竜に選ばれし召喚士は口説き上手な外交官に恋の罠に落とされる

待鳥園子

01 とんでもない獣

 頬から顎に流れた汗がぽたりと落ちて、からからに乾いている地面にすっと染み込んだ。


 肩に届くほどの長さで切り揃えられた、絹糸を思わせる黒髪が揺れた。白いフードを被った色白の顔に、大きくぱっちりとした黒い瞳と赤い唇。


 さんさんと強い日差しが照りつける中で、彼女は召喚士が幻獣を招くための召喚陣を描く鍵杖を両手にしっかりと持っている。まだ見習い召喚士の彼女が手にしているのは何の飾りもない、ただの白い杖だ。その身の丈より、ほんの少し短い程度の長さだろうか。


 彼女は持っている鍵杖を両手でぎゅっと握り締めて、粘土質の赤茶けた地面に円を描いていた。ただ、黙々と正円を描き続けている。描いては靴で押し消して、また描いてを繰り返す。


 ぽたぽたと地面に落ちる汗が、辺りを包む熱気のせいで、まるで最初から存在すらしなかったように呆気なく蒸発していった。


(ナトラージュ……大丈夫か)


 傍らに体を伏せていた小さな青い竜が、遠慮がちに問いかけた。光にきらめく透き通るような青い鱗を身に纏い、良く出来た細工物のような翼を持っている。幼いと言えど顔は凶暴にも見える、猛々しい立派な獣だ。


「……ラス。待たせちゃって、ごめん。なんだか、夢中になりすぎちゃった。今日はもう終わりにする。あっつい……」


 白い鍵杖は、収納するための特別な呪文を口にすると空に消えた。


 ナトラージュは雲ひとつ見当たらない、真っ青な空を見上げた。真夏の太陽は厳しく、万人に等しく容赦などはない。肌を突き刺すような日差しを避け、体を休める場所を探し、熱された地面をよろよろと覚束ない足取りで歩き始めた。


(俺が氷のブレスを吐いてやろうか。冷たいし、涼しくなるぞ)


 立派な翼を持っている癖に、先を行くナトラージュに合わせてか、ペタペタと可愛らしい足音を立てて青い竜ラスがその後を着いてくる。


「イヤよ。ラスはまだブレスの威力の加減が、出来ないでしょ。この辺り一帯、凍っちゃうじゃない」


 ラスは幻獣界に住む、闘竜と呼ばれる攻撃に特化した竜だ。鱗の色を見てわかる通り、属性は氷で口から凍て付くブレスを吐くことが出来る。


(ブレスを使えるようになったばかりの頃に比べると、俺も大分上達してきただろ)


 ラスは大きな口元を器用に上げ、にんまりとした得意そうな表情で笑った。


 彼が主張する通り、一面が氷の世界になることはなくなった。けれど、それは右か左かという方向性を定められるようになった程度だ。ナトラージュは、返答に困り曖昧に笑う。下手なことを言って、彼の懸命に上達しようとする気持ちに水を差したくはない。


 見習い召喚士の修行用に作られた、専用の広場を抜ける。やがて見えて来た城の内部へ向かう渡り廊下の周辺には、緑生い茂る庭園が広がっている。


 王が住む城で雇われた、一流の庭師が丹精込めて細やかに手をかけているせいだろう。植えられた植物達が思い思いに咲いているようでいて、計算されている調和を持って整然としている。


 ちょうど季節なのだろう、遠い南国から取り寄せたと言う、この国リンドンテには自生していない鮮やかで華やかなピンク色の花が花盛りだ。


 庭園の隅に休むのに良さそうな木陰を見つけると、ナトラージュは人目を気にして辺りを伺いながらも、やっと腰を落ち着けた。


「……ふぅ……ちょっとだけ、練習するつもりだったのに。時間を忘れちゃった」


 召喚士として一人前だと認められるシルフィード召喚まで、もう少しだった。


 気まぐれで有名な風の妖精を確実に召喚するという、召喚術への強制力をそこで問われている。こちらの方を気にしているという手応えを感じているから、召喚陣となる図形を完璧に描いて呼びかけへの力を強めれば、確実に呼びかけに応えてくれるかもしれない。


(あんまり無理すんなよ。練習で体調崩して倒れたら、元も子もないだろ)


 ぶつぶつと小言を言いながらも、熱っぽくなっているナトラージュの体を、自分の鱗で冷やそうとしてか、ラスが自分の体を沿うようにぺったりと寄り添い密着してくる。


「……心配してくれて、ありがとう。ラス。だけど、見習いから一人前の召喚士への昇格って、皆が経験することだもんね。導師さまだって、見習いの時は必死に修行していたと言っていたし……」


 ラスは、深く青い大きな瞳でナトラージュを見上げた。


(だからと言って、頑張り過ぎないでくれ。ナトラージュがいないと、俺は立派な闘竜にはなれないんだからな)


