第4話 万世一系の創作
今からおよそ1300年前にあたる西暦720年、この国で伝存する最古の正史『日本書紀』が撰上された。かの書物に、この国の古の歴史やルーツなどが書き記されているが、そこに この国の大黒柱である天皇家の由緒もつむがれていた。
正史では、天皇家は神代から営々と受け継がれている高貴で かつ 正統な王家である旨が語られているが、『日本書紀』が成立した事情を鑑みると、少し疑わしい点もあった。というのは、かの書物は壬申の乱という古代史上最大の内乱に勝利した"英雄"天武天皇(第40代)によって編纂を命じられたものであるからだ。中国などにおいては、歴史書は王朝交代の時に編纂されていて、しかも 天武天皇は 皇室の男系の血を引いていないのではないかとも一部では唱えられていた。
正史の記述を無条件で信じるならば、天武は 第38代 天智天皇の同母弟である。だが、かの人物は 実の兄の娘を4人も娶っており、没年齢もハッキリと定まっていなかった。中世の書物などから没年齢が分からなくもないが、その説を採る場合、正史における兄の年齢より年嵩となってしまう。このようなことなどから勘案して、天武は 天智の異父兄あるいは異母兄だったのではないかと一説には推測されていた。
この論争において、現在では 天武は天智の異父兄 漢皇子ではないかとの説が有力であるように私には見受けられるが、その場合 この時点で 女系天皇が誕生していることになる。
(漢皇子の父 高向王は 用明天皇の孫とは記されているものの、用明天皇の子のうち 誰の子か不明確であり その素姓には疑義がある。)
天武・天智の母は 皇極(斉明)女帝だったから全く天皇家とは関わりがないわけではない。仮に 天武が天智の異父兄などではなく 天皇家の血を全くひいていなかったとしても、天武に嫁いだ天智の娘の1人である持統(第41代)が天皇家の血をつないでいた。そして、この持統の行動と
まぁもっとも、その行動は 持統の母親としてのエゴという見方も全く成り立たないわけではない。実際、彼女は天武と
けれども、後世の評価を含んでいたであろう諡の意味を検分したとき、彼女が天皇家の"血統を持〔たも〕つ"のに 尽力したのも、また事実だっただろうことがうかがわれる。それは更に、彼女の後継で 意志を受け継いだ女帝の血の元が 他の候補者よりも 明らかで 正しかったことについても言えた。
高向王(用明天皇の孫)
‖—漢皇子
皇極(35)・斉明(37)
‖——天智(38)——大友(39)
舒明 | ∟持統(41)
(34)| ‖——草壁
∟——————天武(40)
「—大友
|—大田皇女
天智—| ‖——大津皇子
(38)| 天武(40)
| ‖——草壁皇子
|—持統(41)‖————元正(44)
∟————— 元明(43) ∟文武(42)
正史『日本書紀』は大方、英雄 天武天皇が編纂を指示したものを、次代である女傑 持統天皇が大幅に作り替えたものだった。かの歴史書は、持統の姉弟
天照大神
‖——天忍穂耳——ニニギ
スサノオ——大国主
持統女帝(41)
‖——草壁皇子——文武(42)
天武天皇(40)——高市皇子
このようなところから、持統が夫である天武を 本当はどう思っていたかが 何となく思いやられるが、天武には長子 高市皇子を筆頭に多くの子があり、彼女が天皇家の血統を
その観念が現在へと受け継がれているわけだが、当の いわゆる"天武系"が長続きしたかと言えばそうでもない。かの系統は近親婚を繰り返した挙句、約1世紀余りで 直系は断絶。天智天皇の子孫に取って変わられたのだった。しかして、その いわゆる"天智系"は以降 現在まで脈々と受け継がれている。
つまるところ、女系天皇は選択肢としてないわけではないが、ふが悪く、永続性に疑問符が付くというのが私の回答だ。土地等でも南京や神戸など大変良いところではあるが、首都としては長続きしないという不可思議な
※"コミューン"とかいう名称の政府も良くないって言うね。
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