はなのごはん アラカルト

ユト (低浮上)

 一品目 白えびの唐揚げ

前編

 バスを降りてトボトボと。街灯の少ない住宅街を、一人の青年が俯いて歩く。


 入社して、早一か月半。

 社会人になって初めての大型連休をアパートで一人虚しく過ごした紺谷こんや翔平しょうへいは、久しぶりの慣れない仕事と、休暇明けの感情を処理しきれずに摩耗していた。


 東京都二十三区の外れ。

 ここの暗さだけは、彼の地元と少しだけ似ている。

 棒のように重たい、無機質にも感じる足を止め、もったりとした空気を頬に感じながら、空を見上げた。

 数えるほどしか見えない、弱々しい星たちが健気に輝いている。東京の星は少ない。

 無数にあるはずの光は、スモッグに隠されているのが常だからだ。強いものしか、見てももらえないのは、空も地上も変わりがなかった。


 紺谷は見えない星に自分を重ねて、ため息を吐く。


「これが東京か……」


 狭い空も、耳にこびりついた喧騒も、ガラス越しに永遠と続くネオンも、ずっと憧れていたものだった。何でも出来ると思っていた。でも、現実は………。


「帰りたい……」


 小さな声が闇に溶けていく。

 誰からの慰めもない。代わりに、スマートフォンがブブッと震えた。

 ゴツゴツとした手をスーツのポケットに突っ込み、しかし、何も取らずに手を抜く。青年は空っぽの手を見つめ、それから、ワックスのついた髪をグシャリと掴み、乱暴に掻いた。


 どうせ母親か、どうでもいいサイトの通知だ。友人だったとしても、何を話せば良いんだ。大見得を切ったのに、辛いなんて言えっこない。


 鬱々とまとわりつく焦燥と苛立ちを、頭を振って、振り払う。心の声に無視を決め込んで、ただただ足を動かす。


 だが、突如として現れた、どこか懐かしい、空腹を誘う匂いによって翔平の足が再びピタリと止まった。

 翔平の覇気のない顔がグッと持ち上がる。無意識に、ふらふらと匂いのもとへと吸い寄せられていった。


 *


 彼が辿り着いたのは、オレンジ色の看板が目立つ惣菜屋だった。軒先に貼られたお品書きの白い紙が、やわらかな光に照らし出されていた。


「白えびの唐揚げ……」


「それ、美味しかったですよ」

 突然、声を掛けられたことで、翔平の体がびくりと震えた。

 彼は油切れの機械人形のように、不自然に、或いは無礼に声の女を無言で見下ろした。


「いきなり声を掛けて、すみません」

「あ、いや……」


 太った女が眉尻と頭を下げる。

 モゾモゾと居心地の悪い沈黙が、残酷なまでにゆっくりと流れる。普段は煩わしくさえある都会の騒音も、ここでは無関係。


 立ち去ろう。


 そう考えて踵を返しかけた彼の背に、「お悩み中ですか?」と声が掛かった。

 若い女の優しい声。

 無視するのも悪い気がして、「いや……」と、翔平が顔だけ振り返ると、エプロンに三角巾を付けてニコニコと微笑む店員と目があった。


 ほんの少しだけ顔を赤らめて硬直する青年。

 停止された時間は、彼の近くにいた太った女が、「白えびに惹かれたみたいですよ」と言ったことで、再び動き始めた。

 だが、女はそれ以上口を開くことなく、店員と青年にペコリと頭を下げて立ち去っていく。

 その丸い背に翔平が声を掛けるよりも早く、店員が楽しそうな声を上げた。


「白えびは、関東だとあまりメジャーではないんですが、富山の白い宝石とも言われている海老なんです。桜海老のような濃厚さとは違って、じんわりとした甘みがギュッと詰まっていて、とても美味しいんですよ!」


