手の届く距離感で

和響

第1話

 「美咲ちょっと待って」と声をかけられて振り返ると、同じクラスの萌絵が通学鞄をかけながらこちらに向かって走ってくるのが見えた。今日は月曜日、部活はないし、私に何か用事でもあるのだろうか。


 私と萌絵は小学校の時からの友達で、同じピアノ教室に通っている。それもあってか、中学に入ってからは一緒に合唱部へ入ったけれど、いつも合唱の伴奏をするのは萌絵で、私は毎回補欠的なポジションに収まっている。そもそもそんなにピアノも好きではないはず。


 でもそれももうすぐ終わる。中学を卒業したらそこでピアノ教室はやめて、もう高校からは合唱部に入るなんて真似はしない。毎回誰かとピアノを競って負けて、そんなのはもう終わりにしたいと思っている。


「ごめんね、さっき話したかったんだけど、奏太がいて話せなかったんだよね。これ、やっぱりみんなで出ようよってことになりそうでさ」


 ほらやっぱりねと心の中で呟いた。萌絵が手にしているその紫陽花の写真が美しいA4用紙はデザインされた白い文字で「紫陽花あじさいまつり」と書かれていて、私たちの住んでいる街が主催しているイベントのチラシだった。


「でもそれって、もろ中間テスト期間にあるやつじゃない?」


「そうなんだけど、今までにやってきた曲から一曲だけってことならいいかもって先生がね。それに奏太もやりたいって言ってるし」


 奏太は私の隣の家に住んでいる幼なじみで、小さな頃から一緒に遊んでいた仲だけど、ここ数年はほとんど話という話をしていない。それもこれも合唱部に入ったせいだ。


――もう本当、やりたい人たちだけでやればいいんだって。


 そうは思ってみても、いうことはできない。そんな性格の自分は少しだけ嫌だと思うけれど、いざこざに巻き込まれてしまうのがどうしても嫌だった。流れるままに周りに合わせていけばなんとかなって過ぎてゆく。自分の意見をいったところで反対されてしまったら嫌な空気を生み出してしまうだろう。


「それで?」


「それでね、その時のピアノの伴奏は美咲がいいんじゃないって、奏太が」


「え? 私!? 」


「そう、美咲がやったらどうかなって。私もそう思うんだよね、美咲ピアノうまいしさ」


 どの口がそんな言葉を放つのだろうか。発表の場があるたびに、毎回ピアノの伴奏をしているくせに。そんなことを心の中で吐いている私はやっぱり嫌なやつかもしれない。


「だってもう三年生だからさ、美咲もピアノ伴奏した方がいいんじゃないかって、奏太が。私もそう思うし」


 そういう何気ない言葉が私の心の中に土足で入ってきて、穏やかに育てている大切な畑を踏み荒らしていくということを美咲はわからないのだろうか。


 「どうする?」と横髪でも前髪でもない触覚を触りながら萌絵が聞いてくるけれど、正直断る以外の選択肢はないと思った。


「ごめん、塾が毎日あるから練習できないと思う」


「でも、ピアノは家でも練習できるし、それに美咲どの曲選んでも全部弾けるじゃん。大丈夫だよ。みんなだって部活のある期間ギリギリまでは練習するけど、テスト期間に入ったらもう自宅練習で本番前に合わせるだけだって」


「でも、そんな街のイベントで、それもステージでいきなり本番って無理だよ。私学校のステージでも弾いたことないんだよ?」


「でもさ、ほら、ピアノの発表会では毎年引いてるし、そのステージの方が大きいじゃん。文化センターのステージで弾いてるんだから大丈夫だって」


「私じゃなくて、萌絵がいつものように弾けばいいじゃん」


「それじゃダメなんだって」


「なんで?」


「それは、まあ、あれだよ」


「なに?」


「うんと、ダメなんだって」


「もう、だからなに? なんでダメなの? 」


「でも、奏太が、そうそう、部長の奏太がそういうから」


 「そんなの」とまで声に出て、これ以上話していると今まで避け続けてきた人間関係のもやもやに飲まれていくような気がした。できるだけ波風立てずに上手くこなして卒業まで持っていき、高校生になりたい。もう人間関係のもやもやに振り回されたくはないからだ。


――でも、ステージでピアノ伴奏って……本当嫌なんだけど。


「と、いうことで、はいこれ!」


 半ば無理やりに手に紫色のイベントチラシ渡され、「え?」と私が声をあげた時には、萌絵はちょうど横を通り過ぎた仲良しの李梨香に腕を絡ませて下駄箱へと向かっていた。



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