【実話】医療従事者の夫がコロナ陽性になった

綾部まと

「向こう側」の世界

 秋晴れが気持ち良い、ある日曜日の朝。久々に仕事がなくて珍しく家にいる夫と、子どこたちがはしゃぐ声が聴こえる。「朝ご飯を食べがてら、君たちの好きな、大きい公園に行こうか」と提案する夫に、4歳の長男と2歳の長女の歓声が上がった。普段あまり家にいない夫も、家族らしいことができて嬉しいのだろう。


 コロナで外出自粛要請は出ているものの、公園なら密ではないし、自分とは無縁の世界だろう。そう思い、出かける準備を始めた。


 出発直前、玄関で夫のスマホが鳴り響いた。いそいそと寝室へ入る姿を見送ること、数分後。寝室から出てきた苦い表情を見て、瞬時に察した。いつものアレだ。


「ごめん、呼ばれた」

「あぁ、やっぱり。遠いの?」

「うん、沖縄。首吊り自殺らしい」


 こうして、家族団欒になるはずの一日は、あっけなく幕を閉じたのだった。

 

 医師の夫は都内の大学病院で働いており、肺移植を専門としている。移植の手術を扱う病院は、日本では数件しかない。だから、自殺や脳死で「肺は生きて」いて、臓器提供者として遺族に同意を得た場合、夫など大学関係者が全国各地へ肺を取りに行く。健康な肺があれば、あと少し生きることができる―そんな、順番を待っている人たちのために。


「パパ、お仕事なの?」


 それは未就学児にとって、理解するには、まだ難しかったの。不安そうに尋ねる長男に、夫は申し訳なさそうに応えた。


「うん。ごめんな。帰るの、明日の夜遅くになる」

「えー、公園は?」

「ママ独りだと、連れて行けないだろ。今日はお家で、ゆっくりしな」


 私は自分とお腹の子を安心させるように、三ヶ月後に出産を控えたお腹を、無言でさすっていた。ばたばたと一泊用の持ち物を準備して出ていく夫を見送り、この後をどう乗り切るか、暗い気持ちで考えていた。


 秋の行楽日和に家で動画を観る我が子の将来を案じているうちに、昼前になった。昼食の準備を始めようと重い体をソファから起こすと、夫から着信が入る。忘れ物だろうか。面倒に思いながら、通話ボタンを押した。


「あのさ。俺、コロナに感染してた」

「は?」


 夫の話によると、こうだ。他県に移動する前に念の為、勤務先の大学病院でPCR検査を受けることになった。結果は、陽性。特に症状がないため、周りから驚かれたらしい。ただ陽性なので即入院になり、今は病室にいる、と。


「濃厚接触者で家族全員、PCR検査を受けなきゃいけないんだけど、病院まで来れる?」

「……分かった。入院はどれくらいなの?」

「最低でも2週間」


 目眩がした。半年前に起きた、保育園休園による自宅保育×在宅ワークの悪夢が蘇る。かまってほしくて家を破壊しまくる長男と、動画中毒になった長女。子どもによる妨害で、全く仕事にならない。人生でワースト3に入る、最悪な時期だった。

とは言え、明日から保育園には行かせられない。二週間の予定を確認して、会社の上司に連絡を入れた。約束していた友人へは理由は告げず、キャンセルの連絡のみ。周りに「私が濃厚接触者で、家族に感染者がいる」と知られたら、当分は会ってもらえなさそうで、怖くて言えなかった。


 一通りの連絡を終えた後、夫から頼まれた入院セットと子どもを抱えて、タクシーに飛び乗った。


 三十分ほど走り、大学病院の入口に到着した。そこには「PCR検査会場はここではなく、あちらです」と、でかでかと案内とともに地図が貼られている。一瞬、運転手さんに行き先変更を告げようか迷った。けれど、感染の疑いがあると悟られるのが嫌で、そのまま降ろしてもらった。


  検査を受けた翌日。夕方に私は夫から、二つの知らせを受けた。まず、私と子どもたちの陰性結果。そして夫の偽陽性診断。


 夫は入院当日の夜に再検査をしたところ、陰性だった。翌朝の再検査でも陰性だったため、当初の検査結果が間違っていたとして、晴れて退院が決定。ちなみに沖縄の肺移植は、後輩が行ってくれたらしい。


  それまで「感染者」は、どこか遠い世界の住民だと思っていた。突然そこに放り込まれ、見えたのは「絶対に知られてはいけない」という壁に覆われた、絶望に近いほどの孤独だった。


 この経験は、私に多くを教えてくれた。それは、いつ自分も病を患って「向こう側」に行っても、おかしくないこと。そして、生命に関わる「何か」が起こることで、人は簡単に世界と切り離されてしまうこと。これらは、今まで目を背けてきた「向こう側」の世界に行ったからこそ、知ることができた。

そして何より、家族みんなの健康が、心身ともに最も影響を与えるということ。動画を観る時間が長かろうが、職場に迷惑をかけようが、そんなものは些事でしかない。


「ただいまー」

「パパだ!!」


 次の日の夕方、夫は「こちら側」へ帰還した。子どもたちは顔を輝かして、玄関へ走っていった。


 それは、たった三日間の出来事だけど。

 生命を巡る世界に足を踏み入れた、ちょっとした冒険だった。

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【実話】医療従事者の夫がコロナ陽性になった 綾部まと @izumiaya

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