附録・跋文

附録

附録1:宋書裴松之伝

裴松之字世期,河東聞喜人也。祖昧,光祿大夫。父珪,正員外郎。

松之年八歲,學通論語、毛詩。博覽墳籍,立身簡素。年二十,拜殿中將軍。此官直衞左右,晉孝武太元中革選名家以參顧問,始用琅邪王茂之、會稽謝輶,皆南北之望。舅庾楷在江陵,欲得松之西上,除新野太守,以事難不行。拜員外散騎侍郎。義熙初,為吳興故鄣令,在縣有績。入為尚書祠部郎。


 裴松之はいしょうし。字は世期せいき河東かとう聞喜ぶんき県の人で、その家柄は琅邪ろうや王氏にも匹敵する、と世説新語せせつしんごでは讃えられていた。

 祖父は裴昧はいまい、光祿大夫。

 父は裴珪はいけい、正員外郎である。

 裴松之は8歳のときには論語ろんご毛詩もうしに通じていた。また古典という古典を網羅、学問第一のため、出世しても振舞いは慎ましやかだった。

 20 歳のとき、殿中將軍を拝領。この官位では皇帝の左右を守る。晋の孝武帝こうぶていの治世、太元たいげん年間には名家の貴公子がついていた。たとえば琅邪王氏の王茂之おうもし会稽かいけいしゃ氏(陳郡ちんぐん謝氏とは別口、孫権の妃を輩出した家門)の謝輶しゃゆうなどがその任についている。どちらも中原、江南の名望家である。

 裴松之の母方のおじに当たる庾楷ゆかい江陵こうりょうに駐在しており、裴松之を自分のもとに呼び寄せたいと思っていた。なので裴松之を新野しんや太守に任じ、招いたが、辞退した。

 間もなくして員外散騎侍郎となり、桓玄かんげんが倒された直後には、吳興ごこう故鄣こしょう県の県令に任ぜられた。そこで大いに治績を挙げたため、改めて中央に呼ばれ、尚書祠部郎となった。



松之以世立私碑,有乖事實,上表陳之曰:「碑銘之作,以明示後昆,自非殊功異德,無以允應茲典。大者道勳光遠,世所宗推,其次節行高妙,遺烈可紀。若乃亮采登庸,績用顯著,敷化所莅,惠訓融遠,述詠所寄,有賴鐫勒,非斯族也,則幾乎僭黷矣。俗敝偽興,華煩已久,是以孔悝之銘,行是人非;蔡邕制文,每有愧色。而自時厥後,其流彌多,預有臣吏,必為建立,勒銘寡取信之實,刊石成虛偽之常,真假相蒙,殆使合美者不貴,但論其功費,又不可稱。不加禁裁,其敝無已。以為諸欲立碑者,宜悉令言上,為朝議所許,然後聽之。庶可以防遏無徵,顯彰茂實,使百世之下,知其不虛,則義信於仰止,道孚於來葉。」由是並斷。


 裴松之は常々世に私的な石碑が次々と立てられ、しかもそれが無駄に功績を飾り立てるため事実に沿っていないことを憂慮していた。なので上表している。

「石碑に刻まれるべき文言とは後世に高らかに示されるもの。ずば抜けた偉業や徳業でもなければ、刻み付ける意味もございません。その偉大なる例としてはその功績が燦然と輝き、世の誰もが尊び称えあげるようなもの。その次はその節度が際立って優れ、後代の手本として示されるべきもの。すなわちよき人材を顕彰することで、天下をあまねく教化するために刻まれるべき物であり、ただどこかの一族の権勢を誇るために立てようだなどとすれば、それはもはや天下の秩序を侵すとすら言っても構いますまい。しかるに今、世俗では大したこともない功績を無駄に、華美に盛り立てるものが多い。

