後編
小さいワンルーム。玄関脇のスイッチを押せば、それだけでパッと部屋に明かりが行き渡る。
翔平は、まだピカピカの靴をぞんざいに脱ぎ、リビング兼ダイニング兼寝室のローテーブルにビニール袋をガサリと置いた。
流れるように座椅子に体を預けて胡座をかいたものの、やけに座りが悪いと腰を上げてみれば、朝脱いだスウェットがしわくちゃになって踏まれていた。
尻の下からスウェットを引っ張り出して、床に放り投げる。
ネクタイを緩めながら目の前のパソコンを点けると、ブンと小さな音を立ててモニターが青白く光った。
カチカチとマウスを動かして、投稿サイトを覗く。カラフルで大きな文字。違いがあるようで、そんなに違いがない。オススメと出された動画をクリックすると、静まり返った部屋が途端に賑やかになる。
着ていたジャケットを脱いでベッドに放り投げた翔平は、そのままズルズルと腰を下げて背もたれに頭を寄りかからせた。
「……疲れた」
体の虚脱に伴い、翔平の瞼がゆっくりと閉じる。
このまま寝てしまいたい。
だが、青年の意志に反して、彼の腹が異議を申し立てている。
睡眠欲と食欲。
人間の三大欲求同士の戦い。
嗅覚を刺激され続けたのが勝因だろう。軍配が上がったのは食欲だった。
「食うか……」
ズリズリとスライムのように体を起こす。
ビニール袋は、まだ温かい。紙の包みと透明なパック、それから白い円柱の容器を取り出していく。袋が空っぽになったところで、箸が見当たらない事に気が付いた。
面倒くさい。
一瞬、雑念が頭を過ぎる。だが、翔平はそれを振り払うように頭をぐるりと回して、気怠い腰を上げると、廊下のキッチンに体を移した。
「割り箸で良いか」
景品で貰ったグラスに、無造作に刺さるコンビニの割り箸を一膳だけ抜き取る。ついでに、がらんどうの冷蔵庫を開けて、白い光の中から缶ビールを掴んだ。
後は、座椅子に戻るだけのたかだか数歩。されども、意志が伝わりにくい体には、その数歩さえ動くのが億劫に感じた。
キッチンのシンクに寄りかかり、暫しの間ぼんやりと宙を見つめる。耳に入る癖のある音声合成ソフトのくだらない会話と笑い声が、反響してより自分を軽薄なものに感じさせる。
「俺、何してんだろう……。ちゃっちゃと食って、寝んといかんのに」
ゆっくりとキッチンから離れ、座椅子に辿り着く。時計を見ると、もう九時だった。翔平がパンッと両手を合わせ、円柱の容器の蓋とパックを開ける。
味噌汁の湯気と共に、筍ご飯の甘酸っぱい醤油の香りが渦を巻いて部屋を踊った。
割り箸を味噌汁に付けて、ぐるりと円を一描き。下に溜まっていた麹と具が、淡い黄橙色と黄緑色を引き連れて、揺蕩いながら上がってくる。
くったりとしたキャベツと溶けかけた玉葱を口に入れて噛めば、優しい甘さを残してたちまち消えた。
「……美味い」
円柱の容器を傾けて、ビールを飲むようにゴクゴクと喉を鳴らす。胃がポッと温かくなり、食欲が一気に増した。
味噌汁を一息に飲み干した彼は、続いてパックの中で輝く、筍ご飯にも手を伸ばす。
薄茶色のご飯の上には、肉厚な三角形と丸の筍と細長く切られた油揚げ。
ツンツンとお伺いを立てるように箸を入れても、もっちりとした弾力で弾かれる。仕方なく、底から一部だけ根こそぎ取るようにして掴むと、思ったよりもごっそりと取れた。
一口と言うには、大分多い量。
それを、ガバッと大きく開けた口で受け入れると、ほんの少しだけ雑味のある香りが鼻腔を擽り、直ぐに旨味と青みが雪崩れ込んだ。
噛めば噛むほど味が出る。噛みごたえのあるモチモチとした米に、筍のさっくりした歯ごたえ。それに、油揚げのくったりとした食感が絶妙な調和を奏でている。でも、なによりも、
「米が美味い」
翔平が東京に来てから、初めて米が美味しいと感じられた。
水道水は想像よりも美味しかった。魚も我慢できた。味付けも気にならなかった。けれども、どうしても米だけが、彼の口に合わなかった。
大盛りの筍ご飯をあっという間に平らげた彼は、食欲の勢いに身を任せて、紙の包みを開ける。
本日のメインディッシュ。
ほんのりピンクに染まった白えびたち。そのなかの一匹と目があった。つぶらな目。何も知らない、無垢な瞳。普段なら躊躇する光景。
しかし、今は、それを食べることの残酷さよりも、「美味そう」という感情が彼を支配していた。
サックリと揚げられた白えび。一噛みすれば、柔らかな身からじわりと旨味が広がる。衣のサクサク感とぐんにゃりとした身のアンバランスさが堪らない。粗塩も良いアクセントになっていた。
ビールを開けることすら忘れて、無我夢中で箸を進めれば、淡い桃色で埋められていた空間は、白くつるっとした紙の色に変わる。
「痛ッ」
眠りから起こされるように、幸せな時間を邪魔する刺激。翔平が口の中に指を突っ込むと、白えびの触覚が取れた。気高くピンと立ち上がったそれを、ムッとした表情で凝視する。けれども、ジッと見ているのがあまりにも馬鹿馬鹿しく、そして懐かしく、彼の中で笑いが込み上げてきた。
小さい頃から、変わらない。
白えびの唐揚げを食べると、大人も子供も、何回かに一回はこうやって逆襲を食らっていた。
ゆるりと自分の肉体となっていくだろう白えびよりも、遙かに多くの年を重ねたというのに、酒も飲める年になったというのに、小さい頃の記憶と変わらないものがある。そのことが、どうしてか堪らなく、おかしくて仕方なかった。
小刻みに腹を振るわせて、ビールのプルタブに手を掛ける。カッシュという、気の抜けた音を味わう前に、黄金の液体で勢いよく喉を鳴らして、温まった腹を冷やす。
「俺も、大人になったんだな……」
苦いと思っていたものが、今は美味いと思うようになった。
憧れは、手にしてみれば呆気なく残酷だった。
週末に父親が遊んでくれる確率が二分の一だったのも。
裏返した洗濯ものにクレームを言う母親も。
洗濯と掃除をして、夕飯を作る面倒さも、段々と分かるようになってきた。
いや、未だにあん肝と春菊の美味さは分からないし、母親から来る連絡の理由も分からないけれども。それでも、いつか理解出来る日が来るのだろう。
包み紙を傾けると、するりと滑る白えびが赤い海の中に飛び込んでいく。地元で食べるよりも、少しだけ水っぽい。それがより、郷愁を誘う。
翔平はズボンからスマートフォンを取り出す。画面の通知は消えていない。ビールを片手に、右手でタタタとスワイプ。それから青年は、満足そうに立ち上がって風呂場に消えた。
テーブルに置き去りにされたスマートフォンがシュポッと音を鳴らす。液晶がパッと光って、文字が映し出された。
『俺は白えび食った。お盆には帰る』 既読
『東京でも白えびが食べられるちゃね。お盆、元気に帰って来られま。待っとるよ』
<一品目『白えびの唐揚げ』 了>
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