第2話・8/14修正版

 正室であるアンジェリカ・アルベインはテオドールの言葉を聞いてから「あっそ」とだけ言った。


「それで? 私はいつ実家に帰れるのかしら?」


「アンが……」

「お前、もう平民でしょう? 言葉使いには気をつけたら?」

「はい……」


 目をそらしながらうなずいた。


「それにしても領地没収に爵位剥奪だなんて……」


 声を殺して笑っていた。


「やはりお前は私にふさわしくなかったのよ。たかが家臣の、しかも嫡流でもない男が主君の姫を娶るなんて……」


 テオドールはなにも言わずに視線をそらした。


「野良犬の血でフロンティヌスを汚さずにすんだわね。お前の不能っぷりも役に立つじゃない」

「たしかに俺と君はうまくいってなかったが、最後くらいは……」


 優しい言葉をかけてくれてもよいのでは? と言い切る前にアンジェリカは口を開く。


「平民は平民らしく頭を垂れなさい。それくらいは許してあげるわよ」

「まだ爵位の剥奪はされていない。領地を明け渡すまでは、俺もまだ貴族だ」

「でも、もう夫婦じゃないわ。さっさと失せなさい。顔を見るのも不快よ」


 最後くらいは笑顔で別れたかったが、アンジェリカがそれを望んでいないなら、しかたがない。


「……今まで世話になった。愛していたよ」


 少なくとも、その美しさにだけは憧れていたのだ。


「今すぐ忘れ去りたい過去ね」


 アンジェリカはテオドールを蔑むような目で見てから、鼻を鳴らし、犬でも追い払うかのように手を振った。


 この十歳年上の本妻とテオドールはうまくいっていない。


 そもそもヴォルフリートが半ば強引にテオドールとの婚姻を取り決めたのだ。プライドの高いアンジェリカからすれば、家臣の、しかも嫡子ではない男のもとに嫁がされるなど我慢できないことだったのだろう。


 だからこそ、テオドールはこの気位が高く美しい妻に似合う男になろうと努力してきた。だが、いくら武功をあげようと、いくら敵地を切り取ろうと、いくら領地を潤そうと、アンジェリカはテオドールを認めてはくれなかった。


 向けられるのは侮蔑と悪態。夜伽の時も変わらず、野良犬と罵られ続け、男としてのプライドをへし折られてきた。


 結果、今となっては不能である。


 アンジェリカに限らず、女性に対して、いっさいの性的興奮を覚えなくなってしまっていた。


(もっと早くに別れていれば、こんな終わりにはならなかったのかもな……)


 テオドールの領地で得た税収の多くはアンジェリカの浪費に消え、文句を言おうものなら離婚だと逆ギレされた。さすがに主君の姫君に三行半を突きつけられれば、シャレにならないことくらいテオドールにもわかっていた。

 だからこそ、泣く泣くアンジェリカを受け入れ、ここまで来たのだ。


「これからも君の幸せを願っているよ」

「あら、だったら、その願いはかなったわ。だって、今はもう充分幸せなのだから。野良犬と別れることができたんだもの」


 それはこちらも同じ気分だよ、と思ったが言わなかった。アンジェリカのように別れの記憶さえ、卑しいものにしたくはなかったからだ。


 テオドールはアンジェリカの部屋を退室し、もう二度と来ることはないのだろう、と思いながら振り返る。以前は、その扉に押しつぶされるような圧迫感を覚えていたのだが、今はただの扉にしか見えない。晴れ晴れとした気分に背筋を伸ばした。


(それにしても、よくもまあ、三年も耐えてきたよな。俺、すごいな……いや、耐えきれてはいないか……アンのせいで不能になったし……)


 内心で失笑した。


 はじめて見た時、あれだけ輝いて見えたアンジェリカに対して、今は一切の感情がない。完全に無である。ここ最近は「なんかうるさくしゃべる物体」くらいに思うようにしていた。


 再び失笑を浮かべ、屋敷の廊下を歩いていく。その間もバタつく家臣たちに指示を飛ばした。アルベイン家は、一応、歴史ある貴族の家だ。自分の代でつぶすわけにもいかない。


 代々仕えてきた者たちは、公爵の命令に対して、怒りの声をあげた。戦だと騒ぐ者しかいなかったほどだ。


 だが、テオドールはそれを諫めた。


 若いとはいえ、両手では足りないほどの戦勝を得てきた当主である。老臣たちも不承不承ながらテオドールの言葉を受け入れた。

 まずアルベイン家の家督はテオドールの弟であり嫡子であるアルベールが継ぎ、アルベールの母の実家であるマソン家預かりとなることが決まっている。マソン家はフロンティヌス家と同盟関係にある貴族の大家だ。悪いようにはされないだろう。


 アルベイン家はアルベールが元服すると同時に再びフロンティヌス家に召し抱えられる手はずになっていた。交渉と根回しをし、どうにかそこまでは確約させたのだ。


 そのうえで家臣たちの新しい仕官先は、全て面倒を見ることを伝えた。弟のアルベールのもとに全員預けるわけにはいかないのだ。

 家臣団はアルベールが元服し、アルベイン家を継いだのち、再び集まると誓いを立て、溜飲を下げた。


 表面上は、皆、受け入れているが、苦労して手に入れてきた利権を全て失うともなれば、納得できない者がほとんどだろう。


 アルベイン家家臣団とて一枚岩ではない。これまでテオドールが当主としてやってこれたのは、ひたすら戦果を挙げ、家臣たちを黙らせてきたことに他ならない。

 失敗したとなれば、槍玉にあげられるし、中にはテオドールを暗殺し、その首を土産にスヴェラートに謝罪して、現状のままアルベールに家督を継がせることを考える者だってでかねない。


