夕暮れ時の一目惚れ

黒鉦サクヤ

◆◆◆

 夕暮れはもの悲しく、憂鬱な気持ちをさらにどん底まで突き落とす。この橙と藍色のコントラストを見る度に、苦い気持ちになるに違いない。

 そんなことを思いながら、俺は行く当てもなく海沿いの道を歩いていた。

 悪いことは続くものだ。勤めていた会社が倒産し、会社の寮に入っていた俺は部屋を追い出された。観光地でも何でもない場所でスーツケースを引きトボトボと歩いている姿は、田舎では不審人物に見えるだろう。それでも、家具などが備え付けの部屋でスーツケース一個に荷物が収まったのは、不幸中の幸いだ。

 しかし、困った。ここが都会なら一晩の宿など漫画喫茶でもなんでも安価なところがすぐに見つかるだろうが、ここは田舎だ。そんなものはない。あったとしてもラブホくらいで、そこを利用すれば、翌日には目撃情報が広まっていそうな気がして嫌だった。せめて観光地であれば、宿泊施設があったのに。

 漏れるのは溜め息と腹の音だけだ。

 そういえば、と気付くと今日は何も食べていなかった。ポケットを探ってみるが、飴一つ見つからない。

 この道を歩いて行ってもコンビニどころか店屋もない。それは分かっていたが、この辺りは県道があるだけで、右手には山、左手には海と休める場所がないのだ。歩き続けるしかない。


「せめて公園でもあればなぁ。あー、神社仏閣もいいな」


 バスが日中は三時間に一本、夜は無しという運行状況。おかげで、もう少しで日が落ちるという頃に放り出された俺は、どこへ行こうにも足がなかった。宿泊施設のある隣町まで歩き続けるしか道はなく、こうして県道を歩いている。

 歩き続けて足は棒のようになっていたし、座る場所を探してもガードレールくらいしか見当たらない。タクシーを呼べばよかったと思いはしたが、来るまでに時間がかかるし、その間に夜になってしまう。


「詰んだ……」


 坂道を登りきったところで、諦めてガードレールに腰掛ける。ガードレールの先は断崖絶壁で、遥か下では波がちゃぷんと音を立てていた。波の合間に岩が見え、このまま落ちたら即死だろうなと思う。

 自分と荷物が落ちてしまわないように気をつけながらぼんやり眺めていると、岩場に美しい色の何かが見えたような気がした。目を凝らしてみたが、すでに宵闇が訪れてきており、よく見えない。先程よりも藍色の方が強くなってきていた。

 見間違いだったのだろう。きっと、夕闇の見せた幻だ。

 その時、遠くからエンジン音が聞こえた気がして勢い良く顔を上げる。もし、タクシーだったら止めよう。そんな淡い期待を持った俺は、次の瞬間、空を舞っていた。

 声を上げることもできなかった。耳に聞こえた衝撃音と眩しいくらいの光、そして体が引き裂かれるような痛みを感じながら俺は意識を飛ばした。



◆◆◆


「おーい、もうそろそろ復活してほしいなー?」


 俺の頬を誰かが叩いている。軽く刺激を与えられて、俺の頭はようやく覚醒し始めた。

 さっきのは何だったんだろう。夢じゃなければ、俺は車に轢かれ、崖から落ちた。確かに空を飛んだのだ。岩に叩きつけられたかどうかは、途中で意識が飛んだから分からない。

 そもそも、なぜ俺は無事なのか。

 体の状態を恐る恐る確かめる。手や足は問題なく動く。肋骨やその他の骨も折れているだろうと思ったのに、痛みはない。衝撃もすごかったから内臓だって破裂していたかもしれないのに、まったく痛みを感じなかった。

 そこまで確認し、俺はようやく目を開ける。

 すると、目に飛び込んできたのは夕暮れの空だった。先程、夜に変わったのではなかったのか。それとも、まる一日寝ていて再び夕方が訪れたのだろうか。


「おぉ、ようやく目が開いた! 見えてるー?」

「えっと……キミは……」

「人魚でっす!」


 なんだろう、聞き間違いかな。人魚って聞こえた気がする。

 俺は目の前の人物をよく見る。仰向けだったから顔しか見えなかったが、視線を落とせば普通の体が……無かった。本当に人魚だ。下半身は鱗のついた尾びれで足がない。色白の肌に真っ青な尾びれが映えていた。チャラ男な口調だが、人魚の顔は眉目秀麗で清楚だった。この顔が軽口を叩く姿を想像できないと思ったが、俺の頬を叩いていたのは目の前の人物で間違いない。