 夜なのに、キラキラした瞳が眩しい。

 翔平は、視線を下げる。彼女と目線を交わらせないように、ポツリと返した。


「……知ってます」

「え?」

「俺、富山出身なので」

「まあ! そうなんですね! 良いなあ。富山はお魚もお米も果物もお酒も、全部全部、美味しいですよね!」


 両手を合わせて、楽しそうに言う声。地元を褒められるのは、どこか恥ずかしく、でも嬉しくもあった。


「……でも、何もないですよ。冬になれば雪で大変ですし」

「雪かあ。憧れるけど、実際に住んだら大変なんでしょうね。こっちだと、積雪五センチでパニックですよ」

「はあ……大変ですね」


 五センチなんて、積雪のうちに入らないだろうと思った言葉は、ゴクンと飲み込む。

 会話が続いているとは言い難かったが、不思議と居心地の悪くない、このやり取りに水を差したくもなかった。

 どこか擽ったい気持ちを抑えて、青年が白い紙を指す。


「……白えびの唐揚げ、貰えますか?」


 久しぶりに食べたくなった。それだけだと、自分に言い聞かせる。チラリと店員を見ると、彼女は嬉しそうな笑みを浮かべていた。


「はい! 何グラムにしますか?」

「何グラム?」

「ああ、わかりにくかったですよね。すみません」


 ペコリと小さくお辞儀した彼女は、幾つか並んである透明なカップケースの内、一番小さな、手のひらに収まるほどのケースを取って彼に見せた。


「これが五十グラムになります。この横のだと百グラムで、」

「あ、じゃあ、五十グラムで」


 まだ説明を続けようとする彼女を遮る。翔平はその量で充分だと思った。何しろ、まだ新入社員。先月の給料はないのだ。

 有体に言えば、手持ちがなかった。


「五十グラムですね! 今から揚げるので、八分ほどお待ちいただきますが、よろしいでしょうか?」

「え、今から揚げるんですか?」

「はい。白えびの唐揚げはどうしても出来立ての方が美味しかったので、作り置きをしていないんです」


 店員が申し訳なさそうに、青年を見上げる。小動物の上目遣い。

 ここで、「やめておきます」という言葉を出す勇気は、彼には持ち合わせいなかった。もっとも、そんな勇気がこれまで発揮されたことは一度もないが。


「じゃあ、あの、八分待ちます」

「ありがとうございます!」


 彼の気持ちなど知るよしもない店員は、にこりと笑って、グッと華奢な腕を持ち上げる。「では、ちょっと揚げてきますね!」と頼もしく宣言すると、小さな背は店の奥へと去って行った。



 八分。

 ゲームをするにも、中途半端な時間だ。

 そう思いつつも、ついクセでポケットからスマートフォンを取り出してしまう。パッと光る画面に映し出されたのは予想通り。母親とSNSの通知だった。


「『今日の夕飯は、筍ご飯でした。翔平も美味しいものを食べられよ』か……」


 実家にいるときは、何も考えなくてもご飯が出て来た。家を出て、マックでもカップ麺でも酒でも、好きなものを食べる生活が出来るようになった。

 誰にも何も文句を言われない。まさに、自由。けれども、何を食べても満たされた感覚は薄いのは悩みでもあった。

 ジクジクと胸が痛む。どこか、熟れすぎた桃のえぐみに似ていた。


「かあちゃんの筍ご飯、美味かったにゃあ」


 本当に独り言のはずだった。


「ありますよ! 筍ご飯!」


 元気よく飛び込んできた声に、びっくりして顔を上げると、店舗の奥から顔だけひょっこりと出した店員が笑いかけていた。


「ありますよ、筍ご飯。今日、採ってきたんです!」

「採ってきた……?」


 理解が出来なかった。話の流れから察するに、筍だろうとは想像できた。でも、竹も見当たらないこの東京で、採れるものなのだろうか。

 しかし、自慢げに笑う彼女に、「それは、筍ですか?」なんて、間抜けな質問は出来なかった。

 ジッと見つめられて、翔平の頬が次第に赤く染まっていく。慌てて視線を逸らした彼が小さく、「じゃあ、それも……」と言うと、「はい!」と元気の良い声が返ってきた。


 ピピピッとタイマーが鳴り響き、店員が再び奥に引っ込んでいく。

 ドギマギする自分の胸に戸惑っていると、揚げ物特有の甘い匂いを身に纏わせた彼女が、白い包紙を持って現れた。


「お待たせしました! 今、筍ご飯もよそいますね。ご飯のサイズは大中小、どちらにしますか?」

 「小で」と言いかけて、翔平の腹がグゥと反論をした。恥ずかしさのあまりに、バッと顔を下げる。チラリと目だけで店員を盗み見ると、彼女はとても幸せそうに微笑んでいた。


「『はなのごはん』で、お腹を空かせて貰えるなんて嬉しいです。人間、美味しいものの匂いには抗えませんから」


 先程とは違う意味で、耳まで赤くした翔平は、小さく頷くことしか出来ない。


「うちは大盛り無料なので、ご飯は大盛りにしておきますね。余るようでしたら、冷蔵庫に入れてください。ギリギリ明日の朝までは持ちます」


 下を向いたまま、翔平の頭が縦に振れる。


「お味噌汁はお付けしますか? キャベツと玉ねぎ、お豆腐のお味噌汁なのですが、美味しいですよ」

「……お願いします」

「はい! 少々お待ちくださいね」


 カチャッと金属音が鳴り、ふわっと出汁の効いた甘塩っぱい匂いが翔平の元まで届く。

 彼の腹にいた小動物は、今や大動物になりそうだった。

 青年がグッと腹に力を込めるのと、近くからカサッと小さな音が鳴るのは同時だった。


「お待たせしました! 八百六十四円になります」

「電子マネーでお願いします」

「あっ、ごめんなさい。うちは現金のみなんです」


 店員は申し訳なさそうに、トンっと台に指を置く。思ったよりもカサついた指を追うと、透明なディスプレイの上には、『現金のみ』と書いてあった。

 「すみません」と頭を下げる彼女に、翔平も「あ、いや、すみません」と頭を下げた。

 妙な空気になる前に、まだ固く馴染んでいない鞄から、くったりとした財布を慌てて取り出す。


「千円で」

「はい、千円お預かりしますね!」


 店の割に古ぼけた、けれども妙にしっくりくるレジスターが、チーンと鳴った。

「百三十六円のお返しです! またお待ちしておりますね」

 満面の笑みと一緒に返された手の中の硬貨が、妙に温かく感じる。

 ビニール袋をつかみ、店員に軽く頭を下げると、彼はアパートに向けて再び足を動かした。

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