第4話 そんなに買って、どうするつもり?
レジカウンターに入ると、幸田が驚いた顔で迎えた。
「呼んだのはあなたじゃありません」
と言いたげだった。由佳子をチラリと一瞥し、すぐに笑顔の接客に戻った。プロだ。
由佳子は休止中の板を外し、使われていないレジに入った。
買い物の列はどんどんと伸びていった。
五反田の街は、ビジネス街と住宅街という顔を併せ持つ。平日はオフィスで働いている人々、休日は家族連れで通りは賑わう。
絵本コーナーのほうでは、子供たちが楽しそうに本を選んでいる。雑誌コーナーでは立ち読み客のおかげで、雑誌を取ろうとする人が苦労している。店は賑わっていた。
ミスをしないように、由佳子は集中した。先日も、レジをしているとき、残金のある図書カードを渡し忘れてしまい、幸田にさんざん注意されたのだ。
ひとつのお会計が終われば、すぐ、次のお会計。並んでいるお客さまはこっちの都合などおかまいなしだ。
「ああ、そういえば、この漫画の次の巻、いつ出るの?」
「雑誌の名前を忘れたけれど、京都の特集していたことだけは覚えている」
「この本少し折れているんだけど、他に在庫ない?」
会計以外にもお問い合わせをこなしていかなくてはならない。ここしばらくで、自分もずいぶんカバー掛けが早くなったな、と小さいながらも成長を感じた。
どか、とコミックがカウンターに置かれた。
由佳子はコミックを手に取り、バーコードをスキャンした。おかしなことに気づいた。
「巻数お間違えじゃ……」
コミックはすべて同じものだった。
「袋持ってきてるんで」
と男は携帯のエコバッグをひろげだした。
「あの、巻数」
「ペイペイ払いで」
由佳子の話をまったく聞こうとしない。
「こちら、同じ商品ですが」
少々声を大きくして、由佳子は手にしているコミックを見せた。
「それでいいんで」
男は無表情で答えた。だからどうした、ということなんだろう。傲慢な態度でいれば、そのまま会計できると思っている。
転売ヤー、ってやつだ。由佳子は理解した。
昨日発売したばかりの人気コミックだった。入口の新刊台にまだ少しだけ残っていたのを朝、確認していた。いまある在庫すべてを購入するつもりなのか。
一人に販売しても、売上は売上だった。早いもの勝ち、ともいえる。でも、やはり釈然としない。
新刊コミックは、売り切れたからといって、人気作を即追加するのは難しい。出版社によっては、新刊しばらく経ってからでないと発注を受け付けないところもある。再入荷はしばらくない、かもしれない。
「領収書、宛名なしで」
男はさっさとことを進めようとしている。
「あっ、昨日あったのにない〜」
子供の大声が店内に響いた。コミック新刊台からだった。
並んでいる列があるというのに、子供は唯我独尊、おかまいなしに、ずかずかとレジにまでやってきた。
手には図書カードを握っている。
「すみませーん、ありますかあ」
元気よく子供が告げた題名は、由佳子の手元にあった。
「早くしてくんない」
男が舌打ちをした。
「ちょっと待ってくださいね」
由佳子は小さなお客さま、に応えた。
「お問い合わせですか?」
アルバイトの吉屋響がやってきた。
由佳子の手にしているコミックを見て、ああ、とすぐに察したらしく、困った顔をした。どうしようもない、と。
「なにぐずぐずしてんだよあんた。早くしてくんないかなあ、急いでるんだからさあ」
男が凄んだ。でかい態度でいれば、このままやりおせると思っているのだ。
由佳子のなかで、ひとつ、スイッチが切り替わった。
お金を払う、商品を渡す。何ひとつ間違ってはいない、けれど、こういう男は気に入らない。心底、軽蔑する。
「お客さま、常識の範囲内でのお買い上げをお願いします」
由佳子は言ってやった。
「は?」
男は眉をきつく寄せ、深い皺を作った。
「申し訳ありませんが、お客さまお一人に、いまある在庫すべてをお売りすることはできません。人気商品です。お店においでになった、お客さまお一人お一人に、お渡ししたいので、すみません」
由佳子は冷や汗を掻きながら、間違えぬよう、慎重に話した。
この店ではどういうルールになっているのか、わかっていなかった。
「わたしが代わりましょうか」
隣のレジの幸田凛が、接客を終え、自分の前に休止板を置いた。言葉は丁寧だが、並々ならぬ覇気が漲っている。
転売ヤーも、そんなやつの対応にこまねいているボンクラ社員も、全員かかってこい、ぶっ潰す! と全身で語っている。
たしかに、店のルールを把握していて、接客も安心して任せることのできる幸田に引き継ぐのが正解だろう。
由佳子はこの店にやってきたばかりで、なにも知らない。本の知識も、書店員の矜持も。
「いいえ、わたしが店長です。わたしが、対応します。幸田さん、そちらのレジを勝手に閉められては困ります。並んでいらっしゃるお客さまのお会計をお願いします」
由佳子は言った。
この転売ヤーの対応を終え、レジの混雑が済んだ瞬間、めちゃめちゃ詰められる、と恐れている場合ではない。
予想できるつまらない未来なんて、人は見ている暇は、ない。いまの自分も、この店だって。
「人に頼まれてんだよ、さっさとしてくれよ」
男が怒鳴った。
「すみませんが、すべてお売りすることはできません」
「店にこれない友達の分なんだけど?」
それ、ネットの向こうであんたたちが買い占めて買えなかった人のことを、そう呼んでいるのか? 代行した、とでも言いたいのか。だったら定価で渡すんでしょうね。
いない、と賭けてもいいけれど、これだけ「ほんとうの」お友達がいたとしてーー。
「たくさんの方が、この商品をお求めにいらっしゃいます。お客さまのお友達には申し訳ございませんが、お店にきてくださったお客さま優先とさせていただきます」
「仕事で店寄れないとか、入院しているやつもいるんだけど」
「申し訳ございません」
由佳子は下げたくもない頭を下げた。
「俺も頼まれてるんだからさあ。買えないと困るんだけど」
「申し訳ございません」
新入社員だったときに受けた研修で、謝り方を学んだな、と由佳子は思い出した。曲げる角度まで厳しく。自分がきちんとできているかは、わからない。
男はこの本が買えないと困る、と怒りながら訴えた。
横で幸田がレジをこなし続けていた。さすがだ。列が短くなっていく。いままさにレジでクレームを受けているのが見えて、会計に並ぶのを躊躇している人もいるのだろう。
何度も、他のお客さまの分です、と伝えた。
幸田の頑張りで、列がまもなく途切れそうだった。
「じゃあ何冊までなら買えるんだ?」
男は不貞腐れながら言った。
「常識の範囲内って、じゃああんたの常識では何冊なんだ?」
「それは」
由佳子は言葉が詰まった。
何冊が正しいんだ?