 孔子こうしの高弟である子路しろを死に追いやった孔悝こうりを称える碑銘に対してはみな拒否感を覚えます。また後漢ごかん末の文人である蔡邕さいようは石碑に刻みつける文章を考案するたび恥じ入ったとも聞いております。それほど石碑に刻みつけるべき文章とは後世に重大な影響をもたらすにも関わらず、現在胡乱な石碑の文言が次から次に現れ、信憑性の薄いそれらの言葉が過去に起こった事実をうやむやとし、真に賛美されるべきものが賛美されぬありさまとなり果てております。むしろ碑文の考案者に対してどれだけ報酬を与えられたかこそが焦点となっており、これでどれだけ実際の功績を称える碑文が刻まれましょうか。これらを制限してこなかったため、粗雑な文言の石碑がそこかしこに立つようになりました。これにより、どれだけのものが天下を真に導くに値する方々の功績を見失ったことか。

 ならば、ここから先に石碑にて偉人を称えたいと言いだすものがあったならば、まずこちらに申告させるべきであります。陛下おん自ら裁定をお加えになり、称えるに値すると太鼓判を押せる内容であれば、石碑の建立を許可なされると良いでしょう。 

 こうしてろくでもない石碑の乱立を防ぎ、真に語り継ぐに足る功績のみを後世に残したことが証明されておれば、後世を生きる者たちにとっての道しるべともなりましょう」

 この提言により、私的な石碑はことごとくが撤去されるのだった。



高祖北伐,領司州刺史,以松之為州主簿,轉治中從事史。既克洛陽,高祖敕之曰:「裴松之廊廟之才,不宜久尸邊務,今召為世子洗馬,與殷景仁同,可令知之。」于時議立五廟樂,松之以妃臧氏廟樂亦宜與四廟同。除零陵內史,徵為國子博士。


 劉裕りゅうゆう後秦こうしん討伐に向かうに当たり、自らに司州ししゅう刺史の位をつける。その際、裴松之はいしょうしを事務官とした。さらには治中從事史に。引き続き事務方の仕事に携わったわけである。

 洛陽らくようを陥落させた段階で、劉裕は命令を下している。

「裴松之の政治センスは、いつまでも辺境にかかずらわせるものではない。中央に召し出し、世子洗馬として殷景仁いんけいじんと立場を等しくさせよ。その才覚を、中央に知らしめるのだ」

 この頃、五廟の楽、劉裕にまつわる諸人物を祀る廟のための音楽について、劉裕の正妻、臧愛親ぞうあいしんを祀る音楽をほかの四つ(父、祖父、曾祖父、高祖父である)の廟の音楽と同じようにするべきである、と提唱した。


※この点は宋書礼志に詳細が載っている。

https://kakuyomu.jp/shared_drafts/pN5ClcrjvdFlSAy86AywVb9PVaM08Chu

 皇帝は七代祖までを祭祀する必要がある。劉裕も本貫地である彭城ほうじょうに七代祖を祀る廟を建てたのだが、建築された当時はいまだしんの宰相、すなわち臣下に過ぎないという建前だったので、あくまで大臣が建てる「自身の親族五人を祀る廟」という体裁にした。更に五代祖までを祀ってしまうとさすがにそのあと皇帝になる気満々ですと態度に示してしまう。だので四代祖+既に亡くなっていた妻を祀ることにした。ここで四代祖と妻の楽を別々にするともなれば、「のちに妻を廟から外します」という宣言にも近くなる。つまり簒奪の意図あり、と言う表明だ。このため廟にて流す楽をすべて等しいものとし、「あくまで臣下の身として建てた廟に過ぎない」と主張させたわけだ。

 その後「なんと驚くべきことに恭帝きょうてい陛下が劉裕に禅譲したい、と申し出てきてしまった。劉裕は畏れ多いことであると辞退の上辞退を重ねたのだが、陛下の意思が固いことを知ると、やむにやまれず受諾し、帝位を継承した」。カギ括弧留保がめっちゃ長い。

 そうして「不測の事態ではあったが、皇帝の座についてしまった以上七代祖を祀らねばならないので五人の親族を祀る廟を七代祖を祀る廟に変更しなければならなくなった」。なおこの時増改築は一切されていない。フシギダナア!

