写真

和泉茉樹

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       ◆


 富田沙彩にとって、写真というのは身近なものではなかった。

 それを沙彩に教えたのはクラスメイトの山咲椿で、しかし教えたと言っても写真の技法について教えたわけではなく、ただ、写真撮影の会、サークルを教えただけだった。

「なかなか面白いよ、チヤホヤされて。高校生だし。それもリアルの」

 その頃はまだ学校の教室で雑談するのに何の抵抗も問題もなかった。

 実に技巧的な名前の友人の言葉に、沙彩はどう答えるべきか、ちょっと迷った。

 そんな沙彩に椿は静かに言った。周りに聞こえてはまずい、という声のひそめ方だった。

「別にイヤらしいことはないし、大抵の人はおじさんでね、実にのんびりしているものなの。趣味のサークルでね」

 こうして椿が沙彩を口説いているのは、撮影会のモデルとして参加しないかという頼みごとの一環で、沙彩からすれば興味もないし、やや不安で受け入れがたい頼みごとだった。

 それでも結局、沙彩が椿の頼みを聞き入れたのは、椿が口にした「私一人っていうのも、もしかしたらと思わなくもないしね」という言葉だった。身の安全の保証として、沙彩はモデルにならなくていいから現場には来てくれ、というのである。

 土曜日の昼過ぎで予定はないし、椿は「終わったらカフェでお茶でもしようよ、奢るからさ」と提案してきて、結局、沙彩は折れたのだった。

 当日になり、現場というのはよくわからない一戸建ての建物の中だった。二階建てで、外観はしっかりしている。しかし長く使われていないようで、内部に生活感はない。それなのに家具などは簡単に揃っている。

 沙彩が椿と中に入った時には、四十代らしい男性二人がカーテンを設置していた。遮光カーテンではなく、レースの真っ白いカーテンだ。窓からは昼の強い光が差し込んでいる。

 沙彩が自己紹介をする間もなく、「彼女、今日は見学ですから」と椿が中年男性に伝え、二人はちょっと沙彩を眺めてから興味を椿に移してしまった。

 邪魔にならないように、と少し離れたところで沙彩は撮影会が始まるのを待った。

 驚いたのは女性が二人来たことで、どちらも大学生らしい。もちろん、椿とは知り合いで、沙彩は初対面。なんだ、一人じゃないか、と沙彩はちょっと不満だったが、黙ってた。それくらいの社交性はある。それに、二人の女性もグルかもしれない。

 二人の女子大学生はすでにメイクもばっちりで、髪型も様になっている。それを見てしまうと、今日の椿は普段よりメイクに気合が入っていて、髪の毛も丁寧に巻いてあると分かる。沙彩だけが地味だった。

