「まだ分からんさ。少なくとも、公式に発表できるほどの信憑性はない」
怪訝な表情をする西田に、三木尾善人は厳しい顔を向けて、話題を変えた。
「それよりも、その書き換えた奴が日本にいるなら、田爪はそいつを
西田真希は膝の上の端末から手を離すと、顎を触りながら言った。
「なるほど……でも、大事な物証が無い状態で、どうやってその人物を特定するつもりなのです?」
「そうだなあ……ま、考えてみるさ」
両手を頭の後ろで組んだ三木尾善人は、シートの背もたれに身を投げながらそう言うと、すぐに体を起こして、西田に尋ねた。
「それはそうと、例の量子銃。田爪がいつも肩にぶら下げてたっていうオリジナルのすげえヤツ。あれは本当に見つかっていないのか?」
「ええ。他の兵士たちが持っていた量産タイプの簡易式銃の方は、それを持ってジャングル内を逃げていたゲリラ兵士から南米連邦政府が何丁か押収しているようですが、どれも使用期限が過ぎていて起動しないようです。南米連邦政府もリブートしようと必死のようですが、どうやら米国から、それらの銃の引渡しを要求されているみたいで……」
「べい……」
言いかけた三木尾善人は、チラリとコックピットへのドアに目を遣ると、身を乗り出して、小声で西田に尋ねた。
「米国から? なんで」
西田真希は少し考えて、回答した。
「国際紛争武器使用条約上の残虐兵器に該当するので、米国が回収して責任をもって廃棄するということです」
そこまで言うと、彼女も顔を前に出して、小声で言った。
「ですが本当は、量子銃の構造解析が狙いだと思います。それと、オリジナルを製造したクンタム社からも、特許権侵害を理由に、南米連邦政府に対する量子銃の一括返還を求める訴訟が国際司法裁判所に提起されたと聞いています」
「クンタム社と言えば、田爪に開発途中の量子銃の設計確認を依頼した軍事企業だな」
「ええ。クンタム社の方でも、この十年、自分たちが基礎設計した量子銃の研究を続けていたようですが、やはり、田爪健三がカスタマイズした量子銃のように、確実な威力と効果を発揮する量子銃の開発には成功していないようです。ですから、実際に戦場で使用された量産タイプの量子銃を南米連邦政府から回収して、自分たちの基礎設計との違いを見つけ出したいのでしょう」
「なるほどね。結局、連中はその武器で儲けたい訳だ」
西田真希は小さく頷いた。
三木尾善人は呆れ顔で呟く。
「ったく。こんな時に、使えない銃の奪い合いかよ」
三木尾善人は再びシートに身を投げた。そして、そのままの姿勢で西田に尋ねた。
「それで、肝心の田爪の量子銃はどうなんだ? 使えないのか」
西田真希は端末から資料をホログラフィーで投影しようとしたが、端末が上手く反応しなかった。端末の表面に浮かんでいるホログラフィー・アイコンをタップしても、全く反応しない。彼女は首を傾げた。どうも指認識に問題があるようだった。西田真希は端末の操作を諦め、電源ボタンを押して強制的にシャットダウンした。顔を上げた彼女が何か話そうとした時、コックピットの中から何かが弾けるような音が聞こえた。静音状態が維持されている室内では、ほとんど音は響かなかったが、三木尾より若い西田には微かに、その音が聞こえた。西田真希は、コックピットの中が見える前のドアの小窓に目を遣りながら、三木尾に答えた。
「いえ。すみません。分かりません。永山さんのレポートでは、田爪は銃から量子エネルギーパックを外して永山さんに渡したと報告されていましたから、おそらく使用不可能かと思われます。しかし、あくまで田爪の説明を信じればの話ですが……」
西田真希は視線を三木尾に戻した。彼女の回答を聞いていた三木尾善人は、シートから体を起こして首を傾け、恐いくらいの剣幕で西田を見ていた。
「おいおい。現場の警官が服だけ残して消し飛んでからじゃ遅いんだぜ。そこの情報は、はっきりしているものをくれ」
西田真希は三木尾の形相に一瞬威圧されて、すぐに答えた。
「すみません。再度調査して、できるだけ早くご報告します」
