第2節 ゲームの謎と誓い
第37話 静かな帰還
「おはよう」
早朝、俺は、自室から居間に降りて行った。雪見障子から、夏休みとは思えない真っ白な景色に驚き、暫く佇んだ。
「どうも長く寝過ぎたようだ。微かに夢を覚えてはいる。冒険中に、膜状の壁を突き抜けた感じがするんだよな。しかし、一炊の夢とゲームは違うよな。美味しい感覚は間違いがないし、皆は本当にいた」
頭が重い。久し振りに、
「お待たせいたしました」
母さんがお盆でお茶を運んで来る。ああ、親父にだな。
「母さん、俺もお茶が欲しいな。とか、甘えたりして」
父さんは、新聞を畳んで、横に置いた。猫舌にも程よい、母さんの愛情たっぷりのお茶をいただく。テレビのリモコンを母さんが渡している。いつもの変わらない風景だ。ただ、久し振りな気がする。そこへ、パタパタと可愛い足音がした。
「ああ。今日は管弦の朝練なの。私、トースト食べたらもう出るね」
あれ。いつから優花が化粧を覚えたのだろう。俺は大学生で優花は高校生だった筈。JK女神は皆、すっぴん美人だったな。優花には似合うから、俺が口出しするものでもないだろう。
「優花か。おはようございます」
「おはようございます。優花さん」
親父も母さんもお堅いな。そうだ。俺には、朝の挨拶もお茶もないし、どうしたのだろうか。
「それでは、行って来ます」
店の裏にある玄関から門扉を抜けて、優花が行ってしまった。俺は、話し掛けようと、続いた。家の近くの丁字路で止まっている所、声を掛けてみる。
「優花。俺だよ。直人だよ。親父と母さんはどうかしたの?」
俺より遠くへ手を振っている。兄さんは、ここだよ。
「あはは。おはよう、ヒナちゃん」
ありり。友達に挨拶したのか。
「もう直ぐ五月の連休だね。何処かに行くの? 優ちゃんは」
「うん、富士山の方に行こうって話になっているの」
「へえー。楽しみだね」
「富士山だって? 霊峰富士か……」
夢の記憶を辿った。ペガサスのホワイトシュシュと別れてから、透明な階段を降り、途中、壁に阻まれて素っ飛んだ覚えがある。
「……それから。それからどうなったのだろう。『ペガサバ』の続きを探してみようかな。今朝は、起動すらしないで、居間へ顔を出したからチェックしていないんだよ」
優花は友達と朝練へ行ってしまった。家の方へ踵を返した所だった。
「朝靄も気持ちがいいな。こんな朝は、母さんの丹精込めた庭で花の香を楽しみたい。そうだな、今の季節はいつなんだろう。ゲームをしていたのは夏休みだったけれども、雪はないよな」
家に着くと、店の方へ回る。
「懐かしい気持ちで一杯だな。凛とした香がいい」
ふと、靄の中、庭を散策している人影を感じた。
「母さん? 店の支度はいいの? 親父は?」
母さんが黙っている。
「質問攻めは悪かった。花の手入れかい? ああ、また質問をしてしまった」
待てよ。母さんじゃない。シルエットで長い髪を揺らして。ワンピースの裾を翻す。ある筈もない風を一点に身にまとったようだ。俺の一瞬が全て彼女に注がれた。緊張して、庭のとある木へと向かう。そのシルエットもこちらへ来る。
「お、お、おはようございます」
俺は、それしか言えなかった。しかも、俯いたまま。その木にそっと触れると、花弁がひらりと落ちて来た。
「おはようございます! 大神直人さん……!」
俺のことを大神直人さんと呼ぶ人はただ一人。それに、生真面目な声色に聞き覚えがある。
「ああ。これ程に感動というものが押し寄せて来ていいものだろうか」
ピンクの波紋が彼女の周りを彩っている。梅の花弁がピンクの正体だった。
「抱き締めたかった。……梅香さんを」
梅の木の下で、梅香さんはこくりと頷く。背中に腕を回し、ゆっくりと輪を作る。そのまま、ゆるやかに彼女を俺のものにする。髪を抱くと、とても澄んだ香りがした。
「梅の香が、冬から春へと繋いで行く。もう、堪らないよ」
この季節は梅香さんのせいなんだね。
「いい……?」
それから、俺達はピンクのキスをした。
「ん……」
長い長いキスの後、涙を拭い合った。
「何て呼んだらいいのかな?」
「ニャートリーでもいいですよ」
茶目っ気たっぷりにウインクをされると、どうしようかと思う。しかし、ピンクのふわもこだったニャートリーがしっくりくるのは、このピンクのキスのせいか……。
「一つだけ思い残したことがあるんだ。これからは、本業に専念したい。その旨を伝えに家族にもう一度会いたいのだけれども、そんな虫のいい話はないよな?」
「ありますよ。簡単です。大神直人さんの自室にあるゲームを全てオフにすれば大丈夫です」
俺は、無茶な願いをしたと思ったが、そんなことだとは。あっけらかんとしてしまった。これからは、程々の真面目に戻ろう。そのとき、頬にあたたかいものを感じた。
「え?」
ちゅ。
「え? え?」
ちゅっちゅっ。
「あ、あの。さっきから、あたたかいものが多いのですが。皆、見てますって! ぷはあっ」
自身の頬に手を当てる。
「今は、大神直人さんは半分魂だから、大丈夫ですよ」
ちゅちゅちゅ。
「あ、いや。俺が恥ずかしい。梅の木も照れているから!」
「もう、ピンクに彩られてください」
「ピンクまみれだよ……!」
JKファームは花咲いたな。ぽつりぽつりと沢山の花が。まさかの八柱目の女神、梅の女神がニャートリーだった。こんなに可愛い彼女がいる。俺が存在していい訳は、優しい彼女がいてくれるから。彼女が傍にいなかったら、俺は霊峰富士で消えていただろう。
「ねえ、梅香さん。大切な話を聞いて。梅の花が咲いている間だけではなく、ずっとずっと末永く、幸せにしたいと思う。どうしたら、そうできるかも分からないけれども。こうして煌めく梅香さんが、どうしようもなく愛おしいくてさ」
おい、上目遣いに何か企んでいないか?
「だめん」
「ニャートリー! もとい、梅香さん! 性格変わったか?」
もこもこと俺に甘えて来た。
「ニャニャ。だめん」
「俺は、もう――」
ピンクのキスに目眩を覚えた。
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