 あと七代祖六代祖が追加で祭祀されたと書かれながら、合わせて追加されたはずの五代祖については書かれていない。おそらく五代祖について触れると妻を廟から外したことも併せて書かなきゃいけないからカットしてる。やりくちがえげつない。


 やがて零陵れいりょう內史とされたが、間もなく國子博士となった。なお零陵とは晋の皇帝が劉裕に禅譲したのちに封じられた地である。



太祖元嘉三年,誅司徒徐羨之等,分遣大使,巡行天下。通直散騎常侍袁渝、司徒左西掾孔邈使揚州,尚書三公郎陸子真、起部甄法崇使荊州,員外散騎常侍范雍、司徒主簿龐遵使南兗州,前尚書右丞孔默使南北二豫州,撫軍參軍王歆之使徐州,冗從僕射車宗使青、兗州,松之使湘州,尚書殿中郎阮長之使雍州,前竟陵太守殷道鸞使益州,員外散騎常侍李耽之使廣州,郎中殷斌使梁州、南秦州,前員外散騎侍郎阮園客使交州,駙馬都尉、奉朝請潘思先使寧州,並兼散騎常侍。


 劉義隆りゅうぎりゅう徐羨之じょせんしらを倒し、ようやく本当の意味での皇帝権を得た。そこで劉義隆、国内各州に大使を派遣。以下の通りだ。


・揚州(建康けんこう周辺)→袁渝えんゆ孔邈こうばく

・荊州(長江中流)→陸子真りくししん甄法崇きんほうすう

・南兗州(建康の北西)→范雍はんよう龐遵ほうじゅん

・豫州(淝水と洛陽の間)→孔默こうもく

・徐州(長江の北、海沿い)→王歆之おういんし

・青州、兗州(山東半島周辺)→車宗しゃそう

・湘州(荊州と揚州の間)→裴松之

・雍州(荊州の北)→阮長之げんちょうし

・益州(いわゆる蜀)→殷道鸞いんどうらん

・広州(南岸エリア、香港周辺)→李耽之りしんし

・梁州・南秦州(四川盆地北東)→殷斌いんひん

・交州(ベトナムとの国境付近)→阮園客げんえんきゃく

・寧州(南西部の山脈エリア)→潘思先はんしせん


 大使らは皆、散騎常侍をも兼ねた。



班宣詔書曰:「昔王者巡功,羣后述職,不然則有存省之禮,聘覜之規。所以觀民立政,命事考績,上下偕通,遐邇咸被,故能功昭長世,道歷遠年。朕以寡闇,屬承洪業,夤畏在位,昧于治道,夕惕惟憂,如臨淵谷。懼國俗陵頹,民風凋偽,眚厲違和,水旱傷業。雖躬勤庶事,而機務惟殷,顧循多闕,政刑乖謬,未獲具聞。豈誠素弗孚,使羣心莫盡,納隍之愧,在予一人。以歲時多難,王道未壹,卜征之禮,廢而未修,眷彼氓庶,無忘攸恤。今使兼散騎常侍渝等申令四方,周行郡邑,親見刺史二千石官長,申述至誠,廣詢治要,觀察吏政,訪求民隱,旌舉操行,存問所疾。禮俗得失,一依周典,每各為書,還具條奏,俾朕昭然,若親覽焉。大夫君子,其各悉心敬事,無惰乃力。其有咨謀遠圖,謹言中誠,陳之使者,無或隱遺。方將敬納良規,以補其闕。勉哉勗之,稱朕意焉。」


