第2話

 対策室に戻ると、高瀬は老人を簡易応接スペースに招き入れた。

 応接スペースと言っても名ばかりで、その実態は、最近になって柴田が松田優作のポスターが貼られた壁の前に無理やり場所を確保して作った、大人4人が入れば、肩どころか膝が触れ合うほど窮屈なもので、応接セットも、ごみ捨て場から拾ってきた、座面に穴の開いた種類の違うパイプ製の丸椅子4脚と、スーパーから貰って来た林檎の木箱に、その昔、高瀬がうっかりサウナから持ち帰って来てしまったロゴ入りの黄色いバスタオルを掛けただけと言う、元物置部屋で、高瀬の所為で常に散らかっている対策室に相応しい、簡素と言うより貧乏臭いものだ。

 おまけに、止せばいいのに、そのテーブルもどきの上に、庁舎の便所から拝借して来た100円ショップの造花を置いてある。

 それが余計に滑稽だった。

 そんな応接スペースで改めて老人と向き合い、幾つか言葉を交わした高瀬は驚いた。

 その容姿から老人だと決め付けていたが、彼はまだ50代の働き盛りであったのだ。

 しかし、高瀬がそう思うのも無理はなかった。

 それ程に男はやせ細り、眼窩は酷く落ち窪んで目には生気が無く、弛んだ目の下は隈で真っ黒で、対照的に、髪と無精髭は真っ白。間も無く還暦を迎える警視庁のベテラン鑑識員の竹山と比べても、随分と年を取って見える。

「あー……、西川さん」

 因幡から投げつけられた件の資料に目を通した高瀬は、それらを机に放り投げると、柴田が煎れた茶を勧め、ようやく口を開いた。

「その……、この書類が言うところの『娘さんの自殺』に疑問を抱いてるってこったな?」

「ええ」

 西川は茶に手を伸ばす事無く、そして力なく答えた。

「そっかぁ……。んでもなぁ、悔しいが、これ見た限りじゃ、ちょっと分が悪ぃんだよな」

 否応無しに溜息が漏れた。大見得を張ったものの、これは大失敗だったかもしれない。そう思えた。

 何しろ、状況証拠をはじめ、添付されている監察医務院の検案書。過去の事例を踏まえても、どうしても自殺と断定せざるを得ない結果となる。


 西川の娘、小春は、別件の連続殺人事件の被害者の遺体を捜索をしていたダイバーによって、偶然発見された。三週間前の事だ。

 足に錘を括り付け、冷たく暗い海の中、潮の動きに合わせて揺れるその姿は、さながら囚われた白い人魚のようだったと言う。

 何故なら、西川小春の遺体は腐敗する事無く屍蝋化し、整然の美しい姿をそのまま残していたからであった。

 遺体はその場で検死を受け、監察医務院へ運ばれ解剖された。

 そしてその結果と捜査により、死亡推定時期は行方不明になった半年前の5月。事件性無しの自殺と断定されたのである。

 死因は言うまでもなく溺死。肺にも海水とプランクトンの侵入が認められた。


 高瀬は顎をさすった。

手を動かすたび、微かにザリザリと耳触りな音がする。どうやら剃り残しがあったようだ。

「参ったな」

 高瀬のその一言を最後に、隣で肩を窄めて腰掛けている柴田、そしてその向かいの西川。全員が沈黙し、室内のオイルヒーターが、カンと音を立てた。

「高ちゃん、坊! いてるかぁ?」

 室内に重い空気が渦巻いたその時、対策室のドアが勢いよく開き、男がひょいっと顔を覗かせた。警視庁のベテラン鑑識員、竹山である。

「おっ? 竹さん!」

「まいど、まいど」

 高瀬は、顔の前で手刀を切りながら満面の笑顔で入ってきた竹山に歩み寄ると、まじまじとその顔を見た。

「なんか……。ツルッツルしてねぇッスか?」

「ははは。実は温泉行っとったんや」

「温泉?」

「せや。何かあっても、何でもありま、おん、せ~ん!」

「は?」

「せやから、有馬温泉」

「なんだそりゃ」

「ありま。ま、そう言いな」

 苦笑する高瀬の二の腕を、節くれだった手でパンパン叩くと、竹山は提げていた紙袋を自分の顔の横まで持ち上げ、ニカッと笑った。

「ほら、土産や。20個入りでも10万やで?」

「10万?」

「饅頭だけに、万が10やからな。あれっ?」

 ガクッと落ちた高瀬の肩越しに見知らぬ男の姿を見留め、竹山は口元に手をやった。

「ひょっとして……お客さんやったか?」

 思わず声を落とす。

「ええ、まあ」

 高瀬の返事に、再び「ありま」と漏らすと、ベテラン鑑識員は照れくさそうに『黒いものの混じった頭』を掻き、人好きのする笑顔を浮かべた。

 日に焼けた顔に幾つもの皺が寄る。

 それが余計に竹山の人の良さを際出させた。

「や。どうもどうも。直ぐ失礼しますんで。ほな──」

「あ、竹さん」

 軽く片手を挙げ対策室を出ようとした竹山を、高瀬は慌てて引き止めると、先ほど投げ出した資料を引っ掴んだ。

「この事案。竹さん知ってます?」

「うん? いつの……ああ」

 広げられた捜査資料を覗き込んだ竹山は、その日付を確認して苦笑した。

 11月10日──。

「いやあ、そん時はワシ、ぎっくり腰で入院しとったんや」

「ぎっくり腰?」

「そうやねん。思いの他、孫が重なっててな。こう、抱っこした途端にギクッ! や」

「孫って、小学生じゃなかったっけ」

「ジジィにとっちゃ、いつまでも赤ん坊や。まあ、そう言う事で、その日は出動してへんわ」

「そっか……。すんません。引き止めて」

「いや、ええけど。何かあったんか?」

 小さく息をつき、さも残念そうに資料を引っ込める高瀬に、竹山は聞いた。

「今日はまだ出動命令も出てへんし、なんやったら聞くで?」

 足しにならんかもしれへんけど。そう付け加えてから、竹山は高瀬に手渡したばかりの饅頭を指差し、ぎこちなく片目を瞑り言った。

「茶菓子もあるしな」

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