男は睨みつけてくる。すぐに返事をしなくては、また男は喚き散らす。
「二冊じゃないですか?」
そう言ったのは、さっきまで列の並びを整理しながら問い合わせを受けていた、吉屋だった。
「読む用と保存用で、二冊までなら。俳優さんが表紙の雑誌を予約されるお客さま、だいたい二冊いるっておっしゃいますし」
「三冊ですよ。布教用にわたし、コミック買ったこともある」
遠くで声がした。年配のアルバイト、有吉こずえが小走りでやってきた。
「一冊です。あくまで、お一人さま一冊」
レジを終え、幸田が宣言した。
「じゃあ……」
由佳子は決めた。
「当店では、人気コミックは、どうしてもいう場合だけ、一人二冊までお買い上げいただけることにします!」
「はあ? なんだよ、今決めてんのかよ!」
男が喚いた。
由佳子は臆さなかった。アルバイトたちが、見守ってくれている。あらを探すためでなく。彼女たちは、仲間だ。
「はい、店長のわたしが、いま決めさせていただきました。きちんとこういった場合の対応を練っておらず、お客さまには大変ご迷惑おかけしました。わたしも二冊までなら常識の範囲内、と考えました。スタッフ全員の意見を聞き、平均二冊。今回はそれでよろしければ、販売させていただきます」
言い終えると、由佳子は頭を下げた。
男は千円札を投げつけた。
そんなことをされても、わたしは痛くも痒くもない、と思った。
由佳子の手から、領収書と袋をひったくり、男は肩をいからせて店を出ていった。
「一冊でいいのに」
男の背中を見送りながら、幸田がつぶやいた。
「凛ちゃんの潔癖さ、嫌いじゃないけどね」
吉屋は由佳子と幸田を見比べながら、笑った。
「人に勧めるのが生きがいの元オタクとしては、三冊なら、と思ったんだけど、甘かったかなあ。そもそもあの人、コミックのファンじゃないか」
有吉が言った。
「そんなに布教活動をしているんですか?」
由佳子は訊ねた。
「たくさんあるわよ、『ハガレン』でしょう、『銀魂』に、そうそう、『スラダン』」
「わざわざ勧めなくても、大メジャーじゃない」
吉屋が苦笑した。
「甘いわねえ、始まったときに、これは絶対面白くなる、と確信するわけ。で、みんな読めって、一巻をね。周りもハマってくれると、嬉しいじゃない。大ヒットとなった最初のきっかけが自分だと思うと、誇らしいじゃない」
「それ、きっと錯覚」
吉屋と有吉が去っていった。まだまだ昼の時間だ。スタッフ全員、片付けなくてはいけない仕事は山積みだった。
「倉橋さん」
幸田が言った。
「はい」
「お疲れ様です。コミック、戻しておきます」
由佳子の前に積まれているコミックを抱え、幸田はカウンターから出ていった。
こんなふうに店長権限で決めてしまってよかったのか。まずってしまったかもしれない。
店ごとに、正しい制限数があるのだろう。でも、「わたしの店」はこう決めた。あとで店長マニュアルに記入しておこう。次の店長に、ちゃんと託すことができるだろうか。
しなくてはならない。絶対にこの店は潰さない。
自分のためにも、みんなのためにも、由佳子は今日もまた、決心した。
「こーれくーださいっ!」
さっきの子供が、コミックをカウンターに置いた。
「図書カードでお願いします!」
カードをコイントレイに置く。
「はい、ありがとうございます」
子供の嬉しそうな表情に、由佳子の顔が緩んだ。もちろん電話をかけてくれたら、取り置きだってする。本屋にくることができなかったお客さまに、申し訳なく思う。でも、まずお店にきてくださった方を第一に。そして、またきたい、と思って欲しい。
「カード残額六十円ですね、残りの代金は……」
由佳子が子供を見ると、顔を歪め、蒼白になっている。
「これしか持ってない」
由佳子は勢いで、支払い方法を訊ねる前に、全額引き落としてしまっていた。
「倉橋さん……」
恐ろしい声のほうに、由佳子は顔を向けることができなかった。
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