(実際、義母上ははうえの動きがあやしいんだよな……)


 本来なら、実子であるアルベールが領地を継ぐはずだったのだ。一番納得がいっていないだろう。表面上は親子としてうまく振る舞っていたが、これまでも何度か暗殺されかけたことがある。


(アルベールが元服したら、家督を継がせるって約束してたのになあ……)


 テオドールが戦果をあげまくった結果、家臣団の中にも派閥が形成され、厄介なことになっていたのは事実だ。


(人の意思、人の欲望というものは、本当にままならん……)


 義母とは冷戦状態だが、弟であるアルベールとの関係は悪くなかった。今回のことを受けても「兄上がミスをするなんて、本当に人間だったんですね」とあっけらかんとしていた。あれでなかなかの大物なのかもしれない。


(領地没収ってのも、けっこう大変なんだな……)


 他人事のように思いながら扉をノックした。小さな声で「どうぞ」と声が返ってきたので「失礼するよ」と扉を開いた。


 部屋にいたのは長い銀髪の少女だ。

 側室のレイチェル。歳はテオドールと同じ十六歳だ。


 完全なる政略結婚で一年前に嫁いできたばかりである。当然、不能のテオドールとの間に肉体関係はない。


「君も知ってると思うが……」

「はい、存じ上げております。おとり潰しの件ですよね」


 力強い瞳でテオドールを見てくる。レイチェルは肉付きの良さこそアンジェリカに劣るが、容貌の美しさで言えば負けてはいない。華奢な体つきだが通った鼻筋に切れ長な瞳。だが、笑えば愛嬌のある顔になる。これが猛将グスタフの娘だというのだから、驚きだ。


「テオ様はどうなさるのですか?」

「どうなさるもなにも……」


 ため息をつきつつ椅子に腰かける。


「貴族をやめるさ。というか、やめないとダメだろうな……」


 あれだけスヴェラートに憎まれているのだ。

 実際、テオドールの仕官差し止め状が王国全土に流されたらしい。「テオドール・アルベインを召し抱えることは、フロンティヌス公爵家と敵対することと同義である」ということである。王国内でも広い領土を治める大貴族を敵に回すなど、王家でさえしないだろう。


「いろいろ大変だよ、まったく……」

「アンジェリカ様は?」

「喜んで帰るってさ。あの調子だと今日には飛び出してくんじゃないのか?」

「あのお方なら、そうでしょうね……」


 悲しげに微笑んでから、黙り込んでしまう。


「リュカ様には?」


 リュカとはもう一人の側室だ。

 こちらも政略結婚だったが、結婚した順番でいえば、二番目になる。当然、リュカと結婚した時には、既に不能だったので肉体関係はない。


「彼女には君のあとに話しにいくつもりだ。まあ、すでに全て知ってるだろうけど……」


 再び沈黙。


「……レイには迷惑をかけてしまったと思う。でも、君なら、新しい嫁ぎ先もすぐに見つかるよ。俺からもグスタフ様にはその旨、きちんと伝えておくから」

「まさか私と離縁なさるのですか?」


 目を丸く見開いていた。予想もしていなかったかのような反応だ。


「俺はもう騎士でも貴族でもなくなる。屋敷も領地も失い、ただの平民だ。君まで俺につきあう必要はない」

「私のことをお嫌いになられたのですか?」


 泣きそうな顔になっていた。


「……嫌いなわけないだろう? 俺にとって君とリュカは大切な妻だった。君たちがいたから、俺もここまでがんばれた。でもね、レイ……俺はもう君にふさわしくない」

「どうして、そんなことをおっしゃるのですか?」

「いや、君と俺は、まだ夫婦としての、なんだ、その、子作りだってしてない。たしかに、事実として婚姻関係にあったかもしれないけども、まだ全然大丈夫! 君は綺麗なんだし、優しい。そのうえ、グスタフ様の娘だ。どこだって嫁としてほしがるに決まってるだろ?」

「……やはり、テオ様は私のことをお嫌いになられたのですね」

「いや、だから嫌いじゃないよ! 嫌いなわけないだろ!」

「なら、どうして、ついてこいとおっしゃらないのですか!?」


 こんな風に激昂されたのは初めてだ。


 レイチェルはいつもニコニコ朗らかに微笑み、あまり自己主張をしない。そんな性格だからこそ、あの苛烈なアンジェリカにさえ、気に入られていた。


「いや、だから……俺は君を幸せにはできない。わかるだろ? わかってくれよ、頼む、レイ……」

「私はテオ様に幸せにしてもらおうなどと、考えたことありません。共に幸せを作っていくのが夫婦なのではありませんか? それとも、側室の私には、そのような権利もないとおっしゃられるのですか?」

「いや、そういうことじゃなくて……そもそも政略結婚だっただろ? 俺たちの間にはなにも……」


 無い、とテオドールが言葉を言い切る前にレイチェルが大粒の涙をこぼした。


「レイ? いや、その……」

「出てってください」


 ポツリとつぶやいてから涙をこぼし、叫ぶ。


「出てってください!!」


 初めてレイチェルの大きな声を聞き、テオドールはうろたえながら「すまない」と言い、部屋を飛び出した。扉を閉めた背後で、レイチェルの鳴き声が聞こえてくる。


(やはり傷つけてしまったか……まあ、それでいい。嫌ってくれたほうが、お互いに楽だ)


 いくらレイチェルとはいえ、明日をも知れぬ生活には耐えられないだろう。アンジェリカとタイプが違うとはいえ、レイチェルもお嬢様でお姫様だ。

 今さら生き方を変えることはできまい。


(まあ、そういう意味でいうと、リュカのほうが難敵なんだよな……あいつ、戦場暮らしも平気だしな……)


 ため息まじりに最後の妻の部屋へと向かっていった。


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