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「……ん?」



 宝蔵門をくぐり抜けて本堂がある敷地へと入った瞬間、突然ヴァルの足がピタリと止まる。

 そして何かを確認するように、ゆっくり視線を周囲へと向け始めた。その表情はどこか不思議そうで、跨麟はヴァルの腕を軽く揺らしながら声をかける。


「どうしたの?」


「あぁ、いや、少しな」


 彼はピクリと肩を揺らすと何事もなかったかのように跨麟に視線を下ろし、口元にほんのり笑みを浮かべて再び歩き出す。

 その様子を疑問に思ったものの、人の多い場所でいつまでも立ち止まってはいられないと、跨麟はヴァルと共に足を動かし始めた。


 本堂のある境内は、霊場というだけあってなんとも清廉な空気に包まれていると思いきや、参拝に訪れた観光客で溢れかえり、どこもかしこも縁日のように賑やかだ。

 正面を飾る美しい朱に彩られた色鮮やかな本堂は、幾度も災害や人災により倒壊したが、その都度再建されて今のような形となっているようだった。

 旧本堂の造りを基本としているものの、中身は鉄筋コンクリート造りでチタンの瓦と聞けば、見た目はさておき実に現代らしい建物である。


 広々とした境内には広めの社務所があり、そこにはお札やお守りがズラリと並んでいる。ヴァルも興味があるようで、綺麗に並んだお守りを物珍しそうにヒョイと覗き込んだ。

 美しい刺繍がされたお守りもあれば、大提灯を模したものまでさまざまであるが、厄除けに交通安全、安産祈願や良縁守りなど、多様なお守りの中でも赤地に金の刺繍が施された厄除けは一際目立っていた。


「これ、龍の刺繍か?」


「そうみたい。ほら、ここの正式名称って【金龍山浅草寺きんりゅうざんせんそうじ】っていうくらいだし」


「……金龍山?」


 なぜか【】という言葉を聞いて、露骨すぎるほど動揺するヴァル。いったい何に驚いているのかはわからないが、彼の表情筋が珍しく仕事をしている。


「なんでも、天から金の鱗を持った龍が松林に降り立ったなんて話が伝わってるらしいの。龍神様の彫刻や像とかもあるみたいよ?」


 縁起には本尊が示現じげんした日に松が千株ほど生え、その数日後に金龍が現れてその松林の中にくだったということが記されているという。

 その瑞祥ずいしょうが【金龍山】という山号の由来なのだというから、なんとも壮大な話である。

 それが実際に起こった出来事であるのかは置いておくとしても、この浅草寺では龍という存在が大変縁起の良いものであり、今も昔も変わらず信仰の対象なのであろう。それはあちらこちらに散らばる龍の彫刻や絵を見れば一目瞭然である。


 ここへ来る前に読んだガイドブックの内容を話して聞かせると、ヴァルはまたしても周囲に目を走らせながら納得したように頷いた。


「なるほど。だからこんなに……」


 そんなよくわからない反応を示す彼を横目に、跨麟はちゃっかりと社務所で厄除け守りを授かっていた。

 ここ最近どころか生まれてこの方どちらかといえば不幸なことが多い跨麟にとって、霊験あらたかな浅草寺の厄除け守りは是非とも縋りたいアイテムである。


 本堂への参拝者は休日だけあって多く、まったく途切れることが無い。その混み具合を見て、少し時間をおこうと周囲を散策することにして、二人は本堂を後にした。

 広々とした境内は、本堂だけでなく五重塔や薬師堂など見て損はない場所はいくつもあるが、その中でも伝法院の庭園がことさら美しいと評判で、跨麟たちは何の気なしにそちらへと足を向ける。時期的に拝観できるかわからないものの、散歩がてら覗いてみるのも悪くない。

 色々とたわいない話をしながら奥へ奥へと進んでいくと、だんだんと賑やかな声が遠くなり、すれ違う人も少なくなる。

 ふと、周囲にあれだけあったはずの人の気配は消え、ただただ耳が痛くなるくらいの静寂が広がっていた。まるで時が止まってしまったかのような沈黙に、跨麟は思わず足を止める。


 ――――なにかが、おかしい。


 異様な不安に襲われ、慌ててヴァルを見上げようとした瞬間、突然ヴァルが肩を引き寄せ跨麟をきつく抱きしめた。


「なっ、えぇ?!」


 混乱する跨麟を煽るように、風が強く吹き抜ける。綺麗にまとめていた跨麟の黒髪が荒々しく靡き、髪を飾っていたリボンが解けると風に乗ってどこかへと流されていった。

 途端に香るのは、柔らかでいて芳醇な、桜の香り。


『懐かしい気配に惹かれて出てきてみれば、これはまぁ、なんとも面妖なことよの』


 頭に直接響くような声が降り注ぐ。

 それは大人であり子供のような、男性か女性かもわからないような、そんな鈴の音にも似た不思議な響きをしていた。


 ヴァルに庇われるようにして抱きしめられていた跨麟は、きつく閉じていた瞼をゆっくりと開いて、ヴァルの腕の中から恐る恐る辺りを見回す。

 青々と茂る高い樹々と整えられた芝、苔生して趣深い石塔や石灯籠。鏡のように澄んだ大池泉を覗き込むようにしてしな垂れる満開の枝垂れ桜。

 喧騒と切り離された閑寂な日本庭園は、先ほどまで感じていた残暑を忘れてしまったかのように、春うららかな陽気に包まれている。


「誘いこまれたか。途中から嫌な予感はしてたが……」


 ヴァルから漏れる舌打ち交じりの言葉に、跨麟は思わず跳ねるように顔を上げる。


「な、なんなの? ここは……いったい」


「神域だ」


「し、しんいき?」


「そう、人の世界とは少しずれた場所にある、神のための聖域。神の縄張りに連れ込まれたんだ。……すまない、巻き込んだ」


「それって、どういう」


『これ、いつまで話しておる! よもや私を忘れているのではなかろうな? まったく最近の若い者ときたら……』


 跨麟がヴァルを問い詰めようとした時、またしても脳に叩き込まれるかのように声が響く。

 しかし、ヴァルにしがみつきながら辺りを見回しても、美しい庭園が広がるだけで、肝心の声の主が見つからない。

 こんなにも近くから聞こえているというのに、どこを見ても姿かたちすら無い謎の存在に、跨麟はだんだんと恐怖を覚えて顔がこわばる。


『どこを探しておる。ここじゃ、ここ!』


「痛っ!」


 その時、頬をピンと弾かれるような感覚がして、思わず声を上げる。

 それと同時に不機嫌そうな表情をしたヴァルの手が、目にも止まらない速さで動くと、まるで虫を捕まえるように何かを掴んだ。


『ふぐぅっ、ちょっ、なにするんじゃ! この罰当たりめが!』


「跨麟を怖がらせるからだ」


『わかった、もうしないから! とりあえず離さんかい!』


 震える跨麟を守るようにして腰に手を回していたヴァルは、自身の手の中で文句を言いながら暴れる元凶にため息をつきながらも、渋々その手を開く。

 そうして彼の手の中に囲われていた声の主を目にした跨麟は、驚きに目を見開いた。


「……ちっさ」


 そう、そこには一寸法師ほどの身の丈をした、不貞腐れた子供の姿があったのだ。







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