憂き世、長屋暮らし

對酒當歌 人生幾何 譬如朝露 去日苦多

 魏の曹操は人生の儚さを想い、酒を讃えたと申します。


「吉さんまた朝寝だよ」

「『夜の仕事なんでェ』なんて吠えてるけどどうだかね」

「お辰さん可哀想」

「めおとになったばかりだっていうのに」

「辰ちゃん、血ィ抜かれたみたいに青ざめて、寝込んじゃって」

「亭主は顔色良くなってね。ありゃ酒焼けじゃないのかい」

「酒っていうと進さんもねェ」

「どいつもこいつも、長屋の呑兵衛は始末におえないヮ」

 明け六つの 井戸端 女房のかしましき

 夕の酒が残ってまだ布団から抜け出せず「おーい、水もってこい」なんて言ってる男どもと違って、朝から女たちは元気でございますナ。


慨當以慷 憂思難忘 何以解憂 唯有杜康

 憂いを忘れるには酒しかない……皇帝ですらそううそぶくわけですが、女たちは違いますな。

「お辰さん可哀想だったね」

「とうとう亡くなっちゃって」

「吉のが憑き殺したようなもんだよ」

「辰ちゃん、化け猫に取り憑かれたんじゃないかって、住職が」

「化け猫は行灯あんどんの油だろ?」

「じゃあひだる神に憑かれたとか?」

「だからひだる神は亭主の吉の字だよ」

「ろくろ首なんてのも」

「ろくろ首は男に憑く女の生き霊」

 あれこれ噂話に花を咲かせている者もいれば、やもめの世話を焼こうとする者もおります。江戸の長屋暮らしは情に厚いものでございますよ。

「えィさ、吉さん辛気くさいよ。女房亡くしたからって昼間っから引きこもらなくったって良いじゃないか」

「え? 引きこもりは亡くす前からだって? 細かいこたいいんだよ! お日様浴びて、酒の一杯や二杯や三杯呷あおりゃ気持ちふんわり春爛漫てなもんでェ……あれ?」

「あら進さんどうしたの、馬鹿みたいに口ぱっくり。今日は春一番だよ、口ンなか埃だらけになっちまうよ」

「いま吉の字を外に連れ出したら、パアっと塵になっちまってサ」

「パアは進さんあんたのことじゃないかね?」

「昨日の深酒が抜けてないんだよ」

「違いないネ」


明明如月 何時可掇 憂從中來 不可斷絶

 憂いは身のうちより湧きいずるごとし。皇帝ならぬ我々は、あれこれ気にしないのが吉でございますね。

 吸血鬼なる舶来の妖怪の話が日本に伝来する、二百年ほど前の江戸長屋の一幕でございますよ。


漢詩「樂府二首 短歌行」より 作・魏の武帝(曹操)

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