第5話 早番にまわしといて?
「なあなあになっていたんで、ちょうどよかった」
森が帰り支度をしながら言った。
「どういうことですか?」
結局由佳子が、本日のメール返信を終える見込みは立っていない。
あと一時間で遅番たちがやってくる。引き継ぎの朝礼をして、夜のピークタイムまでは待機、で今日はおしまい。まだまだ長かった。
早番たちも残り時間が迫っている。店内を慌ただしく動き回っているのがモニターに映っていた。
「個数制限を決めても、崩れてしまうものなんです。泣き落とされたり恫喝されたりしてね。そして一度許すとどこからか噂を聞きつけて、たくさん買えると思った人たちが押しかけてくる。売上的には百人が一冊買っても、一人が百冊買っても変わりありません。書店としては売れているうちに、という気持ちもあります。ケースバイケースのときだってもちろん。店長の権限を持って、本日公式見解発表となった、ということで」
森は由佳子を労ってくれているらしかった。
「そうでしょうか」
自分の判断が正しかったのか、由佳子は半信半疑だった。
「店長、あなたが決めたのなら、それに従います。言うなれば、あなたは近藤勇です。どっしり構えていればいい。さしづめ僕は……、沖田総司かな」
「あ、そこは土方じゃないんですね」
由佳子は笑った。
「わたしにそんな気概は残っていませんよ。昔『沖田総司は女だった!』って小説がありましたね。舞台が先だったかなあ。だからなんでもあり。沖田総司が美形の高齢者でも構わんでしょう」
森がおどけて、剣を振り回す動きをした。わりと身軽だ。
「むちゃくちゃですけど、それでお願いします。それと」
由佳子はコホン、とひとつ咳をして、言った。
「わたしはこの店を潰しません」
「頼みますよ」
森は洒落たハンチング帽を被った。トレンチコートが似合っている。とても上等なものに、由佳子の目には映った。
「わたし、サカエで出世したいんです。わたしのしたい仕事をするために」
まるでこの仕事は不本意であると言っているようなものだなあ、と由佳子は口にしてから気づいた。
「まあ、僕より先に死なない程度に、よろしく」
森は言った。
由佳子は言葉の重みを察した。
「夏目くんのことはご存じですよね」
その名前に、由佳子は息を呑んだ。
「はい」
「あんな目に遭うのはこりごりです。言い方は悪いですが、僕たちはトラウマを抱えてしまいましてね。なので新しい店長がくると粗探しをしてしまう。店長たちからすればいい迷惑ですよねえ。あんなふうにならないでほしい、と思いながら、彼くらい真剣に向き合って欲しい、ってね」
「はい」
としか、由佳子は言えなかった。
「書店員はね、なんで不平不満ばかりあるのにしがみつくように頑なに、働いていると思いますか?」
森がまたクイズを始めた。
「本が好きなんでしょう」
由佳子は答えた。当たり前のことだ。
「ちょっと違いますね。呪いです」
「はい?」
由佳子の驚いた顔を見て、森がにやりと笑った。
「あなたも書店員になった以上、すでに呪いにかかっていますよ、あれだ。『思う存分、呪い合おうじゃないか』」
「森さん、若いですねえ」
光太郎に無理やり押しつけられた、たしかあった。
「書店員はわがままなんですよ。面白いものが大好き、いつだって心を動かしてくれる本を探している。そして、人に勧めたくってしょうがない」
「いい呪い」
由佳子は言った。
まるで口のなかですぐに溶てしまうくらいに甘い、禁断の砂糖菓子だ。
「おかげでずぶずぶです。どうか出世してください。わたしもできるだけ応援しますよ。まあ言うなれば、僕らはハマちゃんスーさんの仲だなあ」
「新撰組じゃなくなっちゃった」
由佳子は苦笑した。
「帰ります、お疲れ様です。六時のニュースに間に合いませんのでねえ」
森は事務所から出ていこうとした。
「森さん」
由佳子は呼び止めた。
「はい」
「野鳥雑誌はアウトドアコーナーでした。ちゃんと連想すれば良かった」
どこに商品があるのか、すぐにわかるようにしようと、由佳子はいつも、自主的に店内をメンテナンスをしていた。
そして、見つけた。
「知ったとき、どうでした」
森は嬉しそうだった。
「アドレナリンがぶわーっと」
由佳子は腕を広げた。
「でしょう」
「はい」
裏口からさっさと森は出ていってしまい、由佳子だけが、事務所に残された。
「一人何冊まで、かあ」
電話の向こうで光太郎は唸った。
ずるずると遅くまで事務所で作業をしてしまった。やっと風呂に入って落ち着いたところで、電話がかかってきた。
「何冊までだったらアリだと思う?」
意外と思いつかない答えや理由を言ってくれるかもしれない。由佳子は一瞬期待した。
「一冊だろう」
すぱっと光太郎が答えた。その迷いのなさに、はっとした。
「幸田さんとおんなじかあ」
今日も図書カードを引き落とす前にお客様にちゃんと確認してください、と散々お叱りを受けた。年下のアルバイトに頭があがらない、使えない店長。いつになったら名誉挽回できるのか。
自分に乞うご期待、と由佳子はゆっくり首を回す。
「へえ、その子と俺、感性似ているのかなあ」
「かもね」
正反対だ、と由佳子は思う。
「だったら、相思相愛だな」
「なにが?」
「由佳子とその子」
一瞬、時が止まった。
「そうだったらいいな」
由佳子はベッドに寝転ぶ。天井を見ながら、しばらく話していると、キャッチフォンの音がした。
「ごめん、ちょっと待ってて」
店からの電話だった。
対応を終え、光太郎と電話を再開した。
「なにかあったのか?」
光太郎は心配しているらしかった。
心配してくれる人がいるのなら、まだやれる。
笑い飛ばしてくれる人がいたら、もう少し先まで。
「まだ公式がなにも発表していない限定本を予約したいって人がきて、ほんとうに出るのか、いくらネット検索してもわからないらしいの。だから、わかる限りの情報を客注伝票にかいおいて、って」
「店長してるじゃん」
光太郎の笑い声が心地よかった。
「ぜんぜん。早番にまわしといてって。メモをつけるように指示しただけ。あとはもう、仕事のできる……」
少し恥ずかしくて、言うべきか迷った。
……信頼のおける、仲間に任せる。
「なに?」
光太郎が訊き返した。
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