 ナトラージュは、自分のすぐ傍に居る青い竜の、まるで境目がないなめらかな鱗を撫でた。ゆっくりと手を滑らせると、微細な氷がまるで空気中に撒き散らされているかのような冷たさを感じた。


「うん。わかってる……ラスの身体、冷たくて気持ち良い」


(ラスは、本当に心配性。私の事は自分が守らなければと、赤ちゃんだったこの子が躍起になっているのは、なんだか可愛いけど……)


 ただ決められた道を歩むような人生だったナトラージュに、召喚士になれるという別の道を示してくれたのがこの幼い闘竜だ。


 幻獣界奥深く最下層に住むという種族、闘竜をナトラージュ以外で|縛られし者(リガート)として、契約を交わしているのは、召喚士の中でも特に力を持つ導師にもただ一人居るだけ。とは言っても、あちらは立派な成獣で赤ん坊に近いラスとは、能力差が天と地ほども違う。


 |縛られし者(リガート)とは召喚によって幻獣界から呼び出した召喚士と契約を結んで、人が住まうこの世界に在ることを承諾した幻獣のことを指す。


 通常の場合、召喚士は力量に応じた契約しか出来ない。だが、ラスの父親とナトラージュの遠い昔の祖先が結んだある盟約により、産まれてきた闘竜の子が希望すれば子孫が|縛られし者(リガート)として、契約出来ることが決まっていた。


 闘竜ラスは、三年前に産まれた。けれど、人で換算すれば精神年齢は、既に十歳を過ぎた少年くらいだろう。賢くも恐ろしき親愛なる幻獣は、成長の速度が体の成長とは伴わない。


 ひと心地ついたナトラージュは急に頭がくらっとして、身体中に熱っぽさを感じた。


 大きく息をついて、芝生の上に体を横たえた。むせるような草の匂いを放つ芝生が、ふかふかと体全体に柔らかく当たった。両手で抱き締めていたラスの冷たい体を、頬に感じるようにして体を丸めた。


「ラス。ごめん……少しだけ、このままにさせて。すぐに……起きるから」


 雲のない空であんなに我が物顔をしていた太陽は、そろそろ落ちてしまう。もうすぐ、夕食の時間が来てしまうが、とにかく今は怠い体を休ませたかった。


(わかったよ)


 体調の悪さを察してか。短く応えた冷たいラスの鱗が肌に当たり、体に篭った熱気を吸い取ってくれるようだ。ナトラージュは、ゆっくりと目を閉じた。


(……ナトラージュ)


「……何?」


 頭に直接響くラスの声は最初こそ戸惑ったものだが、いつも傍に居て三年も経った今では、すっかりと慣れてしまっていた。産まれたての赤ちゃんの頃の舌足らずな彼の声が、懐かしく思える程に。


(誰か、来た。二人だ)


「え?」


 ナトラージュは慌てて、この場所を去ろうと立ち上がろうとはしたものの、時もうすでに遅し。ラスが感知した気配は、すぐそこにまで迫っていた。やがて、こちらへと近づいてくる男女二人が囁き合っている声がした。


「……君以外の誰にも、僕の心は奪えないよ」


 柔らかな低い声で男が囁き、それに気を良くした女は、薄紫の扇で隠した唇からくすくすと楽しそうな笑い声を漏らした。


「あら。とっても、お上手ですこと。ヴァンキッシュ様」


 女は囁き甘えるように彼の名前を呼び、男は絹の手袋に包まれた手を取り、そこに軽く口付けをした。手慣れた情事のご挨拶。


「甘い唇には、きっとどんな果実もかなわない」


 二人の唇と唇が触れ合う寸前で、不機嫌な声は頭の中に響いた。


(おい、先客が居るかどうか確かめろよな。こっちの迷惑も考えろ)


 唐突に繰り広げられる濡れ場に息を殺し、どの段階で立ち去ろうかと思案していた時だったので、ナトラージュはひどく慌てた。


 いきなり頭の中に、ラスの声がして動揺したのか。錯乱気味になった女は高い悲鳴をあげて、薄紫のドレスの裾を抱えて城の方向へと走って逃げて行ってしまった。


 特に名残惜しそうするでもなく、走り去っていく彼女を淡々とした視線で見送るどこか物憂げにも見える美貌の男が一人残る。夕日を背から受けると、彼の持つ豪奢な金髪が眩い光に照らされた。


 ナトラージュは、目の前に佇むその男の事を、良く知っていた。敢えて情報を集めようとしなくても、彼ほど悪目立ちする男なら城に居る誰もが知っている。


(南国オペルから派遣された筆頭外交官、ヴァンキッシュ・ディレイン。聞きしに勝る、女癖の悪さ。しかも、キスをする直前に相手に逃げられちゃったのに、残念がる様子もない。彼にとっては、その程度の事って意味なのかな。こうして近くで見ると、信じられない程に美しい顔だけど、とんでもない獣(ケダモノ)だわ。モテ過ぎてしまうのも……考えものかも)


