03 不法侵入
先に泣いてしまったのは、どちらだったのか。もう今では、覚えていない。
「……ナトラージュ。貴女は、何もかも奪っていくのね。私の欲しかったもの……全部」
「違う……本当に。そんなつもりは……ないわ。信じて。お姉様……ごめんなさい」
姉のスカーレットは眉を寄せて、唇を震わせた。我慢強く、今まで弱音など吐いたことのなかった姉が初めて浮かべた表情。それを見て、胸がぎゅうっと締め付けられて苦しくなった。
彼女が、この出来事によって、どれだけ深く傷ついたかを思い知らされるから。
「……謝らないで。もう。私に、何も言わないで」
「お姉様……」
くるりと背を向けた、姉スカーレットの遠ざかって行く細い背中。寂しそうで悲しそうで、声には出さない悲痛な嘆きがどこからか聞こえてくるようだった。
ナトラージュは、その光景を思い出す度に、どうしようもないやるせない思いが心の中に広がった。
彼女をそんな思いにさせてしまったのは、他でもない自分の存在だった。ゆっくりといなくなってしまう姉に、もう何も言えることはない。
本当は追いかけて、全部自分の気持ちも何もかも説明したかった。けれど、それが何になるんだろう。救いになるだろう何かを彼女にあげることは、間違いなく出来ない。
妹が、ラスに選ばれた。それが、彼女を傷つけた。
どうしようもない不可抗力であるのは、わかっているはずだ。その場に彼女も居たのだから。けれど真面目な性格で、周囲の期待に応えようと必死で努力してきた姉を、あんな風にまで追い詰めたのは……妹のナトラージュの存在だ。
どんな言い訳も、懇願も、彼女は求めてはいない。
(……ごめんなさい……お姉様。たくさん傷つけてしまって、ごめんなさい。私のこと、これ以上嫌いにならないで!)
閉じていた瞼にじわりと涙が滲んだ感覚がして、ナトラージュはパッと目を開いた。
ぼやけていた視界がだんだんとはっきりとして、自室の様子が見えて来た。最初に目についたのは、大好きな本を読みつつ興奮しているのか。ゆらゆらと揺れる、ラスの尻尾の黒い影。
(夢……そうだよね。お姉様が、嫌っている私に会いに来るはずがない。お姉様が欲しかった物を、何回も横取りして……嫌われて当然の事をしてしまったんだもの。きっと、それは……もう許しては貰えないだろう)
ぼんやりと、ラスが幻獣界からやって来た三年前の出来事を思い出した。
ナトラージュの実家であるリンゼイ伯爵家には、幻獣界最下層に住む闘竜の内の一匹、ラスの父親と古き時代に友となり盟約を交わした祖先が居た。
闘竜は竜族の中でも力が強く、寿命も非常に長い。よって、世代交代も少ない。だが、もし自分に子どもが産まれたら人界で社会勉強をさせる代わりに、|縛られし者(リガート)として、子孫であるリンゼイ家の召喚士が生きている間は守護を与えようという約束を交わした。
偉大な召喚士であったというリンデント初代王が呼び出したという、聖獣ロスアラミトスが守るこの国でも、国に仕える召喚士の数は多くない。召喚士になれる特別な素質を持つ者自体が非常に少なく、とても貴重な存在だ。
闘竜との盟約の事実も、半ば伝説化しようとしていた今の時代。ある召喚士が友となり、呼び出せる鍵を渡している高位幻獣から、リンゼイ家の当主へと伝言があった。
祖先と約束を交わしたという闘竜から「そろそろ、子どもが卵から孵りそうだ」という知らせを聞いた、ナトラージュの父親は俄然浮き足立った。彼は二人居る娘の内、体質的に高い魔力を持ち召喚士として向いているだろうと思われる長女に、幼い頃から徹底的に教育を施した。
闘竜を呼び出せる召喚士など、この世界中を探してもそうはいない。必ずや、将来はこの国の要職に就き、リンゼイ家に繁栄をもたらすだろうと考えた。