三木尾善人は、またシートに深く座ると、再び上を向いて言った。
「まあ、銃が一人で歩いて出掛ける訳はないし、田爪が肌身離さず持っていた銃と田爪本人の両方が行方不明な訳だ。田爪の奴がその量子銃を持って逃げてると考えた方がいいわな。イカレた世界一の天才科学者が、地球上で一番危険な銃を持って世界のどこかをウロついている訳だ。しかも、そいつは実際に人間を百三十人も消し去った殺人鬼ときてる。マスコミに知れたら、パニックだな」
西田真希は背筋を正したまま、三木尾の顔を見て言った。
「極力、マスコミには情報が漏れないようにします。警部も、その点だけは注意してください」
三木尾善人は右手を軽く上げて答えた。
「分かった。だが、マスコミに知られるのは時間の問題だろ。奴らの鼻の利くことときたら、尋常じゃないからな。ところで、田爪の潜伏先について、あんたの方では目星を立ててはいないのか?」
西田真希は答えた。
「もし、連れ去った、もしくは逃亡の手助けをしたのが真明教なら、彼らの施設でしょう。しかし、彼らにそこまでの実力はありません。こちらの現地信者が独自に動いたのなら、この国の中、それもそう遠くない場所にいるはず。しかし、そうなると教義と反対の学説を展開する田爪は、ほとんどの信者たちに目の敵にされている中で潜伏していることになります。まず不可能でしょうし、潜伏しているなら、疾うに情報が上がってきているはずです」
三木尾善人はシートに凭れたまま、西田の顔を見て言った。
「だとすると、やっぱりイヴンスキーか。その場合、日本国内で身を潜めそうな場所に心当たりはないのか」
「空港や港で捜査網にかからないまま入国されたら、私にはさっぱり……警部は?」
「ああ、ちょっと気にかかる所はある」
視線を外し、暫く黙った三木尾善人は、急にシートの奥に腰を引いて真っ直ぐ座り直すと、改まった様子で説明を始めた。
「さっき、あんたがしてくれたIMUTAの話。あれでピンときた。今、俺たち以外にも田爪の力を必要としている奴がいるとしたら、それはIMUTAを復旧させたいと思っている連中だろ」
西田真希も暫く考えて、ハッとしたように目を丸くして三木尾に問い返した。
「GIESCO。あそこが関与していると? まさか」
「いや、というよりもストンスロプ社グループそのものだ。それと、軍」
「軍が?」
「そのどちらか、あるいは両方じゃないかと俺は睨んでいる。だって、イヴンスキーみたいな幽霊野郎を動かせるとしたら、この二つくらいのものだろう。日本国内では」
「たしかに、そう言われれば。軍が関与していれば、田爪健三を極秘裏に入国させるなんて、訳も無いことですね……」
西田真希は視線を床に落として考えた。
三木尾善人は説明を続ける。
「だが、そうなると解からねえのは、なぜ今になってもIMUTAは復旧しないのかってことだ。田爪が手間取っているのかもしれんが、俺としては、どうも合点がいかねえ」
西田真希は顔を上げ、三木尾の方を向いて言った。
「ドライブの書き換えの件も余計に気になりますね。田爪健三が偽情報を書き込んだのではないとすれば、ストンスロプ社や軍でしょうか。もしそうなら、ASKITの目を盗んで、どうやって書き換えを実行したのか」
「それに、その理由もな。さっきも言ったが、やっぱり、まだ何か裏があるな」
またリムジン・オスプレイの客室内を重たい沈黙が埋めた。
十二
暫らくして、西田真希が発言した。
「とにかく、もし警部の推理のとおりなら一大事です。田爪の確保を一刻も早くしてもらわないと。マスコミに知られないうちに」
「ああ、分かってる。とは言っても、闇雲に勘だけで強制捜査をかける訳にもいかんからな。なんせ日本が世界に誇る国際企業のストンスロプ社と、もう片方は国防軍だ。裁判所の令状をガッチリと取れるだけの証拠を集める必要がある」
三木尾善人は、右手の人差し指を立てて振りながら、続けた。