 ヴァンキッシュにまつわる数多くの噂を思い出すと、彼以外では決して有り得ない色っぽい話ばかりだ。その中でも強烈なのは神殿に仕えていた敬虔な巫女が、一目見た途端に彼に恋をして何もかも捨てて還俗を望んでしまったという話。


 結局、その元巫女となった女性は、数ヵ月後に別の男と駆け落ちして行方知れずになってしまった。信心深い巫女を口説き落とし、誑かしたと言うなら別だが、流石にただそこに居ただけの、彼へ責任を問う訳にはいかない。


 けれど、大騒ぎとなったその一件で、この国リンドンテ現王には、すっかり嫌われてしまっているそうだ。


 頭脳が商売道具である文官なのに、まるで鍛えられた騎士のような上背のあるすらりとした体躯に、豪奢な金髪に若草色の瞳。そうして、生きて動いているのが信じられない程の美貌を持つ人。


 常夏の気候である南国オペル特有の服、腕を出した黒い上衣に、腰には幾重にも重なった柄入りの豪華な腰巻と見事な細工の剣帯を巻きつけている。飾り物にも美しい宝石がこれでもかと嵌め込まれ、キラキラときらめいている。


 ただそこに立っているだけだと言うのに、まるで羽根を広げた孔雀のように人の目を引き付ける存在。


 ナトラージュはさらりとした黒髪を揺らし、ゆっくりと上半身を起こして口を開いた。


「ディレイン様、申し訳ございません。暑気あたりで休んでいましたところ……少し、間が悪かったようで」


 こちらが先客ではあるのだが、彼は異国の外交官でこの国には属さない。ひととなりもわからない今、もし彼が面倒な性格なら、機嫌を損ねれば面倒なことになってしまう。俯き、出来るだけ申し訳なさそうな表情で謝るしかない。


(なんで、こっちが謝るんだよ! ナトラージュ。向こうが少しでも気をつけていたら、これは避けられた事だろう)


 具合を悪くして横になっていたナトラージュは、いくら人目につきにくい場所を選んだとは言っても、青い芝生が広がる見晴らしの良い所に居た。気をつけて辺りを見回せば、それを簡単に見つけられたはずだとラスは怒っている。


 確かに幼いラスの言っていることは、常識的でもっともな意見ではある。けれど、大人には自分が謝らなくて良い場面でも、謝らなければいけない時がある。平静な顔を装うナトラージュは、これからこの事態をどう言って挽回しようかと内心焦っていた。


 もし、彼が意地の悪い性格なら、なんとでも難癖がつけられる状況だ。


 ヴァンキッシュ・ディレインを怒らせてしまえば、国と国が火花を散らす外交問題にも発展しかねない。出来るだけ、この場を穏便に済ませたかった。


「本当に、申し訳ございません」


 ナトラージュは、とにかくこの場を立ち去りたかった。正義感が強いラスに言い聞かせるのも、このヴァンキッシュのいないところの方が良い。


 とにかく立ち上がろうと、足に力を入れようとした。けれど、一歩目を踏み出す前に膝が崩れ落ちてしまう。炎天下に長時間外に居たので、自分では気がつかない間に、体はひどく消耗していたようだ。


「……大丈夫かい?」


 ヴァンキッシュは、優雅な動きで男性らしい筋張った手を差し出すと、よろけてしまったナトラージュを支え、あっという間に一気に胸に抱き上げた。


 とんでもない美貌を持つ優男だが、意外と力が強くて驚いてしまう。思いもよらぬ状況に、小さく悲鳴を上げてしまった。


「ディレイン様! おっ……重いので! どうか、降ろしてください。一人で歩けます!」


「つれないな……僕の名前を知っているなら、どうかヴァンキッシュと呼んで。立ち上がることすらままならないのに、無理をしない方が良い。そんな体では、何処にもいけないだろう? 僕が部屋まで、送って行くよ」


 どこか楽しげに見える彼は、柔らかな声音で諭すように言った。


「あの……あのっ」


 ほんの少ししか離れていないのに、未だかつて見たこともない美しい顔に微笑まれ、ナトラージュは顔が真っ赤になった。こんなに近くにまで男の人と顔をくっつけたことはない。


 数年前まで普通の貴族令嬢だったナトラージュは、同じ年頃の男性とあまり親しくしたことがなかった。こういった触れ合いも、特に経験がない。


「困った顔をしないで。体調が悪い女の子を放ってはおけない」


(部屋に忍んで来たら、俺が凍らせてやるぞ)


 立ち上がったラスは凶暴な表情になり、凄むように牙をむいた。ヴァンキッシュは、面白そうに顔を傾け不敵に笑う。


「とても、良いね。竜に守られた宝物なんて、是が非でも手に入れたくなる」

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