 美しい顔に尾びれと同じ冴えた青の髪がかかり、思わずそれを目で追った。


「人魚だよー?」

「え? あぁ、そうみたいだね」

「驚かないんだね。さすが、僕のお嫁さん」


 また変な言葉が聞こえた気がするんだけれども。


「お嫁さんとは?」

「そのまんま。あなたはねー、あそこから落ちてきたんだ」


 人魚が指差したのは先程まで俺がいたガードレールだ。見るも無残に壊れてしまっている。流石にあそこから落ちたら死ぬだろう。痛みがないのもすでに死んでいるからなのかもしれない。まさか、こんな簡単に死んでしまうとは思わなかった、と考えていると俺の腕を人魚が引いた。


「ということは、俺は死んでしまって、ここは海の底?」

「残念! 死にそうだったところを、僕があなたに一目惚れしたから助けたんだよ。だから、僕のお嫁さん」


 ちなみにあなたを轢いた人はあそこ、と人魚が指差す先を見れば、海溝へと吸い込まれるところだった。


「あの人たちは死んじゃったから海溝行き。あなたは生き延びたから、僕とここで暮らそうね」

「うん、まったく全然分からないな!」

「だって、あなたは僕の肉を食べたからぜんぶ治って元通り。恩人である僕と暮らすのは当然じゃない?」


 首を傾げた人魚の長い髪が揺れる。まるで海藻のようだな、と思ったところでここが水の中だということに気がついた。水の中なのに息ができている。それは、俺の体が水の中に適応したか、何かの秘術で息ができているかのどちらかだ。

 しかし、先程の人魚の話からすると、人魚の肉を食べると不老不死になるという逸話通り、俺は不老不死になったのかもしれない。


「つまり、人魚の肉を食べた俺は、人ではないからここで暮らすしかない?」

「当たりー!」

「でも、別にキミと……」

「僕の一等大事なものをあげたのに」


 言葉をかぶせてくる人魚を前に、それはキミの勝手だろう、という言葉を飲み込む。助けてくれた相手に放つ言葉ではない。


「混乱していてすまない。でも、俺はキミのことを何も知らないんだ。だから嫁と言われてもピンとこないというか」

「そうかもしれないね。だったら、余計一緒に暮らして僕のことを知ってもらわないと」


 それはそうなんだが、どう見てもこの人魚は胸もないし骨格的にも男だった。そして、俺が嫁らしい。同性婚に偏見はないが、自分が前触れもなく当事者になるのはどうなのか。

 あぁ、同性婚の前に異類婚になるのか。そんなどうでもいいことを考えている間に、人魚は俺の手を引き自分の家へと連れて行く。


「夕暮れの海台にある僕の家だよ。これからはあなたの家でもあるけどね」

「夕暮れの海台……この集落の名前?」

「いつでも夕暮れ時の空が見えるからね」


 現実と夢の狭間にあって、逢魔が時に繋がるんだと人魚は言う。

 本当に自分は異界に来てしまったのだ。見る度に苦い気持ちになると思った夕焼け空なのに、今は美しく、そして懐かしいと感じる。


「きれいだな」

「そうでしょー? 僕のお気に入り」


 思わず漏れた声に、人魚が笑いながら言う。俺よりも背の低い人魚を盗み見れば、屈託なく笑うその笑顔に目を奪われた。心からの笑みを浮かべる人魚は、本当にこの景色が好きなのだろう。

 名も知らない人魚は俺に一目惚れしたという。そんな、名も知らない人魚の笑顔に不覚にもやられてしまった俺も、きっと同じなのだろう。

 行くあてもなく彷徨っていた俺は、人魚に拾われここにいる。天涯孤独の身の上だったし、仕事はなくなり、元の世界にも特に未練はない。


「遅くなってしまったけれど、助けてくれてありがとう。まずは、自己紹介から始めようか」


 夕焼け空を見ていた先程よりも嬉しそうな人魚は、心をくすぐるような甘い笑みを浮かべ、俺の差し出した手を握る。

 ひやりと冷たいその手が、俺の頬に触れ去っていくのを目で追ってしまうのは、離れていくのがさみしいと思う気持ちからだろうか。お嫁さんはよく分からないが、人魚に対して不快感はない。一等大事なものをくれたという人魚に、俺は何を返せるのだろう。

 仕事どころか命まで失いそうになった日。俺は夕暮れの空が美しい異界で、俺に一目惚れしたという人魚を手に入れた。

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