「それに、さっきのNNC社の話。あの線も薄いとはいえ、まんざら捨て切れん。銃に量子エネルギーが充填されていないとすれば、田爪がそれを充填しに行くってことも考えられるからな」
咄嗟に西田真希が首を傾げながら言った。
「それはどうでしょう。NNC社はバイオ・インフォマティクスとバイオ・ミメティクスが専門の会社です。しかも、製造した量子エネルギープラントは
西田の論理展開に三木尾善人が口を挿んだ。
「だが、偽のデータを基にしたとはいえ、NNC社は実際に、量子銃やら量子砲を装備した戦車や爆撃機を製造していたんだ。武器自体は使えなかったとしても、エネルギーパックが偽物とは限らん。軍が回収し損ねたエネルギーパックが、会社の何処かに残っていても不思議じゃない。だとすると、田爪としては、自分で一からエネルギーパックを作るより、そっちの方から拝借した方が早いはずだぜ。そう思わないか?」
西田真希は、大きな瞳を左右に揺らして言った。
「それも……そうですね。田爪健三が偽データを書き込んだか否かに関わらず、その可能性はありますね。先に全NNC支社への強制捜査を依頼しておいて、正解でした」
西田真希は口角を上げながら、軽く片方の目を瞑って見せた。
三木尾善人は西田の膝の上の端末を指差して言った。
「なんだ、もう連絡したのか? そいつでか?」
西田真希は、膝の上の端末を軽く叩いて見せる。
「ええ。さっき衛星回線を使って、ネットワークに接続して。ちょっと接続に無理をしたので、端末がフリーズしちゃったみたいですけど」
そう言うと、西田真希は前屈みになって、端末を足元の分厚くて黒い革製の四角い鞄に仕舞い込みながら、三木尾に言った。
「インターポールのほか、必要国に一斉に捜査協力の要請をかけました。容疑は従来の手配容疑で」
「贈賄罪か……。そんなので動くのか。各国警察の実力部隊が突入するくらいのことはしないと駄目だろ」
「今の国際状況なら、これで十分です。国によっては軍隊まで動員するのではないでしょうか。相手がASKITの中核メンバーの会社だと聞いただけで、目くじらを立てる国も多々ありますから」
「国際社会って、恐いねえ」
三木尾善人は両掌を肩の上で広げて、両肩を軽く上げた。
端末を鞄に仕舞い終えた西田真希が、苦笑いしながら言いかけた。
「これが現実の……」
機体が急に速度を上げた。西田真希はそれを体全体で感じとっていた。彼女は素早く、シートに深く腰掛け直して、腰のシートベルトを後ろから前に出して装着しようとした。西田が三木尾に話しかけようとした時、室内に警報音が鳴り響いた。そして、立て続けに機械の合成音声による無機質なアナウンスが流れた。
(
突然、その警告のアナウンスと共に室内灯が消え、壁の赤い警告ランプが点灯した。防御壁で覆われた客席は、真っ赤に染め尽くされる。機体は大きく傾き、西田の足元に置いてあった黒い鞄が床の高級絨毯の上を後方へと滑っていった。西田真希と三木尾善人は、思わずシートの肘掛にしがみつく。三木尾は反射的に左脇のホルダーに挿したベレッタを右手で握っていた。西田は胸元のペンダントのロケットをジレの上から握り締める。すると一瞬だけ、機体が再び水平を保った。
三木尾が西田に叫んだ。
「なんだ! 何事だ!」
「たぶん敵襲です。ゲリラ軍の残党による地対空ミサイル攻撃かも。シートベルトをしてください!」
ヘッドセットを被りながら、そう西田が早口で言い終わらないうちに、コックピットとの隔壁に取り付けられた三十二インチの多機能モニターに、外の六方向の様子が、分割された画面で、それぞれに自動的に映し出された。そこには、絶え間なく下から撃ち込まれる銃弾の嵐と、時折、空中で砲弾が爆発する様子が映っていた。砲弾は空中で黒煙を放って爆発すると、四方八方に内蔵の小型爆弾を飛ばして、それらを一斉に起爆させた。
「くそ。クラスターかよ。この機体、プラズマ・ステルスで飛行しているんじゃなかったのか? 赤外線パルスジャマーも。どうして見つかったんだ」
