【巻三三 劉禅】至二百餘言,異也
「なにがどうなって
こんな長ったらしい妄想書き連ねてんだよ!」
魏略曰:初備在小沛,不意曹公卒至,遑遽棄家屬,後奔荊州。禪時年數歲,竄匿,隨人西入漢中,為人所賣。及建安十六年,關中破亂,扶風人劉括避亂入漢中,買得禪,問知其良家子,遂養為子,與娶婦,生一子。初禪與備相失時,識其父字玄德。比舍人有姓簡者,及備得益州而簡為將軍,備遣簡到漢中,舍都邸。禪乃詣簡,簡相檢訊,事皆符驗。簡喜,以語張魯,魯為洗沐送詣益州,備乃立以為太子。初備以諸葛亮為太子太傅,及禪立,以亮為丞相,委以諸事,謂亮曰:「政由葛氏,祭則寡人。」亮亦以禪未閑於政,遂總內外。
臣松之案:
二主妃子傳曰「後主生於荊州」,後主傳云「初即帝位,年十七」,則建安十二年生也。十三年敗於長阪,備棄妻子走,趙雲傳曰「雲身抱弱子以免」,即後主也。如此,備與禪未嘗相失也。又諸葛亮以禪立之明年領益州牧,其年與主簿杜微書曰「朝廷今年十八」,與禪傳相應,理當非虛。而魚豢云備敗於小沛,禪時年始生,及奔荊州,能識其父字玄德,計當五六歲。備敗於小沛時,建安五年也,至禪初立,首尾二十四年,禪應過二十矣。以事相驗,理不得然。此則魏略之妄說,乃至二百餘言,異也!
(漢籍電子文献資料庫三國志 893頁 ちくま5-074 罵詈雑言)
○解説
どういうことよ、と
小沛にいた頃劉禅生まれてねーよ、生まれたの
○皆様のコメント
・ひぽ太郎様
これは本当に謎ですよね、不気味ですらあります(^_^;)
どういう意図をもって書いたのか…劉禅ディスというわけでも無さそうですし…民間でそういうお話が伝わっていたのをまあ記録しとくかの精神ならいいんですけど💧
・河東竹緒様
この異説って五斗米道の残党が蜀や漢中でプレゼンスを高めるために捏造したようにしか思えない感じよね……(・_・;
・おさっち様
でも劉備さんそこら中に種を撒き散らしていそうですしねぇ。劉禅では絶対あり得ないにしても、そんな劉備の息子なり娘がいたんだ!という与太話を流すとさもありなんと思う人が当時からいたのでしょうね。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます