いずれ菖蒲か杜若

えびまよ

いずれ菖蒲か杜若

 拝啓、山田様。


 ベッドの横にあるサイドテーブルから、そんな手紙が出てきた。半年前に、彩芽が書いたものだ。茶色の便箋に真っ白な紙で、中身は別れの文章。ご丁寧に彼女の拇印まで最後に押されている。あのときはひどく驚いたものだ。

 怒らせた記憶も、悲しませた記憶もない。それどころか、ぼくたちは喧嘩すらほとんどしたことがなかった。

 そんな彼女が急にそんな別れを告げると、ほとほと思わなかった。


「なに読んでるの」


 どうやらトイレから帰ってきたようだ。桃色に白の水玉模様なパジャマを着て、機嫌がいいのか最近はずっと笑顔な彼女は、足早にベッドで座っているぼくの隣へやってきた。興味津々とばかりに、読んでいた手紙に顔を突っ込んでくる。

 そう、彼女は三日とたたないうちに家の鍵を忘れて帰ってきたのだった。まるで、友達と半日遊んできたぐらいの感覚だった。旅行ですらない、そんな日常の感覚。

 この手紙は、そんな不思議な日常の思い出だった。けれど、彼女はその手紙を見ると体がビクンと跳ねて、それから硬直した。


「なつかしいでしょ?」

「早く、捨ててよ」


 こんな思い出はいらない、とばかりに彼女は気まずそうに唇を尖らせる。ぼくが理由を問いかけると、持っていた手紙を奪い取ってゴミ箱に放り込んでしまった。

 ああ、なんでだよ。ゴミ箱から回収しようと腕を伸ばすと、彼女が僕の手首をつかんだ。


「もういいの、恥ずかしいから」


 同棲を始めてからというもの、今まで知らなかった一面がたくさん見えるようになった。結婚したら豹変する人は多い、とよく聞くけれど、もしかしたら彼女もそうなのだろうか。それまで、ずっと彩芽を消極的でおとなしい子だと思っていた。なんせ、あまり外に出たがらない彼女は妹のつばめちゃんに連れられて、ようやく外に出るぐらいだ。大学生の頃は、よく三人で遊んだなあ。

 

 彩芽は枕を持って、こちらへグリグリと押し付けてくると、口を固く結んで何とも言えない表情でジッと見つめてきた。ぼくは笑いながら彼女の肩を押してベッドに倒すと、寝っ転がっている彼女にゴールデンウィークの予定を聞くことにした。

 昨今の事情もあって、旅行の予定こそ取っていないけれど、なにもしないというのもどうかな。


「連休、どっか行きたいところある?」

「えーと、どうしようかなー」


 間延びした声で両手を後頭部に回し、天井を仰ぎ見ている。うなり声をあげながら考えているようだ。

 ぼくは、そうだな。やっぱり、温泉かフラワーガーデンみたいなゆっくりできるところかな。でも、毎年毎年、そういうところばかりで彩芽も飽きちゃったかな。あんまり、人の多いところは二人とも得意じゃないし、ちょうどいいところは、っと。

 彼女はサイドテーブルの上にあった充電中のスマホから、線を引き抜くと調べはじめた。ぼくもつられて、寝間着のポケットに入っていたスマホを使う。


「ディズニーランドかドイツビールが飲めるフェス、潮干狩りとかいいかな」


 と、寝ながらスマホをいじっていた彩芽が上半身を起こす。

 うん、いいね。ぼくは潮干狩りの案に賛成した。

 せっかく五月だからね、明日の仕事終わりに道具を買いに行こう。


 あ、そうだ。


「久しぶりに燕ちゃん呼んだらどう」

「ええー……たぶん忙しいと思うよ。友達と遊ぶ予定あるって言ってたから」


 まあそうだよね、予定を立てるのが遅かったなあ、なんて思っていたら彩芽に腕を引っ張られた。ベッドに一緒に潜り込んで、彼女はこちらを向きながら、自分の胸元で腕を抱きしめている。こっちが恥ずかしくなるぐらい、幸せそうな顔だった。ぼくはニヤける顔を必死に隠しながら、おやすみ、とはぐらかして部屋の電気をリモコンで消す。二つの枕と、一つの布団で、リラックスした気持ちで目を閉じた。


 *


 車に荷物を入れて、いざ出発。今日は晴れ、ほどよく雲が空に広がり、ちょっと寒いぐらい涼しい。潮干狩りには絶好の日だ。

 慣れない高速道路に悪戦苦闘しながらも、サービスエリアへ止まるごとにやってくる旅行の雰囲気を楽しむ。自宅から一時間と走らせる。

 フェンスで仕切られた奥に砂浜が――――いや、干潟だ。潮が引いた、非常に水っぽい元砂浜が待ち構えている。その前には田舎らしい広い駐車場が、コロナ禍で閑散していると思いきや、大量の車が停まっていた。ぼくたちも含めて、自粛する人はあまりいないらしい。

 ぼくたちは入り口から少し遠い場所に止めると、車のドアを開ける。大きな潮風がぼくたちを煽り、体を精一杯伸ばすと最高に気分が良かった。


 フェンス越しに見る干潟には、白やピンク、黄色といった明るい色の服を着た人がたくさんいる。車から手荷物を両手に抱えて、料金所へ向かい、入場料を払う。

 海のにおいが一層強くなって、ぼくは肺にいっぱいそんな空気を入れる。遠くに青黒い海が見える。正直に言って、あまり綺麗なもんじゃない。濃い灰色の干潟に立って、さあ念願の潮干狩りだ。