そう言いながら、慌ててシートベルトをして、ヘッドセットを被った三木尾が多機能モニターに何かを発見し、口元のマイクを掴んでコックピットの操縦士たちに向けて叫んだ。
「何か飛んで来るぞ、地対空ミサイルだ! 来るぞ!」
すると、突如、機体の後部でガタンという大きな金属音が鳴った。西田と三木尾が後方の格納スペースに顔を向けると、そこに積まれていた二体のロボットが、項垂れていた頭を上げ、姿勢を正し、両腕の先に束ねられた六本の砲筒を持ち上げたまま、足元の床ごと背中の柱を滑るようにして、下に降りていった。三木尾が前のモニターに目を遣ると、その分割画面の一つに、さっき機外へと放出された二体のロボットが、左右に並んで映っていた。彼らは背中を柱に固定したまま、狭い床に踏ん張って、機体の真下で四方八方に発砲して、弾幕を展開していた。ロボット達は飛来するロケット弾を素早くレーザー光線で捕捉すると、両腕の回転式機関砲を高速回転させて正確に射撃し、見事に撃ち払った。
西田真希はヘッドセットでコックピットからの指示を聞き取り、モニターのロボットを応援している三木尾に向かって、彼の頭上を指差しながら叫んだ。
「頭の上の安全装置を胸の前まで下げて! ベイルアウト時に使用します!」
「べいるあうと?」
三木尾が聞き返すと、西田真希は苛立った顔で声を荒げる。
「緊急脱出よ! シート自体が脱出用ポッドになってるわ! とにかく下げて!」
「ちくしょう! なんてこった!」
彼女に言われるままに、三木尾は頭上の安全バーを胸の前まで降ろした。彼の上半身と肩がシートに固定され、同時に、頭部と首の位置も固定器具によって保護された。
彼が乗員保護用のショルダーバーを安全体制にしたのを確認してから、西田は床を滑って行った鞄を拾おうと、シートベルトをはずして席から立とうとした。それを見た三木尾が西田に怒鳴りつけた。
「あんな物はいいから、あんたこそ座っていろ。怪我したら望ちゃんはどうなる!」
「しかし、あれには、南米当局からの極秘情報を記録したMBCが……きゃ!」
機体が大きく傾き、西田の席は下に、三木尾の席は上になった。ショルダーバーとシートベルトで宙吊り状態でシートに固定されていた三木尾が、真下で肘掛にしがみついている西田に叫んだ。
「早く安全装置を下げろ!」
西田はシートベルトを締め直すと、上に手を伸ばして、自分の保護用ショルダーバーを下げようとした。すると、今度は機体が反対に大きく傾き、そのまま直ぐに前方にも傾いた。西田は、半開き状態のショルダーバーにしがみつき、小さな茶色のパンプスを床の絨毯に押し付けて、踏ん張っていた。貝殻のペンダントが宙に浮く。そこへ、後方から西田の黒い鞄が勢いよく滑って来て、彼女の前を通り過ぎ、キャビネットにぶつかった。角の金具をキャビネットのガラス戸にぶつけて
再び機体が大きく傾く中、西田真希はコックピットのパイロットからの指示を聞き漏らさないように気を付けながら、モニターに映る外の戦闘の様子に目を凝らしていた。
ロボットが降下した床の穴から、外のけたたましい爆音と機体が風を切る音が機内に響いていたが、西田と三木尾がいる客室は隔壁で二重に保護されていたので、室内の静寂と気密は依然として保たれていた。左右の窓は外から防弾アーマーが閉められ、外部を覗く事はできない。西田と三木尾が外の状況を知るには、モニターの分割画面を見るしか方法がなかった。外では、二体のロボットが、波状的に襲い掛かるロケット弾を対空ライフル弾の弾幕の中から見事に識別しては、瞬時に撃ち落とす作業を繰り返していた。するとそこへ、数発の地対空ミサイルが同時に向かってきた。ロボット達は、そのほとんどを打ち落としたが、一発だけが、他のミサイルが空中で爆発した間をすり抜けて、突進してくる。それを瞬時に識別した右のロボットは、躊躇無く背中のジョイントを外し、奇妙に曲がる足を一瞬で強力に伸ばしきって前方に飛び出すと、空中でそのミサイルに体当たりし、共に激しく爆発して大空に散った。
