第3話 入院前 3
「ガン」と診断されても生活ががらりと変わったわけではない。というか、事実上何も変わりはしなかった。
連れ合いには診断結果を伝えたが、離れたところに住んでいる娘にも親戚にも伝えなかった。まだ、詳しい診断結果が分からない段階で騒ぎ立てても仕方ない。保険会社に電話をして診断が「ポリープの切除」と「ガン」であることを伝えると、ちょっと驚いたようだけど二通の請求書類を送って来た。ポリープの切除は肛門科のクリニックに診断書を書いて貰って請求書を出した。少なくともポリープ切除に対する請求はその後すぐに支払われた。共済の広告に嘘はない。
さて・・・。僕はあまり運動はしないが、その代わり歩くことをあまり苦痛とは思わない。その頃の一日の平均歩数は15,000歩くらいで、距離は10㎞位、歩幅は70~90cmだった。ガンと診断されてからもそれは変わらなかった。
それまでは大井町、中目黒、恵比寿、渋谷あたりまでは散歩の範囲内であったけど、品川まで足を延ばすことはあまりなかった。だがスマホで距離を見ると案に相違して品川は大井町や渋谷より距離的に近い。一点を除けば散歩コースとして適切なのである。
その一点とは・・・山である。
山、というのは大げさだのようだけど、昔の品川宿は山が海に迫った狭隘な地で、宿場のあった方角に行けば品川神社が海を望む小さな丘の上に社を置き、駅の方に行けば(こちらは港区高輪方面になる)御殿山という「山」がある。そして品川神社の社へ上るのに階段があるように品川へ向かう道の途中にもいくつかの「階段」がある。その階段のどれかを上らねば距離的に大周りになってしまうのだ。神社やお寺に行くのに階段は何の不思議もないが、道に「階段」があると突然異様な風景に感じられるのはなんでだろう?
その日、天気が良かったので僕はひと月ぶりに品川へ行ってみることにした。五反田の駅から東五反田を抜け山へ差し掛かる「階段」の手前あたりでスマホをひょいとみると、行きつけのクリニックから留守番電話が入っていた。スマホのハードスィッチを呼び出し音オフにしていたので気づかなかったのだ。かけ直してみると受付の女性が、
「先生が何かお話があるようですが、今診察中なのでかけ直してよろしいでしょうか」
と言ってくる。医師の方から患者に電話をかけてくるなんてことは滅多にないわけで、そういう電話が「良い知らせ」であることは99.9パーセントない。
「わかりました」
受話器に向かって陰鬱な調子で答えると、僕は階段の手前にある高層ビルに設えられたベンチに腰を下ろして電話を待った。五分ほどしてから電話がかかって来た。
「西尾さんですか?」
スマホの向こうから聞き慣れた声がした。
「ええ」
「えーっと、今メモ取ることができますか?」
「あ、ちょっと待ってください」
いつも持っている鞄からノートとボールペンを引っ張り出し
「はいどうぞ」
というと、
「えーっとですね、CEAって書いてください」
「CEA・・・ですか?」
「そうです。この間の血液検査でですね、CEAも確認したんですけど、これはガンがあると、数字が高くなりましてね、一応5を超えると要注意で5.5が判断基準なんですけど、西尾さんは5.7です。小さなガンだとここまで数値は上がらないですからね。5.7という数字も書いてください」
「あ、はい・・・」
言われたまま僕はノートの裏表紙に5.7と書いた。
「病院の検査の結果はいつでしたっけ」
「あ、来週ですね」
「では結果が出たら、一度受診にきてください」
「わかりました」
溜息をつくと、僕は「階段」を上り山の上についた。ここらへんは一応。高級住宅街らしい。ちょっと階段は面倒だけど・・・。まあ、そんなのを気にしない人々が住んでいるのだろう。車があれば坂など気にする必要もない。もっとも階段を車は通れないから回り道をしなくてはならないけど。
山の頂上からは今度は一気に坂を下りる形になる。眼前には品川のビル街が大きく見え、坂を下り切ると第一京浜品川駅前に出る。京急のスーパーで品物を見ると、神奈川の地元で水揚げされた鮮魚が売られている。電車で運んでくるのだろうか?だとしたらモーダルシフトだね。
それから駅を高輪口から入って港南口の方に出る。昔は何もなかったけど今はどんどんとビルが建って様変わりだ。といってもここ十年ちょっとのことだろう。田町の港南側もだいぶ様相が変わった。それがいい事なのかどうなのか、良く分からない。ただもし何かあるとしたら災害の時、大丈夫なのかという一点であろう。
一通り見て回ったけれど、オフィスビルにしても商業施設にしてもどこか余所余所しく、あまり縁のなさそうな感じがして早々に引き上げることにした。昔ながらの街はどこにしても、ちょっと立ち寄るという隙を残しているけれど新しく作られた街はどこか最初にとっつきにくい感じがある。大崎にしても品川の港南口にしても同じ匂いがする。そうした街がどう変容していくのか興味がないわけではない。どんどん大規模になっていくオフィス、商業施設は未来のダンジョンで、僕らは壮大なRPGの真ん中で生きているのかもしれない。
帰りは階段を下りていく。手すりもない階段はどこかあぶなかっしげで壮大だったビル群が醸し出す不安と真逆の原初的な不安を与える。家に帰りついて眺めたノートの裏側のCEA5.7という字が何となく重くのしかかって来た。うまくすれば内視鏡手術で済むという考えはもろくも崩れ去りつつある、そんな予感がした。
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