 彼らには、以下のような詔書が持たされた。

「昔、王は功績を評価するに当たり、臣下に自らの職績を発表させ、おかしなところがあればそれの確認に当たったと聞く。これが民をまつりごとのもとに束ね、統治が行き渡り、天下あまねく、上から下までもが能力に応じた功績を認められ、長らくの繁栄を得た所以だそうである。

 しかるに朕は不明の者であるから、おそれおおくも帝位を承るにしても、いかにすれば世を治め切れるかと日夜思い悩むこと、さながら深い谷の淵に立つかのごとき心地である。ともすればたちまちお国の統治が乱れ、民を堕落させ、天災人災によりお国を傷つけてはしまいかと思われ、恐ろしくてならぬ。

 この身には多くの職務が降りかかるが、その量を裁くに当たり、どうしても政務や処罰に手落ちが発生もしたことであろう。しかしそのような話が朕のもとに上ってきたことはない。こういった手落ちをひた隠しとすることが、真に誠意であると言えようか。民がお国のために力を尽くさんと感じてもらえないような統治をなすのであれば、天下に対し申し訳が立たぬ。

 いま、世よ災難は多く、この国も未だ一体になりきれているとは言えぬ。天下の行方を占う祭事も未だ再開できてはおらぬし、民心とて安定しているとは言い切れまい。そこでいま、兼散騎常侍の袁渝らを各地に送り込み、郡邑を視察させ、また各地の長官とも面会し、その忠心を確認し、統治の現状を報告させ、また合わせて官吏らの働きぶりも視察し、また民らの上申に載らぬ苦しみなども拾い上げ、よき行いの者を讃え、病に苦しむ者を見舞いたく思う。

 礼や習俗に関する評価は一律に周典に則るものとし、各使者には報告書を作成させ、それを朕が直接確認する。かくしてして朕のもとにも天下の実態が明らかとなることであろう。大夫、君子諸君らよ、それぞれにお役目を勤め上げ、怠けることのなきように。また国政について願い出たいものがあればやってきた使者にその旨を述べ、包み隠さず使者に申し出ること。まさにまさによき規範を取り入れることにより朕の不足を補いたく思う。

 皆々よ、よく務まれよ。それが朕の願いである」



松之反使奏曰:「臣聞天道以下濟光明,君德以廣運為極。古先哲后,因心溥被,是以文思在躬,則時雍自洽,禮行江漢,而美化斯遠。故能垂大哉之休詠,廓造周之盛則。伏惟陛下神叡玄通,道契曠代,冕旒華堂,垂心八表。咨敬敷之未純,慮明揚之靡暢。清問下民,哀此鰥寡,渙焉大號,周爰四達。遠猷形於雅、誥,惠訓播乎遐陬。是故率土仰詠,重譯咸說,莫不謳吟踊躍,式銘皇風。或有扶老攜幼,稱歡路左,誠由亭毒既流,故忘其自至,千載一時,於是乎在。臣謬蒙銓任,忝厠顯列,猥以短乏,思純八表,無以宣暢聖旨,肅明風化,黜陟無序,搜揚寡聞,慚懼屏營,不知所措。奉二十四條,謹隨事為牒。伏見癸卯詔書,禮俗得失,一依周典,每各為書,還具條奏。謹依事為書以繫之後。」松之甚得奉使之義,論者美之。轉中書侍郎、司冀二州大中正。


 視察に出た裴松之は、以下のような報告書を綴っている。

「臣は聞いております、天道は光明を天よりもたらし、君德は広きに行き渡り尽くすものである、と。いにしえの先哲やその後継者たちは、あらゆるものに配慮を尽くし、これによりその身に大徳をお備えとなり、広く平和となり、よき礼が遠く長江漢水流域にももたらされたのである、と。これにより各地にて王を讃える歌が歌われ、そしてかの周も栄えるに至りました。

