極東奇譚

宮田秩早

枚岡さんの話

 枚岡ひらおかさんは河内国一之宮、神武さんの御代から伝わる有り難い神の社でございましてな、その秋郷祭いうたら、それは盛大なお祭りでございます。

 お伊勢さんに豊穣祭がようよう無事終わった報告をする神宮遙拝の日もいれたら、四日にもわたりますのや。

 金の神輿に乗らしゃって、ご祭神の天児屋根命あめのこやねのみことさまや比売御神ひめみかみさま、経津主命ふつぬしのみことさま、武甕槌命たけみかづちのみことさまが総出で現界にお渡りになって、生駒の峰から河内の豊穣に目を細めていらっしゃる。

 ご祭神のなかに武張った方が多いのが気になりますか。

 むかしこのあたりには長髄彦ながすねひこを長とする大和の神々に服属しなかった先住の者どもがおりましてな。

 その者たちと大和の神々は、戦をば長きにわたって交えておりました。

 ここ枚岡でも、大和の軍が散々、生駒を根城にする者どもに苦しめられたとの逸話がございます。

 枚岡のご祭神に武で鳴らした神々が多いのは、そのせいでございましょうな。

 おっと、しょうしょう長話になりましたな。枚岡のご祭神の方々については、のちのち話に出てきますよってに、つい語りに熱が入ってしまいますな。

 そう、これは嘉永六年、浦賀に真っ黒いおおきな異国の船が来航したとの噂が、遠く西国まで響き渡っていた、その年の秋郷祭のことでございます。


 嘉永六年、枚岡神社の秋郷祭の宵宮。

 大勢の氏子たちが太鼓台を担いで宮入の準備をしております。

 気の早いお囃子がひゃらりひゃらりと神宮の森を縫い、音の装束を織っております。

 どこかで巫女たちがしゃらしゃらと鈴を鳴らして祭神がたのお出ましになる御座を清めています。

 そろそろ祭も始まろうかという、夕暮れ時。


「おや、音込ねこみの奥さん、お珍しい。このまえ生まれんさった四つ子は元気にしとりますか」

「あら太貫たぬきの旦那、おかげさまで元気も元気、そこらじゅう転げ回っておりますよ」

「ところで屋台ものが出るには早い頃合い、まだ四つですがな。金魚すくいが呼び込みを始めて奥さんがご相伴にあずかれるのは、暮れ六つのちょいと前からでしょうよ」

「いえまあそらそうと、あの話、聴きました?」

「ああ、そのことですかいな。あの鋳抜いぬきの兄いが弱り果ててるやつですやろ? 酷いことをしくさったやつもいるもんやと、我々、太貫の族でも噂ですわ」

「鋳抜兄の大切にしてらしたご主人の嬢や、とうとう昨日、亡くなりんさってね」

「なんとまあ、不憫ですなあ。まだ御年十七、花もつぼみでしたやろに」

「全身から血が抜かれてしもうて、肌も唇も、真っ白」

「黒船からこのかた、この日の本、けったいな事件ばかりですがな。血抜きの死者の噂は東から西へ、内裏に近づいてる、いうて噂もありますな」

「鋳抜兄は嬢やの敵討ちや、お百度踏む言うて、枚岡さんに願掛けにあがってるよって、うちはそのお付き合い。うちの族も嬢やにはようしてもらって、会うたびに煮干しやら、かつを節のかけらやらいただいてましたからね」

「そらなんとも骨折りですな」

「なにか小耳に挟んだことがあったら、鋳抜兄かうちに耳打ちしてくださいね」

「ようよう心得ておきますよ、音込の奥さん」


 場面変わって初春のほろ酔いも醒めた睦月の暮れ。

 枚岡神社の粥占の神事も滞りなく済み、松葉の艶々とした輝き、紅白の餅花も華やかな参道を、シャンシャンと鈴鳴らし二日前のぼた雪蹴る荷馬の足音響くうららかな初春の昼下がり。

 去年の不穏も改まったかに見えたその矢先のこと。


「とうとう出ましたね、都に」

井之戸いのこ姉さんも聴きましたか」

「今その話で持ちきりですからね、耳塞いでも聞こえてきますわ。鈴女すずめさんも災難でしたね」

「いえいえ、まあまあ、あの夜は根津公ねづこうさんや皮掘かわほりさんがおかしゅうならしゃってねぇ。あとで平謝りに謝ってはりましたけど、あの夜はもう……右大臣、近衛さんのお屋敷にわけも分からず押しかけてきて、わたくしどもが吃驚仰天してるさなかに近衛の娘さんが」

「真っ黒い影に血ぃ抜かれてしもうてね」

「近衛の父君のお嘆きぶり、わたくしどもも涙が止まりませんでしたわ」

「それはそうと鋳抜兄のお百度、満願したそうですよ」


 不意に初春の日が陰りました。

 鈴女さんと井之戸姉が空を見上げると、河内平野を遙かに遠く、南の空に凶々と雷の矢が走っております。

 冬の嵐が迫っているようでした。


*


 祈年祭事始め。

 五穀の豊穣と世の太平を祈る神事の日の朝。

 霜柱の参道に、さく、さく、さくと姿なき足跡が続き、ご祭神がお宮に戻られたのだと知れます。

 日の光清く、神威溢しんいいつせし大気は松の香りに澄み、山ではこうこうと神鹿しんろくの鳴き声が響いてもおります。

 そう……すべてはよりよき結末を迎えたのでございますよ。


「昨夜は神威溢々しんいいついつたる夜だったな」

「おお、久舞くまいさま、熊野の宮から遠路はるばるお越しでした」

「いやいや、鋳抜、礼ならそなたの請願を聞き届けられた経津主命さまにお伝えすることだ。あと、大咬おおかみにあってはよくよく養生するように伝えてくれ」

「それはもう。大切な主の嬢やの仇を討ってくださったのですから」

「大咬のおのれを顧みぬ働きは、我も見届けた。我も彼に尽きせぬ敬意を捧げようぞ」

「これは史鏡しかがみさま! 春日の宮からよくぞお出ましくださいました」

「武甕槌命さまの勅命とあらば参ぜぬ謂いはない。それにな、結局のところ、勝敗を決したのは武甕槌命さまの神箭よ。大咬が身を挺してやつばらを足止めしたその僅かを、武甕槌命さまは狙い定めて白木の箭を放たれた」

「儂も見たぞ。神箭がやつばらの胸を貫いた瞬間、あの黒い禍物まがつものが灰になったところを」

「しかし、そのときには大咬の心臓を、やつばらの爪が深く剔っておってな」

「鋳抜よ、大咬のこと、くれぐれも頼んだぞ」


 かようにして、久舞さま、史鏡さまは大咬さんの養生を鋳抜兄に託し、それぞれのお山に戻ってゆかれたそうでございます。

 それから五十年余が過ぎ、太平の世の眠りもとうに醒め、慌ただしく明治の喧噪が世を支配し、良きものも、凶つものも、大挙してこの日の本にやって参りました。

 そのせいかどうかして、大咬さんはふっと、蝋燭の炎が消えるように、この日の本から姿を消してしまいましてな。

 やはりあの黒い禍物との戦いで負った傷が治りきらなかったのだと、もっぱらの噂でございました。


 ああ、枚岡さんは変わりなく、世の平安と五穀豊穣を祈る民草の願いを聴いておられますよ。

 

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