けれど、盟約通り現れた闘竜の赤ちゃんだったラスが選んだのは、召喚士になるだろうとされていた姉に代わり、リンゼイ伯爵家を継ぐ婿を取るため遠縁貴族の次男坊カミーユ・ファーガスと婚約を交わしていたナトラージュだった。
召喚士になれば、貴族として領地経営や社交などに奔走する当主の夫を助け、邸を取り仕切る女主人になることは出来ない。ナトラージュはカミーユと婚約解消をし、召喚士となる修行をするため王都へと出てきた。
姉のスカーレットが、妹といずれ結婚し家を継ぐという名目で出入りしていたカミーユに好意を持っていたのを、ナトラージュは幼い頃からずっと知っていた。
けれど、まだ幼かった姉妹二人は、家で絶対的な権力を持つ横暴な性格の父親の決定には逆らえるはずもない。
妹ナトラージュは優秀で美しい姉スカーレットに比べれば、人並みの能力しか持っていなかった。利に聡い父が姉に期待をかけるのも、無理はない。そして、姉は常に圧をかけられる苦しい日々を耐え、自分に負けることなく父の期待に応え続けた。
期待されない妹のナトラージュは、頑張っている姉をただ近くで見ていることしか出来なかった。
けれど、この時のために導師の一人が描いた特殊な召喚陣から人界に現れた赤ちゃん闘竜のラスは、そんな姉妹の複雑な思いなど知ることはない。ただ無邪気に「この子が良い」と、ナトラージュを前脚で示した。
あの瞬間にスカーレットの表情の抜け落ちた顔を、ナトラージュは数年経った今でも忘れることが出来ない。
(お姉様は、好きだったカミーユと結婚して家を継ぐことにはなったけど……努力していた自分を差し置いて、ラスが私を選んだことは、許せなかったんだ。それは、ラスのせいでも、お姉様のせいでもない。私が小さな頃から重圧を感じていたお姉様の苦しみを、自分には関係ないことだと、見て見ぬふりをしていたことを……お姉様は……わかっていたんだ)
自分はああいう苦しい立場になりたくないと、心の何処かでそう思っていた。本当なら、リンゼイ家の子どもの一人であるなら、盟約によれば選ばれる可能性があった。妹の自分だって、一緒に努力すべきだった。姉の苦しみに、目を背け続けていたこと。それを、スカーレット本人に知られていた。
けれど、姉はナトラージュを、決定的なあの時まで決して責めたりなんかしなかった。
(……嫌われて、当然だ。ただ、言葉で謝ったからって、許されることじゃない)
同じ部屋に居るラスは本を読んでいる事に夢中になっていて、うたたねをしていたナトラージュが起きたことにも気がついていないようだ。
故郷に残る姉を想い、ぎゅうっと手を握りしめて、続けて溢れ出しそうになっていた涙を堪えようとした。
突然、部屋に一つだけある大きな窓から柔らかな低い声が聞こえた。
「ナトラージュ」
「……ヴァンキッシュ様?」
ナトラージュは、驚いて引っ込んだ涙を手の甲で擦り立ち上がった。予想もしなかった彼の訪れに、慌てて窓に歩み寄った。数日前に助けて貰って以来、まさかこんな風に会えるとは思わなかった。
爽やかな風が開いていた窓から通り過ぎて、明るい陽光を浴びた長めの金髪が揺れている。
「やあ、可愛い召喚士さん」
ヴァンキッシュは開いた窓枠に手をかけると、身を乗り出してナトラージュの顔を覗きこむ。彼は稀に見る程の美形と、表現するのが相応しい。眩いまでに整っている容姿を持つ男。
「え? ……あのっ……この前はどうも、ありがとうございました。とても助かりました」
まだ昼日中なのに、彼が醸し出す壮絶なまでの色気は異性に耐性などまったくないので、いっそ怖い。思わず一歩後ずさると、ナトラージュは頭を下げた。
「良いんだよ。君のような可愛い女の子が困っているのを、見て見ぬ振りで放ってはおけないからね」