 ひとけの少ない場所を探して地面を触ってみると、柔らかい場所ばかりだった。


「ここは砂が柔らかいからもう掘られてるね。もっと固いところを探そう」


 少しくぼんだ場所に、水がひたひたしている場所。そしてまだ砂が固いこと。そんな条件に会う場所を探して、移動を続ける。

 良さげなところを見つけると、小さい折りたたみの椅子に座って、砂を掘る。彩芽は熊手で、僕はゴム手袋で。

 彩芽は潮干狩りに来たことがないらしい。椅子を持っていくと言ったときには、不思議そうな顔をしていた。

 周囲をキョロキョロと、彼女が見渡す。みんなの様子をうかがうと、ぼくに耳打ちをする。


「これ椅子がないと大変だね。みんな膝を曲げて座ってるけど、腰悪くしそう」

「バケツ片手にあの状態が風物詩だけど、結構ツラいから」


 一心不乱に貝を漁って、一息ついたときに見る海は、どこか寂しいものだった。

 まだ五月とはいえ、そこにあったのは夏らしさのかけらもない、異界への入り口のような境界だった。


「こんなに取れるんだねー!」

「うん、そうだよ」


 場所を吟味すれば、貝は面白いように取れる。掘って、水が溜まって、砂が舞い上がって、なにも見えなくなる。そこへ手を伸ばし、確かな感触を感じてつかみ上げる。こんな単純な遊びが、想像以上に面白い。

 人間がしょせん動物であることを思い知らされる。太古の昔、食に困っていた時代から体の感覚は変わっていないんだ。


「なに作ろうかな」


 彩芽は魚介類が好きだ。最近はあまり作る印象がないけれど、同棲前に手料理を振る舞ってくれるときは、八割ぐらいはシーフードだった。

 貝といえば、なにがいいかな。パスタでもいいし、酒蒸しとか、バター醤油で炒めてもらってもいいし……。どうせならハマグリがたくさん取れるといいんだけどな、一気にごちそうに早変わりだ。


「私、貝はあんまり料理したことないから」

「そうだっけ。結構、昔に作ってくれた酒蒸し、覚えてる?」


 彼女は下を向いて熊手を動かしながら、覚えてるよ、と返事をする。取れたアサリやシオフキガイを網にぞろぞろと入れて、顔を持ち上げると鼻の先に泥がついていた。ぼくは笑いながら、それを手で拭った。

 おっちょこちょいだね、って言ったら、あなたこそ、って返された。しっかり者の自信はないけど、そうかな。


 二人で満足するまで取ったら、美味しい食用に適した貝だけを持って帰るために選定をはじめる。アサリは表面がザラザラしてて、シオフキガイはツルツルしている。バカガイは、継ぎ目が……なんて解説をしながら、海に食べない貝を戻していく。


「貝の見極めなんて、よく知ってるね」

「子供の頃は毎年、行っててさ」


 持ってきたペットボトルに海水を入れて、クーラーボックスで貝を冷やして、体についた砂を真水が出る蛇口で洗って――――。

 着替えを終えると一息ついて、空を見上げる。太陽は雲に隠れていた。痛くなった腰に手を添えて、上半身をぐいっと反らす。ところどころ、関節がポキポキと音をたてる。


「お疲れさまー」

「今日はどっかでご飯食べて帰ろうか」


 程よい疲労感に、ベタベタの体。今日は帰ったらなにもしたくないな。彩芽もきっとそうだろう。

 案の定、彼女もうんうんとうなずいて、ぼくたちは車に乗り込んだ。なにを食べようかな、こういうときは海に近いから海鮮丼とか、寿司とかもいいな。

 二人で外食をどこにするか盛り上がりながら、出発した。


 夕食に訪れた寿司屋を出ると、日が落ちて、空はすっかり暗くなっていた。

 美味しかったー。と彩芽が弾けるような笑顔で、こちらを振り向く。それから彼女は、まばたきを何回かしながら僕の左下の方へ視線を飛ばす。

 ぼくもその方向を追いかけてみると、そこには鉢植えに紫色の花が植えられていた。


「これ知ってる?」


 ぼくは素直に、知らない、と答えた。そして、綺麗な花だね、と付け加えた。

 彼女はその花へ近づくと、しゃがみ込む。線の細い手指から、一本だけ真っすぐに人差し指を伸ばす。その先には、紫色の花びらがあった。


「花びらの付け根に、すーっと白い線があるでしょ」


 ほんとうだ、気づかなかった。よく見てみると、その花は自重に耐えられないのか傘みたいに山なりへ花びらを垂らしている。その花びらの根本には、確かに白い筋が葉っぱの真ん中ぐらいまで通っている。

 うん、いい花だ。家の中に飾りたいと思うぐらい、可愛らしい花。


「これが菖蒲って言うんだよ」

「君の名前と同じだ」


 やけに詳しいと思ったら、自分の名前と同じだからか。

 自分の愛している女性が、花を愛でている姿か。とても日本の風流らしい、すてきな絵だと思った。

 彩芽は立ち上がると、目尻を下げて微笑む。ぼくの手を握って、駐車場へ向かった。

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