 伏して思いますに、陛下の神のごとき叡智、幽玄なる境地までお見通しとなる明察は、未だかつてなくあらゆるものごとをお見通しとなり、玉座におられながらにして、天下のあらゆるものごとをお見通しとなられておりましょう。ああ、民心の敬意が未だ純一となりきらぬこと、陛下のお心が民の元に届ききらぬようなことがあってしまっては、と恐ろしくてなりませぬ。

 下じもにお心配りをなさり、多くの救いの手なきものにあわれみのお心をお向けになる。その偉大なるお心を、我ら、しかと天下に伝えてまいりました。陛下のその遠大無辺のお心はまさしく詩経や誥に示される通りのものであると申せましょう。そのお言葉は遠く山奥にまで行き渡ったことでしょう。このため全土に陛下を讃え、その治世下にあることを喜び、歌い踊らずにおれぬ者なぞおらず、皇風が行き届いたことを知るのです。あるものは老人や幼子を支えながら道ばたで歓喜の声を上げておりました。まるで千年に一度の吉事がやってきたかのよう。

 臣の愚かなること、この任をどのように果たすべきかも未だ判じ切れておりませぬ。しかし忝くもこの大役を仰せつかったからには、この不明の身であることを忘れ、ただ天下のために役立たんと想いを尽くしてまいりました。ただ陛下の御心をお伝えする以外のことは考えず、風俗を明るきものとし、その官吏の進退ではなく実態のみを見るようにし、各地の未だ知られぬ賢人を見いださんとしてまいりましたが、どうにも狼狽えてばかりでございました。

 ここに二十四條、此度の視察にて見出した内容をまとめ、つつしんで献上申し上げます。先ごろお預かり致しました詔勅にございましたように、礼や習俗に関する評価は一律に周典に則り、報告書を作成の上返答を致しました。その詳細につきまして、この書に続けて報告をさせて頂きます」

 なお二十四条の詳細は残っていない。ともあれ裴松之はこの視察の任務をよく果たし、その仕事ぶりは多くの者が讃えるところとなった。

 やがて中書侍郎、司冀二州大中正に転じた。



上使注陳壽三國志,松之鳩集傳記,增廣異聞,既成奏上。上善之,曰:「此為不朽矣。」出為永嘉太守,勤恤百姓,吏民便之。入補通直為常侍,復領二州大中正。尋出為南琅邪太守。十四年致仕,拜中散大夫,尋領國子博士,進太中大夫,博士如故。續何承天國史,未及撰述,二十八年,卒,時年八十。子駰,南中郎參軍。松之所著文論及晉紀,駰注司馬遷史記,並行於世。


 劉義隆りゅうぎりゅうは裴松之に三国志さんごくしの注をつけるべく命じた。裴松之は自らが集められる限りの伝記史料を収集、注として加える。スタンスは「疑わしきものも載せる」。陳寿の記録とバッティングしようが、いかにも胡散臭い記録だろうが、情報は情報であると盛り込んだのだ。完成したものを読んだ劉義隆は絶賛。「この書の価値は朽ちるまい!」と表明している。

 事実、この三国志裴注は「世説新語せせつしんご劉孝標りゅうこうひょう注、「水経すいきょう酈道元らいどうげん注、「昭明文選しょうめいもんぜん李善りぜん注などと並び、注釈のスタンダードスタイル、お手本としての価値を得ている。

 そこから一度永嘉えいか太守として精勤し、官吏も、民も、裴松之を頼りとした。中央に復帰すると散騎常侍、二州大中正に。再び外に出て南琅邪みなみろうや太守に、間もなく老齢を理由に前線から引退。中散大夫、國子博士となった。さらに、太中大夫に昇進。

 この頃、何承天かしょうてんが宋の歴史の編纂を開始していた。裴松之にもその原稿チェックの仕事が回ってきたのだが、間もなく死亡。451 年、80 歳だった。


 その息子は、裴駰はいいん。南中郎參軍となる。裴松之が著した論文や晋の歴史書、裴駰が注を施した司馬遷しばせんの史記は、梁の時代に至ってもなお読まれている。

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