多機能モニターの分割画面の隅に小さく映っている彼らの活躍と献身的な防御に、応援の声をあげていた三木尾に対して、パイロットからの指示を聞いていた西田が、また大声で叫んだ。
「緊急離脱モードに入ります。椅子が回りますから、脚に気をつけて!」
西田は自分の膝をスカートの上から大げさに叩いて見せて、三木尾に注意を促した。
すると、それまで壁際に背もたれを向けて、向かい合わせに並べられていたシートが、それぞれのシートを隔てていた肘掛の部分で割れて、一脚ずつに間隔が空けられ、一斉に回転して、前向きに縦二列の状態となった。その動きが、あまりにスムーズだったので、三木尾はただショルダーバーにしがみついているしかなかった。椅子の回転とほぼ同時に、機体後方から機外に降りていた左右の床が柱と共に引き上げられて素早く上昇し、機体の左右の穴を元通り塞いだ。左の床の上には、左腕を損傷し、体に無数の穴を開けた護衛ロボットが乗っていたが、右の床の上には何も乗っていなかった。
その「リムジン・オスプレイ」は、前方を向けて回転させていた左右の大きなプロペラを急停止させると、そのまま四方に投棄して、翼だけの通常の飛行機の形体になった。同時に、主翼の左右と機体の後方のプラズマ・ジェット・エンジンに点火して、噴射口から一気に高温のエネルギーを放射すると、その炎の帯の周りに光の輪を幾重にも重ねながら、急激に加速して上昇していく。後ろから追尾してくる小型ミサイルは追いつけずに、どんどん引き離されていった。
戦線離脱のために緊急加速をするリムジン・オスプレイの客室では、前から押し付ける重力に耐えかねた初老の刑事が声をあげていた。
「おえええええ!」
西田は、ただ目を瞑って両肩の上の安全バーを握り締めていた。
三木尾は、自らの肉体が発する嘔吐の欲求と、前面から押し付けるすさまじい重力に全力で堪えながら、渾身の力で右手を精一杯に上げて、ヘッドセットのボタンを押し、コックピットとの通信に切替えた。
西田が叫ぶ。
「警部! 何やってるんですか! パイロットの通信の邪魔になります、室内交信に戻して!」
口の前のマイクを握った三木尾は、コックピットのパイロットに向けて大声で叫んだ。
「おい!兄ちゃんたち! シー イズ マザー! シー ハズ ドーター! 絶対に墜とされるんじゃねえぞ! いいな!」
西田のヘッドホンから、パイロットの力んだ声が聞こえる。
「OK! OK! Ⅰ know! I know!」
そのパイロットが必死に操縦桿を握っている様子が、その声から伺えた。
その後すぐに、通信は西田と三木尾の間の通信に強制的に切り替えられた。
押し付ける重力に耐えて安全バーに掴まりながら、西田真希は三木尾に尋ねる。
「警部……鞄は」
「せ、背中で挟んでい……る。Gがきつい……が……大丈夫……だ」
「中の端末を……壊さないように……重要なデータが……」
「まかせろ……くくっ……」
「日本での捜査も……よろしく、お願い……します……」
「まか……せろ……くくう……もっと速度を落とせない……のかよ……吐きそうだ……」
西田真希は前から強く押し付ける重力に顔を歪めさせながら、微かに笑みを浮かべた。
彼女は、日本から捜査に遣って来た刑事に、逆に、日本での捜査を約束させ、最終的に彼の協力を取り付けた。そうなるように多くの質問を彼にして、誘導した。それは、彼女が外交の世界の騙し合いと駆け引きで培った彼女なりの「ソクラテス・メソッド」だった。そうして、敵に回す惧れがあった警察との関係を見事に「調整」したのだ。それが西田真希という調整官のやり方だった。
彼女の「重要な任務」は成功した。そして、ここから、真の敵との戦いが始まる。
密林の中から幾筋も延びる光の矢を振り切って高速で急上昇したジェット機モードのリムジン・オスプレイは、黄金色の尾を引きながら、傾く夕日の前に広がる深紅の雲間へと消えていった。
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