 それから男性もやってきたけど四人だけで、先にいた二人を含めた六名がカメラマン、椿と二人の女子大生がモデル、ということらしい。

 撮影会という表現から、もっと本格的なものを想像していたけど、例えば照明装置などはなく、男性陣はただ大ぶりなカメラを持っているだけだ。沙彩としては拍子抜けである。

 実に奇妙な撮影会は、まったく自然に始まった。

 男性陣がカメラを構え、女性陣は部屋の中を移動しながらポーズを取っていく。一カ所で何枚も何枚も撮るし、男性たちが指示を飛ばすので、やけに時間が長く感じた。

 沙彩はやることもなく、椿が男性たちの前で様々な姿勢を取るのを眺めていた。

 性的なものは何もない。まさしく健全な撮影会だった。

 しかし、と沙彩は椿の様子を見て目からウロコが落ちるような思いだった。

 普段の教室にいる、制服を着た椿からは想像もできない、生き生きとした表情や仕草、姿勢が目の前にあるのは新鮮だった。

 十五歳らしい、瑞々しい笑顔や、身振りから感じ取れるハツラツさ。

 二人の女子大生もそれぞれに魅力を発揮している。大人の女性らしい艶っぽさや、憂いのようなものがカメラの前で表現される。

 モデルをする、ということを沙彩は全く深く考えていなかった。

 ただカメラの前に立って、ポーズをとればいいだけだと思っていた。

 しかし実際に目の当たりにしていると、ささやかな姿勢の変化や、視線の配り方で印象はまるで変わってくる。それは撮れた写真を見るより前からわかった。

 撮影は三十分ほどで終わった。それからは全員で大きなタブレットに写真を表示させて、意見を言い合うような形になった。これがこの撮影会の恒例らしい。アマチュア、それも趣味で写真を撮っているような人たちが、ああだこうだと意見を言い合っているのを、沙彩は離れた位置で見ていた。

 ここにいる人たちはプロの写真家になりたいようでもないし、ただ綺麗な写真を撮りたい、というだけの欲求から行動しているようだ。ただ、礼儀なのか、下心なのか、モデルたちを褒める言葉も多かった。

「沙彩、ちょっと」

 急に椿が声をかけてきて、全員の視線が同時に沙彩に向いたので、一瞬、沙彩はたじろいだ。椿が構わずに手招きするので、そっと沙彩はそちらへ歩み寄った。

「どれが一番いいと思う?」

 椿が言いながらタブレットを差し出してくる。

「私、写真とかよくわからないから」

「いいのいいの、どうせみんな、素人だし」

 椿の冗談に、男性たちがそれぞれに笑う。

 仕方なく、沙彩はタブレットを指でなぞって、写真を次々と眺めていく。

 どれもよく撮れている。素人とは言えない気もするほどの写真も多い。沙彩が写真を見ている間に男性陣は撮影環境について話していた。光が良かった、とか、今度は屋外で、とか、そんなやり取りを聞きながら手元では写真を閲覧していく。

 思わず手が止まる一枚があった。

「これでしょうか」

 沙彩がタブレットを周囲に見せると、男性陣が声を漏らす。

「渡辺くんの一枚だね」

 男性の一人がそう言って、どうも、と答えたのは一番若い男性だった。

 彼だけはまだ二十代くらいに見えた。実は撮影の間から気になっていたのだ。それは彼が、ほとんどモデルに声をかけないからだ。ただ淡々と、シャッターを切っていた。

 私が選んだ一枚は、椿がうつむいている場面の一枚だった。

「なんか地味じゃない?」

 椿の指摘に、沙彩はどうとも言えなかった。

 本当に直感で、感覚的に選んだので、純粋に沙彩自身の好みだったのだ。

 すぐに男性陣が議論を始め、沙彩の評価はどこかへ消えてしまった。

 時間になって片付けが終わると、玄関を出たところで解散になった。椿は本当に沙彩をカフェに連れて行ってくれたけど、撮影会の終わりにモデルの三人には封筒が渡されていた。ちょっとしたバイト、ということか。

 沙彩はすぐにその撮影会のことは忘れてしまった。

 だからその誘いに乗ったのは、まったく予想外の想定外、不意打ちだった。

 中間試験が終わった頃、椿が休日に「公園へ行こう」と誘ってきた。

 一度、了承してから撮影会が思い出された。

「違う違う、撮影会じゃないよ。プライベート」

 そんなことを言う椿を、沙彩は不審に思いながら、まぁ、良いかと受け入れた。

 初夏の晴れた日、沙彩は近所の公園へ向かった。季節はやや空気が熱を持つ頃で、しかし外で遊ぶにはちょうど良い。

 実際、公園にはすでに椿がいて、沙彩を見ると座っていたベンチから立ち上がった。

「お茶でも買ってきてあげよう。そこらで落ち着いていて」

 さすがに「一緒に行く」と言った沙彩だったが、椿は「ここにいなさいね。場所取り、よろしく」と離れて行ってしまった。

 しばらく沙彩は一人でベンチに腰掛けていた。

 日差しが強い。日焼け止めを塗ってきてよかったと思いながら、それでもベンチに座った状態で日傘を開いた。

「こんにちは」

 いきなりの声に、だから沙彩は何の備えもしていなかった。

 目の前の地面にスニーカーを履いた足があり、顔を上げると自然を持ち上がった日傘の向こうにその男性の顔が見えた。

 逆光に眼を細める。

 そこにいるのは、いつかの撮影会にいた若い男性だった。

 名前は、渡辺……?

