夕間暮れの女

 小学一年生ぐらいこと。私の家の近くには小さな公園があって、学校の帰りに、よくそこで友達と遊んでいた。夕方になると私たち決まって家に帰った。


 しかし、ある日、学校に行く前に親に叱られた私は家に帰りたくなく、友達と公園で「また明日」と別れて、一人、公園に残った。夕暮れでオレンジ色に染まっていく遊具の影が大きくなっていた。


 次第に心細くなっていく。家に帰りたくないけど、帰らなくてはならないな、などとも考えていく。私は、ただ、大きくなっていく自分の影を見つめていた。


 ふと、顔を上げてみたところ、私の視界に一人の女の人が映った。


 黒い髪は背中まであるほど長くて、空を見ている。今思えば当時の季節には合わない「ワンピース」を着ていた。そして、なによりも、その人が息をのむほど美しかった。


 すらりと細いその人の影が、私の方へ伸びていく。女の人は私に気づいたのか、こちらに顔を向けた。微笑み、軽く手を振った。私は何だか恥ずかしくなって、その場にいられなくなり、家へと駆けだした。


 その日から、私はその女の人のことが頭から離れなかった。頭の中にはあのときの「微笑み」がフラッシュバックする。そのたびに顔が熱くなる。私はいつものように学校の帰りに公園で友達と遊ぶが、その人見たさに友達を早く帰らせた。


 公園に現れるその人は、いつも同じ薄水色のワンピースを着ていて、決まって夕暮れの綺麗なときに現れる。


 女性は何だか不安げな顔をしているときもあれば、ベンチに腰掛けて本を読んでいるときや、何かハミングをしていたり、すごく安らかな表情で空を見上げていたときもあった。その人の様々な表情を遠目から眺めていた私だが、目が合うと全速力で逃げ出してしまう。


 しかし、ある日私が一人で公園に行ったとき、女性はベンチに座り、ウトウトと居眠りをしていた。その時はいつものように夕方で何の変哲もない公園での光景だった。でも、変わっていたのは私自身だった。寝ている女性に近づくと、その女性の顔に自分の顔をそっと近づけた。


 近くで見るのと遠くで見るのは違う。やっぱり綺麗なことには違いはないのだが、ツヤツヤした肌や、優しい息遣い。つるりとした唇や、サラサラな黒髪。——私は、まるで夢の中にいるような気持ちだった。


 あまりに気持ちよくて、正直このときの記憶はぼんやりしている。しかし、その中でも忘れもしない出来事が起こった。


 当時小学生だったはずの私は、その人の「何もかも」を愛せるような気がしたのだ。私はそっと、その人の頬に触れてみた。そして手をゆっくりと滑らせて、空いた胸の谷間に指先を少し入れ、慎重に押し込んでいく。白い肌が手の先にあたった。柔らかい……。


 しかし、私が顔を上げると、そこには目をパッチリと開けた女の人の顔があった。吸い込まれそうな瞳が、じっと私の目をみつめている。初めて見る表情を前にして、ピクリとも動けず、もはや息もできない。


 すると、その人は表情も変えずに私の髪の毛を掴むと、顔面を殴った。脳が揺れて、一瞬意識が飛び、鼻からは血が噴き出た。それでも殴り続けてきた。私はその人の腕を掴んで、髪の毛から離そうとしたが、ピクリとも動かない。とても女の人の力ではなかった気がする。


 私は力の限り頭を振った。その拍子に髪の毛は引きちぎられ、女の手から解放された。頭皮や顔面に広がる強い痛みで、涙を流しながら全速力で走る私の背中を、ソイツは蹴り飛ばした。膝を摺り向き、それでも私はた立ち上がろうとした。ソイツは、そんな私の腹を蹴飛ばした。


 このままじゃ殺されると思い、逆にソイツを突き飛ばしてやった。その際にソイツは爪で私の顔を裂いた。構わず、私は一生懸命に逃げた。捕まらないように、ジグザグに逃げ回り、公園を出た。


 それでもソイツは追いかけてきた。爪が僕の首の後ろを引掻いた。捕まったら終わりだと思った。


 玄関につくころにはソイツはいなかった。息を切らして周りを見てもいない。私は傷だらけで家の中に入り、玄関で倒れるように寝てしまった。


 私は親の怒鳴り声と、頬を強く打たれる痛みで目が覚めた。母が涙を流して私をゆすっている。息子が玄関で倒れていたら、無理もない行動だと思う。だけど、私は母のことよりも何よりも、自分にあったはずの傷がなくなっていたことが気になって仕方が無かった。


 その日から、私は友達たちの誰よりも先に家に帰るようになった。今でも夕暮れに現れるあの女が、何者だったのかわからない。

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