第10話 恋って簡単にできますか?

「別にパートナーなんて、無理して作ろうとしないでいいと思います」

 帰りの電車で幸田は言った。

 そりゃあんたはね、と由佳子はくたびれた頭で思った。

 光太郎からきていたラインに返事をした。

『まもなく渋谷、今日一日、戦った、帰って寝ます』

「でも、まわりを見ていたら焦るよ、きっと」

 SNSで知り合いが、知らない人が楽しそうにしている、やりがいのある仕事をしている、それだけで追い詰められてしまうくらいに、自分たちは弱っちい。

 他人のことばかり、気にする。

 他人のことを考えて行動するのでなく、それはまるで自分を見失って誤魔化そうとしている。

 もっと真剣に、自分を大事に、見つめなくては。

「わたし、男のひとのこと、好きになったことなかったんです」

「そうなの?」

「好きになったって自覚したことがないっていうか。変ですか」

 幸田が由佳子の顔をまじまじと見た。

「変じゃないと思う。そう簡単にぽこぽこ人なんて好きになれない」

 由佳子は答えた。

「ですよね。珍しく意見が一致しました」

 幸田の目元が緩んだ。

 でも、一言多いだろ、と思った。

「でもさっき、佐藤さんと話しこんでいたじゃない」

「異性と話が合うだけで、好きだの付き合ってるだの、中学生みたいなこと言わないでください」

 幸田はいつもの厳しい目つきになった。

「ごめん」

 そういうことで、彼女は傷ついてきたのかもしれない。その横顔は、潔癖な中学生みたいだ、と由佳子は思った。

 その頑なところ、きっとみんな好きになってしまうんだろう。店にやってくるファンたちみたいに。

「ところで幸田さん、どこ住んでるの?」

 まもなく渋谷、というところでわたしは訊ねた。

「三軒茶屋です」

「えっ」

「なんですか」

「わたしも三軒茶屋」

「げっ」

「げってなによ」

 田園都市線に乗って、三軒茶屋駅の改札前に、のっぽの体格のいい男が立っていた。

「光太郎?」

「おつかれ」

 光太郎は小さく手をあげた。さきほどの吉屋の勇ましい姿より、ずっとしとやかに。

「『進撃の巨人』全巻持ってきた」

 大きな紙袋を持ち上げた。

「いいのに」

「沼にハマってもらおうと思ってさ。読んだら語り合おうぜ」

「ありがとう」

 由佳子は光太郎に会えたことで、なんだか今日一日のいろいろが全部ちゃらになったような気分だった。歩くパワスポ、と呼んでもいい。

「こんばんは」

 由佳子の背後にいた幸田が挨拶をした。

「どうも、五反田の従業員さん、ですよね、なんでまた」

「わたしも、三軒茶屋に住んでいるんです」

 恥ずかしそうに、幸田は答えた。

「そうなんだ、いいなあ、俺は駒沢。大学のすぐそばに住んでいないと絶対に一限間に合わないって思ってね」

 光太郎が憎らしいくらいの笑顔で答えた。

「誰よりも近いところに住んでいたけど、遅刻の常習犯だったよね?」

 由佳子が笑った。

「溜まり場になっちゃうんだよなあ、近すぎると。ありゃ盲点だった」

「あの、読まれましたか?」

 幸田が唐突に言った。

「ん?」

「ポール・オースターの『ガラスの街』」

「ああ、ごめん、ずっと『巨人』読んでたんだ。近いうちに読むね」

「はい……、わたし、あの小説大好きなんです。だから、感想気になってて」

「本好きなんだねえ、まあ本屋さんだから当たり前か」

 光太郎は言った。

「大好きな本なんです。なんで、読んでみてください」

 幸田にむりやり本を渡した男の子を思い出した。

「わかった」

 光太郎は目を細めた。まるでもう手を伸ばしても届かない時間を眺めているみたいだった。

 三人で地上にあがった。

「じゃあ、また」

 光太郎が246のほうへ去っていくのを由佳子たちは見送った。一駅分、歩いて帰るらしい。

 由佳子は幸田の顔をまじまじと見た。

「なんですか?」

 幸田が言った。

「ううん、なんでもない」

 たしかに、似ている、と思った。

 横顔がとても清潔で、周りと調和できないほどに澄んでいる。

 どう足掻いたところで、自分は背景の一部になってしまい、目立たない存在だ。幸田を見て、由佳子は思った。

「鷹村さん、ほんとうに彼氏じゃないんですか」

 幸田が訊ねた。

「当たり前でしょ」

 何度言わせたら気が済むのだ。凹ませてくれるなよ。

「優しいですよね」

「なにが?」

「倉橋さんが合コンなんかに出たから心配になったんですよ、きっと」

「いやあ、漫画を布教したかっただけじゃない?」

 会えて嬉しかったけれど、コミック全巻の詰まった紙袋に少しうんざりした。

「読まないんですか」

「時間がなあ」

「じゃ、わたしに先に貸してくださいよ」

 幸田の言葉に、びっくりした。

「え?」

「『進撃の巨人』読みたいなって思っていたんです」

「ええと……」

 わたしはどう答えたらいいのかわからなかった。

「じゃあ、読み終わったら、貸してください」

 それじゃ、また明日、と幸田は世田谷線のほうに去っていった。

「漫画も、読むんだ」

 由佳子は彼女の背中を見ながら、言った。


……

Please stand by


Early shift will return


KITAHARA STUDIOS


……配信一時中断……

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