 ここに至って、沙彩は椿が自分を罠にはめたとわかった。

 その罠が健全なものなのか、悪ふざけなのかは、すぐには判断できなかった。

「座ってもいいですか」

 渡辺の言葉に、どうぞ、と沙彩は答えたが、声がかすれていた。緊張しているのだ。こういうシチュエーションは人生で経験したことがない。椿が飲み物を持ってきてくれれば、と思ったけど、状況からして椿は当分、戻ってこない。

 沈黙が重く感じられ、沙彩はそれとなく日傘を閉じた。日焼けなんか、どうでもいい。

 それよりも逃げたい。

「僕の写真を、褒めてくれましたよね」

 やけに長い沈黙の後、渡辺がそう言った。

 でも、どう答えるべきかは、沙彩には言葉が見つからなかった。

「ええ、はい、その……」

「僕の写真、褒めてくれる人が、あまりいなくて」

 そうなんですか? とも、そうですか、とも、沙彩は言えなかった。

 褒めたのは事実だ。そして今、思い出してもあの写真は良い写真だった。

 写真は、だ。彼のことはわからない。

「サークルの先輩たちみたいに大胆になれないのがよくない、という話もあるんですが」

 大胆?

 さすがに沙彩の表情の変化を読み取った渡辺が慌てて言葉を付け加える。

「もっと声をかけて仕草を引き出せ、大胆に指示を出せ、ということです」

 ああ、そう……、としか沙彩は言えなかった。変な想像をした自分が恥ずかしいし、渡辺を不快にさせたかもしれないのも、申し訳なかった。

 そろそろこうして会っている理由を尋ねるべきだろうか、と沙彩は思った。

 ただ渡辺が、妙なことを言い出した。

「僕、静かなのが好きなんですよ。色々と」

「静か?」

「本を読んでいて、そういうことを感じること、ありませんか?」

 まったく分からなかったので、沙彩は話を打ち切る前に咄嗟に首を傾げてしまった。これが渡辺の誘いのテクニックだとすればいい鴨だと思ったけど、そうでもないらしく、渡辺は一方的にまくしたてるように言葉を続けた。

「小説の背景音みたいなものを僕は感じるんですけど、一部の作家の小説にはそういう音が全くないんです。静かなんですよ。僕は写真でもそういうものを撮りたいかな、と思っていて。意味わからない、っていろんな人に言われるんですけど。天然だ、って笑われたりもします」

 沙彩にもよくわからなかった。

 ただ、ぼんやりとしたイメージとして理解できる部分がわずかにあるのは、彼の写真を見ているからだろう。

 あの、椿がうつむいてるだけの写真。

 あの写真はなるほど、沈黙のようなものを表現しているかもしれない。

 躍動感のある写真ではなく、まさしく静物画のような写真。

 無感情で、少し冷たい一方で、何かを強く主張している。

「実は、山咲さんから、何とか富田さんをモデルにできないか、と頼んだんです」

 思考に沈み込みそうになっていた沙彩は、渡辺の言葉に顔を上げた。

 モデル? 自分が?

