僕は恋人よりも人工知能を信じる

高橋あきと

1-0 謎の美女は逃亡中に命より大切な物を紛失する

 深夜の逃走劇は、ちょっと先もおぼつかないような豪雨の中で行われていた。


 パシャパシャとスニーカーが水飛沫しぶきを立てる音だけが鮮明に響く。限界まで水を吸った靴は、囚人を束縛する足枷のようだった。


「いたぞ、こちらに応援を!」


 後ろの方から、雨音を切り裂く怒号が飛んだ。首だけ振り向くと、遠くにぼんやりと人影が見える。


「ちっ、しつこい奴らだ!」


 私は、いっそうピッチを上げて地面を強く蹴った。


 夜襲を受け、アジトを命からがら飛び出してから、もう一時間くらいだろうか。


 ずっと走り通しとはいえ、が被った理不尽な仕打ちを思い出すだけで、ガソリンが注ぎ込まれるように力が湧いてくる。


 ──足に自信がある私はともかく、他のみんなは無事逃げ切れているだろうか。そういえば、徒競争はいつも私が一番だった。ああそうか、だから私にのだな。


 規則的な脚の運動が、脳にそんな雑念を浮かべる余裕を与えていた。あるいは、こんな豪雨の夜に出歩く人などいないだろうと、甘く見ていた部分があったのかもしれない。


 上の空のまま減速することなく、全速力で住宅の角を曲がった私の目と鼻の先に、灰色の傘を差した少女が立っていた!


「しまったっ!」


 とっさに靴の摩擦で火花が散るような急ブレーキをかけるが、雨で濡れたアスファルトは憎らしいまでによく滑る──。


「きゃっ!」なすすべもなく、私は少女と正面衝突してしまった。


「す、すまない!」


 大声で頭を下げ、少女に大きな怪我が無いことを目視してから再び走り出す。


 ぶつかる直前に気づけたことは、不幸中の幸いだった。全速力の私は、歩道を逆走してくるバイクと相違ないだろうからだ。


「……ん?」


 違和感に気付いたのは、三十メートルほど走った後のことだった、それは、訓練された者でもなければ気にも留めないような微小な差異だったが、私は確信する。


 さっきよりも、わずかに体が軽い、と。


「まさか……!」


 はやる気持ちを抑えて右ポケットをまさぐる。無い。そこにあるべきはずのものが。その理由は一つしか考えられなかった。


 落とした! さっき女の子とぶつかったときに!


 わらにもすがる思いで普段使わないポケットにまで手を突っ込むが、無駄なあがきであることは自分が一番わかっていた。


 自責の念が急速的に心を支配し、目の前を落ちてゆく雨粒ひとつひとつに、私を逃がすために一年前に命を落とした研究員たちの顔が映っているような錯覚に陥る。


「……冷静になれ、私。今ここで重要なのは、落とした事実を奴らに悟らせないことではないか。そうだ、今は逃げることに専念して、あとで探しに来ればいい」


 私は深く呼吸をしながら、そう自分に言い聞かせるようにつぶやく。とっさの判断にしては悪くないと思うし、それが最適に思えた。


 しかしその場合、回収は一刻も早くこなさなければならない。もし、何も知らない一般人がを拾ってしまえば、その人物は死よりも苦しい体験をすることになるだろう。


「頼むから、誰も拾ってくれるなよ……!」


 夜明けを目指しますます勢いを増す大雨の中、私は一抹の不安を胸に再び走り始めた。

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