微笑みつつ中途半端に開けていた窓を上に押し上げ、窓枠に器用な動作で長い足をかけると、あっという間に彼はナトラージュの部屋の中に降り立った。
「……ヴァンキッシュ様?」
特に招いてもいないし、ヴァンキッシュが今したことは完全に不法侵入だ。ぽかんとしたナトラージュは首を傾げて、さも当たり前のことをしましたよと言わんばかりな余裕の様子を見せる彼に問いかける。
「申し訳ないんだけどね。今、追われているんだ。良かったら、匿ってくれないかな?」
きっと女性であれば誰もが言葉を思わず失ってしまう程の申し分のない笑顔で、ヴァンキッシュはにっこりと微笑んだ。
(どうせ、女にでも追われているんだろ)
わざとらしいとも言える、明るい笑顔を見せた男に、幼竜ラスは夢中になって読んでいた本から手を離さず横目で睨みながら言った。
「ちょっとした、意見の行き違いがあったみたいでね。向こうがあまりにも熱くなっているみたいだから、少し時間を置きたいだけなんだよ」
(……まじかよ。女と揉めている時に、別の女の部屋に来て匿ってくれと言えるなんて、本当に度胸があるな)
ラスは、感心したような呆れた声を出した。
「まあ……」
ナトラージュは、今まで身近で見たことも聞いたこともない修羅場に、愕然とした。その後、言うべき言葉を失ってしまう。
(やることなすこと、女の敵過ぎて……しかも、飄々として悪いことなんて何もしていませんって、様子だし。そういえば、キスする直前だったご令嬢が逃げてしまった時も、こんな態度だったけど)
「どうせ隠れるなら、可愛い君の部屋にしようと思って」
この前知り合ったばかりのナトラージュの敢えて部屋を選んだと言外に含ませる生まれついての色男に、呆れてふうっと大きく溜め息をついた。
(……確かにここまで顔が良くて口も上手い人が、その気を出して言い寄れば、女性が入れ食いになるはずだわ。いつもと変わった召喚士見習いも、つまみ食いしてみたいってところかな……)
きっとヴァンキッシュの周囲には、この前逃げ出した令嬢のような、華やかで美しい令嬢が取り巻いているだろう。ナトラージュのような、存在は彼にとって物珍しいのかもしれない。
「……私は別に、構いませんけど。こんな何もない部屋で、ヴァンキッシュ様におもてなしも出来ずに申し訳ないんですけど」
見習いの宿舎に、貴人をもてなせるような設備など揃っている訳がない。ヴァンキッシュは、そんなナトラージュの言い分にも楽しそうに頷いた。
「愛らしい召喚士一人が居るだけで、僕には十分に快適な空間だよ」
さらっと息を吸うように甘い言葉を吐く彼は、備え付けの簡素な椅子に似合わない、ゆったりとした優雅な仕草で腰を下ろす。
腰辺りに巻かれた、幾重にも重ねた彩り華やかで豪華な布は片側だけ膝より下に垂れている。普通の人が着ると、なんだか変な格好になってしまいそうだけど、彼のような信じられない程の美形が着ると、様になってむしろこの上なくお洒落に見えてくるから不思議だ。
細かく美しい細工が施された剣帯も、腰より少し下に無造作に斜めにかけている。これは南国オペルでは正装らしいが、多少着崩していても、全くだらしない感じがしない。
(きっと、彼はどんな格好していても、どんな表情になっていても美形なんだろうな……)
彼と自分のお互いの容姿を無意識に比較して、あまりの神様の気合いの入れようの違いに、納得がいかない気もする。けれど、もし万が一彼と同じ顔形になったとしても、修羅場の真っ只中にこんな風に何食わぬ顔が出来ているかと言われると、それは違うような気がする。
きっと、ヴァンキッシュ・ディレインは、全ての条件が偶然に一致した奇跡のような存在で間違いない。
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