 渡辺は真剣な様子だった。

「こうやって騙し討ちみたいにするのは、その、本意じゃないんですが、山咲さんが自分で説得しろっていうので、こうして場を作ってもらいました。ダメでしょうか?」

 それはダメだろう。

 沙彩はそう答えようとしたが、やはり表情に感情が露骨に出たらしい、渡辺が勢いよく頭を下げた。

「ほんの数枚でいいんです。撮らせてください」

 参ったな。

 思わず沙彩は周囲を見て椿を探した。もう帰ってくるかもしれない。あるいは悪趣味だけとこちらを離れたところから観察しているかもしれない。

 しかしどこを見ても椿の姿はなかった。

 沙彩は悩んだ。悩んだが、短い時間だった。

 ゆっくりとベンチから立ち上がり、「少しだけなら」と答えていた。

 渡辺は真剣な顔で頷くと、持っていたカバンからカメラを取り出した。

 どこで撮るのかと思ったら、すぐそばにある木陰だった。

 やっぱり渡辺は言葉すくなで、その木陰を「そこで」と指示した後、「自由にしてください」と言っただけだった。

 モデルなんてやったことがない。カメラで写真を撮られるのも、ふざけて友人たちと撮り合ったり、あるいは幼い頃に家族旅行で親が撮影したくらいだ。

 自由と言われても、どういう姿勢がいいのか、見当がつかなかった。

 それでもそれとなく、両手を動かしたり、足の位置を変えたり、しゃがんだり、背伸びしたり、やってみた。どこをどう変えても、動かしても、沙彩の中には違和感と不自然さしかなかった。

 渡辺はたまにシャッターを切るが、何も言わないまま。

 徐々に頭の中が混乱してきた。

 私は何を求められているのか。何をすれば渡辺の写真にいい影響を与えられるのか。

 静かな写真、という言葉を渡辺が使ったことを、沙彩は思い出した。

 静けさ。

 沈黙。

 静寂。

 そのことを考えてわずかに姿勢を変えた時、ひときわ大きなシャッター音がした気がして、驚いた。渡辺は何度か続けてシャッターを切り、そしてカメラを下げた。

「ありがとうございました」

 渡辺が丁寧に頭をさげるので、やっと沙彩は自分の役目が終わったことを理解した。

 ベンチへ戻る間に渡辺は「出来上がった写真は差し上げます」と言ったけど、沙彩は彼の連絡先を知らないのだ。そのことを指摘しようとしたところへ、のんびりと椿が戻ってきた。両手に蓋をされたカップを持っていて、沙彩の視線に気づくと、にへら、と口元を緩めた。

 それから三人で少し話をして、渡辺はあっさりと帰って行った。

「どうだった?」

 二人きりになったところで、椿が確認してくる。

「別に嫌なこともなかったでしょう?」

「うーん、それはね、変なことをすると通報されると思ったんじゃない?」

「あの人はそういうことはしないよ。今回みたいなのも、初めてだし」

 そんな雰囲気だったな、と思いながら沙彩は椿が買ってきてくれた冷えたミルクティーに口をつけた。いつの間にか氷が溶けて、味が薄まっている。

 その味に、そういえば結局、連絡先を聞いていない、と思い至った。

 でも別に、写真の一枚や二枚、受け取らなくてもいいか。

 それが沙彩がこの時に出した結論だった。

 数週間後、椿が封筒を持ってやってきた。

「これ、渡辺さんからね」

 時期的に期末試験の寸前で、沙彩からすれば渡辺と椿がどこでいつ会ったのか、というのが気になった。まさかこの時期に撮影会でモデルのバイトをするほど余裕とも思えなかった。

 教室の席で、教科書を机に伏せてから沙彩は封筒の中を確認した。椿も覗き込んでくる。

「良い写真じゃない」

 そこに写っている沙彩は、影の中で遠くを見ていた。

 光が枝葉を抜けて影がまだらの模様となり、沙彩の上に落ちている。

 陰影に幻想的なものを沙彩は感じた。

 静けさとは、このことなのかもしれない。

 この世にはない、一枚の壁を隔てた、違う空間。

 渡辺のことが急に気になっている自分がいた。

 彼のカメラの前にまた立ちたいと思っている。

 自分を、ここではない世界の、別の自分にして欲しい。

 誰かの力ではなく、渡辺の力で。

 私はそっと封筒に写真を戻し、教科書を手に取り直した。

 この時の写真は、沙彩の私室の壁に、長くピンで留められることになる。

 最初の一枚として。

 誰にも撮影者を明かさない一枚として。



(了)

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